第20話「皮肉なことだ」
戸口からミアまで、四歩。
俺のいる診療台からは、七歩。
ヴォスが一歩入れば、ミアまで三歩になる。
俺が患者の腹から両手を抜けば、指で押さえている血管から血が噴き出す。
患者は死ぬ。
俺は動けない。
ヴォスは、それを知っている。
「ミアは渡さない!」
ディエゴが少女の前に立っていた。
膝は震えている。
「お前も子どもだ。どきなさい」
「嫌だ!」
「撃たれたいのか?」
「怖いに決まってるだろ!」
ディエゴは両手を広げた。
「逃げたいよ! でも、おれがどいたらミアが連れていかれる!」
「ディエゴ、一人で立たないで!」
ミアが隣へ並ぶ。
「わたしのことなんだから、わたしも立つ!」
「お前は後ろにいろ!」
「家族なら、一緒でしょ!」
ミアは泣いていた。
それでも、ヴォスから目をそらさない。
「わたしは品じゃない。ミアだ。もう、あんたのところには戻らない!」
ヴォスが一歩、踏み出す。
「子ども二人で、私を止められると思うのか」
「止まれ」
俺は患者から手を離さず言った。
「あなたには何もできない」
「できる」
「何が?」
「この男を生かす」
ヴォスが薄く笑った。
「それでは、ミアは守れない」
そのとき、外で砂利を踏む音がした。
一人ではない。
◇
最初に戸口へ立ったのは、杖をついた老人だった。
以前、折れた腕を俺が固定した男だ。
その隣には、腹の傷を縫った老人がいた。
子どもを抱いた父親、高い熱を出した子どもの母親、港で働く男も続く。
一人、また一人と集まってくる。
俺が治した者たちだった。
「そこをどけ」
ヴォスが命じる。
誰も動かない。
「この男を敵に回せば、この街で暮らせなくなるぞ」
杖の老人が鼻で笑った。
「この先生がいなくなったら、どのみち長くは暮らせん」
子どもを抱く父親が前へ出る。
「金がなかった俺の子を、先生は先に診た」
母親も声を上げた。
「うちの子もです。払えたのは硬貨一枚だけ。それでも追い返されなかった」
港の男は、治った手で拳を作る。
「この手が動くのは、あの人のおかげだ。今度は俺が、この戸口を守る」
「先生に頼まれたのか?」
ヴォスが訊く。
「何も頼まれてない」
老人が答えた。
「だから来たんだ」
ディエゴが振り返る。
「みんな……どうして?」
「お前が走り回って知らせたんだろう」
港の男が言った。
「危ないから近づくな、ミアが狙われているってな」
「助けてくれとは言ってない」
「言われなくても分かる」
ディエゴは唇を強く結び、こぼれた涙をそのままにした。
「……ありがとう」
「礼は先生に返す。お前は妹を守れ」
「妹じゃ――」
ディエゴはミアを見た。
「いや。妹だ」
「勝手に決めないでよ」
ミアは泣きながら笑った。
「でも、今はそれでいい」
人の壁が、二人の子どもの前へできていく。
武器はほとんどない。
杖。包帯の取れた腕。子どもを抱く腕。仕事へ戻れた手。
俺が縫い、洗い、つないだ体が、今度はミアを守るために立っている。
金だけを数えれば、俺の診療所はいつも赤字だった。
ヴォスは初めて足を止めた。
◇
人垣の後ろから、コール捜査官が現れた。
部下たちが銃を構えている。
「ダミアン・ヴォス」
コールの声が倉庫へ響いた。
「人身売買と臓器売買の疑いで、逮捕します。抵抗せず、両手を見える位置へ出してください」
ヴォスの笑顔が消えた。
「証拠があるのか」
「あります」
コールは人垣を見た。
「カラス先生が救った方々が証言してくださいました。あなたが抗争を利用し、証人を消そうとしたことも分かっています」
「犯罪者の証言まで使うのか」
「犯した罪は別に裁きます。被害を証言する権利まで奪いません」
コールは銃口を下げない。
ヴォスは逃げ道を探したが、戸口は救われた人々が塞いでいる。
「逮捕してください」
コールが部下へ命じた。
ヴォスの両腕に手錠が掛かる。
俺はその光景を一度だけ見て、すぐに患者へ目を戻した。
「ディエゴ、糸」
「今持ってくる!」
「ミア、布」
「はい!」
◇
三日目の朝、最後の糸を切った。
「終わった」
立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。
床が傾き、俺はその場へ倒れた。
「カラス!」
「先生!」
ミアとディエゴの声が重なる。
「どいて、息を見せろ!」
ディエゴが俺の顔へ手を近づける。
「息してる! でも顔が冷たい!」
「コールさん、医者を呼んで! カラスが死んじゃう!」
「落ち着いてください。リード先生を呼びます」
「死なない」
俺は床に横たわったまま言った。
「喋らないで!」
ミアが泣きながら怒鳴る。
「二日以上、寝てないんだよ! 自分だけ大丈夫みたいに言わないで!」
「先生、もう患者に触るな。今は先生が患者だ」
ディエゴが丸めた布を俺の頭の下へ入れた。
「俺が患者?」
「そうだよ!」
「言うこと聞いて!」
二人に叱られた。
俺は目を閉じた。
煮た布の匂いがする。
桶の水を替える音。床を拭く音。患者へ水を飲ませる声。
俺が動けなくても、診療所は止まっていない。
「金、ないんだけど」
戸口で、かすれた声がした。
「あとでいい。先に傷を見せて」
ディエゴが答える。
「ミア、水。血が出てる」
「持ってくる!」
板に刻んだ四つの規則は、もう俺が読まなくても動いていた。
俺は初めて、次の仕事を誰かへ任せた。
◇
目を開けると、ミアがすぐそばに座っていた。
「起きた!」
大声に、少し離れた場所で寝ていたディエゴも跳ね起きる。
「先生、大丈夫か? 指、動く?」
右手を開いて、閉じる。まだ少し震えるが、動く。
「水」
「はい。少しずつね」
ミアが器を支えた。
「どのくらい寝た」
「半日」
「患者は」
「リード先生が診てくれた。コールさんが連れてきたの」
「そうか」
助手として使ってくれ、と言っていた男に、先に俺が診られたらしい。
順番が逆だ。
ミアは器を置き、俺の顔をのぞき込んだ。
「ねえ。どうして、みんなを助けるの?」
「急だな」
「だって、悪い人も助けた。お金がない人も助けた。カラスを殴ろうとした人まで助けた」
ミアは指を折って数える。
「寝ないで、倒れるまで助けた。どうして?」
俺は考えた。
目の前に傷がある。
俺の手なら閉じられる。
「助けられるのに、死なせる理由がない」
「それだけ?」
「それだけだ」
ミアはしばらく黙っていた。
「わたしを助けたときも?」
「ああ」
「品じゃなくて、患者だったから?」
「最初から人だ」
ミアの目に、また涙が浮かんだ。
「カラスは優しいね」
「違う」
「違わない!」
「傷を治しただけだ」
「それを優しいって言うの!」
ミアは言い切った。
医者を目指した俺は、医者に救われず、一度死んだ。
名前も、元いた世界も失った。
そんな俺が、この世界で医者と呼ばれ、子どもから優しいと言われている。
「……皮肉なことだ」
笑いが漏れた。
「いま笑った!」
ミアが目を丸くする。
「先生も笑えるんだな」
ディエゴまで驚いている。
「うるさい」
「もう一回笑ってよ!」
「断る」
「けち!」
二人の笑い声が、血の匂いの残る倉庫へ広がった。
◇
戸を叩く音がした。
ミアとディエゴが同時に扉を見る。
「患者かな」
「おれが見てくる」
ディエゴが立ち上がった。
俺もゆっくり体を起こす。
「カラスは寝てて!」
「まず容体を見る」
「見るだけだぞ。治療はリード先生を呼んでから!」
「分かった」
「本当に?」
「早く開けろ」
ディエゴが扉へ向かい、ミアが俺の腕を支える。
名は思い出せない。
帰る場所も分からない。
だが、ここには俺を呼ぶ者がいる。
俺の手を待つ患者がいる。
そして、俺が倒れれば叱る子どもたちもいる。
それで十分だった。
戸が開く。
俺たちは、次の患者を迎えた。
これで『黒曜石外科医カラス』は完結です。最後まで診療所に居てくださって、ありがとうございました。よろしければ★で評価を置いていってください。カラスが十二年を過ごした世界の物語は、本編『灰のレン』にあります。――次の患者が、戸を叩いています。




