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黒曜石外科医カラス ~「あの日本人は腹の弾を出す、ただし百五十万ドルだ」~  作者: K3/KASANE


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第16話「君は誰だ」


その男は、治療を受けに来たのではなかった。


昼下がり、五十歳ほどの男が戸口に立っていた。

白髪の混じった髪に、しわの寄ったシャツ。その上から、仕立てのいい上着を着ている。

手には革の鞄。金も銃も入っていない。

代わりに、消毒液と医者の道具の匂いがした。


爪は短く、右手の指先だけが荒れている。

何度も手を洗ってきた手だ。


この男も外科医だ。

俺は作業を続けた。


「マーカス・リードです」


男は先に名乗った。


「大学病院で外科を教えています。あなたが縫った傷を、何度か診ました。一度、お会いしたかった」


俺はうなずいた。

以前、老人が話していた教授だ。


奥の毛布で、ミアが顔を上げた。


「だれ?」

「医者だ」


ミアは教授の鞄を見た。


「カラスを連れていく人?」

「違います」


教授がすぐに答えた。


「今日は、お話を聞きに来ただけです」

「ほんと?」

「約束します」


ミアはまだ疑っていたが、毛布へ戻った。

教授はそれ以上、ミアについて訊かなかった。


     ◇


そのとき、腹を刺された男が運び込まれた。


「助けてくれ! まだ息はある!」


話は後だ。


「寝かせろ」


診療台へ乗せ、傷を見る。

刃物は腹の筋肉を貫き、中の血管を切っている。

脈は速く、弱い。

血を失いすぎている。

このままなら長くはもたない。


俺は空き瓶を割り、薄片を光にかざした。


背後で、教授が息をのむ。


「……そのガラスで、腹を切るのですか」


答える時間はない。


腹を開き、血が出ている場所を探す。

男を運んできた連中は、壁際で帽子を握っていた。


「頼む……死なせないでくれ」

「静かにしろ」


患者の呼吸を聞き逃す。

皆が口を閉じた。


教授だけは、俺の手から目を離さなかった。

珍しいものを眺めている目ではない。

次に何をするのかを、追っている。


途中で教授が半歩前へ出た。

助手なら、そこに立つ。

だが、そこで止まった。

この部屋には、教授が使い慣れた道具がない。


「血管を挟む道具は?」

「ない」


切れた血管を指でつまみ、糸を掛ける。

血が止まった。


教授は黙った。

右手の人差し指が、わずかに動いている。

頭の中で、俺と同じ手順を追っているらしい。

やがて、その指が止まった。


     ◇


腹を閉じ終えた頃、西日が差していた。

患者の脈は落ち着いている。


「もう運んでいい。ただし揺らすな。熱が出たら、すぐ戻れ」

「助かったのか?」

「今はな」


仲間たちは何度も頭を下げ、患者を運び出した。

倉庫には、俺と教授が残った。


奥ではミアが毛布をかぶり、こちらを見ている。

教授は、しばらく何も言わなかった。


「器具も、麻酔も、助手もいない」

「あんたがいた」

「私は見ていただけです」

「邪魔はしなかった」


教授は一瞬、言葉を失った。


「……それは、褒められているのでしょうか」

「そうだ」


教授は俺を見た。


「なぜ、それほどの腕があるのですか。どこで身につけたのです」

「必要だった」

「それだけでは身につきません」


教授が一歩近づいた。


「戦場ですか。道具のない治療所ですか。あなたは、どこで生きてきたのです」


俺は口を閉じた。

黒い石。

ここではない場所へ弾き出された感覚。

記録にも、俺の記憶にも残っていない場所。


説明しても仕方がない。


「先生」


俺は訊き返した。


「あんたは、どこで外科を覚えた」

「大学です。その後は病院で」

「建物がある。機械がある。助手もいる」


俺はガラスの刃を洗った。


「それを全部なくしたら、何人救える」


教授は答えなかった。


「俺には、この手しか残らなかった。だから、この手でやった」


「……ずるいですね、あなたは」


教授は困ったように笑った。


「私の質問には答えず、私に答えられないことを訊く」

「あんたは答えを知らない」


俺は刃を拭いた。


「だから、訊きに来た。それでいい」


     ◇


「確かに、私は答えを知りません」


教授は鞄から白い紙を取り出した。

病院で名前や症状を書く用紙らしい。

ペンと一緒に、俺へ差し出した。


「せめて、名前を教えていただけませんか。あなたが、どこの誰なのか知りたいのです」


俺は白い紙を見た。

役所も、病院も、法を守る女も、同じことを訊いた。

だが、答えはない。


生まれた国も、親からもらった名も、思い出せない。

指はペンの持ち方を覚えている。

だが、書く文字がない。


「カラス」


それだけ言った。


「書ける名は、それだけだ」

「それは、誰かがあなたにつけた呼び名でしょう」

「今は俺の名だ」


教授はペンを引かなかった。


「生まれたときの名は?」

「知らない」

「故郷は?」

「知らない」

「ご家族は?」

「知らない」


答えるたび、奥の毛布が揺れた。

気づけば、ミアが立ち上がっていた。


「もうやめて」


声は小さかったが、教授には届いた。


「カラスが困ってる」

「私は、困らせたいわけでは……」

「じゃあ、どうして何回も聞くの?」


ミアは裸足のまま俺の隣へ来て、上着をつかんだ。


「名前がないんじゃない。カラスって名前がある」


教授は少女を見た。


「でも、それは本当の名前では――」

「わたしが呼んだら、ちゃんと振り向くよ」


ミアの声が強くなる。


「助けてって呼んだら来てくれた。怖いときも、ここにいてくれた。だったらカラスは、カラスだよ」


「連れていかないって、約束したよね?」

「連れていきません」


教授は紙とペンを鞄へ戻した。


「約束します」


それから俺へ向き直る。


「失礼しました。あなたが何者か分かれば、その腕も理解できると思ったのです」


戸口へ向かい、最後に足を止めた。


「ですが、まだ分かりません。……あなたは、誰なのですか」


俺は答えられない。

俺自身が、一番知らない。


「カラスだってば!」


ミアが怒鳴った。


教授は目を丸くし、それから小さく笑った。


「そうでしたね。カラス先生」


少し間を置いて、続けた。


「次に患者が来たとき、私がここにいたら、助手として使ってください」

「俺の指示を聞けるならな」

「もちろんです」


教授は頭を下げると、明るい通りへ戻っていった。


扉が閉まる。

ミアはまだ俺の上着を握っていた。


「……行かない?」

「行かない」

「名前、思い出せなくても?」

「ああ」


ミアはようやく手を離した。

俺は毛布を拾い、その肩へ掛ける。


「寝ろ」

「子ども扱いしないで」

「裸足だ」


ミアは自分の足を見て、少しだけ笑った。


生まれたときの名はない。

だが、俺を呼ぶ声はここにある。


そしてこの倉庫に、正規の医療が初めて片足を踏み入れた。


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