第15話「悪魔」
その夜、診療所の空気が変わった。
ミアの熱は、もう引いている。
毛布の中で眠る呼吸も、昨日より深く規則的だった。
ディエゴはかまどの火を見ながら、木箱に座っている。
俺は使い終えたガラスの薄片を、洗浄用の桶へ沈めた。
火の粉が爆ぜた。
その直後、鉄戸の向こうから足音が二つ近づいてきた。
隠す気のない、無遠慮な足音だ。
片方は重い。
片方だけ、腕の振りが小さい。何か長物を提げている。
戸口からミアの寝床までは近すぎる。
ここで止める。
「ディエゴ」
俺は立った。
「奥へ。ミアのそばにいろ」
少年が弾かれたように動く。
ミアの毛布がわずかに揺れた。起きたのかもしれない。
振り返る暇はない。
同時に、鉄戸が蹴り開けられた。
◇
二人の男が入ってきた。
顔に見覚えがある。タトゥムの一派だ。
一人は金属のパイプを握っている。
もう一人は、俺ではなく奥のディエゴを見ていた。
「そこの黒んぼのガキだ」
パイプを持った男が言った。
「アール・タトゥムさんが、この街を掃除しろとよ。まずは、お前の患者からだ、先生」
俺は二人とディエゴの間へ入った。
「やめろ。ここに病人しかいない」
「アジア人が口を利くな」
パイプが振り下ろされた。
半歩ずれる。
鉄の風だけが鼻先を通った。
俺は男の腕へ触れた。
パイプが落ちる。
返す手で肘の関節を落とすと、男の膝が床へついた。
遅れて悲鳴が上がる。
もう一人が突っ込んでくる。
一歩踏み込む。
短く打つ。
男の脚から、急激に力が抜けた。
二人とも倒れた。
さっきまでこちらを見下ろしていた男たちが、床に転がって俺を見上げている。
骨は折っていない。
息もある。
しばらく動けないだけだ。
人の体を開くときと同じだ。
壊してはいけない場所と、戻せる範囲だけを見る。
「俺は患者を守る。それだけだ」
男たちを見下ろす。
片方は俺を睨み、片方は自分の脚を押さえて呻いている。
まだ己の肉体に何が起きたのか、まったく理解できていない顔だった。
「次に怪我をして来れば、あんたたちも治す。覚えて帰れ」
二人は互いを支え合いながら、夜の闇へ消えた。
床に残された鉄パイプを壁へ立てかける。
壁際で、ディエゴが息を止めていた。
「吐け」
少年はせき込むように一気に息を吐き出した。
「……死んだ?」
「生きている」
「また来る?」
「来る」
ディエゴの顔から血の気が引く。
それでも、ミアの寝床の前からは一歩も退かなかった。
「じゃあ、おれもここにいる。ミアを置いて逃げられない」
「守れ」
「先生は?」
「戸口を守る」
ディエゴは震える拳を握り、うなずいた。
◆◇
二人が消えて、間もなくだった。
また足音が来た。
今度は四人。
ディエゴが小さく息を呑む音がした。
さっきの二人とは違う。
声も上げず、まっすぐ戸口へ向かってくる。
先頭の男が拳銃を持っていた。
臓器を売る連中。ヴォスの一派だ。
「品を返してもらう」
銃口を向けたまま男が言った。
「品じゃない」
奥から、細い声が響いた。
ミアが起き上がっていた。
毛布を胸まで引き上げ、小刻みに震えながら男たちを見据えている。
「わたしは、ミア。番号じゃない。品でもない」
「黙れ」
銃口がミアへ向いた。
俺は半歩動き、その線へ入った。
「俺を見ろ」
銃口が俺の胸へ戻る。
「抵抗すれば撃つ。医者の腕なんざ、死んじまえばただの肉だぞ」
「戻らない!」
ミアが叫んだ。
声は震えていた。
それでも、もう毛布の奥へは潜らなかった。
「もう、絶対に戻らない!」
ディエゴがミアの盾になるように前へ立つ。
「こいつには名前がある。連れていかせない」
「二人とも下がれ」
俺は銃口を見た。
近い。
相手は四人いる。
俺が失敗すれば、後ろの二人が撃たれる。
ミアはまだ走れない。ディエゴも逃げない。
それだけ分かれば十分だ。
「その手も、人の体だ」
男の指が引き金にかかった。
俺も動いた。
◇
銃声は鳴らなかった。
銃が床へ落ちる。
蹴って遠ざける。
男の腕が、力なく垂れ下がったまま上がらなくなった。
二人目が来る。
触れる。
崩れる。
三人目。
息を詰まらせて膝をつく。
四人目は、踵を返して逃げようとして転倒した。
長くはかからなかった。
床に四人。
鉄のパイプより、銃より、人の体のほうが先に止まった。
悲鳴と荒い息遣いだけが倉庫に残った。
誰も死んでいない。
それでいい。
殺すほうが早い場面はある。
だが、死体は警官を呼ぶ。警官が来れば、この診療所は終わる。
だから殺さない。
壊すのも、元へ戻るところまでだ。
治せないところまで壊す必要はない。
俺は倒れた男たちを順に見下ろした。
息。
目。
手足。
命に関わる傷はない。
さっきまでミアを「品」と呼んでいた男にも、同じように脈がある。
「先生……」
ディエゴの声がした。
「なんだ」
「終わった?」
「ああ」
俺は、床で呻いている一人の腕へ布を巻いた。
男は俺の手を振り払おうとしたが、筋力が入らない。
「動くな」
言うと、今度は黙った。
「ちょっと待って」
「なんだ」
「そいつ、先生が壊したんだよな」
「そうだ」
「で、先生が治すの?」
「悪化すれば面倒だ」
ディエゴは口を開けたまま、俺と男を見比べた。
「……そこなんだ」
動けるようになった者から外へ出した。
治療代は取らない。
これは診療ではない。後始末だ。
それでも、出ている血を見て放っておく理由にはならない。
◇
最後の男が消えると、倉庫は静かになった。
床には靴の跡と、倒れた椅子と、遠くへ蹴り飛ばした銃だけが残っている。
さっきまで六人の男がいたとは思えない静けさだった。
俺は手を洗い、ミアのところへ戻る。
さっきまで銃口が向いていた場所だ。
少女の肩が小刻みに震えていた。
手を取る。
脈は速い。
「先生」
「何だ」
「わたし、言えた」
「ああ」
「品じゃないって。ミアだって」
「ああ。聞いた」
ミアの目から涙が落ちた。
「怖かった。でも、今度は言えた」
「よく言った」
答えたのはディエゴだった。
「おれも聞いた。あいつらにも聞こえた」
ミアは泣きながら、小さく笑った。
昨日まで、その名前を口にするだけで精いっぱいだった。
今夜は、それを奪いに来た相手へ自分で言った。
俺は脈が落ち着くまで、その手を離さなかった。
◆◇
噂は、俺の知らないところで独り歩きを始めた。
俺が説明したわけではない。
這って帰った男たちが、勝手に広げたのだ。
――あの倉庫の医者には、手を出すな。
銃を持った四人が入り、四人とも地を這って帰った。
殺されはしない。
だが、しばらく戦えない体にされる。
裏社会は俺を新しい名で呼び始めた。
カラス。
ジャパニーズ・ドクター。
死神を追い返す医者。
そして――診療所の悪魔。
医者なのか悪魔なのか。
連中には、その違いもどうでもいいらしい。
俺はその名を否定しなかった。
悪魔でいい。
その名を怖がれば、ここへ来る足が減る。
減った分だけ、この子たちの寝床は長持ちする。
名が役に立つなら、使えばいい。
俺はガラス刃を洗った。
付着した血が、水へほどけていく。
次に来る足音は、今夜より重い。
糸も布も、足りない。




