第12話「この街の値段」
戸を叩く音で目が覚めた。
乱暴ではない。
だが遠慮もない。
まだ外は薄暗く、川のほうから汽笛が一つ流れてきた。
戸を開けると、仕立てのいい上着の男が立っていた。
頬に傷はない。
前に来た男とは別人だ。
それでも、同じ場所から来た匂いはする。
靴の底が乾いている。
裏道を歩いてきた人間の靴ではない。
車を戸口の近くまで寄せて降りた者の靴だ。
「ヴィンセント・モレッティの使いだ」
男は言った。
「話がある。中へ入っても」
俺は戸口から半歩どいた。
男は倉庫を見回す。
板を打ちつけた窓。
天井からつるした電球。
三つの診療台。
水の樽とかまど、酒瓶の並んだ棚。
男はわずかに眉を上げた。
こんな安い道具で治療しているのか、と思ったのだろう。
「ボスは、あんたに借りがある」
男は上着の内側から封筒を出し、診療台へ置いた。
厚みで見当がつく。
前金のときの半分ほどだ。
「これは挨拶だ。本題は別にある」
◇
「ボスの下へ来い」
男は言った。
「川向こうに家がある。二階を全部使っていい。水も電気も通っている。要る道具は言え。買う。薬も、あんたが名前を書いた紙を寄越せば、こっちで揃える。表の病院から回せる筋がある」
一拍置く。
「その代わり、診るのはこちらの人間だけだ。月ごとに金を払う。この倉庫の稼ぎの、たぶん二十倍になる」
悪い話ではない。
頭の棚は、勝手に数字を並べ始めた。
道具が揃えば、いま死なせている患者の何割かが助かる。
明かりが安定すれば、夜の手術で指を焼かなくて済む。
清潔な水が出れば、傷に菌が入ってうむ患者も減る。
助けられる患者の数だけを考えれば、受けるべき話だ。
それでも、俺は首を横へ振った。
「断る」
男の眉が上がる。
「理由を聞かせてくれるか。ボスへ持って帰らないといけない」
「二十倍は欲しい」
男の眉がもう一度動いた。
「道具も買える。薬も増やせる。だが、診る相手まで売る気はない」
「どういう意味だ」
「重傷の仲間と高熱の子どもが同時に来たら、あんたたちは仲間を先にしろと言う。俺は自分で順番を決める。決められないなら医者じゃない。あんたたちの道具だ」
男はしばらく黙っていた。
それから封筒を診療台へ残したまま、戸口へ下がる。
「気は変わるかもしれん」
「変わったら、こちらから行く」
男は出ていった。
俺は封筒を開けずに棚へ載せる。
挨拶の金は、話を断ったこととは別だ。
返せと言われるまで触らない。
◇
昼、二人目が来た。
若い男だった。
しわのないシャツ、磨いた靴。
脇には、書類を挟んだ板を抱えている。
倉庫の床の黒い染みを見て、無意識に半歩下がる。
血に慣れていない人間の足だった。
「マーカス・リード先生の使いで参りました」
男は名乗った。
大学病院の名も口にする。
「先生は、あなたに一度お会いしたいと申しております」
俺はうなずいた。
腹を裂かれた老人が持ってきた伝言と同じ内容だ。
あの教授は、伝言が届いたかどうかまで確かめに来る、細かい性格の男らしい。
「会うのは構わない。いつでもいい」
「ありがとうございます。それで、先生から、先にこれを」
若い男は、書類を挟んだ板を開いた。
中の紙には、細かい枠が並んでいる。
氏名。
生年。
出身。
医学部の名と、卒業の年。
免許の番号。
取得した国。
「面会の前に、こちらを埋めていただきたいと。先生は、あなたの技術をきちんと評価したいのだと言っていました。そのためには、どこで何を学んだ人かを知る必要があると」
俺は紙を見た。
枠は、上から下まで空いている。
埋められる欄が、一つもなかった。
育った国も、通った学校も、親にもらった名も、頭の棚には残っていない。
あるのは十二年ぶんの手の記憶と、細い縦線が一本だけだ。
この紙は、俺という人間が存在した証拠を求めている。
俺には、それを出す方法がない。
「書けない」
俺は言った。
「先生に伝えてくれ。会うのは構わない。だが、この紙は埋まらない」
「……失礼ですが、それは、書かないという意味でしょうか。それとも」
「書けない、という意味だ」
若い男は口を開き、そのまま閉じた。
男は書類を胸へ抱え直す。
この男の頭の中では、いま俺が何者かの判定が進んでいる。
医者のふりをした詐欺師か、犯罪者か、それとも記憶を失った男か。
どれであっても構わない。
「……お伝えします」
男は帰っていった。
俺は空の枠を思い出す。
あの教授が買おうとしているのは腕ではない。
俺が何者かという答えだ。
だが、俺自身にも答えられない。
◇
三人目は、日が傾いてから来た。
作業着の男が二人。
片方の袖口から、色あせた青い入れ墨が見える。
前にも見た顔だった。
今度は倉庫の中まで入ってこない。
開けた戸口の外に立ったまま、片方が地面へ紙袋を置く。
「アール・タトゥムさんからだ」
男は言った。
「引っ越し代だ。数えてみな」
俺は袋を見た。
膨らみで見当はつく。
モレッティの封筒より厚い。
「この街を出ろ。どこでもいい。西でも北でも、船に乗って国へ帰ってもいい。二度と戻らなけりゃ、それはあんたのもんだ」
男は続けた。
「悪い話じゃねえだろ。誰も殴られない。誰の骨も折れない。あんたはよそへ行って、よそで医者ごっこをすりゃいい」
頭の棚が、また数字を並べる。
三人目にして、いちばん高い。
腕を買う男は二十倍を出し、正体を知りたい男は紙を出した。
この男たちは、それより高い金で、俺がここに居ないことを買おうとしている。
「断る」
「即答か」
「即答だ」
俺は袋をまたがず、その手前で立ち止まった。
「これは治療代じゃない。俺を追い出すための金だ。俺は出ていかない。だから受け取れない」
男は舌を鳴らし、袋を拾い上げた。
「覚えとけよ、先生。買えねえもんは、いつか壊されるんだ」
二人は夕暮れの通りへ消えた。
金で追い出せないなら、次は力で壊す。
分かりやすい脅しだった。
◇
夜、ディエゴがかまどの灰をかき出しながら言った。
「先生、今日、三人来たろ」
「見ていたのか」
「外の壁に座ってた。みんな、いい服着てたな」
少年は灰を桶へ移す。
手つきは、もう慣れている。
「なあ、先生。あの人たち、いくら出したんだ」
「一人目は、この倉庫の二十倍」
俺は答えた。
「二人目は金じゃない。紙を一枚だ。三人目は、たぶん一人目より多い」
ディエゴは口笛を吹きかけて、やめた。
「全部断ったんだろ。もったいねえ」
ディエゴは灰をかく手を止めた。
「二十倍もあったら、薬も買える。ちゃんとしたベッドも置ける。屋根だって直せるだろ」
「代わりに、あいつらしか診られない」
「じゃあ、おれや姉ちゃんが倒れても?」
「診られない」
「そんなの、医者じゃないじゃん」
「ああ」
ディエゴはしばらく黙り、また灰をかき始めた。
「……じゃあ、断って正解だ。姉ちゃんを診てもらえないなら、二十倍なんかいらねえ」
それでも、積み上がった灰を見てため息をつく。
「でも、ちょっとだけもったいない」
「そうだな」
「先生も、もったいないって思うんだ」
「道具は欲しい」
ディエゴは声を上げて笑った。
「そこは正直なんだな」
俺は棚に置いたモレッティの封筒を指す。
「あの三組は、違うものを求めてきた。一組目は俺の腕を独り占めしたい。二組目は俺の過去を知りたい。三組目は俺を街から追い出したい」
「先生は、自分にいくらの値段をつけるんだ?」
少年が聞く。
俺は答えなかった。
答えを持っていない。
腹を二発撃たれた男には、百五十万ドルと言えた。
だが、自分の値段になると、棚は数字を出さない。
◇
ディエゴが帰ったあと、俺は電球を消した。
暗い倉庫に一人で座る。
何もしなければ、周りが俺の使い方を決める。
それは嫌だ。
頭の棚が、一つだけ答えを出した。
他人に決められたくないなら、自分で決める。
俺は瓶へ布を巻き、音を殺して床の角へ落とした。
布の中で、薄片が三枚剥がれた音がする。
手に取らなくても分かる。
この三枚のうち使えるのは二枚だ。
自分の値段を、自分で量りに、行く。




