第10話 読めなかった一行を、今度は自分の声で
神谷玲奈は、人前で話すことが得意だった。
少なくとも、中学校を卒業するまでは、そう思っていた。
国語の授業で朗読を頼まれれば、つかえることなく読めた。
体育祭では、全校生徒の前で選手宣誓をした。
文化祭では司会を務め、予定より演奏時間が延びた吹奏楽部と、出番が迫って焦る演劇部の間を、誰にも気づかれないように調整した。
中学三年間、放送委員も続けた。
昼休みの校内放送。
体育祭の実況。
卒業式の進行案内。
マイクの前へ立ち、原稿を開く。
放送開始を知らせるランプが点灯する。
息を吸い、最初の一言を発する。
その瞬間だけ、玲奈は自分がどこへ声を届ければいいのか分かった。
「神谷さんの声、聞きやすいよね」
「落ち着いてて、アナウンサーみたい」
「緊張しないの?」
そう尋ねられるたび、玲奈は決まって笑った。
「顔が見えないから平気」
半分は本当だった。
マイクの向こうに何百人いようと、こちらからは見えない。
聞いている生徒が退屈そうにしているのか。
笑っているのか。
玲奈の言葉をどう受け取ったのか。
何も分からない。
分からないから、考えずに済む。
原稿に書かれている文章を、正しい順番で読めばいい。
適切な速度。
聞き取りやすい声量。
文末で少しだけ息を抜く。
読点では短く。
句点では長く。
読む。
伝える。
終わる。
放送には、正解があった。
少なくとも、玲奈はそう信じていた。
けれど、原稿に書かれていないことを話すのは苦手だった。
「最近どう?」
「高校、楽しみ?」
「友達できた?」
そういう、答えの決まっていない質問。
玲奈はいつも似たような言葉を返した。
「普通」
「まあまあ」
「大丈夫」
短く。
余計なことを言わないように。
相手を困らせないように。
自分の話をしすぎないように。
言葉を増やせば、失敗する。
玲奈は中学二年生のとき、そう覚えた。
◇
当時、玲奈にはよく話す友達がいた。
名前は遠山真希。
同じ放送委員。
同じクラス。
昼休みには一緒に弁当を食べ、放課後には放送室で翌日の原稿を確認した。
真希は聞き上手だった。
少なくとも、玲奈はそう思っていた。
玲奈は本を読んだ感想を話した。
放送の失敗を話した。
家で母親と喧嘩したことを話した。
将来、声を使う仕事をしてみたいと話した。
真希は相槌を打ってくれた。
「分かる」
「それは大変だったね」
「玲奈って真面目だよね」
だから玲奈は、真希には話してもいいのだと思っていた。
ある日の放課後。
放送室へ忘れ物を取りに戻った玲奈は、扉の向こうから自分の名前を聞いた。
「玲奈ってさ」
真希の声。
もう一人、別の女子もいた。
「話が長いんだよね」
玲奈は扉へ伸ばしかけた手を止めた。
「何でも真面目に考えすぎるし。こっちが軽く愚痴っただけなのに、すごい真剣に返してくる」
「優しいじゃん」
「優しいけど、疲れる」
笑い声。
「返事に困るんだよね。こっちもちゃんと答えなきゃって思うし」
「本人に言えば?」
「言えないよ。絶対重く受け止めるもん」
また笑う。
玲奈は、放送室へ入れなかった。
忘れ物を置いたまま帰った。
翌日。
真希はいつも通り話しかけてきた。
「昨日、原稿忘れてたよ」
「ありがとう」
「どうしたの? 元気ない?」
「普通」
「ならいいけど」
それから玲奈は、自分の話を減らした。
真希の話には短く返した。
「そうなんだ」
「大変だね」
「分かる」
質問をしない。
深く考えない。
相手が求めている以上の答えを返さない。
そうすれば、疲れさせない。
少しずつ、二人の会話は減った。
中学三年生になる頃には、放送委員として必要なことだけを話す関係になった。
喧嘩はしなかった。
嫌いとも言われなかった。
ただ、いつの間にか友達ではなくなった。
玲奈は高校へ入学するとき、今度こそ失敗しないと決めた。
話しすぎない。
重い話をしない。
誰かへ期待しすぎない。
教室では静かにしていればいい。
放送室では、原稿を読めばいい。
その二つを分けておけば、困らない。
そう思っていた。
だから青葉ヶ丘高校の放送室で、
『まだ誰にも話していないこと』
という一行を読もうとした瞬間、声が出なくなった。
誰にも話していないこと。
話せなかったこと。
話した結果、失ったもの。
全部が一度に喉へ詰まった。
放送は止まった。
全校生徒が聞いている前で。
◇
四月二十七日。
午前七時四十八分。
青葉ヶ丘高校の放送室には、二通の白い封筒が置かれていた。
一通目は、前日の朝に見つかったもの。
差出人の名前はない。
表には、震える字で、
『放送で読まなくてもいいです。ただ、誰かに知ってほしいです』
と書かれている。
玲奈たちは、その手紙をすぐには開けなかった。
差出人が何を望んでいるのか分からなかったからだ。
昼の放送で、手紙が届いたことだけを伝えた。
『あなたの手紙は、確かに届いています』
内容は読まない。
勝手に答えない。
まずは届いたことだけを伝える。
それが、新しく始まった校内放送『青葉の声』が受け取った、最初の手紙への最初の返事だった。
そして今朝。
一通目の隣に、もう一つの封筒が置かれていた。
一通目より小さい。
表には、一行だけ。
『開けてください』
放送委員の二年生、吉岡麻衣が、机の上へ二通を並べる。
「同じ人かな」
麻衣が言った。
「字は似ています」
長谷川蒼太が答えた。
彼は、修理したマイクスタンドを上下させている。
「最初の封筒と比べれば、線の傾きや筆圧で」
「機械みたいに分析しないの」
「字も情報です」
「そうだけど、鑑定する必要はないでしょう」
「同じ人か確認した方が」
「二通目に、開けてくださいって書いてあるんだから、同じ人でいいと思う」
麻衣はそう言いながらも、すぐには封筒へ触れなかった。
玲奈も、少し離れた場所から二通を見つめていた。
開けてください。
本人が望んでいる。
なら、開けてもいい。
それでも指先が冷たくなる。
手紙の中に、何が書かれているのか。
自分が読めるのか。
また途中で声が出なくならないか。
「神谷さん」
蒼太が玲奈を見る。
「読めないなら、俺が読みます」
「読める」
玲奈は反射的に答えた。
「読めます」
「無理する必要は」
「無理じゃない」
そこまで言って、玲奈は気づいた。
また同じことをしている。
大丈夫。
平気。
読める。
自分の本当の状態ではなく、相手の心配を止めるための言葉。
玲奈は一度、息を吐いた。
「……怖いけど、読みたい」
言い直す。
麻衣は何も言わず、二通目を玲奈へ渡した。
玲奈は椅子へ座る。
封を切る。
中には、小さな紙が一枚。
『昨日、届いたと言ってくれてありがとうございました。一通目を開けてください。吉岡先輩、神谷さん、長谷川くんの三人に読んでほしいです』
三人の名前が書かれていた。
「俺の名前まで」
蒼太が言う。
「最初の放送で、機材担当として紹介したでしょう」
麻衣が答える。
「覚えられてたんですね」
「長谷川くん、少し変わってるから」
「紹介では普通に話したはずです」
「放送後にマイクスタンドの修理説明を長々としてた」
「あれは必要な説明です」
「校内に流れてたよ」
「切れてなかったんですか」
「途中から切った」
「早く言ってください」
蒼太が珍しく動揺する。
玲奈は少しだけ笑った。
緊張が、ほんの少し緩む。
「一通目」
麻衣が言う。
「三人で読もう」
玲奈は頷いた。
封筒を開ける。
便箋は二枚。
最初の一行。
『一年六組の者です』
玲奈と同じクラスだった。
胸の奥が強く鳴る。
「読みます」
玲奈は声に出した。
放送ではない。
ここにいる二人へだけ届く声。
「『私は、教室で話せません』」
一行目。
止まらなかった。
「『声が出ないわけではありません。先生に当てられれば答えられます。必要なことなら話せます。でも、休み時間に誰かへ話しかけることができません』」
玲奈は便箋を持つ指へ力を入れる。
「『中学校のとき、仲がいいと思っていた友達に、私と話すと疲れると言われました』」
そこで、息が少し詰まった。
玲奈は一度、便箋から目を離す。
「代わる?」
麻衣が尋ねる。
玲奈は首を振った。
「読みたい」
続ける。
「『私が話すことは重い。いつも返事に困る。何でも真面目に考えすぎる。そう言われました』」
放送室の壁が遠くなる。
中学時代の扉。
向こう側から聞こえた真希の声。
玲奈と話すと疲れる。
返事に困る。
真面目すぎる。
同じ言葉。
「『それから、何を話せば相手が困らないのか分からなくなりました』」
玲奈は、自分のことを読んでいるような気がした。
「『高校では変わろうと思いました。でも、教室へ入ったら、もうみんな話していました。今さら入れません』」
一年六組の教室。
入学から二週間以上。
すでに小さな輪がいくつもできている。
弁当を食べる相手。
部活へ向かう相手。
帰る相手。
その中で一人でいる生徒。
誰だろう。
玲奈は同じ教室にいるのに、すぐには顔を思い浮かべられなかった。
「『神谷さんが放送で止まった日、私は少し安心しました』」
玲奈の声が止まる。
今度は、文章のせいではない。
意味を理解するために止まった。
「何て?」
蒼太が尋ねる。
玲奈は同じ一文を読み直す。
「『神谷さんが放送で止まった日、私は少し安心しました』」
胸が痛い。
失敗を見られた。
全校生徒へ。
同じクラスの誰かへ。
「『神谷さんでも、読めなくなることがあるんだと思ったからです』」
便箋の文字が少しにじむ。
「『私は神谷さんが、何でもできる人だと思っていました。教室では静かなのに、放送だと別人みたいに話せるから』」
玲奈も見られていた。
自分が誰も見ていないと思っていた教室で。
静かにしていれば、誰にも気づかれないと思っていた。
「『でも、次の放送で、話したくないことは話さなくていいと言ってくれました』」
あの日の原稿。
玲奈一人が考えた言葉ではない。
麻衣。
蒼太。
山岡。
皆で作った。
けれど、声にしたのは玲奈だった。
「『私も、今は全部話せません。でも、一人では抱えきれないと思いました』」
便箋の二枚目。
「『どうしたら教室で話せますか』」
最後の一行。
「『神谷さんは、どうやって話せるようになりましたか』」
玲奈は読み終えた。
放送室が静かになる。
機材の小さな作動音。
廊下を歩く教師の足音。
朝練を終えた生徒たちの声。
「返事」
蒼太が言う。
「できそうですか」
「できない」
玲奈はすぐに答えた。
麻衣が玲奈を見る。
「話せるようになってないから」
「放送では話せてる」
「原稿があるからです」
玲奈は便箋を机へ置いた。
「何を言えばいいか決まってる。顔も見えない。教室では、何を話すか自分で決めないといけない」
誰へ。
何を。
どこまで。
どんな顔で。
何秒くらい。
相手が困ったら。
嫌われたら。
考えることが多すぎる。
「この人は、私が話せる人だと思ってる」
「違うことを返せばいい」
蒼太が言った。
「そんな答え、役に立たない」
「本当ではあります」
「でも、助けを求めてる」
「神谷さん一人が助ける必要はないでしょう」
「私に聞いてる」
「だから、神谷さんができる範囲で答える」
蒼太は、いつも単純に言う。
できること。
できないこと。
直るもの。
直らないもの。
玲奈には、その単純さが少し羨ましかった。
「正しい答えじゃなくてもいいんじゃない?」
麻衣が言う。
「相談されたら、正しいことを言わないと」
「どうして?」
「間違えたら、その人がもっと困る」
「なら、分からないって書けばいい」
「それでは何も」
「分からないのに、分かったふりをする方が危ないよ」
十五年前。
旧放送室。
正しいか、間違っているか。
放送するか、止めるか。
答えを急いだ結果、届かなかった声。
新しい『青葉の声』は、すぐに答えを出すための番組ではない。
聞くことをやめないための放送。
「放送で返事する?」
麻衣が尋ねる。
「名前は出さない。内容も全部は読まない」
「本人が、放送で返事してほしいか分かりません」
蒼太が言った。
「確認した方がいい」
「また手紙を待つ?」
「放送で尋ねる」
「返事をしてもいいですか、って?」
「はい」
「それだけ?」
「まずは」
前回と同じ。
届いたことだけを伝えた。
今度も急いで答えない。
玲奈は少し考え、首を振った。
「今回は、私から書く」
「手紙で?」
麻衣が聞く。
「同じクラスだって分かったから」
「誰か分からないのに、どうやって渡すんです?」
「放送室の相談箱へ入れる」
差出人が手紙を置いた場所。
そこへ返事を置く。
「ほかの人が開けるかもしれない」
「封筒に、一年六組の手紙を書いた人へ、って書く」
「取りに来るところを誰かに見られたら?」
「放課後、時間を決める」
麻衣が言った。
「私たちは先に放送室を出る。放送で、誰も見ないと約束する」
玲奈は頷いた。
放送で答える勇気はない。
けれど手紙なら、書けるかもしれない。
原稿ではない。
誰かに用意された言葉でもない。
自分の言葉。
それが、一番怖かった。
◇
朝のホームルーム前。
一年六組。
玲奈は教室へ入り、自分の席へ鞄を置いた。
手紙を書いた人。
同じクラス。
教室で話せない。
玲奈の放送を聞いていた。
誰なのか。
窓際では、三人の女子がスマートフォンを見ながら笑っている。
教室前方では、男子たちが昨夜のサッカーの話。
廊下側では、二人の女子が英語の宿題を見せ合っている。
一人でいる生徒もいる。
本を読んでいる。
イヤホンをつけている。
宿題をしている。
けれど、一人でいるからといって、話せないとは限らない。
誰かを待っているだけかもしれない。
別のクラスに友達がいるかもしれない。
静かな時間が好きなのかもしれない。
外から見ただけでは分からない。
玲奈自身だって、誰にも気づかれていない。
「神谷さん」
声をかけられた。
顔を上げる。
高野千夏。
同じクラス。
短い髪。
バレーボール部へ仮入部中。
「昨日の放送、よかった」
「ありがとう」
「『青葉の声』って、恋愛相談も読む?」
「内容によると思う」
「じゃあ今度送ろうかな」
「好きな人いるの?」
言ってから、玲奈は驚いた。
自分から質問した。
千夏も少し驚いたあと、笑う。
「いない。友達の話」
「自分の話じゃないんだ」
「そういうことにしといて」
「分かった」
会話が続いた。
たった数往復。
それでも玲奈には珍しい。
「神谷さんって、教室だと静かだよね」
千夏が言う。
手紙と同じ言葉。
玲奈の胸が少しだけ強く鳴る。
「放送だと別人みたい」
「よく言われる」
「放送の方が本当?」
「分からない」
「分からないんだ」
「どっちも私だと思う」
千夏は少し考えた。
「じゃあ、静かなアナウンサー」
「まだアナウンサーじゃない」
「将来なる?」
「考えたことはある」
初めて、クラスメイトへ言った。
本当に目指すかは分からない。
けれど、声を使う仕事に憧れたことはある。
「似合いそう」
千夏が言う。
「声いいし」
「ありがとう」
褒め言葉を疑わずに受け取る。
会話はそこで終わった。
千夏は別の友達に呼ばれ、自分の席へ戻る。
玲奈は、少しだけ息を吐いた。
話せた。
だからといって、急に友達になったわけではない。
昼休みを一緒に過ごす約束もない。
それでも昨日より、千夏のことを少し知った。
手紙を書いたのは千夏ではない気がした。
けれど、誰なのかを探すのはやめようと思った。
本人は名乗っていない。
それを暴く必要はない。
必要なのは、相手を見つけることではない。
返事を届けることだ。
◇
昼休み。
玲奈は手紙を書くため、図書室へ向かった。
教室では周囲の声が気になる。
放送室では、麻衣や蒼太の前で書くことになる。
一人で考えられる場所が欲しかった。
図書室の窓際。
玲奈は便箋を机へ置く。
一行目。
『一年六組の手紙を書いた方へ』
そこまでは書けた。
次が出てこない。
『手紙をありがとうございました』
よそよそしい。
『私も教室で話せません』
嘘ではない。
けれど、それだけでは突き放しているように見える。
『大丈夫です』
書きかけて、消した。
大丈夫ではない。
相手が苦しいと言っているのに、根拠もなく言えない。
玲奈はペンを置いた。
「手紙?」
声がして、顔を上げる。
カウンターから白石悠が見ていた。
「見てたんですか」
「紙は見てない。ずっと一行目で止まってるから」
「図書委員って、人まで監視するんですか」
「困ってそうだったから」
白石はカウンターを出てきた。
「隣、いい?」
「はい」
向かいではなく、少し離れた隣へ座る。
手紙をのぞかない距離。
「何て書けばいいか分からない?」
「はい」
「誰に?」
「言えません」
「じゃあ内容も聞かない」
「それで相談できます?」
「書き方だけなら」
白石は、何も書かれていない便箋を見る。
「本当のことを書けば」
「本当のことが、役に立たない場合は?」
「役に立つ答えを期待されてる?」
「どうしたら話せるようになるか聞かれました」
「玲奈さんは、話せるの?」
下の名前を呼ばれ、少し驚く。
「神谷さんが同じクラスにもう一人いるから」
白石が説明する。
「ああ」
話が少しそれた。
でも緊張も少しほどけた。
「放送では話せます」
「教室では?」
「話せません」
「じゃあ、どうして話せるようになったかは答えられないね」
「やっぱり」
「でも、話せないままどうして放送できるのかは答えられる」
玲奈は白石を見る。
「違いますか」
「違わないと思う」
「なら、それを書けばいい」
「それで助かるでしょうか」
「分からない」
「無責任ですね」
「相手を助けるための手紙なの?」
「助けたいです」
「助けられると約束できる?」
「できません」
「じゃあ、助けるためじゃなくて、隣にいるために書く」
玲奈は黙った。
「手紙は、問題を解決しなくてもいいと思う」
白石が続ける。
「返事が来たと分かるだけで、一人じゃなくなることもある」
「経験あるんですか」
「少し」
「聞いても?」
「俺の話じゃない」
「そうですか」
玲奈は便箋へ目を落とす。
助けるためではなく。
隣にいるため。
正しい答えを出すのではなく。
自分も分からないと伝える。
「ありがとうございます」
「何もしてない」
「少ししました」
「じゃあ、どういたしまして」
白石は立ち上がった。
カウンターへ戻る途中、青いリボンの一年生が図書室へ入ってきた。
朝霧紬。
白石へ向かって軽く手を上げる。
白石も少しだけ笑う。
玲奈は二人を見る。
初めから、あんなふうに話せたわけではないのだろう。
どちらかが一度、声をかけた。
そのあとも話した。
少しずつ。
玲奈はペンを持った。
◇
『一年六組の手紙を書いた方へ。
手紙を読ませてもらいました。
最初に、本当のことを書きます。
私は、教室でうまく話せません。
放送では話せます。原稿があるからです。何を言えばいいか決まっているからです。聞いている人の顔が見えないからです。
でも、休み時間に自分から誰かへ話しかけるのは苦手です。
だから、「どうしたら話せますか」という質問に、正しい答えはできません。
私も知りたいくらいです。
ただ、今日、同じクラスの人と少し話しました。
相手が放送の感想を言ってくれました。
私は「ありがとう」と答えました。
そのあと、自分から質問を一つしました。
それだけです。
友達になったわけでもありません。
放課後に一緒に帰る約束もしていません。
でも、昨日までより、その人のことを少し知りました。
たぶん、話せるようになるというのは、急に明るくなったり、誰とでも話せるようになったりすることではないのだと思います。
一言だけ話す。
返事をする。
次の日に、もう一度挨拶する。
それを少しずつ増やすことなのかもしれません。
あなたが誰なのか、私は探しません。
話したくないことを、無理に話してほしいとも思いません。
でも、教室で一人になったとき、私も同じ教室にいることを覚えていてください。
私も、たぶん静かにしています。
もし話しかけてもいいと思ったら、放送のことを聞いてください。
それなら、私は答えられます。
話しかけられなくても大丈夫です。
また手紙でもいいです。
あなたの手紙は、確かに届きました。
私の返事も、届けばいいと思います。
神谷玲奈』
書き終えた。
便箋は三枚になった。
長い。
重い。
書きすぎたかもしれない。
中学時代の言葉が戻ってくる。
玲奈の話は重い。
返事に困る。
何でも真面目に考えすぎる。
この手紙も、そう思われるかもしれない。
一文消す。
やはり戻す。
別の言葉へ変える。
また元へ戻す。
「神谷さん」
前から声がした。
顔を上げる。
朝霧紬が立っていた。
「ここ、座っていい?」
「はい」
「手紙?」
今日は誰が見ても手紙に見えるらしい。
「相談の返事です」
「『青葉の声』?」
玲奈は少し迷い、頷いた。
「内容は言えません」
「うん」
紬はそれ以上聞かなかった。
「朝霧さんは」
「何?」
「人へ話しかけるの、得意ですか」
紬が目を丸くする。
「全然」
「でも、白石先輩とは話せてる」
「最初は、名前を聞くだけですごく緊張した」
「どうして聞けたんですか」
「聞かないと、ずっと知らないままだから」
「怖くなかった?」
「怖かった」
紬は迷わず答えた。
「でも、怖くなくなってから話そうと思ったら、たぶんずっと話せないから」
怖くても鍵盤へ触れた人。
怖くてもバトンを持った人。
怖くても絵を見せた人。
怖くても古い扉を開けた人。
青葉ヶ丘高校には、怖くなくなった人より、怖いまま動いた人が多い。
「今も怖い?」
「白石先輩と話すのは前より平気。でも、ほかの人はまだ緊張する」
「私には話せてる」
「今、神谷さんから話しかけてくれたから」
玲奈は気づく。
誰か一人だけが、ずっと勇気を出す必要はない。
一歩ずつ。
交代で近づいてもいい。
「その手紙、渡せそう?」
紬が尋ねる。
「少し重いかもしれません」
「手紙なら、重くても机が支えてくれるよ」
「そういう意味ではありません」
「分かってる」
紬は笑う。
「でも、読む人は自分の速さで読める。会話みたいに、すぐ返事をしなくてもいい」
玲奈は便箋を見る。
「だから手紙にしたんでしょう?」
「はい」
「なら、そのままでいいんじゃない?」
手紙なら、相手へ時間を渡せる。
重いと思えば、途中で閉じてもいい。
もう一度読みたければ、戻れる。
すぐに返事をしなくてもいい。
「ありがとうございます」
「私、何もしてないよ」
「今日は、それを言う人が二人目です」
「白石先輩?」
「はい」
「何て言われた?」
「言いません」
「気になる」
「秘密です」
玲奈は少し笑った。
◇
昼休み。
玲奈は放送室のマイク前へ立った。
麻衣。
蒼太。
山岡。
三人が見ている。
今日読むのは短い原稿。
玲奈が自分で書いた。
「『青葉の声』へ手紙をくださった方へ」
声は少し震えた。
それでも続ける。
「お返事を書きました。本日放課後、放送室前の相談箱へ入れておきます」
全校生徒が聞いている。
けれど、届けたい相手は一人。
「午後五時まで置いておきます。私たちは午後四時半には放送室を出ます。名前を名乗る必要はありません」
玲奈は原稿から目を上げた。
ブースの窓。
向こう側の蒼太。
代わる準備はしていない。
今日は玲奈が最後まで読むと知っている。
「手紙を読んでくれて、ありがとうございました」
原稿はそこで終わり。
玲奈はマイクを切ろうとした。
けれど、手が止まった。
書かれていない一言。
自分の声で。
「私も、あなたの手紙に助けられました」
麻衣が少し目を見開く。
蒼太がミキサーのメーターを見る。
玲奈の声は、確かに校内へ流れた。
「以上です」
スイッチが切られる。
放送室へ静けさが戻る。
「最後の一文」
麻衣が言う。
「原稿になかったよね」
「はい」
「言えた」
「はい」
玲奈は大きく息を吐いた。
足は震えている。
手も冷たい。
完璧ではない。
でも最後まで読めた。
原稿にないことも話した。
「どうして助けられたんですか」
蒼太が尋ねる。
「私だけが話せないんじゃないって分かったから」
「その人も、神谷さんが止まって安心したって」
「お互い様です」
「じゃあ、故障じゃなかった」
「最初から故障じゃありません」
「分かってます」
「今、本当に?」
「たぶん」
「まだ人間は難しい?」
「かなり」
玲奈は笑った。
◇
放課後。
午後四時二十八分。
相談箱の中へ、返事の封筒を入れる。
表には、
『一年六組の手紙を書いた方へ』
それだけ。
玲奈たちは放送室を出た。
麻衣は生徒会の手伝い。
蒼太は旧放送室の機材整理。
山岡は職員会議。
玲奈は一人で帰ることにした。
階段。
昇降口。
正門。
門柱の上には、今日も校長が座っている。
「こんにちは」
玲奈が言う。
猫は目を細める。
「私、手紙を書いた」
返事はない。
「届くかな」
校長は前足を舐める。
「あなたは、返事しなくてもいいから楽だね」
玲奈は門柱の横へ立つ。
けれど、以前ほど猫が羨ましくはなかった。
返事をしないこともできる。
返事をすることもできる。
どちらを選ぶか迷うのは、面倒だ。
怖い。
疲れる。
でも、返事が届いたときの嬉しさも、きっと人間にしか分からない。
「今日は待たない」
差出人が手紙を取りに来るところを見ない。
本人が名乗るまで探さない。
「帰ります」
玲奈は正門を出た。
数歩進む。
振り返りたくなる。
誰かが放送室へ向かっていないか。
教室の窓。
校舎の入口。
それでも振り返らなかった。
◇
午後四時四十一分。
一年六組。
一人の女子生徒が席を立った。
教室には、まだ数人残っている。
「佐伯さん、帰る?」
高野千夏が声をかけた。
女子生徒は足を止める。
佐伯美月。
肩まで伸びた髪。
前髪が目へかかっている。
休み時間は、本を読んでいることが多い。
「うん」
「今日、委員会?」
「違う」
「そっか。また明日」
「……また明日」
美月は小さく答えた。
教室を出る。
すぐには放送室へ向かわない。
廊下を一周。
階段の前で立ち止まる。
誰かに見られていないか確認する。
放送室前。
誰もいない。
相談箱。
美月はゆっくり蓋を開けた。
中に、一通の封筒。
『一年六組の手紙を書いた方へ』
自分への返事。
手が震える。
すぐには取れなかった。
神谷玲奈が、どこかで見ているかもしれない。
けれど放送で言っていた。
名前を名乗る必要はない。
午後四時半には出る。
美月は封筒を取り出し、鞄へ入れた。
◇
自宅。
美月は自室の机で封筒を開けた。
三枚。
思っていたより長い。
一行目から読む。
途中で止まる。
また最初へ戻る。
神谷玲奈も、教室では話せない。
正しい答えは分からない。
それでも、一言だけ話した。
話しかけられなくてもいい。
また手紙でもいい。
美月は最後まで読んだ。
涙は出なかった。
急に話せるようになる方法も書いていない。
勇気を出せ。
明るくなれ。
そんな言葉もない。
それなのに、胸の奥が少しだけ温かかった。
『教室で一人になったとき、私も同じ教室にいることを覚えていてください』
その一文を、何度も読む。
同じ教室。
同じ時間。
話していなくても。
そこにいる。
美月は新しい便箋を出した。
『返事をありがとうございました』
最初の一行を書く。
そのあとが続かない。
ペンを置く。
明日でもいい。
急がなくていい。
返事ができないなら、しなくてもいい。
そう思えた。
眠る前。
玲奈の手紙をもう一度読んだ。
◇
翌朝。
四月二十八日。
午前八時十二分。
一年六組。
玲奈は自分の席で、英語の教科書を開いていた。
手紙が取られたかどうかは知らない。
朝、放送室へ寄らなかった。
確認すれば、差出人を探してしまいそうだった。
「神谷さん」
高野千夏が声をかける。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日の放送、よかった」
「ありがとう」
「相談の返事、長かった?」
「少し」
「神谷さん、真面目だから長そう」
中学時代に言われた言葉が戻る。
重い。
真面目すぎる。
返事に困る。
胸が少し痛む。
でも、千夏の声に悪意はない。
ただの冗談。
ここで黙れば、また同じになる。
「三枚」
玲奈は答えた。
「長っ」
「やっぱり?」
「でも、相談の返事が一行よりはいいんじゃない?」
「重いって思われるかも」
「相手も二通書いたんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、重い人同士でちょうどいい」
「ひどい」
「褒めてる」
「どういう褒め方」
二人で笑った。
その会話を、少し離れた席で美月が聞いていた。
鞄の中には、今朝書いた短い手紙。
本当は放送室へ置くつもりだった。
けれど、教室の玲奈を見た。
静かに教科書を開いている。
放送のときとは違う。
手紙に書かれていた通り。
教室では、玲奈も普通の、少し静かな生徒だった。
美月は立ち上がった。
玲奈の席まで、数歩。
一歩目。
足が重い。
やめる。
放送室へ置けばいい。
そう思う。
そのとき、玲奈が顔を上げた。
目が合う。
美月の体が固まる。
「佐伯さん」
玲奈が名前を呼んだ。
自分の名前を知っていた。
同じクラスなのだから当然なのに、呼ばれたことがなかった。
「おはよう」
玲奈が言う。
一言。
手紙に書いてあった通り。
「……おはよう」
美月の声は小さい。
届いたか不安になる。
けれど玲奈は笑った。
「昨日の放送、聞いた?」
玲奈から質問した。
美月の胸が強く鳴る。
「聞いた」
「どうだった?」
次の質問。
逃げたくなる。
でも、美月の手には手紙がある。
「神谷さん」
「何?」
美月は封筒を取り出した。
周囲から見えないよう、机の横から差し出す。
「これ」
封筒には、
『神谷玲奈さんへ』
と書かれている。
差出人の名前も。
佐伯美月。
「手紙を書いたの、私」
声が震えた。
教室の音が遠くなる。
千夏が近くにいる。
ほかの生徒もいる。
聞かれたかもしれない。
玲奈は封筒を受け取った。
「名乗って大丈夫?」
小さな声で尋ねる。
「今は」
「今だけ?」
「分からない」
「そっか」
玲奈は封筒を胸元へ持つ。
「ありがとう」
美月は何も言えない。
そのまま席へ戻ろうとする。
「佐伯さん」
「何?」
「今日の昼」
玲奈が少し迷う。
「一緒に食べる?」
望んでいた言葉。
同時に、怖い言葉。
二人きり。
何を話す。
沈黙したら。
玲奈を疲れさせたら。
「無理なら」
「食べる」
美月は答えた。
「でも、あまり話せない」
「私も」
「気まずいかも」
「放送原稿、持っていく」
「どうして」
「話すことがなくなったら、一緒に直す」
役割がある。
やることがある。
それなら少し安心できる。
「分かった」
美月は頷いた。
「中庭?」
「人が多い」
「図書室は食べられない」
「教室でいい」
「みんな残るよ」
「放送室」
「入っていいの?」
「委員以外は先生に聞く」
「駄目だったら?」
「校長のところ」
「猫?」
「話さなくても、間を持たせてくれる」
美月は少し笑った。
玲奈も笑う。
まだ友達ではないのかもしれない。
昼休みに一緒に弁当を食べる約束をしただけ。
けれど昨日まで知らなかった一面を知った。
手紙の相手が、教室の中の人になった。
◇
昼休み。
放送室の使用許可は出なかった。
機材があるため、委員以外の入室は原則禁止。
玲奈と美月は、正門近くの低い塀へ並んで座った。
校長は門柱の上。
二人の間には弁当箱。
「猫、好き?」
玲奈が尋ねる。
「普通」
「私も」
会話が終わる。
二人で弁当を食べる。
沈黙。
玲奈は原稿を鞄から出そうとした。
美月が先に口を開く。
「放送のとき」
「うん」
「止まったでしょう」
「うん」
「ごめん」
「どうして謝るの」
「安心したから」
「手紙に書いてた」
「嫌だった?」
玲奈は少し考える。
「最初は、少し」
「やっぱり」
「でも、私も美月さんの手紙を読んで安心した」
「何で」
「私だけじゃなかったから」
美月は箸を止める。
「お互い様」
玲奈が言う。
「じゃあ、謝らなくていい?」
「いい」
「神谷さんも」
「何が?」
「私の手紙で安心したこと」
「謝ってない」
「そうだった」
二人で少し笑った。
「玲奈でいいよ」
玲奈が言う。
「急に?」
「同じ神谷がいるから」
「白石先輩と同じ理由」
「どうして知ってるの」
「図書室で聞こえた」
「見てた?」
「少し」
「みんな、少し見てる」
美月が笑う。
玲奈も笑う。
「じゃあ、美月でいい?」
「うん」
名前を呼ぶ。
それだけで、少し距離が変わる。
「美月」
「何?」
「今日、話せてる」
「玲奈が質問してくれるから」
「じゃあ、次は美月」
「質問?」
「うん」
美月は考える。
長い沈黙。
玲奈は待つ。
急かさない。
「好きな食べ物」
「最初の質問みたい」
「分からないから」
「オムライス」
「普通」
「美月は?」
「うどん」
「普通」
「普通でいいでしょう」
「そうだね」
また笑う。
門柱の上で、校長があくびをした。
「猫はいいね」
美月が言う。
「返事しなくていいから?」
「うん」
「私も前に思った」
「今は?」
玲奈は少し考える。
「返事できる方がいいかも」
「疲れるのに?」
「疲れるけど」
玲奈は弁当箱を閉じる。
「返事が来ると嬉しいから」
美月は自分の弁当箱を見る。
「昨日、手紙を読んだとき、嬉しかった」
「重くなかった?」
「長かった」
「やっぱり」
「でも、嬉しかった」
美月は言った。
「長いから、考えて書いてくれたって分かった」
玲奈は返事をしなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
中学時代に言われたこと。
重い。
真面目すぎる。
返事に困る。
それは、真希にとって本当だったのだろう。
玲奈の話が合わない人もいる。
それを否定するつもりはない。
けれど、同じ言葉を嬉しいと思う人もいる。
全員を疲れさせないように話すことはできない。
だから、誰にも話さないようにしていた。
でも、それでは合う人にも届かない。
「美月」
「何?」
「これから、話が重かったら言って」
「分かった」
「疲れたら」
「言う」
「私も言う」
「何を?」
「返事に困ったら」
「うん」
「それでも話していい?」
美月は少し考えた。
「たぶん」
「その言葉、信用していい?」
「今は」
二人で笑った。
◇
放課後。
玲奈は放送室で、美月から受け取った手紙を読んだ。
『返事をありがとうございました。
正しい答えがないと書いてあって、安心しました。
正しい方法を教えられても、きっとできないと思ったからです。
今日、教室で話しかけられるかは分かりませんでした。
でも、神谷さんも静かにしていると知ったので、前より一人ではないと思えました。
もう少しだけ、同じ教室にいてみます。
佐伯美月』
短い手紙。
玲奈の三枚に対し、美月は一枚。
それで十分だった。
「差出人、名乗ったんですね」
蒼太が言う。
「はい」
「誰?」
「言いません」
「俺たちにも?」
「本人が言っていいと言うまでは」
「そうですか」
蒼太はそれ以上聞かなかった。
以前なら、原因を知ろうとしたかもしれない。
少し人間の扱いを覚えたらしい。
「返事、届いた?」
麻衣が尋ねる。
「はい」
「話せた?」
「少し」
「よかった」
玲奈は便箋を封筒へ戻す。
「『青葉の声』で、このことを話してもいいと思いますか」
「本人に確認してから」
蒼太が即答した。
「覚えましたね」
「基本です」
「最初は勝手に旧放送室を探そうとしてたのに」
「探すだけです」
「開ける気だったでしょう」
「たぶん」
「認めた」
麻衣が笑う。
「内容そのものは話さなくていいと思う」
麻衣は言った。
「手紙を受け取って、返事を書いた。その結果、話せた人がいる。それだけでも」
「でも、その人の物語を使うことになる」
「なら、自分の話として話せば?」
「私の?」
「神谷さんが教室で話せなかったこと。手紙で誰かとつながったこと」
自分の話。
また怖くなる。
原稿へ書けば読めるかもしれない。
けれど、自分のことを全校へ話す。
「無理なら、しなくていい」
麻衣が言った。
「番組のために、自分を切り売りする必要はない」
「切り売り?」
「相談番組を続けると、答える側も自分の経験を全部話さないといけないと思うことがある。でも、全部話す必要はない」
「話したくないことは、話さなくていい」
「そう。最初に自分たちで言ったでしょう」
玲奈は頷く。
何を話すか。
何を話さないか。
自分で決めていい。
放送は、何でも告白する場所ではない。
沈黙も選べる場所だ。
◇
五月二日。
朝。
一年六組。
美月は、教室へ入ってきた玲奈を見つけた。
少し迷う。
周囲には、すでに何人かいる。
以前なら、玲奈から声をかけられるのを待った。
今日は自分から。
「玲奈」
呼ぶ。
声が小さかった。
届かなかったかもしれない。
玲奈は振り返った。
「おはよう、美月」
「おはよう」
言えた。
「今日の昼」
美月は続ける。
「一緒に食べる?」
玲奈が目を見開く。
「私から言おうと思ってた」
「じゃあ、同じ」
「どこで?」
「校長のところ」
「猫、弁当狙うよ」
「少し離れて食べればいい」
「分かった」
約束。
二回目。
昨日までの続き。
二人は、それぞれの席へ向かった。
まだ隣の席ではない。
休み時間を全部一緒に過ごすわけでもない。
玲奈には放送委員の仲間がいる。
美月も、これから別の誰かと話すかもしれない。
それでいい。
友達とは、誰か一人を独占することではない。
同じ教室に、名前を呼べる相手が一人増えること。
話せない日にも、隣にいると知っていること。
始業のチャイムが鳴る直前。
美月がもう一度振り返った。
「玲奈」
「何?」
「手紙、長かったけど」
「うん」
「嬉しかった」
玲奈は少し笑った。
「返事をくれて、私も嬉しかった」
言葉は、全部を解決しない。
正しい答えにならないこともある。
それでも、返事があるだけで、一人ではなくなる。
読めなかった一行を、玲奈はもう怖がらなかった。
今度は、自分の声で続きを言えるからだ。
チャイムが鳴る。
担任が教室へ入ってくる。
美月は前を向き、玲奈も教科書を開いた。
そのとき。
美月の鞄の隙間から、一枚の原稿用紙が床へ滑り落ちた。
玲奈は気づかなかった。
美月も気づかない。
原稿用紙の上には、小さな字で題名が書かれていた。
『透明な席』
本文は途中まで。
最後の一行は、書きかけのまま止まっている。
『それでも彼女は、次の日も――』
窓から入った風が、原稿用紙をゆっくりと教室の後ろへ運んでいった。




