第11話 透明な席にも、物語は置ける
佐伯美月は、小説を書くことが好きだった。
正確には、誰にも見せない小説を書くことが好きだった。
自分の部屋。
机の引き出し。
放課後の図書室。
誰にも読まれない場所であれば、何を書いてもよかった。
悲しい話。
重い話。
誰かがいなくなる話。
言いたいことを言えないまま、最後まで黙っている人の話。
現実では口にできない言葉も、物語の登場人物になら言わせることができた。
主人公が泣いてもいい。
怒ってもいい。
誰かを恨んでもいい。
助けてほしいと言ってもいい。
物語の中なら、それを読んで困った顔をする人はいない。
少なくとも、誰にも見せなければ。
美月が初めて小説を書いたのは、小学校五年生のときだった。
国語の授業で、
『ある日、不思議な扉を見つけました。続きを自由に書きましょう』
という課題が出た。
クラスメイトの多くは、扉の向こうにお菓子の国や、恐竜の世界や、未来都市を描いた。
美月が書いたのは、誰もいない家だった。
扉を開ける。
そこには、自分の家と同じ部屋がある。
家具も。
食器も。
時計も。
けれど家族だけがいない。
主人公は家中を探す。
誰もいない。
外へ出ても、人がいない。
最後に、自分自身も鏡へ映らなくなっていることに気づく。
そこで終わった。
担任は、美月の作文へ赤い字で書いた。
『少し怖いですが、最後までよく考えて書けています』
褒められた。
美月は嬉しかった。
同時に、怖かった。
少し怖い。
その言葉が、自分へ向けられたように感じた。
それから美月は、人へ見せる文章と、見せない文章を分けるようになった。
学校へ提出するものは、明るく。
分かりやすく。
最後には希望を入れる。
誰にも見せないものは、好きに書く。
救われなくてもいい。
終わらなくてもいい。
途中で止めてもいい。
中学二年生。
美月は、同じクラスの友達へ初めて小説を見せた。
放課後の教室。
ノートへ書いた短い話。
人と話せない少女が、教室の自分の席から少しずつ透明になっていく物語だった。
友達は最初の数ページを読んだ。
「これ、美月の話?」
そう聞いた。
「違う」
美月はすぐに否定した。
「でも、主人公、美月っぽい」
「違うよ」
「暗いね」
友達は笑った。
悪意のある笑いではなかった。
「これ、最後どうなるの?」
「まだ決めてない」
「消えちゃうの?」
「たぶん」
「救いないじゃん」
「そういう話だから」
「重いなあ」
友達はノートを閉じた。
「美月の話って、返事に困る」
何気ない言葉だった。
そのあとも友達は普通に話しかけてきた。
けれど美月は、もう小説を見せなかった。
話すことも少なくなった。
高校へ入学するとき、美月はそのノートを捨てようとした。
ごみ箱の上まで持っていった。
けれど捨てられなかった。
ページを破り、書き直した。
題名をつけた。
『透明な席』
主人公の名前を消した。
自分とは関係のない話にしようとした。
それでも、最後まで書けなかった。
『それでも彼女は、次の日も――』
そこから先へ進めなかった。
学校へ来たのか。
来なかったのか。
誰かに見つけられたのか。
完全に消えたのか。
どの結末を書いても、嘘になる気がした。
だから美月は、原稿を鞄に入れたままにしていた。
誰にも見せない。
誰にも読ませない。
それなのに。
◇
五月二日。
午前八時十六分。
一年六組。
始業のチャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。
生徒たちは席へ着く。
美月も前を向く。
数分前。
玲奈へ自分から「おはよう」と言った。
昼休みも一緒に食べる約束をした。
それだけで胸がまだ落ち着かない。
嬉しい。
恥ずかしい。
疲れた。
けれど、悪い疲れではなかった。
「出席取るぞ」
担任が名簿を開く。
一人ずつ名前を呼ぶ。
「佐伯美月」
「はい」
声を出す。
いつも通り。
けれど今日は、名前を呼ばれる少し前に、玲奈がこちらを見た気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、自分がここにいることを知っている人が一人いる。
そのことが、昨日までとは違った。
ホームルームが終わる。
一時間目の準備。
美月が鞄から教科書を取り出そうとしたとき、違和感に気づいた。
鞄の口が少し開いている。
「……あれ」
中を見る。
筆箱。
弁当箱。
英語の教科書。
昨日、玲奈から受け取った手紙。
そして。
原稿用紙がない。
美月の指が止まる。
『透明な席』
鞄の一番奥へ入れていた。
昨夜、少しだけ続きを書こうと思い、家で出した。
今朝、また鞄へ戻した。
間違いない。
机の下。
椅子の周り。
床。
ない。
「どうしたの?」
隣の席の女子が尋ねる。
「何でもない」
美月はすぐに答えた。
何でもないわけがない。
教室のどこかへ落ちた。
誰かが拾った。
読まれた。
胸の奥が冷たくなる。
「先生」
教室後方から男子の声がした。
「紙、落ちてました」
美月は振り返った。
窓から入った風に運ばれた原稿用紙を、一人の男子生徒が拾い上げている。
同じクラス。
名前は小野寺航平。
サッカー部へ入ったらしい。
美月とは、まだ一度も話したことがない。
「誰の?」
担任が尋ねる。
航平が原稿の上を見る。
「題名しか書いてないです。『透明な席』」
教室の何人かが反応した。
「何それ」
「小説?」
「透明人間?」
美月の心臓が大きく鳴る。
名乗れない。
あれは自分のものだと言えない。
担任が言う。
「裏に名前ないか?」
航平が紙を裏返す。
「ないです」
「落とし物箱へ」
「はい」
航平は教室前方へ歩き始める。
その途中。
原稿の文字が目へ入ったらしい。
ほんの少し、読むように視線が止まった。
「見ないで」
美月は言った。
自分でも驚くほど大きな声だった。
教室が静かになる。
航平が足を止める。
美月は立ち上がっていた。
「それ、私の」
声が震える。
「返して」
「あ、ごめん」
航平はすぐに原稿を差し出した。
美月は教室前方まで歩き、受け取る。
全員の視線を感じる。
題名を聞かれた。
小説だと気づかれた。
中身まで読まれたかもしれない。
「佐伯、小説書いてるの?」
誰かが尋ねた。
美月は答えなかった。
原稿を抱え、自分の席へ戻る。
玲奈と目が合う。
玲奈は何も聞かなかった。
そのことが、今はありがたかった。
◇
一時間目。
数学。
美月は授業をほとんど聞けなかった。
原稿用紙は、教科書の間へ挟んである。
見つけた。
戻ってきた。
誰も内容までは読んでいない。
たぶん。
それなのに、安心できなかった。
題名を知られた。
自分が小説を書いていると知られた。
休み時間になれば、質問されるかもしれない。
見せてと言われるかもしれない。
断れば変だと思われる。
見せれば、重いと思われる。
中学時代と同じ。
また言われる。
美月の話は暗い。
返事に困る。
真面目に考えすぎ。
先生が黒板へ式を書く。
美月はノートを開く。
数字が頭へ入らない。
玲奈が放送で止まった日。
美月は少し安心した。
玲奈も失敗するのだと知ったから。
けれど、今の自分の失敗を誰かが見て安心するとは思えなかった。
ただ恥ずかしい。
消えたい。
『透明な席』
主人公の席が透明になる話。
今なら、自分自身が消えたい。
けれど。
本当に消えたいわけではない。
玲奈と昼食を食べる約束をした。
消えたら、その約束がなくなる。
昨日までの美月なら、そんなことは考えなかった。
自分がいなくても、誰も困らないと思っていた。
今日は違う。
少なくとも玲奈は、一人で校長のところへ行くことになる。
困るかどうかは分からない。
でも、予定は変わる。
美月がいれば続く時間が、一つだけある。
それだけで、透明にはなれなかった。
◇
一時間目が終わる。
美月はすぐに席を立とうとした。
誰かに話しかけられる前に、廊下へ出たい。
「佐伯さん」
間に合わなかった。
声をかけたのは、原稿を拾った小野寺航平だった。
美月の体が固まる。
「さっき、ごめん」
「何が」
「少し読んだ」
やっぱり。
血の気が引く。
「題名の下と、最後の一行だけ」
「どうして読むの」
「誰のか分かるかと思って」
「名前がないなら読まなくていいでしょう」
「ごめん」
航平は素直に頭を下げた。
その謝り方に、怒りを向け続けることができなかった。
「誰にも言わないで」
「言わない」
「絶対に」
「分かった」
「忘れて」
「努力する」
美月は顔を上げた。
「それ、最近流行ってるの?」
「何が?」
「忘れてって言ったときの返事」
「ほかにも言われた?」
「少し」
「じゃあ流行ってるのかも」
航平は少し笑った。
美月は笑えなかった。
「でも」
航平が続ける。
「最後、気になった」
「忘れてって言ったでしょう」
「努力する」
「今すぐやめて」
「ごめん」
航平はまた謝る。
「ただ、途中だったから」
「途中で悪い?」
「悪くないけど」
「最後まで書けない話もある」
「何で書けないの?」
その質問が、一番嫌だった。
「関係ないでしょう」
「そうだな」
航平は一度頷いた。
「ごめん」
三度目。
今度こそ会話が終わった。
航平は自分の席へ戻る。
美月は廊下へ出た。
◇
昼休み。
正門近くの低い塀。
玲奈と美月は並んで弁当箱を開いた。
校長は門柱の上で眠っている。
約束通り。
二回目の昼食。
けれど、美月はほとんど話せなかった。
「卵焼き」
玲奈が言った。
「何?」
「美月の弁当」
「うん」
「昨日も入ってた」
「お母さんが作るから」
「好きなの?」
「普通」
「私も」
会話が止まる。
美月は卵焼きを食べる。
味がよく分からない。
「朝の紙」
玲奈が言った。
美月の箸が止まる。
「聞かないで」
「分かった」
玲奈はそれ以上聞かなかった。
昨日なら、そのことに安心しただろう。
今日は、少しだけ寂しかった。
聞いてほしい。
でも読まれたくない。
話したい。
でも、重いと思われたくない。
矛盾している。
「小説」
美月は自分から言った。
「書いてる」
「うん」
「中学のときから」
「読みたい」
玲奈はすぐに答えた。
「まだ何も説明してない」
「朝、題名聞いたから」
「それだけで?」
「美月が書いたなら」
その言葉が怖い。
美月が書いたなら読みたい。
読んで、後悔するかもしれない。
「暗いよ」
「うん」
「重い」
「うん」
「途中で終わってる」
「うん」
「面白くないかもしれない」
「それは読まないと分からない」
「読んで、返事に困るかも」
「困ったら言う約束」
昨日、二人で決めた。
話が重かったら言う。
疲れたら言う。
返事に困ったら言う。
それでも話していいか。
美月が聞いた。
玲奈は、いいと言った。
「本当に言える?」
美月が尋ねる。
「何を?」
「面白くなかったって」
「頼まれたら」
「頼まない」
「じゃあ、いいところだけ言う」
「なかったら?」
「一つくらいあるでしょう」
「なかったら」
「そのとき考える」
「適当」
「正しい答えを急がない」
玲奈は、最近覚えた言葉のように言った。
「放送委員で決めたから」
「小説の感想にも使うの?」
「たぶん」
美月は少し笑った。
笑ったあと、鞄へ手を入れる。
原稿用紙。
朝から何度も出し入れしようとして、できなかった。
「今、読む?」
玲奈が尋ねる。
「嫌」
「じゃあ、いつ?」
「分からない」
「今日じゃなくてもいい」
「でも」
「持ってきてる?」
美月は答えない。
それが答えになった。
「放課後」
玲奈が言う。
「図書室は?」
「人がいる」
「正門」
「猫がいる」
「猫なら読まない」
「原稿に乗るかも」
「じゃあ、文芸部」
「どうして」
「小説を読む場所でしょう?」
「知らない」
「部活、文芸部が気になるって言ってた」
「言ったけど」
「見学するついでに」
「絶対嫌」
「何で」
「知らない人に見せるなんて無理」
「見せなくていい。部室で私だけ読む」
「勝手に入れない」
「先生に聞く」
「何でも先生に聞けばいいと思ってる?」
「駄目なら別の場所を探す」
玲奈は少し強引だった。
美月が話すのを待ってくれる。
けれど、完全に逃げることまでは許さない。
「読むだけ」
玲奈が言う。
「感想も、すぐには言わない」
「どうして」
「手紙と同じ。自分の速さで読む」
美月は原稿用紙を抱える。
「途中で返してもいい?」
「いい」
「最後まで読まなくても」
「美月が嫌なら」
「途中で面白くないと思ったら?」
「それは私が決める」
美月は黙った。
校長が門柱の上で、ゆっくり目を開ける。
美月の鞄を見る。
「猫も読みたいって」
玲奈が言う。
「絶対違う」
「原稿の匂いが気になるのかも」
「魚じゃない」
「紙、好きな猫もいる」
「破られる」
美月は原稿を鞄の奥へ入れ直した。
「放課後」
小さく言う。
「図書室が空いてたら」
「うん」
「人が多かったらやめる」
「分かった」
「文芸部には行かない」
「今日は」
「今日も今後も」
「分かった」
玲奈の返事は、たぶん分かっていない。
◇
放課後。
図書室は、いつもより混んでいた。
中間試験が近いわけではない。
けれど雨が降り始めたため、運動部の仮入部が中止になったらしい。
行き場を失った生徒たちが、図書室へ集まっている。
「人、多い」
美月は入口で言った。
「やめよう」
「別の場所」
「今日はやめる」
「どこか静かなところ」
「帰る」
美月は踵を返す。
「佐伯さん」
カウンターから白石悠が呼んだ。
美月は止まる。
図書室で顔を見たことはある。
話したことはほとんどない。
「何ですか」
「文芸部なら、今日空いてると思う」
玲奈と美月は同時に白石を見る。
「聞いてたんですか」
玲奈が尋ねる。
「入口で話してたから」
「少し?」
「普通に聞こえた」
青いリボンの朝霧紬が、カウンターの向こうで笑っている。
「文芸部、場所分かる?」
白石が尋ねる。
「知らない」
玲奈が答える。
「旧校舎へつながる渡り廊下の手前。小さい部屋」
「今日は行かない」
美月が言う。
「見学じゃなくて、場所を借りたいだけなら、文芸部の先生に聞けばいい」
「誰ですか」
「国語の藤崎先生」
美月は、その名前を知っていた。
一年六組の現代文担当。
授業中、あまり生徒を指名しない。
けれど作文課題には、一人ずつ長いコメントを書く教師。
「先生、今どこですか」
玲奈が尋ねる。
「職員室じゃない?」
「聞いてくる」
「待って」
美月が玲奈の袖をつかむ。
初めて、自分から触れた。
玲奈が振り返る。
「本当に行くの?」
「嫌?」
「嫌」
「じゃあやめる?」
玲奈はすぐに聞いた。
美月は答えられない。
本当に嫌なら、ここでやめればいい。
玲奈は無理に連れていかない。
それが分かっているから、逃げる理由を自分で決めなければならない。
「……部室を見るだけ」
「うん」
「原稿は見せない」
「私にも?」
「場所を見てから決める」
「分かった」
二人は図書室を出た。
後ろで、紬が白石へ小声で言う。
「文芸部、誰かいるの?」
「たぶん」
「知らないの?」
「場所は知ってる」
「適当」
二人の会話が遠ざかる。
◇
国語科準備室。
藤崎先生は、赤いペンで提出物を読んでいた。
玲奈が事情を説明する。
小説を読むために、静かな場所を借りたい。
美月は隣で俯いている。
「図書室では駄目なの?」
藤崎が尋ねる。
「人が多くて」
「教室は?」
「誰か残ってるかもしれません」
「文芸部へ入りたい?」
美月の肩が跳ねる。
「違います」
「随分強く否定するね」
「今日は、部室を少し借りたいだけです」
「文芸部員は一人いると思うけど」
「一人?」
「二年生の部長」
「ほかには?」
「去年の三年生が卒業して、今は一人」
「部として成立してるんですか」
玲奈が尋ねる。
「新入部員を二人入れないと、今年で同好会扱いになる」
美月は黙る。
藤崎は机の引き出しから鍵を取り出した。
「先生も行く」
「一人で使わせてもらえないんですか」
「部員がいるなら、本人に聞かないと」
「見せません」
美月が言う。
「何を?」
「小説」
「私は見せろとは言ってないよ」
「でも、文芸部なら」
「文芸部だからといって、人の原稿を勝手には読まない」
藤崎は鍵を持って立ち上がる。
「少なくとも、そういう部であってほしい」
◇
文芸部の部室は、体育館と旧校舎を結ぶ渡り廊下の手前にあった。
普段ほとんど使われない小さな部屋。
扉には、色あせた紙。
『文芸部』
藤崎がノックする。
返事はない。
もう一度。
「桐生、いる?」
中から、紙が破れる音がした。
美月は足を止める。
藤崎が扉を開ける。
部屋の中。
古い机。
本棚。
小さなソファ。
窓際に、一人の女子生徒が座っていた。
二年生。
長い髪を高い位置で束ねている。
机の上には、破かれた原稿用紙。
足元のごみ箱には、丸められた紙がいくつも入っている。
「桐生」
藤崎が呼ぶ。
女子生徒は顔を上げた。
「先生」
「まだいたの」
「部活です」
「紙を破る部活?」
「推敲です」
「破ったら直せないでしょう」
「書き直します」
「二人、部室を少し借りたいそうだ」
女子生徒が、美月と玲奈を見る。
「入部希望?」
「違います」
美月はすぐに答えた。
「そう」
女子生徒は興味を失ったように、机へ視線を戻す。
「使えば」
「桐生、挨拶」
「桐生乃々花。二年一組。文芸部部長」
早口。
「よろしく」
玲奈が頭を下げる。
「神谷玲奈です。一年六組」
美月も小さく言う。
「佐伯美月です」
「何を書くの?」
乃々花が尋ねる。
「書きません」
「じゃあ読む?」
「……はい」
「本?」
「自分で書いたもの」
言ってから、美月は後悔した。
乃々花が顔を上げる。
「小説?」
「見せません」
「頼んでない」
即答。
「ここ使うなら、好きにすれば」
乃々花は、新しい原稿用紙を机へ置く。
藤崎が美月へ鍵を渡す。
「帰るときは桐生に任せて」
「先生は?」
「戻る」
「見てなくていいんですか」
玲奈が尋ねる。
「桐生がいるから」
「信用されてるんですね」
「最低限は」
「先生」
乃々花が不満そうに言う。
「冗談」
藤崎は部室を出ていった。
◇
美月と玲奈は、窓際から離れた小さな机へ座った。
乃々花とは部屋の反対側。
聞こうと思えば会話が聞こえる距離。
「ここで読む?」
玲奈が小声で尋ねる。
「桐生先輩がいる」
「見ないって」
「聞こえる」
「声に出して読まないよ」
「感想が」
「小さく言う」
「やっぱり帰る」
美月は鞄を持ち上げる。
「佐伯さん」
乃々花が呼んだ。
「何ですか」
「帰るの?」
「はい」
「読ませるのが怖いから?」
美月の表情が固まる。
「関係ないでしょう」
「関係ない」
乃々花は原稿へ視線を落とす。
「でも、怖いなら見せなくていい」
「言われなくても」
「見せたくないものを無理に見せると、書くのが嫌になるから」
美月は動きを止める。
「先輩も、見せないんですか」
「見せる」
乃々花は足元のごみ箱を見る。
「見せる前に全部嫌になって破る」
「それ、見せてないでしょう」
「結果的には」
玲奈が、ごみ箱の紙を見る。
「何を書いてるんですか」
「恋愛小説」
「意外」
「何が?」
「紙を破ってるから、もっと暗い話かと」
「恋愛小説も暗くできる」
乃々花が少しだけ笑う。
「相手が死ぬとか」
「死ぬんですか」
「今のは冗談」
美月は乃々花を見る。
この人も原稿を見せられない。
けれど文芸部の部長。
「どうして部長なんですか」
「ほかにいないから」
「文芸部なのに、完成させられない?」
「完成はさせる」
「でも破る」
「昨日までに十本完成させた」
「じゃあ、今のは」
「十一本目」
「どうして破ったんですか」
「主人公が嘘をついたから」
美月は意味が分からない。
「小説の人物でしょう」
「私が書かせた台詞が、その子の言葉じゃなかった」
「書いたのは先輩なのに?」
「だから破った」
乃々花は新しい紙へ一行目を書く。
「作者が早く終わらせたいからって、登場人物へ嘘をつかせたら駄目でしょう」
美月は鞄の中の原稿を思い出す。
『それでも彼女は、次の日も――』
続きが書けなかった。
主人公が学校へ来た。
誰かと話した。
救われた。
そう書けば、きれいに終わる。
でも、それは嘘に感じた。
完全に消えた。
誰にも気づかれなかった。
それも違った。
本当の美月は、学校へ来た。
玲奈と話した。
けれど、全部が解決したわけではない。
「書けないとき」
美月は尋ねる。
「どうしますか」
「書けない理由を考える」
「理由が分からなかったら」
「置いておく」
「途中のまま?」
「別の話を書く」
「完成しないでしょう」
「完成させるために、嘘の続きを書くよりいい」
乃々花は美月を見る。
「佐伯さんの話、途中なの?」
「どうして」
「朝から、その顔してるから」
「どんな顔ですか」
「続きを聞かれたくない顔」
美月は黙った。
「読まない」
乃々花は言う。
「見せてって言わない。だから安心して、その子に嘘をつかせないで」
その子。
物語の主人公。
誰にも見つけてもらえず、透明になっていく少女。
美月は、その主人公に何をさせたいのか分からなかった。
けれど、今なら一つだけ書けるかもしれない。
「玲奈」
「何?」
「読む?」
玲奈が目を見開く。
「いいの?」
「今だけ」
「嫌になったら返す」
「うん」
「感想は?」
「最後まで読んでから」
「分かった」
美月は鞄から原稿を取り出した。
何度も折り直した紙。
消した跡。
書き足した行。
玲奈へ渡す。
手が震えた。
◇
玲奈は静かに読んだ。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
美月は、その横顔を見られなかった。
机の木目を見る。
窓の外の雨を見る。
乃々花が原稿を書く音を聞く。
紙をめくる音。
玲奈が途中で止まるたび、美月の胸も止まりそうになる。
つまらない。
暗い。
意味が分からない。
そう思ったのだろうか。
「今どこ?」
美月が尋ねる。
「三枚目」
「遅い」
「考えながら読んでる」
「普通に読んで」
「自分の速さで読むって言った」
それ以上、急かせない。
玲奈は最後の一行まで読んだ。
『それでも彼女は、次の日も――』
そこで紙が終わっている。
玲奈はすぐに顔を上げなかった。
「返して」
美月が手を伸ばす。
「まだ」
「読み終わったでしょう」
「考えてる」
「返事に困ってる?」
「少し」
正直に言った。
美月の胸が痛む。
けれど、以前ほどではなかった。
困ったら言う。
二人で決めた。
「どこが」
「主人公が、どうして透明になったのか」
「誰にも話しかけられなかったから」
「でも、本当に透明になってる?」
「そういう話」
「途中から、周りが気づいてないだけなのか、本当に見えなくなってるのか分からなくなる」
「分かりにくい?」
「分からないのが、少し怖かった」
美月は黙る。
「悪い意味?」
「まだ分からない」
玲奈は原稿を一枚目へ戻す。
「でも、最初の教室の描写、好き」
「どこ」
「主人公の椅子だけ、夕方まで少し温かいところ」
美月は驚いた。
その部分は、誰にも見つけてもらえない主人公が、それでも確かにそこへ座っていた証拠として書いた。
「あと」
玲奈が続ける。
「先生が出席を取るとき、主人公の名前だけ少し間が空くところ」
「名前は呼ばれないけど」
「先生も、何か足りないって思ってる」
「考えてなかった」
「違うの?」
「そう見えたなら、それでもいい」
「最後」
玲奈が未完成の一行を指さす。
「次の日も、何をするの?」
「分からない」
「学校へ来る?」
「分からない」
「消える?」
「分からない」
「誰かに見つかる?」
「それを書いたら、嘘になる気がした」
美月は、乃々花の言葉を借りた。
「主人公が、まだ決めてないから」
乃々花のペンが一瞬止まる。
けれど口は挟まない。
「美月は?」
玲奈が尋ねる。
「何が」
「次の日も、学校へ来た?」
美月は玲奈を見る。
小説の話。
けれど、自分の話でもある。
「来た」
「今日も?」
「来た」
「明日は?」
「休み」
「連休明け」
「……たぶん来る」
「じゃあ、主人公も来るかもしれない」
「私じゃない」
「うん。でも、美月が続きを書くなら、美月が知ってることしか書けないでしょう?」
「想像で書くこともある」
「なら、来ない話も書ける」
「それは」
書ける。
でも、今は書きたくない。
主人公を完全に消したくない。
昨日までなら、消える結末が一番自然だと思った。
今日は違う。
主人公が次の日も来る。
透明なまま。
誰にも見つからないまま。
それでも座る。
その席へ。
そして、誰かが机の上へ一枚の手紙を置く。
返事ではない。
答えでもない。
『ここにいますか』
それだけ。
「書く」
美月が言った。
「今?」
「忘れる前に」
「原稿用紙ある?」
玲奈が尋ねる。
美月は鞄を探す。
残りはない。
乃々花が、机の上から新しい原稿用紙を一枚差し出した。
「使う?」
「いいんですか」
「文芸部だから」
「入部しません」
「紙を貸しただけ」
「返します」
「書いて返して」
美月は原稿用紙を受け取った。
ペンを持つ。
最後の一行。
『それでも彼女は、次の日も――』
その続きを書く。
◇
『それでも彼女は、次の日も学校へ来た。
透明なまま。
誰にも挨拶をされず、誰にもぶつかられず、自分の席へ座った。
先生は出席簿を開いた。
彼女の名前の前で、昨日と同じように少しだけ止まった。
けれど、名前は呼ばなかった。
休み時間。
教室から人がいなくなったあと、彼女は机へ顔を伏せた。
今日も誰にも気づかれなかった。
やっぱり、完全に消えてしまおうと思った。
そのとき。
机の中で紙の音がした。
昨日まではなかった、小さな白い紙。
そこには、一行だけ書かれていた。
『ここにいますか』
彼女は何度も読んだ。
誰が書いたのか分からない。
自分宛てかも分からない。
返事をしていいのかも分からない。
それでも彼女は、紙の裏へ小さく書いた。
『います』
次の日。
同じ机の中に、また紙が入っていた。
『よかった』
たった四文字。
彼女の体は、まだ透明だった。
顔も。
手も。
声も。
誰にも見えない。
けれど机の上には、返事があった。
透明な席には、今日も誰かが座っていた。』
美月はペンを止めた。
書けた。
完全に透明ではなくなったわけではない。
誰かと急に友達になったわけでもない。
主人公の問題は、何も解決していない。
それでも、物語は終わった。
「できた?」
玲奈が尋ねる。
「うん」
「読んでいい?」
美月は少し迷う。
それから新しい一枚を渡した。
玲奈は読む。
最後まで。
「どう?」
美月が先に尋ねた。
「好き」
玲奈は答えた。
「どこが」
「『います』って返事するところ」
「普通」
「普通でいい」
昨日、二人で交わした言葉。
好きな食べ物。
オムライス。
うどん。
普通。
普通でいい。
「これ、完成?」
玲奈が尋ねる。
「たぶん」
「その言葉、信用していい?」
「今は」
二人で笑った。
◇
窓際から、拍手が一度だけ聞こえた。
美月と玲奈が振り返る。
乃々花がペンを置いている。
「聞いてたんですか」
美月が尋ねる。
「最後だけ」
「読んでないでしょう」
「玲奈さんの顔で分かる」
「何が」
「ちゃんと終わった顔」
美月は原稿を胸元へ引く。
「見せません」
「頼んでない」
「なら拍手しないでください」
「完成したみたいだったから」
「完成してません」
「さっき、たぶんって言った」
「聞いてるじゃないですか」
「少し」
最近、この学校では誰もが少し見て、少し聞いている。
「文芸部」
乃々花が言う。
「入らない?」
「入りません」
「即答」
「人に見せるの、嫌だから」
「見せなくてもいい」
「部活なのに?」
「月に一度、部誌へ何か出してくれれば」
「それ、見せるでしょう」
「名前を出さなくてもいい」
「読まれる」
「感想を聞かなくてもいい」
「それで部活になるんですか」
「書く場所が必要な人が、同じ部屋にいる。それだけでも部活」
乃々花は、先ほど破いた原稿を見る。
「私も、人に見せる前に破るし」
「部長なのに」
「部長だから、失敗しても追い出されない」
「ずるい」
「部員が一人だから」
玲奈が尋ねる。
「一人増えたら?」
「失敗しても追い出さない」
「二人なら?」
「部として生き残る」
乃々花が美月を見る。
「名前を出さなくていい。感想を聞かなくてもいい。完成しなくてもいい」
「それでいいんですか」
「書くことをやめなければ」
美月は原稿を見る。
『透明な席』
中学時代から書いていた。
誰にも見せないつもりだった。
今日、玲奈へ読ませた。
続きを書いた。
完成した。
誰かへ見せたから完成したわけではない。
でも、玲奈が読んだことで、自分だけでは見つけられなかった続きを考えられた。
「見学」
美月が言う。
「今日はもう見学してる」
「正式な」
「明日から連休」
「連休明け」
「一回だけ」
「何回来てもいい」
「入るとは言ってません」
「知ってる」
乃々花は笑った。
「書く人は、みんな最初そう言う」
「みんなって、先輩しかいないでしょう」
「去年の先輩たち」
「卒業した人」
「細かい」
玲奈が美月を見る。
「よかったね」
「玲奈も来る?」
「私は放送委員がある」
「一人で?」
「桐生先輩がいる」
「知らない人」
「今、名前を知った」
朝霧紬が名前を聞いたように。
知らない人は、名前を知れば少しだけ知らない人ではなくなる。
「佐伯さん」
乃々花が言う。
「美月でいいです」
言ってから、美月自身が驚いた。
玲奈が少し笑う。
「じゃあ美月」
乃々花は机の引き出しから一冊の薄い冊子を取り出した。
去年の文芸部誌。
表紙には、青葉ヶ丘高校の校舎。
『青い栞 第二十七号』
「貸す」
「読んでいいんですか」
「部誌だから」
「感想は?」
「いらない」
「面白くなかったら?」
「破らないで返して」
「借ります」
美月は冊子を受け取った。
誰かが書いた物語。
名前のある作品。
匿名の作品。
明るい話。
暗い話。
重い話もあるかもしれない。
それを読む。
自分の速さで。
返事に困ったら、すぐに返さなくてもいい。
◇
雨が弱くなる頃、美月と玲奈は文芸部室を出た。
「原稿」
玲奈が言う。
「どうする?」
「持って帰る」
「文芸部誌に出す?」
「出さない」
「即答」
「まだ無理」
「そのうち?」
「たぶん」
「信用していい?」
「努力して」
「私が?」
二人は渡り廊下を歩く。
窓の向こう。
濡れたグラウンド。
部活を再開しようとする生徒たち。
音楽室からは、相沢のピアノ。
前より少し上手になった『愛の挨拶』。
体育館では、バスケットボールの音。
正門の門柱には、雨宿りから戻った校長。
学校は、昨日とほとんど同じ。
けれど美月にとっては、少しだけ違う。
「玲奈」
「何?」
「読んでくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
「返事に困った?」
「少し」
「どこで?」
「主人公が本当に透明なのか分からなかったところ」
「そこは、分からなくていい」
「ならよかった」
「でも」
美月は原稿を抱える。
「玲奈が言った椅子のところ、考えて書いた」
「温かいところ?」
「うん」
「好き」
「二回言わなくていい」
「大事なことだから」
どこかで聞いた言葉。
美月は少し笑った。
◇
連休明け。
五月八日。
午前八時。
一年六組。
美月は、自分の席へ座っていた。
机の中には、完成した『透明な席』。
鞄には、文芸部誌。
入部届は、まだない。
玲奈が教室へ入ってくる。
「おはよう、美月」
「おはよう」
「部誌、読んだ?」
「二つ」
「どうだった?」
「一つは好き。一つは分からなかった」
「桐生先輩に言う?」
「感想はいらないって」
「でも言ってもいいんじゃない?」
「困るかも」
「喜ぶかも」
「連休明けに見学するから、そのとき考える」
「本当に行くんだ」
「一回だけ」
「はいはい」
玲奈は自分の席へ向かう。
美月は机の中へ手を入れた。
原稿の感触を確かめる。
昨日までなら、誰かに見つからないよう、鞄の一番奥へ隠していた。
今日は机の中。
すぐに取り出せる場所。
見せるとは決めていない。
でも、完全には隠していない。
それくらいでいい。
朝のホームルーム。
担任が出席を取る。
「佐伯美月」
「はい」
声を出す。
自分の席は、透明ではない。
名前を呼ばれる。
返事をする。
玲奈がいる。
原稿がある。
放課後には、行ってみようと思う場所もある。
物語は、現実を全部変えない。
小説を書いたからといって、美月が誰とでも話せるようになったわけではない。
中学時代の言葉が消えたわけでもない。
人へ読ませる怖さも残っている。
それでも、自分の中で止まっていた一行には、続きを書けた。
透明な席には、物語を置ける。
誰かが読んでくれるかもしれない。
読まれなくても、そこにある。
自分がいた証拠として。
◇
放課後。
美月は一人で文芸部室の前に立っていた。
玲奈は放送委員。
今日は一緒ではない。
扉をノックする。
「どうぞ」
乃々花の声。
美月は扉を開ける。
「来た」
乃々花が言う。
「見学です」
「分かってる」
「入部届は持ってません」
「聞いてない」
「原稿も見せません」
「はいはい」
美月は昨日と同じ机へ座った。
鞄からノートを取り出す。
新しい話。
まだ題名はない。
「何を書くの?」
乃々花が尋ねる。
「まだ決めてません」
「透明な席の続き?」
「終わりました」
「じゃあ、別の話」
「たぶん」
「その言葉、好きだね」
「最近、みんな使うから」
二人はそれぞれ紙へ向かう。
静かな部室。
ペンの音。
窓の外から聞こえる校内放送。
『本日の下校時刻は――』
玲奈の声。
少しだけ緊張している。
それでも、はっきり届く。
美月はノートの最初の一行を書く。
『その部屋には、書き終わらない物語ばかりが集まっていた。』
次の一行。
その次。
今度は、途中で止まることを怖がらなかった。
止まったら、置いておけばいい。
嘘の続きを書かなくてもいい。
また書ける日に戻ればいい。
◇
同じ時刻。
文芸部室の外。
渡り廊下の角に、一人の男子生徒が立っていた。
小野寺航平。
朝、美月の原稿を拾った男子。
手には、文芸部誌。
図書室で借りたらしい。
部室の中へ入ろうとはしない。
扉の前まで来て、足を止める。
中から聞こえるペンの音。
美月と乃々花の小さな会話。
航平は部誌を開く。
最後のページ。
昨年度の部員紹介。
そこに掲載された一編の短編小説へ、赤い付箋が貼ってある。
題名は、
『ゴールの向こうに、誰もいない』
作者名は、桐生乃々花ではなかった。
卒業した三年生でもない。
匿名。
けれど、航平には誰が書いたのか分かっていた。
原稿用紙の癖。
句読点の位置。
最後の一行。
それは、中学時代に同じサッカー部だった友人が書いた文章だった。
その友人は、卒業式の日から学校へ来ていない。
青葉ヶ丘高校にも進学しなかった。
連絡もつかない。
航平は部誌を閉じる。
ノックしようと手を上げる。
けれど、できない。
「努力する、か」
小さく呟く。
忘れてと言われたこと。
忘れられない文章。
聞けなかった理由。
航平は扉へ背を向けた。
今日は入らない。
けれど部誌は返さなかった。
まだ、最後の一行を読み終えていなかったからだ。




