第11話「無免許」
その女が戸口に立ったとき、俺は診療台の上で、若い男の太ももを縫っていた。
刃物で裂かれた深い傷だ。
太い血管は傷ついていない。命に別状はない。
俺はガラスの薄い刃で傷の端を整え、糸を結んでいた。
昼過ぎの倉庫は蒸している。
天窓から落ちる光の帯に埃が浮き、その外は薄暗い。
電球は夜のために取ってある。昼に使える光があるなら、それを使えばいい。
開いた戸口の光が、ふいに陰った。
濃い青の上着。飾りのない丈夫そうな靴。腰には銃が一丁。
モレッティの部下とは違う。
油じみた暴力の匂いがない。
姿勢と目つきが、普通の市民とも違う。
法律を使う側の人間だ。
女は何も言わず、俺の手元を見ていた。
俺も手を止めない。
最後の一針を結び、糸を切る。
若い男の脚が細かく震えた。
針のせいではない。
戸口の女を見た瞬間、脈が上がった。
傷より先に、この男は別のものを怖がっている。
「三日は脚に体重をかけるな」
男は女の顔を一度だけ見て、逃げるように倉庫を出ていった。
女は呼び止めなかった。
追いもしない。
目だけで男を見送り、俺へ戻した。
狙いは患者ではないらしい。
◇
女は黒い手帳を開き、写真入りの身分証を見せた。
金の紋章が鈍く光る。
「連邦捜査局のハンナ・コールです」
力んだところのない声だった。
何百回も名乗ってきた響きだ。
俺は器具を湯へ沈める。
「あなたが、この辺りで人を治療している医者ですか」
「傷をふさいでいるだけだ」
「患者の中には、銃で撃たれた者もいます。銃で撃たれた傷なら、病院から警察へ連絡が行く。ですが、あなたの患者には記録がありません」
コールは俺の手元を見たまま続ける。
「無免許で手術をし、そのまま裏社会へ人を戻している。私が調べているのは、あなたが犯罪組織のために動いているのかどうかです」
「無免許は、連邦捜査局の仕事か」
「それだけなら、私の担当ではありません。ですが、犯罪組織の後始末なら話は別です」
責める目ではない。
焦りもない。
俺と裏社会がどこまでつながっているのか、確かめる目だった。
「捕まえたいなら、そうすればいい。証拠なら、この床にも、この糸にも、この手にも残っている」
「そうしたいのは山々です」
コールは乾いた声で返した。
「ですが、今のところ、それを証明できません」
女は紙の束を取り出した。
厚い。
紙をめくる音が、湯の沸く音より大きく響く。
書き込みは細かく、余白まで埋まっていた。
この厚さになるまで、何人もの患者を訪ねて歩いたのだろう。
「あなたが治療した人間を調べました。撃たれた少年。腹を裂かれた老人。子どもを救われた母親。全員、同じことを言いました。あの医者がいなければ、自分は死んでいた、と」
コールは一枚めくった。
「撃たれた少年。十六歳です。腹の傷について聞くと、『階段から落ちた』と答えました。もう一度聞くと、姉の手を握って、『あの人は悪くない。捕まえるなら何も話さない』と怒鳴った。姉も隣でうなずいていました」
紙が一枚、下へ回る。
「腹を裂かれた老人。医者に会ったかと聞けば、会ったと言う。名前を聞けば、知らない。顔は、と聞けば、暗くてよく見えなかった、と」
コールは俺を見た。
「あの傷を縫った人間の顔を、見ていないはずがありません」
また一枚。
「子どもを救われた母親。私が身分証を見せると、子どもを抱いて部屋の奥へ下がりました。質問する前に扉を閉められました。ただ、閉まる直前に一言だけ聞こえた。持っていた硬貨を全部出したのに、あの人は一枚しか取らなかった、と」
紙の端が、女の指で少し折れた。
束を膝の上でそろえる。
「二十二人です。二十二人全員が、あなたをかばいました。この仕事を十一年やっていますが、ここまで大勢が同じ人間を守るのは初めてです」
紙をしまう。
「あなたが組織から命令を受けた、犯罪を助けるために治療した、と話す者は一人もいません。治療記録もない。今の材料では、あなたを犯罪組織の仲間だと証明できません」
少しだけ声が低くなる。
「ですから、今日は逮捕しに来たのではありません。確かめに来ました。あなたは医者なのですか。それとも、犯罪者なのですか」
俺は質問を返した。
「撃った男でも、ここへ来たときに死にかけていれば治す。治した男がまた銃を持てば、俺は犯罪者の仲間か。見殺しにすれば医者か」
コールは黙って聞いている。
「傷には、善人か悪党かなんて書いてない。あんたは、どこで線を引く」
コールはすぐには答えなかった。
俺は湯から器具を引き上げる。
布で水気を取り、物をつかむ金属の道具がきちんと閉じるか確かめた。
ゆがんだものは脇へよける。
ガラスの薄片は光へかざし、縁の欠けを見る。
欠けた刃は肉を余計に裂く。裂かれた傷は治りが遅い。
話している間にも、次の患者は近づいてくる。
「……思ったより、よくお話しになる方ですね」
コールは名刺を器具の脇へ置いた。
「もし、こちらへ話したいことができたら、お電話ください。あなたを捕まえるためだけの番号ではありません」
そう言って、昼の光へ出ていった。
俺は名刺をすぐには拾わなかった。
法律を使う女が、俺を見つけた。
その事実だけを、頭の棚の目立つ場所へしまった。
◇
無免許。
その言葉だけが残った。
免許が必要な理由は分かる。
腕があると言い張るだけの人間に、患者の体を預けるわけにはいかない。
誰が学び、誰が治療し、何か起きたとき誰が責任を負うのか。
それを確かめるための証明だ。
だが俺には、その証明を受ける前に必要なものがない。
名前。
出身。
学んだ場所。
紙に書けるのは、細い縦線が一本きりだ。
免許がないと言われても、その前に、自分が誰かさえ証明できない。
それでも患者の腹を開けば、問われることは一つだった。
この手で助けられるか。
紙は、腹の中まで入ってこない。
◆◇
夜になって、腹を裂かれた老人がまた倉庫を訪ねてきた。
傷を縫った糸は、もう抜いてある。
傷も順調だ。
用があるようには見えない。
老人は戸口で足を拭い、帽子を取り、それを両手でもんでいた。
悪い報せを持ってきた人間の手つきに近い。
棚が仕分ける。
痛みではない。
「どこか痛むのか」
俺が聞くと、老人は首を振った。
「先生。伝えなきゃならんことがある」
老人は少し前、大きな病院へ運ばれたという。
心臓は大事なかった。
だが診察した外科医が、腹の傷を見て動きを止めた。
「誰が縫った。いつだ。どこでだって、何度も聞かれたよ」
「何と答えた」
「知らん、で通した」
老人は帽子を握り直した。
「先生はな、腹を開いて血の出てる場所を止め、腸も端から見て、それから閉じてある。こんな縫い方は見たことがないって言ってた」
棚が静かに動く。
俺の仕事を見て、どれほど難しいことをしたか分かる医者が、一人現れた。
「名前は」
「マーカス・リード先生だ」
老人は答えた。
「あんたに一度会いたいそうだ。腕を、えらく見込んでた。悪い人には見えなかった」
「ありがとう。伝えてくれて」
老人は帽子をかぶり直した。
それから少し迷って、昼間コールが立っていた戸口を見た。
「役所の目をした女も来ただろう」
「来た」
「わしは何も言っとらん」
老人はそれだけ言って、夜の路地へ出ていった。
何も言わなかったと、わざわざ伝えに来る。
秘密を守ったことが、この老人なりの治療代らしい。
◇
老人を見送り、戸を閉めた。
昼には連邦捜査官が来た。
夜には大学病院の外科医から、会いたいという伝言が届いた。
二人とも、違う理由で俺を探している。
そして、もう一つ。
四つ目の規則――人を売る者は診ない。
その向こうにいる連中も、いずれ俺を探す。
俺はコールの名刺をつまみ、電球へかざした。
紙一枚に、名前と番号が印刷されている。
これを見れば、この女が誰なのかを確かめられる。
俺には、同じ紙がない。
それでも、次に会う相手は決められる。
――マーカス・リード。
俺の仕事を見て分かった医者なら、まず話ができる。
名刺を棚へ置き、明かりを消した。
法の側の女。
腕を見抜いた医者。
そして、まだ顔のない三つ目。
二人は棚に入った。
三つ目だけが、入らない。
見えない相手は、まだ測れない。




