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黒曜石外科医カラス ~「あの日本人は腹の弾を出す、ただし百五十万ドルだ」~  作者: K3/KASANE


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第13話「長期的損失」


自分の値段を、自分で量るつもりだった。


だが、その前に、他人から値札をつけられた少女が運び込まれた。


雨の匂いがする夜だった。


 港の近くで拾った、と担ぎ込んだ男は言った。


 名前も、どこの子かも知らない。


 通りすがりだと。


 男の靴からは泥と油の混じった水が垂れ、床に短い線を引いていた。


 抱えてきた腕の内側が濡れている。


 雨ではない。


 少女の腹からにじんだ血とうみだ。


 男はそれを見ないようにしながら、少女を診療台へ置き、すぐ手を離して二歩下がった。


 治療を手伝う気はない。


 ただ、死にかけた子を置いていけなかっただけらしい。


 俺は診療台に横たえられた小さな体を、一目で仕分けた。


 十二か、十三。


 痩せた脇腹に、太い糸で雑に縫われた傷が一つ走っている。


 素人の仕事ではない。


 だが、医者の仕事でもなかった。


 傷の周りは赤く腫れ、熱を持っていた。


 糸は服にも使う木綿だ。


 縫い目はばらばらで、傷の端もずれたまま結ばれている。


 急いだのではない。


 縫った者は、この少女があとで苦しむかどうかを気にしていない。


 糸の食い込んだ皮膚は白く死に、その外側まで赤黒くなっていた。


 額は熱い。


 脈は速く、細い。


 爪を押して離す。血の色が戻るまで、三つ数えた。


 腹に耳を当てる。


 何も聞こえない。


 腹の中で菌が広がり、腸まで動けなくなっている。


 膝を立てさせようとすると、眠ったままの体が逃げるように縮んだ。


 触れられるだけで痛いところまで来ている。


 このままなら、二日ももたない。


「腹の中の臓器を、取られかけたな」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 臓器を売る連中は、人の体を部品の入った箱として見る。


 使える部品だけを抜き、残りは捨てる。


 この子は、抜かれる途中で逃げたのか。


 それとも値がつかず、雑に閉じられて放られたのか。


 どちらにせよ、このまま置けば、腹の中から腐って死ぬ。


 俺は袖をまくった。


     ◇


 空き瓶を割り、薄片を剥がして光にかざす。


 いつもの刃だ。


 俺は雑に閉じられた糸を切り、傷を開き直した。


 うみがあふれ、腐ったような匂いが立つ。


 傷の中を沸かして冷ました水で洗い、置き忘れられた物を探る。


 指の腹が、腹の奥に置き去りにされたガーゼの塊へ触れた。


 連中は、これを腹に忘れたまま縫っている。


 厄介なのは、そこからだった。


 ガーゼは何日も腹の中にあったため、周りの肉や薄い膜とくっついている。


 引けば、絡んだ膜ごと剥がれてくる。


 剥がれれば血が出る。


 急げば余計に切ることになる。


 俺は片手で腹の傷を開いたまま、もう片方の指をガーゼの縁へ入れた。


 くっついた薄い膜を、一枚ずつはがしていく。


 目では見えない。


 膿と血で濁った底に、灯りは届かない。


 指先の感触だけが頼りだった。


 布は思ったより大きく、四つ折りにされていた。


 切り分けて、少しずつ引き出す。


 抜き終えて数を数える。


 二枚。


 腹に置き忘れられた布が二枚。


 抜いた跡には、拳が入るほどの空洞ができていた。


 そこへ水を注ぐと、少女の体が跳ねる。


「やめて……」


 意識が戻ったわけではない。


 少女は目を閉じたまま、細い声を漏らした。


「返さないで……ちゃんと、働くから……」


 誰に頼んでいるのかも分かっていない。


「返さない」


 俺が答えると、少女の指が宙を探った。


 俺はその手へ、布の端を握らせる。


「ここにいる」


「売らないで……」


「売らない」


 少女の指から少し力が抜けた。


 俺は傷を押さえ、なお水を注いだ。


 膿に浸かった組織は、指で触れただけで崩れる。


 糸をかけても、結び目のところで裂けていく。


 健康な組織なら、糸は肉に食い込んで止まる。


 この腹では、肉のほうが先に負ける。


 俺は傷の端から離れた、まだ崩れていない肉へ糸を通した。


 結ぶ力も半分にする。


 締めるのではなく、寄せるだけの縫い方だ。


 傷んだところを切り落とし、もう一度水で洗う。


 傷は閉じきらない。


 下の端に指一本分の隙間を残し、細い布を差し込む。


 うみが出る道を残すためだ。


 完全に塞げば、また中にたまる。


 見た目より、命のほうが大事だ。


 夜明け前、少女の熱がわずかに下がり始める。


 俺は床へ座り込み、少女の浅い寝息を聞いていた。


 助かるかどうかは、まだ半々だ。


 だが、やるべきことはやった。


 あとは、この小さな体が持ちこたえるかだ。


     ◆◇


 男たちが来たのは、その翌日の夜だった。


 三人。


 先頭の痩せて背の高い男が、丁寧すぎるほど丁寧に頭を下げる。


 仕立てのいい上着、整えられた髪。


 だが、目だけが少しも笑っていない。


 相手を怒らせず、商品を受け取りたい。


 そのためだけの丁寧さだ。


「うちの品を預かっていただいたそうで」


 男は言った。


「手間をおかけしました。引き取りに参りました。もちろん、手当てはさせていただきます」


 男は革の鞄を診療台へ置き、留め金を外した。


 中には札束が詰まっている。


 俺が黙って見ていると、男は鞄をこちらへ少し押した。


「治療の礼です。それと、口を閉じておいていただく分も。悪い取引ではないはずだ」


 俺は鞄を見た。


 それから、眠っている少女の顔を見る。


「断る」


 男の眉が、わずかに動いた。


「……理由を、お聞きしても」


「返さない」


 俺は答えた。


「その金を受け取れば、この子を返すことになる。返せば、また腹を開かれる。俺が治した意味がなくなる。だから――」


 そこで、言葉が止まった。


 唾を飲む音だけが、自分の耳に大きく響いた。


 いつもなら、理由はすぐ並ぶ。


 得か損か。


 助かるか、死ぬか。


 今は何も出ない。


 代わりに、頭のいちばん奥が開いた。


 あの世界の、暗い穴の底。


 痩せて、汚れて、言葉を持たなかった一人の子ども。


 俺が水を教え、火を教え、細い縦線を一本、教えた。


 あの子も、大人たちに道具として扱われ、使える部品として値をつけられていた。


 俺が手を伸ばした理由も、得か損かではなかった。


 本当なら、「長期的損失だ」と答えるはずだった。


 人を売る組織を助ければ、犠牲は増える。


 それで十分な理由になる。


 だが今夜は、その前に別の答えが出た。


 返したくない。


 俺は、その沈黙の長さを数えられなかった。


 男の靴が床を軽く擦る音がして、ようやく時間が動き出す。


「……この子を返せば、また腹を切られる。次は死ぬ」


 ようやく、声が出た。


「お前たちは、ほかの子どもも傷つける。だから取引しない」


     ◇


 背の高い男は、しばらく俺を見ていた。


 やがて、鞄の留め金を静かに閉じる。


「……そうですか」


 男は言った。


「では、またうかがいます。あなたが気を変えるまで」


 一歩、下がる。


「品は、いずれ、うちが引き取ります。無駄なことはなさらないほうがいい」


 三人は、来たときと同じ静かな足取りで闇へ消えた。


 脅しまで丁寧だった。


 あの連中は、必ずまた来る。


 俺は少女の枕元へ戻った。


 熱は下がり始めている。


 傷から出るうみも減っていた。


 腹に耳を当てる。


 小さく、音がした。


 腸が動き始めている。


 数字ではなく、音のほうが先に戻ってきた。


 この少女を、あの男たちへ返したくない。


 理由は、まだうまく言えない。


 戸口を見る。


 次に来るとき、あの男たちは金を持ってこない。


 俺は桶ではなく、戸を塞ぐための板を取りに外へ出た。

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