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黒曜石外科医カラス ~「あの日本人は腹の弾を出す、ただし百五十万ドルだ」~  作者: K3/KASANE


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第14話「名前のない少女」


 少女は三日目に目を開けた。


 それからも、自分からは話さなかった。


 熱と脈は落ち着き、傷からうみの匂いも消えた。


 あと三日で立てる。


 棚が測れないものが、一つだけあった。


 俺が診療所の床を歩くと、少女の肩が跳ねる。


 木箱の上に薄い毛布を敷いて寝かせている。


 息が浅くなり、脈が速くなる。


 距離は五歩ある。


 俺は手も伸ばしていない。


 それでも跳ねる。


 音だけで、この子は身構える。


 誰かが近づく足音の後に、必ず良くないことが起きる。


 そういう作りの世界に、この子はいた。


 体が覚えてしまった反応は、頭で消せるものではない。


 俺はそれを知っている。


 だから足音を消そうとはしなかった。


 消せば、次に音がしたとき、もっと跳ねる。


 俺は歩幅を変えず、いつもの速さでかまどの前へ行き、いつもの位置に立った。


     ◇


 朝、豆と肉と乾いたパンを煮た粥を、木箱の脇へ置く。


 俺は椀を置き、二歩下がって、背を向けた。


 背を向けたまま、匙の触れる音を聞く。


 少女は食べている。


 速い。


 噛んでいない。


 飲み込むように減っていく。


 それから、音が止まった。


 振り返らずに待つ。


 布がこすれる音が、ごく小さくした。


 俺はかまどの灰をかき、そのまま待つ。


 少女が眠ってから見ると、毛布の端に潰したパンを隠していた。


 次に食べられる保証のない子どもには、正しい判断だ。


 俺はそれを取り上げなかった。


 取り上げれば、少女は「食べ物は必ず奪われる」と思う。


 俺はパンを元の場所へ戻し、翌朝、椀の横へ余分に一切れ置いた。


 理由は言わない。


 恩は、この子には借金と同じ顔をしている。


 三日続けると、隠される切れ端が一つ減った。


 四日目には、椀が空になるまでの時間が、少しだけ延びる。


 噛むようになったということだ。


 俺は、その変化だけを数えた。


     ◇


 包帯を替えるときだけは、距離を詰めないわけにいかない。


 俺が酒瓶へ手を伸ばすと、少女の目が動いた。


 追っているのは、俺の顔ではない。


 手だ。


 瓶の底を床の角へ打ちつけ、割れ口から薄片を押し剥がす。


 光にかざすと、縁が水のように透ける。


 鋼より鋭い刃だ。


 少女の呼吸が止まった。


 脈が一気に速くなる。


 指先が毛布を強く握って白くなる。


 目は大きく開いていた。


 この子は、この形の刃を知っている。


 腹を開かれたとき、上から降りてきたのが、同じように光る何かだったのだろう。


 俺は薄片を布の上へ置き、掌を見せた。


「切らない。糸を切るだけだ」


 少女は答えない。


 だが、逃げなかった。


 俺は古い包帯を解き、傷口を確かめる。


 縁は寄っている。


 赤みは引き、糸の周りに膿は無い。


 傷の奥を洗うと、少女の背が弓なりに反った。


 声は出さない。


 歯を食いしばって、声を出さない。


 新しい布を巻き、結び目を脇へ寄せた。


 それから、ディエゴに買わせた粉薬を紙の上へ落として差し出す。


 少女はしばらく見て、やがて手を伸ばし、それだけは受け取った。


 掌へ載せ、水で流し込む。


 俺の顔は見ない。


 刃は怖がる。


 粥は隠す。


 だが薬は飲む。


 この子は、俺を信じてはいない。


 生き延びるために必要なものを、必要な分だけ計算して受け取っている。


 俺と同じ計算をしている。


     ◇


 その距離を削ったのは、俺ではなかった。


 ディエゴがパンを割り、半分を差し出す。


 少女は受け取らない。


 少年は肩をすくめ、割った半分を自分の口へ放り込み、残りを木箱の脇へ置いて離れた。


 それを毎日やった。


 三日目に、少女はそれへ手を伸ばした。


「食っていいぞ」


 ディエゴが言う。


 少女の手が止まる。


「……あとで、働くの」


「何で?」


「食べたから」


「いらないよ。先生は子どもから金を取らない。働けとも言わない」


「うそ」


「ほんとだ。俺なんか腹を縫ってもらったのに、一ドルも払ってない」


「あとで、売られない?」


 ディエゴの笑顔が消えた。


「売らせない。先生も、おれも」


 少女はパンを胸の前へ引き寄せた。


「……返さなくていい?」


「いい。明日も半分やる」


「どうして」


「一人で食うより、二人で食ったほうがうまいから」


 少女は小さく一口かじった。


 急いで飲み込まず、何度か噛む。


 ディエゴは安心したように笑い、かまどの火をつついた。


 それから、返事を求めずに話し始める。


 俺に腹を縫われたときの話。


 姉の作る豆の話。


 屋根から見える川の話。


 少女はほとんど答えない。


 だが、少年が喋っている間だけ、肩の力がわずかに落ちた。


 俺にはできないやり方だ。


 ディエゴの話には、返事が要らない。


 だから少女も、聞いていられる。


 戸が風で鳴るたび、少女は戸口、奥の窓、かまどの裏を順に見る。


 逃げ道を数えている。


 俺は戸口のかんぬきを指した。


「そこは、内側から掛かる。外からは開かない」


 言って、すぐ手を動かした。


 器具を煮る鍋を火へ掛け、布を畳む。


 説明はそれだけでいい。


 掛けるか掛けないかは、この子が決めることだ。


 その夜、俺が寝床へ着く頃、少女が内側からかんぬきを掛ける音がした。


     ◆◇


 六日目の夕方だった。


 俺は診療台の縁へ腰を掛け、糸を紡ぎ直していた。


 少女は木箱の上で膝を抱えている。


 ディエゴは使いに出ていて、いない。


 薪がかまどの中ではぜる音だけが、部屋にあった。


 その音の隙間から、細い声がした。


「……ここの人たち、あなたのこと、名前で呼ばない」


 俺は手を止めない。


 糸を指へ巻き取りながら、続きを待った。


「みんな、あの日本人、って言う」


 少女が、初めて自分から口を開いた。


 答えるための言葉ではない。


 この子が自分で選んで、こちらへ投げた最初の言葉だった。


 俺は糸を置いた。


「そうだな」


「あなたも、名前がないの」


 俺は少女を見た。


 逸らさずに見返してくる。


 怯えは残っている。


 それでも、目は逸らさなかった。


「無い」


 俺は言った。


「思い出せない。紙に書けるのは、縦の線が一本だけだ」


 少女の眉が動いた。


「一本」


「一本だ。それより先が、どうしても出てこない。だから、この街の連中が呼びたいように呼ばせている。カラスでいい」


「……自分でつけたの」


「借りものだ。羽の色が近い、というだけの理由でな」


 少女はしばらく黙っていた。


 それから、膝を抱えた腕を少しだけ緩める。


「わたしも、無い」


 声はかすれていた。


「あった。でも、あそこで番号になった。今も、思い出すと、番号の方が先に出てくる」


 棚が勝手に働いて、この子の言葉を数字へ変えようとした。


 番号。


 人を物として数えるための数字だ。


 俺は棚を止めた。


「なら、いずれ思い出す」


 俺は言った。


「思い出さなくても、困らない。名前は、傷の治りには関係しない」


 少女の口元が、ほんの少し緩んだ。


 少女は毛布の縁を握り直した。


 口の中で一度、音の形を確かめている。


「……ミア」


 小さい声だった。


「わたしの、名前」


 俺は頷いた。


 番号より先に、その音が出てきた。


「ミアだな」


 俺は言った。


「忘れないで」


「忘れない」


「番号で呼ばないで」


「呼ばない」


「明日も?」


「明日も、ミアだ」


 少女は目を伏せた。


 頬へ涙が落ちた。


「……うん」


 この子が自分で取り戻した名前を、俺が受け取った。


 外で、誰かが走る足音がした。


 ミアの肩が跳ねる。


 だが今度は毛布へ隠れず、戸口を見た。


「カラス。患者」


 取り戻した名前で最初にしたのは、助けを呼ぶことだった。


 俺は袖をまくり、かんぬきへ手を掛けた。


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