第9話 誰にも届かなかった放送
長谷川蒼太は、壊れた物を見ると、中身を確かめたくなる。
直したい、とは少し違う。
もちろん直せるなら直したい。
けれど、それより先に知りたかった。
どうして動かなくなったのか。
どこで力が途切れたのか。
どの部品が役目を果たさなくなったのか。
外から眺めているだけでは分からない。
蓋を開ける。
ねじを外す。
線をたどる。
焼けた部品。
緩んだ端子。
切れたコード。
原因を見つけた瞬間、蒼太の中で、それまで黙っていた物が急に言葉を持つ。
ここが痛い。
ここが外れた。
もう一度つないでほしい。
物は、人間のように嘘をつかない。
大丈夫だと言いながら壊れ続けることもない。
原因があれば止まり、直れば動く。
少なくとも、蒼太はそう思っていた。
「また分解してるの?」
小学生の頃、母親に何度も言われた。
目覚まし時計。
ラジオ。
壊れたゲーム機。
父親が会社から持ち帰った古い電卓。
蒼太の机の上には、いつも外されたねじと部品が並んでいた。
「戻せるの?」
「たぶん」
「その『たぶん』で、戻らなかった物はいくつある?」
「三つくらい」
「七つです」
「数えてたの?」
「母親ですから」
直せなかった物も多い。
外した場所が分からなくなる。
小さなばねをなくす。
部品を一つ余らせる。
それでも蒼太は、分解することをやめなかった。
知らないまま捨てるより、壊れた理由を知りたかった。
高校へ入学して四日目。
担任がホームルームで、
「放送委員、誰かやらないか」
と尋ねた。
誰も手を上げなかった。
朝の連絡。
昼の音楽。
行事のアナウンス。
目立つわりに責任が重く、人気のある委員ではないらしい。
「機械が好きなやつはいないか?」
担任が言った。
蒼太は顔を上げた。
それだけだった。
手を上げてはいない。
立候補もしていない。
しかし担任は、その一瞬を見逃さなかった。
「長谷川。機械好きか?」
「まあ」
「放送室、機械が多いぞ」
「新しい機械ですか?」
「知らん」
「見てもいいですか?」
「委員になれば毎日見られる」
「じゃあ」
そこで決まった。
蒼太は放送委員になった。
その翌日。
放送担当の教師から、壊れたマイクスタンドの修理を頼まれた。
工具を持って学校へ来た朝。
正門で、絵を描いていた一ノ瀬葵と初めてまともに話した。
葵の絵を見た。
猫の校長。
まだ描きかけだったが、確かにそこにいた。
蒼太が描けば、じゃがいもにしかならない。
冗談ではなく、本当にそうなる。
だから、絵を描ける人間はすごいと思った。
自分には見えないものまで見ている気がする。
そして蒼太は、放送室へ向かう途中、工具箱の中から一本の鍵を見つけた。
持ち手には、薄く消えかけた文字。
『旧放送室』
現在の校内案内図には載っていない部屋だった。
◇
四月十九日。
午前七時五十二分。
放送室は、校舎二階の中央付近にある。
職員室からも近く、廊下の窓から中庭が見える位置。
扉には、
『放送中は入室禁止』
という札が掛けられていた。
今は裏返され、
『使用していません』
となっている。
蒼太が扉を開けると、独特の匂いがした。
少し古い機械。
埃。
金属。
長く閉め切った部屋。
放送室は二つに分かれている。
手前が機材室。
奥が、校内放送を行うための小さなブース。
窓越しに互いの部屋が見える。
機材室には、音声ミキサー、アンプ、再生用のパソコン、予備のマイク、何本ものコード。
蒼太は入室した瞬間から、目を奪われた。
「触るなよ」
後ろから教師の声がした。
放送委員会の担当教師、山岡。
理科を教える三十代の男性。
寝癖のついた髪。
白衣のポケットに赤いペンとドライバーが一緒に入っている。
「まだ触ってません」
「目が触ってる」
「見るだけなら壊れません」
「お前のようなやつは、見るだけで終わらない」
「信用ないですね」
「昨日会ったばかりだからな」
山岡は、部屋の隅へ置かれたマイクスタンドを指さした。
「頼んだのは、あれ」
黒い金属製のスタンド。
高さを調節する部分が固定できず、マイクを取りつけると、少しずつ下がってしまう。
「ねじが緩んでるだけじゃないですか」
「俺もそう思って締めた」
「直らなかった?」
「直らなかった」
「じゃあ、中の部品が削れてるかも」
蒼太は工具箱を机へ置いた。
蓋を開ける。
ドライバー。
六角レンチ。
ペンチ。
細かなねじ。
絶縁テープ。
父親から譲ってもらった工具を、自分で使いやすいように並べてある。
その中に、昨日までなかった鍵が入っていた。
「先生」
「何だ」
蒼太は鍵を取り出した。
「これ、先生が入れました?」
山岡が鍵を見る。
表情が少し変わった。
「どこにあった」
「工具箱の中です」
「家から持ってきた箱だよな」
「はい」
「昨日、誰かに貸した?」
「貸してません」
「学校へ置いて帰ったか?」
「持ち帰りました」
山岡は鍵を受け取らず、近くから文字を確認した。
「旧放送室」
「知ってるんですか」
「名前だけは」
「どこにあるんです?」
「もうないことになってる」
「ことになってる?」
蒼太は、その言い方に引っかかった。
「取り壊したんですか」
「部屋自体は残ってる」
「じゃあ、あるじゃないですか」
「使ってない」
「場所は?」
「お前、顔が楽しそうだな」
「古い放送設備があるかもしれないでしょう」
「ない」
「確認したんですか」
「俺は入ったことがない」
「じゃあ分からない」
「行くなよ」
山岡は念を押した。
「どうしてです?」
「使われていない部屋だからだ」
「危ないんですか」
「老朽化している可能性はある」
「鍵があるなら、扉は残ってる」
「推理を始めるな」
「どこですか」
「教えない」
「先生」
「まずスタンドを直せ」
山岡は職員室へ戻っていった。
蒼太は鍵を見つめた。
行くなと言われると、余計に気になる。
旧放送室。
現在の放送室ができる前に使われていた場所。
使われなくなった理由。
鍵がなぜ自分の工具箱に入っていたのか。
誰かが入れた。
それ以外には考えられない。
しかし、いつ。
昨日の放課後。
蒼太は担任から工具箱を受け取った。
学校の備品倉庫から借りたのではない。
自宅から持ってきた、自分のもの。
朝、家を出る前には中身を確認した。
鍵はなかった。
正門で葵と話した。
そのあと、教室へ工具箱を置いた。
昼休み。
放課後。
誰かが触ろうと思えば触れた。
だが、なぜ自分へ渡す。
「長谷川くん?」
放送室の扉から声がした。
同じ放送委員の女子生徒が立っている。
二年生。
胸の名札には、吉岡麻衣。
肩までの髪を耳へかけ、手には放送委員会のファイルを抱えている。
「おはようございます」
「早いね」
「修理頼まれたので」
「マイクスタンド?」
「はい」
麻衣が部屋へ入り、机の上の鍵へ気づいた。
「それ」
「知ってます?」
麻衣はすぐに答えなかった。
「どこで見つけたの?」
「工具箱の中」
「誰かに渡された?」
「分かりません」
「山岡先生には?」
「聞きました。旧放送室は残ってるけど、行くなって」
麻衣は鍵から視線をそらした。
「先生がそう言うなら、行かない方がいいよ」
「先輩は場所を知ってますか」
「知らない」
「本当に?」
「知らない」
答えが少し早い。
蒼太は麻衣を見る。
「何」
「いや」
「疑ってる?」
「少し」
「一年生のくせに失礼」
「先輩だから嘘をつかないとは限らないので」
「言うね」
麻衣は苦笑した。
「その鍵、先生に預けたら?」
「持ち主が分からないのに?」
「学校の鍵でしょう」
「だから、何のために俺の箱へ入れたのか知りたい」
「知ってどうするの」
「考えます」
「考えてから知るんじゃないんだ」
「分からないまま決められません」
麻衣は何か言いかけ、やめた。
「スタンド、直せそう?」
「見ないと分かりません」
「じゃあ、よろしく」
麻衣はファイルを棚へ置く。
「昼の放送で使うから」
「これ一本しかないんですか」
「予備はあるけど、低い」
「何が?」
「高さ。座って話すにはいいけど、立つと合わない」
「座ればいいんじゃ」
「今日の放送、立ってやる子がいるの」
「どうして」
「緊張すると足が震えるから、座ると逆に気になるんだって」
「立っても震えるんじゃ?」
「人によるの」
「難しいですね」
「人間だから」
麻衣はそれだけ言い、教室へ向かった。
蒼太はマイクスタンドを机へ載せた。
高さ調節部分を外す。
内部の樹脂製部品が摩耗し、金属棒を固定できなくなっていた。
「原因はこれか」
壊れた場所が分かる。
部品を交換すれば直る。
同じものはない。
似た厚さのゴムを切り、内側へ挟めば応急処置にはなる。
蒼太は作業を始めた。
手を動かしながらも、旧放送室の鍵が頭から離れなかった。
◇
昼休み。
修理したマイクスタンドは、無事に高さを保っていた。
「すごい」
今日の放送を担当する一年生の女子が、スタンドを上下させながら言った。
「本当に下がらない」
「応急処置です」
蒼太が答える。
「使ってるうちに、また緩むかもしれない」
「今日だけ持てば大丈夫」
「明日以降も使うでしょう」
「そうだけど」
「部品探します」
「ありがとう」
女子はマイクの前へ立った。
名札には、一年六組、神谷玲奈。
緊張しているらしい。
両手で原稿を持ち、何度も読み返している。
「今日が初めて?」
蒼太が尋ねる。
「はい」
「校内放送?」
「中学でも放送委員だったけど、高校では初めて」
「慣れてるんじゃ」
「学校が違えば、聞いてる人数も違うから」
「顔は見えないですよ」
「見えない方が怖いこともある」
蒼太には、よく分からなかった。
「機械は、つながってるか分かるからいいよね」
玲奈がミキサーを見る。
「音が出るか、出ないか」
「人間も声が聞こえれば、届いてるんじゃないですか」
「聞こえることと、伝わることは別だから」
また、よく分からない言葉だった。
玲奈は原稿を確認する。
今日の内容は、部活動の仮入部期間について。
忘れ物。
図書室からのお知らせ。
文化祭ポスター案の募集。
最後に、音楽部から演奏会の案内。
「五分前」
麻衣が時計を見て言う。
「神谷さん、大丈夫?」
「大丈夫です」
玲奈は答えた。
けれど足が小さく震えている。
「本当に?」
「大丈夫」
同じ言葉を繰り返す。
蒼太はマイクスタンドを見る。
こちらは大丈夫だ。
固定した部分も緩んでいない。
玲奈は違う。
声が少し乾いている。
「水、飲みます?」
蒼太が尋ねる。
「さっき飲みました」
「原稿、置けば?」
「手で持っていたい」
「震えますよ」
「持ってないと、もっと震える」
「そうですか」
「長谷川くん、人に慣れてないね」
麻衣が言う。
「話してるじゃないですか」
「機械と同じように直そうとしてる」
「緊張は直らないんですか」
「故障じゃないから」
放送開始時刻。
麻衣がスイッチを入れる。
校内放送のチャイム。
玲奈は深呼吸した。
「皆さん、こんにちは」
最初の声は、少し震えていた。
「本日の昼の放送を始めます」
二文目。
三文目。
徐々に声が落ち着いていく。
蒼太はミキサーのメーターを見る。
音量は適切。
ノイズもない。
マイクスタンドも下がらない。
放送は順調だった。
図書室のお知らせ。
「昨日、青いリボンの栞は持ち主へ返却されました」
蒼太は、正門で話した葵を思い出した。
葵のスケッチブック。
青いリボンの栞。
自分の工具箱に入っていた古い鍵。
物は、誰かから誰かへ渡る。
持ち主を失う。
見つけられる。
戻っていく。
旧放送室の鍵にも、戻るべき場所があるはずだった。
「続いて、文化祭実行委員会からのお知らせです」
玲奈が原稿を読む。
「文化祭パンフレットおよび校内案内図の制作にあたり、校内の思い出や、好きな場所についての短い文章を募集します」
初めて聞く内容だった。
生徒会で決まったのだろう。
「誰かに教えたい場所。忘れられない出来事。まだ誰にも話していないこと。匿名でも構いません」
玲奈の声が、一瞬止まった。
原稿には続きがある。
しかし、視線が動かない。
「神谷さん?」
麻衣が小声で呼ぶ。
玲奈は原稿を見つめたまま。
呼吸が速くなる。
足の震えが大きくなった。
「どうしたの」
「……これ」
玲奈が原稿の一文を指さす。
『まだ誰にも話していないこと』
「それが?」
麻衣が尋ねる。
「読めない」
「どうして」
「ごめんなさい」
玲奈はマイクから離れた。
放送が止まる。
校内には、無音が流れている。
麻衣がすぐにマイクの前へ立った。
「失礼しました。放送を続けます」
落ち着いた声で残りを読む。
玲奈はブースの隅へ移動し、俯いている。
蒼太はミキサーの音量を調整しながら、彼女を見る。
故障ではない。
けれど、何かが途中で切れた。
◇
放送終了後。
玲奈は何度も謝った。
「ごめんなさい」
「途中は私が読んだから大丈夫」
麻衣が言う。
「でも」
「誰にでもあるよ」
「中学では一度も止まらなかった」
「高校で初めてだったんでしょう」
「だから、ちゃんとしないと」
「初めてなのに?」
玲奈は返事をしない。
「何かあったの?」
麻衣が尋ねる。
「ありません」
「本当に?」
「大丈夫です」
また、その言葉。
蒼太は気づいた。
物は嘘をつかない。
しかし人間は、壊れていても大丈夫と言う。
少し前、正門で怪我をした男子生徒も、大丈夫と言っていた。
そのあと、足を引きずって体育館へ戻った。
玲奈も同じかもしれない。
「さっきの文章」
蒼太が言った。
「『まだ誰にも話していないこと』で止まりましたよね」
玲奈の表情が固くなる。
「長谷川くん」
麻衣が止めようとする。
「原因が分からないと、また止まるかもしれない」
「機械じゃないの」
「分かってます」
「分かってないよ」
玲奈が小さく言った。
「原因が分かっても、直せないことはある」
「試さないと分からない」
「試したくない」
玲奈は原稿を机へ置いた。
「放送委員、辞めます」
「待って」
麻衣が言う。
「今日一回止まっただけで」
「一回で十分です」
「神谷さん」
「失敗したくなかった」
玲奈の声が震える。
「また同じことになったら嫌だから」
「また?」
麻衣が尋ねる。
玲奈は口を閉じる。
誰にも話したくない。
原稿の一文が、そこへ触れた。
蒼太は鍵を思い出した。
開けない方がいい場所。
行くなと言われた部屋。
中に何があるか分からない。
それでも鍵だけが、自分の手元に来た。
「話さなくていいです」
蒼太が言った。
玲奈が顔を上げる。
「さっきは原因を聞こうとしたのに」
「今話したくないなら」
「直さなくていいってこと?」
「直すかどうかを決めるのは、神谷さんだから」
物なら、蒼太が勝手に開けられる。
持ち主の許可がなくても、壊れた時計の裏蓋を外せる。
人間にはできない。
やってはいけない。
「でも、辞めるのも今日決めなくていいと思います」
「また失敗するかもしれない」
「次は、途中で代われるように二人で読めばいい」
「一人で読めないなら、放送委員の意味がない」
「放送は一人でするものなんですか」
蒼太は麻衣を見る。
「機材を操作する人。原稿を読む人。音楽を流す人。三人いる」
「そうだね」
「一人で全部やってない」
玲奈は黙った。
「次に同じ文章があったら、そこだけ俺が読んでもいい」
「長谷川くん、読めるの?」
麻衣が尋ねる。
「字は読めます」
「そういう意味じゃなくて」
「やったことはないです」
「声、低いけど」
「機械は音量上げられます」
「また機械の話」
玲奈が少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
「今日は帰ります」
玲奈は言った。
「委員を辞めるかは、明日考えます」
「うん」
麻衣が頷く。
「それでいい」
玲奈は放送室を出ていった。
蒼太は、使われなかった原稿を見る。
『まだ誰にも話していないこと』
この一文が、彼女の中の何かにつながっている。
けれど、それを開ける鍵は蒼太にはない。
無理に開けてはいけない。
「長谷川くん」
麻衣が言う。
「さっきは、少し人間っぽかった」
「普段は何だと思ってるんですか」
「修理ロボット」
「そんなに修理してないでしょう」
「今日だけでスタンド直した」
「一個です」
「人は直そうとしないでね」
「分かってます」
「本当に?」
「たぶん」
「その返事が一番怖い」
◇
放課後。
蒼太は、工具箱を持って一年四組へ戻った。
葵はすでに美術部へ向かったらしい。
教室には数人しか残っていない。
自分の席へ座り、鍵を机へ置く。
旧放送室。
行くなと言われた。
麻衣は場所を知っているような反応をした。
玲奈は、誰にも話していないことを読めずに止まった。
つながっているとは限らない。
けれど、旧放送室には、過去の放送記録が残っているかもしれない。
誰にも届かなかった放送。
途中で止まった声。
そんなものが。
「それ、何の鍵?」
声がした。
顔を上げる。
同じクラスの男子生徒、三浦健。
サッカー部の仮入部へ行く前らしく、スポーツバッグを持っている。
「旧放送室」
「何それ」
「俺も知らない」
「鍵だけあるの?」
「うん」
「開けに行こう」
「軽いな」
「鍵があるなら、開けるためだろ」
「先生に行くなって言われた」
「じゃあ行かない方がいい」
「今の勢いはどこ行った」
「怒られるのは嫌」
健は現実的だった。
「でも場所、分かるの?」
「分からない」
「学校の昔の地図とかないの?」
蒼太は顔を上げる。
「図書室」
「学校史とかあるんじゃない?」
「たぶん」
「じゃあ探せば」
「一緒に来る?」
「部活ある」
「役に立たないな」
「案を出した」
最近、その言い方をよく聞く気がする。
健は教室を出ていった。
蒼太は鍵を工具箱へ戻す。
図書室。
そこには、放送室と関わりのある白石悠がいる。
学校史や古い案内図もあるかもしれない。
行ってみる価値はある。
◇
図書室。
カウンターには、白石悠がいた。
その向かいには、一年生の女子。
青いリボン。
朝霧紬。
二人は開いた本を挟み、何か話している。
蒼太が近づくと、紬が先に気づいた。
「あ」
「何」
「正門で一ノ瀬さんと話してた人」
「見てたの?」
「少し」
「みんな、よく見てるな」
白石が蒼太を見る。
「図書室、初めて?」
「はい。学校の古い地図を探してます」
「何年前くらい?」
「分かりません」
「何を探してるの」
「旧放送室」
白石の手が止まった。
紬も反応する。
「旧放送室?」
「知ってます?」
白石は少し考えた。
「名前だけ」
「どこにあるかは?」
「知らない」
「またそれだ」
「また?」
「放送委員の先輩も、同じ答えでした」
「本当に知らない」
白石はカウンターの奥にある棚を見る。
「学校史なら、郷土資料のところ」
「案内してください」
「自分で探せる?」
「本が多いので」
「図書室だから」
白石は立ち上がった。
紬も本を閉じる。
「私も行っていい?」
「朝霧は本読んでたんじゃ」
「気になる」
三人で、図書室奥の棚へ向かう。
青葉ヶ丘高校創立五十周年記念誌。
卒業アルバム。
学校新聞の縮刷版。
過去の文化祭パンフレット。
古い校舎案内。
「これ」
白石が一冊の薄い冊子を取り出した。
『青葉ヶ丘高校 校舎改修記念誌』
発行は十五年前。
ページを開く。
改修前と改修後の校舎図面が載っている。
現在の放送室は、改修時に新設された。
旧放送室は。
「あった」
紬が指さす。
旧校舎図。
三階西側。
現在の資料準備室と、美術準備室の間。
改修後の図では、壁で塞がれ、部屋番号が消えている。
「なくなってる」
紬が言う。
「部屋自体は残ってるって先生が」
蒼太は図を見比べる。
廊下側の扉が塞がれた。
しかし、隣の資料準備室との間に、細い通路がある。
現在の図面では、収納と書かれている。
「資料準備室から入れるかもしれない」
「先生に行くなって言われたんでしょう?」
白石が言う。
「知ってるだけなら問題ない」
「その顔、行くつもりだろ」
「まだ決めてません」
「たぶん行く人の言い方」
「みんな、たぶんに厳しいですね」
紬が古い記念誌をめくる。
「あ」
一枚の写真。
旧放送室の中。
大きな音声卓。
レコードプレーヤー。
テープデッキ。
壁には、校内放送の予定表。
写真の下に説明文。
『旧放送室は、昭和期から平成初期まで使用された。昼の放送のほか、生徒制作による校内ラジオ番組「青葉の声」が人気を集めた』
「校内ラジオ」
蒼太は読む。
『生徒の悩み相談、部活動紹介、朗読、音楽などを放送。改修前年度に終了』
「どうして終了したんだろ」
紬が尋ねる。
「新しい放送室へ移ったからじゃ」
「改修前年度に終了なら、新しい部屋ができる前だ」
白石が言う。
蒼太はページをめくる。
それ以上の説明はない。
ただ、最後の写真だけが少し不自然だった。
マイクの前に座る女子生徒。
隣に立つ男子生徒。
机の上にはカセットテープ。
写真の端に、小さく日付。
十五年前の七月。
改修の前年。
「この人」
紬が女子生徒を指さす。
「吉岡先輩に似てない?」
「放送委員の?」
「うん」
蒼太も写真を見る。
確かに、昼に会った吉岡麻衣と顔立ちが似ている。
年齢が合わない。
姉。
あるいは母親。
「名字が書いてある」
白石が写真の説明を読む。
『三年・吉岡真由、二年・山岡誠』
「山岡」
蒼太は顔を上げる。
放送委員担当の山岡先生。
十五年前なら、高校生でもおかしくない年齢。
写真の男子は、今より若いが、確かに似ている。
「先生、この学校の卒業生なんだ」
紬が言う。
山岡は旧放送室へ入ったことがないと言った。
嘘だった。
少なくとも写真には写っている。
そして、吉岡麻衣とよく似た女子生徒。
「鍵、誰が入れたか分かったかも」
蒼太は言った。
「吉岡先輩?」
紬が尋ねる。
「たぶん」
「また、たぶん」
「今回は根拠がある」
吉岡麻衣は旧放送室を知っていた。
場所を尋ねたとき、答えを急いだ。
写真の吉岡真由と似ている。
鍵を渡す理由は分からない。
それでも、本人へ聞くしかない。
「この冊子、借りられますか」
蒼太が尋ねる。
「館内資料だから、外へは持ち出せない」
白石が答える。
「コピーは?」
「できる。必要なページだけ」
蒼太は写真と図面のページを複写した。
図書室を出る前、紬が声をかける。
「長谷川くん」
「何」
「一ノ瀬さんも、放送室を見たいって言ってたよね」
「言ってた」
「一人で行かない方がいいんじゃない?」
「危ないから?」
「それもあるけど」
紬は少し考える。
「誰にも届かなかったものを見つけたとき、一人だと、どうすればいいか分からないから」
「どういう意味?」
「私も分からない」
「分からないこと言わないで」
「でも、そんな気がする」
蒼太は答えず、工具箱の中の鍵を確かめた。
◇
放課後。
放送室。
吉岡麻衣は、昼の放送記録をファイルへ書き込んでいた。
蒼太は机の前へ立つ。
「先輩」
「何?」
「これ、入れました?」
旧放送室の鍵を置く。
その横へ、写真のコピー。
麻衣の顔から笑みが消えた。
「図書室で見つけた?」
「はい」
「山岡先生に見せた?」
「まだ」
「どうして私に先に」
「入れたのが先輩だと思ったから」
「違ったら?」
「謝ります」
「自信あるんだ」
「たぶん」
「便利な言葉だね」
麻衣は鍵を手に取った。
少しの間、黙る。
「私が入れた」
「どうして」
「見つけてほしかったから」
「旧放送室を?」
「中にあるものを」
「何があるんです」
「カセットテープ」
麻衣は写真の女子生徒を指さした。
「この人、私の姉」
「吉岡真由さん」
「十五年前、青葉ヶ丘の放送委員だった」
「先生も」
「山岡先生は、姉の一つ下」
「旧放送室へ入ったことないって言いました」
「先生は、そう言うと思った」
「何で」
「最後の放送を止めたのが、先生だから」
蒼太は黙る。
「『青葉の声』って番組で、生徒から届いた手紙を読む回があった」
「悩み相談?」
「うん。姉は、ある手紙を放送しようとした」
「どんな」
「いじめの告発」
放送室の空気が変わった。
「名前は出さない。誰が書いたかも分からない。でも、部活内でいじめがあるって内容だった」
「放送したんですか」
「途中まで」
麻衣は写真を見る。
「山岡先生が止めた」
「どうして」
「事実確認ができていなかった。関係ない生徒まで疑われる可能性があった。先生は、止めるべきだと思った」
「正しいんじゃ」
「正しかったと思う」
麻衣は静かに言う。
「でも、放送を止めたあと、その手紙を書いた生徒は学校を辞めた」
蒼太は言葉を失った。
「姉は、自分が最後まで読めなかったからだと思った。先生は、止めたからだと思った」
「そのあと番組が終わった?」
「うん。二人とも放送委員を辞めた。『青葉の声』もなくなった」
「いじめは」
「調査された。あった。でも、学校が対応したときには、書いた生徒はもう戻らなかった」
「カセットテープには、その放送が?」
「途中まで録音されてる」
「どうして聞きたいんです」
「私じゃない」
「誰が?」
「姉」
麻衣は鍵を握る。
「姉は去年、病気で亡くなった」
「……すみません」
「謝らなくていい」
「でも」
「姉の部屋を整理してたら、旧放送室の鍵と手紙が出てきた」
「手紙?」
「山岡先生宛て」
「渡せばいいじゃないですか」
「渡そうとした」
「拒まれた?」
「受け取らなかった」
山岡は旧放送室へ入ったことがないと嘘をついた。
過去ごと閉じたつもりなのかもしれない。
「姉は、最後の放送をもう一度聞いてほしいって書いてた」
「何のために」
「分からない」
「先輩が聞けば」
「一人で入るのが怖い」
麻衣は初めて弱い声を出した。
「姉が何を言おうとしたのか、知りたい。でも、聞いたら、姉が本当にいなくなった気がする」
蒼太は、旧放送室の鍵を見る。
人の心は、機械のようにはいかない。
原因を見つけても、直らないことがある。
それでも、鍵は開けるためにある。
ただし、勝手にではない。
「一緒に行きますか」
蒼太が言う。
「長谷川くんが?」
「一ノ瀬も呼びます」
「どうして一ノ瀬さん」
「放送室を見たいと言ってた。あと、俺より人間の気持ちが分かりそう」
「自分で言うんだ」
「今日、少し学びました」
「山岡先生は?」
「呼びます」
「来ないと思う」
「なら、俺が呼びます」
「どうやって」
「放送で」
麻衣が目を見開く。
「勝手に校内放送を使う気?」
「個人名は出しません」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ直接言います」
「普通だね」
「何を期待してたんですか」
麻衣は少しだけ笑った。
「分かった」
◇
翌日の放課後。
資料準備室。
集まったのは四人だった。
蒼太。
麻衣。
一ノ瀬葵。
そして山岡。
「どうして一ノ瀬までいる」
山岡が言う。
「放送室を見たいって」
蒼太が答える。
「旧放送室とは言ってない」
葵が小声で言う。
「帰る?」
「ここまで来たから見る」
葵はスケッチブックを抱えている。
麻衣は、姉の手紙が入った封筒を持っていた。
山岡は、最後まで来ないと言った。
蒼太が写真と鍵を机へ置き、
「行かないなら、俺たちだけで行きます」
と伝えると、しばらく黙ったあと同行した。
「危険だからだ」
山岡は言った。
「過去が気になるんじゃなくて?」
蒼太が尋ねる。
「一年生は黙れ」
「図星ですか」
「本当に黙れ」
資料準備室の奥。
棚を動かす。
その後ろに、細い扉があった。
取っ手には埃。
鍵穴。
蒼太が旧放送室の鍵を差す。
回る。
小さな音。
十五年間閉じていた扉が、ゆっくり開いた。
埃の匂い。
暗い部屋。
山岡が照明のスイッチを押す。
点かない。
「電気は切られてる」
懐中電灯をつける。
光の中に、古い機材が浮かぶ。
音声卓。
マイク。
テープデッキ。
机。
椅子。
壁には、当時の放送予定表が残っている。
『青葉の声 最終回』
赤い文字で書かれ、そのまま消されていない。
葵が息を呑む。
「描いてもいい?」
「好きにしろ」
山岡が答える。
麻衣は机の引き出しを開けた。
中に、一本のカセットテープ。
ラベルには、
『青葉の声 七月十二日』
と書かれている。
「これ」
麻衣の手が震える。
山岡がテープを見る。
「まだ残ってたのか」
「姉が、最後まで聞いてほしいって」
麻衣が封筒を差し出す。
山岡は受け取らない。
「先生」
蒼太が言う。
「今日は受け取ってください」
「お前に言われることじゃない」
「でも、先輩一人では渡せなかった」
「だからお前が」
「違います」
葵が口を挟む。
「吉岡先輩が、ここまで持ってきたからです」
山岡は黙った。
麻衣は封筒を差し出したまま。
長い時間のあと、山岡が受け取った。
封を開ける。
手紙を読む。
表情は変わらない。
けれど、持つ指が少し震えていた。
「何て」
麻衣が尋ねる。
山岡はすぐに答えない。
「自分で読め」
手紙を渡す。
麻衣は姉の字を追う。
そして、声に出した。
「『あの放送を止めたことを、ずっと責めていると思います。でも、あなたが止めなければ、私は別の誰かを傷つけていたかもしれない』」
山岡が目を閉じる。
「『手紙を書いた子を救えなかったことと、放送を止めたことは、同じではありません』」
麻衣の声が震える。
「『私たちは、どちらも正しかった。どちらも間に合わなかった。それだけです』」
誰も話さない。
「『最後の放送を、途中で終わった失敗のままにしないでください。あの日言えなかったことを、今の生徒たちへ伝えてください』」
手紙はそこで終わっていた。
「言えなかったことって」
麻衣が尋ねる。
山岡はカセットテープを見る。
「聞けば分かる」
「機械、動きますか」
蒼太が古いデッキを確認する。
電源はない。
だが、カセットは取り出せる。
「現在の放送室で再生できます」
「テープが傷んでるかもしれない」
「慎重にやります」
「失敗したら」
「失敗しないとは言いません」
蒼太は答えた。
「でも、途中で止まっても、そこから考えます」
山岡が蒼太を見る。
少しだけ、笑ったように見えた。
◇
現在の放送室。
テープデッキへカセットを入れる。
蒼太が慎重に再生ボタンを押した。
ノイズ。
回転音。
そして、若い女子生徒の声。
『皆さん、こんにちは。青葉の声です』
吉岡真由。
麻衣の姉。
明るく、はっきりした声。
『今日は、匿名で届いた一通の手紙を紹介します』
紙を開く音。
『私は、部活動で――』
そこで、別の声。
『待って』
若い山岡。
『それ、確認したのか』
『本人から届いた』
『本人かどうか分からない。名前もない』
『でも、読んでほしいって』
『放送で読む内容じゃない』
『じゃあ、どうすればいいの』
『先生へ渡す』
『今まで誰も聞かなかったから、ここへ来たんでしょう』
二人の声。
言い争い。
マイクは切られていない。
校内へ、どこまで流れたのか。
『それでも、関係ない人まで傷つく』
『何もしなかったら、この子が傷つき続ける』
『止めろ、真由』
『私は――』
音が切れた。
テープは回り続ける。
無音。
長い無音。
やがて、小さな声が入る。
真由の声。
放送ではなく、録音だけが続いていたのだろう。
『ごめんなさい』
泣いている。
『読めなかった』
山岡の声。
『俺が止めた』
『でも、読めなかった』
『先生に渡そう』
『間に合うかな』
『間に合わせる』
そこでテープが終わった。
誰も動かなかった。
「最後に言えなかったこと」
山岡が呟く。
「何だったんですか」
麻衣が尋ねる。
「間に合わなかったあとも、終わりじゃないってことだ」
「でも、姉は」
「真由は、ずっとあの日で止まってた。俺も」
山岡はマイクを見る。
「今の生徒には、助けを求めろと言う。話せと言う。だが、話してもすぐに解決しないことがある。正しい対応をしても、間に合わないことがある」
「それを放送するんですか」
蒼太が尋ねる。
「失敗した大人の話を?」
「失敗したから、話せる」
山岡は答えた。
「ただし、テープは流さない。関係者がいる」
「先生が話す?」
「一人では無理だな」
「放送委員で作りましょう」
麻衣が言う。
「今の生徒向けの番組」
「『青葉の声』を?」
「名前は変えてもいい」
「変えません」
麻衣ははっきり言った。
「姉が終わらせられなかった番組だから」
「終わらせるのか」
「続けます」
山岡は少しだけ目を伏せた。
「そうか」
◇
一週間後。
昼休み。
校内放送のチャイムが鳴った。
マイクの前には、神谷玲奈。
隣には吉岡麻衣。
操作席には長谷川蒼太。
山岡は後ろで見守っている。
玲奈は放送委員を辞めなかった。
今日の原稿は、事前に三人で確認した。
読めない箇所があれば、麻衣が代わる。
一人で最後まで読む必要はない。
マイクスタンドは、新しい部品へ交換済み。
高さは下がらない。
「皆さん、こんにちは」
玲奈の声。
少し震えている。
「今日から、月に一度、新しい校内放送を始めます」
深呼吸。
「番組名は、『青葉の声』です」
校内のどこかで、山岡と同じ時代を知る教師が顔を上げたかもしれない。
玲奈は続ける。
「この番組では、学校生活で感じたこと、誰かに聞いてほしいこと、まだ自分でもうまく言葉にできないことを募集します」
一瞬だけ止まる。
蒼太がブース越しに玲奈を見る。
代わる準備をする。
玲奈は自分で続けた。
「話したくないことは、話さなくて構いません」
声はまだ震えている。
「でも、一人では抱えきれないと思ったとき、誰かが聞く場所があることを、覚えていてください」
麻衣が小さく頷く。
「私たちは、すぐに正しい答えを出せないかもしれません」
山岡が目を閉じる。
「間に合わないことも、失敗することもあります。それでも、聞くことをやめないための放送です」
玲奈は最後まで読んだ。
「皆さんからの声を、お待ちしています」
終了の音楽。
麻衣がスイッチを切る。
玲奈は大きく息を吐いた。
「読めた」
「途中、少し止まりました」
蒼太が言う。
「そこ言う?」
「でも続けた」
「うん」
玲奈は笑った。
「続けた」
◇
放課後。
正門。
葵は門柱の校長を描いていた。
蒼太が工具箱を持って通りかかる。
「一ノ瀬」
「放送、聞いたよ」
「どうだった」
「少し機械の音が入ってた」
「内容じゃなくて?」
「冗談」
葵はスケッチブックを見せた。
校長。
正門。
その向こうの校舎。
屋上近くには、放送用スピーカー。
目には見えない声を表すように、風の線が描かれている。
「放送は描けないと思ったけど」
葵が言う。
「聞いてる人を描かなくても、届いてる感じにした」
「すごい」
「まだ途中」
「途中でも放送に見える」
「放送を見たことあるの?」
「ない」
二人で笑う。
「旧放送室、どうだった?」
「古かった」
「それだけ?」
「機械がいっぱいあった」
「長谷川くんらしい感想」
「あと」
蒼太は少し考えた。
「壊れてても、勝手に直しちゃいけないものがあるって分かった」
「直さないの?」
「直すかどうかを、持ち主に聞く」
「誰が持ち主?」
「分からない」
「分からないんだ」
「だから、みんなで考える」
葵はスケッチブックへ視線を落とした。
「旧放送室、描いてもいい?」
「先生に聞けば」
「長谷川くんが連れていって」
「勝手には入れない」
「鍵は?」
「先生に返した」
「そうなんだ」
「でも、今度整理するらしい。放送委員と美術部で」
「美術部も?」
「記録を残したいって」
「じゃあ行く」
「決めるの早いな」
「知らない場所を描きたいから」
葵は校長の横へ、小さな鍵を描き加えた。
もう蒼太の手元にはない鍵。
けれど、その鍵が開けた場所は、また閉じられるための部屋ではなくなった。
「長谷川くん」
「何」
「工具箱、見てもいい?」
「どうして」
「描きたい」
「工具を?」
「長谷川くんを」
蒼太は固まった。
「人、描くんだ」
「最近は」
「俺を?」
「駄目?」
「じっとしてるの苦手」
「榊原先輩も言ってた」
「誰?」
「バスケ部のモデル」
「俺はモデルじゃない」
「工具を直してるところなら、動いてていいよ」
「それなら」
蒼太は工具箱を開けた。
「何か壊れてる物ある?」
葵が鞄の中を探す。
取り出したのは、小さな鉛筆削り。
「回しても削れない」
「見せて」
蒼太が受け取る。
刃の部分を確認する。
「芯が詰まってるだけかも」
「直る?」
「たぶん」
「その言葉、信用していい?」
「機械のときは大丈夫」
蒼太は工具を取り出す。
葵は、その横顔を描き始める。
門柱では、校長が二人を眺めている。
言葉が届かないとき。
途中で止まったとき。
誰かが聞いていないと思ったとき。
それでも声は、どこかに残る。
十五年前のカセットテープのように。
描きかけの絵のように。
壊れた鉛筆削りの中に残った芯のように。
いつか誰かが見つけ、続きを始める。
◇
翌朝。
放送室の机の上に、一通の手紙が置かれていた。
新しい『青葉の声』宛て。
差出人の名前はない。
白い封筒。
表には、震える字で書かれている。
『放送で読まなくてもいいです。ただ、誰かに知ってほしいです』
麻衣が封筒を見つめる。
玲奈が隣に立つ。
蒼太は少し離れた場所から見ていた。
「開ける?」
玲奈が尋ねる。
麻衣はすぐには触れなかった。
「三人で読もう」
「山岡先生も?」
「必要なら」
蒼太が言う。
「本人が何を望んでるか、先に確認した方がいい」
「名前ないよ」
「返事を放送する」
「何て?」
蒼太は少し考える。
「届いたって」
玲奈がマイクを見る。
「それだけ?」
「まずは」
麻衣が頷いた。
昼休み。
校内放送で、短い言葉が流れた。
「『青葉の声』へ手紙をくださった方へ。あなたの手紙は、確かに届いています」
名前も。
内容も。
答えも読まなかった。
ただ、届いたことだけを伝えた。
放送室では、玲奈がマイクからゆっくり離れた。
「これでいいのかな」
玲奈が尋ねる。
麻衣は机の上の封筒を見る。
「今は、これでいいと思う」
「返事になってないけど」
「返事を急いで、また誰かを置いていくよりはいい」
山岡は、何も言わず封筒を見つめていた。
十五年前。
届いた声へ、すぐ答えを出そうとした。
放送するか。
止めるか。
正しいか。
間違っているか。
けれど今は、まだ開かない。
誰が読むのか。
どこまで共有していいのか。
差出人が何を望んでいるのか。
それを先に考える。
「長谷川」
山岡が言った。
「何ですか」
「お前、最初に本人の望みを確認しろと言ったな」
「はい」
「少しは人間の扱いを覚えたか」
「まだ機械の方が分かりやすいです」
「だろうな」
「でも」
蒼太は封筒を見る。
「分からないなら、勝手に開けない方がいいことは分かりました」
玲奈が少し笑った。
「それ、旧放送室の鍵を勝手に開けた人が言う?」
「あれは先生も一緒でした」
「最初は一人で行く気だったでしょう」
「結果的には行ってません」
「危なかった」
麻衣が言う。
三人の声が放送室に残る。
誰にも流れない会話。
けれど、そこには確かに聞く人がいた。
机の上には、まだ開かれていない手紙。
隣には、十五年前のカセットテープ。
途中で止まった昔の声と、今届いたばかりの声。
蒼太は二つを見比べた。
機械なら、動かない原因を探せばいい。
人の言葉は、動かす前に待たなければならないことがある。
いつ開くのか。
誰と読むのか。
答えを出せるのか。
今はまだ分からない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
手紙は捨てられなかった。
声は消されなかった。
ちゃんと届いた。
それだけで、昨日まで閉じていた場所は、もう同じ場所ではなかった。




