第12話 返事のないメッセージにも、送った時間は残っている
小野寺航平は、返事の来ないメッセージを消せずにいた。
スマートフォンを開く。
メッセージアプリ。
一覧の下の方。
もう二か月以上、新しい通知のついていない名前。
『宮原颯』
最後に送ったのは、中学校の卒業式の日だった。
『今日、来るよな?』
既読はついていない。
その前。
『卒業アルバム、先生が預かってるって』
未読。
さらにその前。
『高校どこに決めた?』
未読。
『最近、練習来ないけど大丈夫?』
未読。
『大会のこと、まだ気にしてる?』
未読。
『俺、怒ってないから』
未読。
メッセージの横には、送信した日時だけが残っている。
返事はない。
読まれているかどうかも分からない。
携帯電話を変えたのか。
アカウントを消したのか。
通知だけを切っているのか。
航平には確かめる方法がなかった。
電話もかけた。
呼び出し音のあと、留守番電話へ切り替わる。
最初の頃は、声を残した。
『颯。俺。連絡くれ』
『みんな心配してる』
『一回だけでいいから話そう』
けれど、何度かけても返事はなかった。
やがて航平は、留守番電話へ何を言えばいいのか分からなくなった。
話したいことはたくさんある。
謝りたい。
理由を聞きたい。
怒っているなら怒っていると言ってほしい。
もう友達ではないなら、そう言ってほしい。
それなのに機械音のあとに、
『発信音のあとにメッセージをどうぞ』
と言われると、何も言えなくなる。
返事がない相手へ、言葉を重ねることが怖かった。
重いと思われるかもしれない。
しつこいと思われるかもしれない。
もう忘れたい相手から何度も連絡が来るのは、迷惑かもしれない。
だから航平は、連絡することをやめた。
けれど、履歴は消さなかった。
消した瞬間、本当に何も届かなくなる気がした。
◇
宮原颯と小野寺航平が知り合ったのは、中学校一年生の春だった。
二人ともサッカー部。
航平は小学生の頃から地域のクラブチームでサッカーをしていた。
颯は中学校から始めた初心者だった。
最初の練習。
リフティング。
航平は百回以上続けられた。
颯は三回でボールを落とした。
「難しすぎる」
颯は地面を転がるボールを追いながら言った。
「三回できたら、次は四回」
航平が答えた。
「小野寺は何回?」
「百二十くらい」
「急にやる気なくした」
「比べるなよ」
「比べるだろ。同じ一年だぞ」
「じゃあ、一週間で十回目標」
「一週間で百回は?」
「無理」
「即答すんな」
颯は笑った。
上手ではなかった。
足も特別速くない。
体も大きくない。
それでも練習を休まなかった。
朝。
昼休み。
放課後。
グラウンドの端で一人、ボールを蹴っていた。
できなかったリフティングは、一週間後に十二回。
一か月後には五十回。
半年後には百回を超えた。
試合へ出られなくても、声を出した。
道具を片づけた。
後輩が入れば教えた。
航平は、颯のそういうところが好きだった。
中学二年の秋。
颯は初めて公式戦のメンバーへ入った。
試合終了まで残り五分。
航平たちの学校は、一点差で負けていた。
顧問が颯を呼んだ。
「宮原、行けるか」
「はい」
声が裏返った。
ベンチの部員たちが笑う。
颯も笑った。
「緊張してるだけです」
「見れば分かる」
航平は颯の肩を叩いた。
「一本走れ」
「一本?」
「ゴールまで」
「遠いな」
「なら二本」
「増えてる」
颯はピッチへ入った。
ボールへ触れたのは二回。
一度目は、すぐ相手に奪われた。
二度目。
航平からのパスを受け、右側を走った。
相手の守備に追いつかれる。
それでも足を止めず、ぎりぎりでゴール前へボールを送った。
そのボールを、別の選手が押し込んだ。
同点。
試合は引き分けに終わった。
颯に記録上の得点はつかなかった。
アシストとしても正式には残らない。
それでも試合後、誰より喜んでいた。
「俺、役に立った?」
「少し」
「そこは、すごくって言えよ」
「ボール一回取られたから」
「覚えてるのかよ」
「次は取られるな」
「次も出られる?」
「知らない」
「冷たいな」
二人で笑った。
その頃は、これから何度でも一緒に試合へ出られると思っていた。
◇
中学三年生。
最後の大会。
航平はフォワード。
颯は右サイド。
二人とも先発だった。
一回戦。
二回戦。
勝った。
三回戦。
前半を一点差で負けたまま、後半へ入った。
試合終了まで残り三分。
航平は相手ゴール前でパスを受けた。
シュートを打てる。
けれど相手の選手が二人寄ってきた。
右側。
颯が走っている。
航平はパスを出した。
「颯!」
ボールは、少しだけ強かった。
颯が足を伸ばす。
届く。
ゴールは目の前。
相手のキーパーが前へ出る。
シュート。
ボールはゴールの右へ外れた。
歓声が、ため息へ変わる。
颯はその場で立ち尽くした。
「戻れ!」
顧問が叫ぶ。
試合は続いている。
航平は颯の背中を叩いた。
「次!」
だが、次の機会は来なかった。
試合終了。
敗退。
中学校最後の大会が終わった。
整列。
挨拶。
ベンチへ戻る。
誰かが泣いている。
顧問が話す。
航平はほとんど聞いていなかった。
颯がいない。
荷物だけが残っている。
航平は周囲を探した。
体育館裏の水道。
颯は一人で顔を洗っていた。
「何してる」
「水飲んでる」
「顔で?」
「新しい飲み方」
いつもの冗談。
けれど声が震えていた。
「最後、悪かった」
航平は言った。
颯が顔を上げる。
「何で航平が謝る」
「パス強かった」
「届いた」
「打ちにくかっただろ」
「俺が外した」
「でも」
「俺が外した」
颯はもう一度言った。
「ゴール、あったのに」
「シュート外すことくらいある」
「最後だった」
「一人で負けたわけじゃない」
「そういうの、いらない」
颯は蛇口を閉めた。
「何が」
「優しいこと」
「優しくしてるつもりじゃない」
「なら責めろよ」
「何で」
「お前が出したパス、俺が外した」
「だから何だよ」
「お前なら決めてた」
航平は答えられなかった。
自分なら決めた。
そう思わなかったとは言えない。
あの場面。
パスを出さず、自分で打てばよかった。
ほんの一瞬。
試合が終わった直後。
航平の中にも、その考えはあった。
だからこそ、否定する言葉が遅れた。
その一瞬を、颯は見逃さなかった。
「ほら」
「違う」
「今、そう思った」
「思ってない」
「嘘つけ」
「颯」
「もういい」
颯は航平の横を通り過ぎた。
航平は追わなかった。
今は一人にした方がいい。
少し落ち着けば、また話せる。
そう思った。
翌日の練習。
颯は来なかった。
大会で三年生は引退している。
来なくても不自然ではない。
その次の日。
学校を休んだ。
さらに次の日も。
一週間後。
颯は教室へ来た。
航平は休み時間に声をかけた。
「体調悪かった?」
「別に」
「部活のみんな、今度集まるって」
「行かない」
「何で」
「予定ある」
「いつか聞いてないだろ」
「いつでも予定ある」
航平は苛立った。
「いつまで気にしてるんだよ」
言った瞬間、颯の表情が変わった。
「何を」
「最後のシュート」
「気にしてない」
「なら、普通に来いよ」
「どこに」
「みんなのところ」
「俺がいない方が楽だろ」
「そんなこと言ってない」
「言わなくても分かる」
「分からないから話してるんだろ」
「航平には分からない」
「何が」
「ずっと上手かったやつには」
颯は席を立った。
「待てよ」
「授業始まる」
「まだチャイム鳴ってない」
「話したくない」
その日から、颯は航平を避けるようになった。
話しかけても短く返す。
メッセージにも返事をしない。
冬休み明け。
颯はほとんど学校へ来なくなった。
担任は体調不良だと説明した。
詳しいことは教えてくれなかった。
卒業式。
颯の席は空いていた。
◇
五月八日。
放課後。
青葉ヶ丘高校文芸部室の前。
航平は、一冊の部誌を手に立っていた。
『青い栞 第二十七号』
昨年度の文芸部誌。
図書室で見つけた。
最後の方に掲載された短編。
『ゴールの向こうに、誰もいない』
作者名は匿名。
けれど、航平には分かった。
宮原颯の文章だった。
中学時代。
国語の作文を見せ合ったことがある。
句点の前に、よく「たぶん」と入れる。
会話文のあと、必ず一行空ける。
漢字で書ける言葉も、時々ひらがなにする。
何より、物語に出てくる試合。
最後のパス。
右側を走る選手。
外れたシュート。
中学最後の大会と同じだった。
ただし、物語の主人公は、シュートを外した選手ではない。
パスを出した選手。
航平と同じ立場。
主人公は試合後、友人へ言う。
『次がある』
けれど、友人には次がなかった。
主人公は励ましたつもりだった。
友人は、その言葉で一人になった。
物語の最後。
主人公は誰もいないゴールへ向かってパスを出す。
ボールは止まらず、白線の向こうへ転がっていく。
『返してくれる相手がいなければ、パスはただの遠いシュートだった。』
そこから先のページを、航平はまだ読めずにいた。
文芸部室の中から、ペンの音が聞こえる。
美月と、部長の桐生乃々花。
航平はノックしようと手を上げた。
聞きたい。
この作品を誰が投稿したのか。
颯が青葉ヶ丘高校の文芸部へ原稿を送ったのか。
部員だったのか。
なぜ自分の学校ではなく、別の高校の部誌に載っているのか。
だが、扉を叩けなかった。
知ったところで、どうする。
颯は航平からの連絡へ返事をしなかった。
それが答えかもしれない。
もう関わりたくない。
放っておいてほしい。
なのに、作品を見つけたからといって追いかけるのは、航平の都合ではないか。
航平は手を下ろした。
今日は入らない。
部誌を持ったまま、渡り廊下を離れた。
◇
翌日。
昼休み。
航平は図書室のカウンターへ部誌を置いた。
「返却?」
白石悠が尋ねる。
「まだ借ります」
「じゃあ、どうして持ってきたの」
「聞きたいことがあって」
白石が部誌を見る。
「文芸部について?」
「この作品」
航平は赤い付箋を貼ったページを開いた。
『ゴールの向こうに、誰もいない』
「作者、分かりますか」
「匿名」
「それは見れば分かります」
「匿名で載せたなら、図書委員が教えていいことじゃない」
「知ってるんですか」
「知らない」
「本当に?」
「本当に」
航平は落胆する。
白石は少し考えた。
「文芸部の顧問か、部長なら知ってるかもしれない」
「教えてくれますかね」
「本人が匿名を希望してるなら、たぶん教えない」
「ですよね」
「でも、どうして知りたいかは話せる」
航平は部誌を閉じる。
「中学の友達が書いたと思う」
「連絡は?」
「つかない」
「本人だと確信ある?」
「ある」
「何を聞きたいの」
「どこにいるか」
「それだけ?」
白石は、時々余計なところまで聞く。
航平は答えを考える。
「謝りたい」
「何を」
「分からない」
「分からないのに?」
「何かしたから、連絡が来ないんだろ」
「そうとは限らない」
「でも」
「謝れば返事が来ると思ってる?」
航平は黙る。
そう思っていた。
ごめん。
謝れば、少しは話してくれるかもしれない。
けれど何に謝るのか、自分でも分からない。
最後のパス。
試合後に追わなかったこと。
いつまで気にしているんだと言ったこと。
何度も連絡したこと。
連絡をやめたこと。
どれか一つではない。
「謝ることより、聞くことが先かもしれない」
白石が言う。
「何を」
「相手が、何をしてほしいか」
「返事がないのに、聞けないでしょう」
「手紙とか」
「住所は知ってます。でも家へ行くのは」
「怖い?」
「迷惑かもしれない」
「じゃあ、そのことも書けば」
「迷惑なら返事はいらないって?」
「返事を求めない手紙」
「それ、送る意味あります?」
「届いたことだけ伝える放送もあった」
航平は白石を見る。
『青葉の声』。
匿名の手紙へ、まず届いたことだけを伝えた。
答えを急がず。
相手が何を望んでいるのかを待った。
「手紙を書いて、どうするかは本人に決めてもらう」
「読まずに捨てるかもしれない」
「それも本人が決めること」
「きついですね」
「返事をもらうために送るなら、きつい」
「ほかに何のために」
「航平くんの言葉を、相手の前へ置くため」
名前を呼ばれ、航平は少し驚く。
「小野寺がほかにもいるから?」
「いない」
「じゃあ何で」
「話が重そうだったから」
「関係ないでしょう」
「少し距離を縮めた方が話しやすいかと思って」
「図書委員って、変なこと考えますね」
「よく言われる」
白石は部誌を航平へ返す。
「文芸部へ行く?」
「まだ」
「いつか?」
「努力します」
「最近流行ってるらしいね、その返事」
「そうみたいです」
◇
放課後。
航平はサッカー部の練習へ参加した。
グラウンド。
パス練習。
二人一組。
航平の相手は、一年四組の三浦健。
長谷川蒼太と同じクラスの男子。
健がボールを蹴る。
航平が止め、返す。
「強い」
健が言う。
「これくらい取れ」
「足に刺さる」
「ボールは刺さらない」
「気持ちの話」
もう一度。
パス。
返す。
単純な練習。
けれど航平は、颯との練習を思い出す。
颯は最初、強いパスを止められなかった。
「もっと弱く」
「試合では弱く来ない」
「味方のパスだろ」
「味方もいつも優しくない」
「航平の性格の話?」
「ボールの話」
何度も練習した。
颯は止められるようになった。
最後の大会。
航平のパスも届いた。
届いて、シュートを外した。
「小野寺!」
健の声。
ボールが足元を通り過ぎる。
「ぼんやりすんな」
「悪い」
「珍しいな」
「そう?」
「いつも人がミスしたらすぐ文句言うのに」
「そんなに言わない」
「言う」
「お前がミス多いから」
「やっぱり言う」
健がボールを拾いに行く。
航平は後ろ姿を見ていた。
自分は、颯へ何と言ったのか。
『次』
『一人で負けたわけじゃない』
『いつまで気にしてるんだよ』
間違ったことを言ったつもりはない。
けれど、颯が聞きたかった言葉ではなかった。
航平は、颯を早く元へ戻そうとした。
いつものように冗談を言う颯へ。
一緒にサッカーをする友達へ。
自分が困らない状態へ。
「小野寺」
顧問が呼ぶ。
「はい」
「今日、集中できてないぞ」
「すみません」
「何かあるなら休むか」
「大丈夫です」
答えたあと、少し前の男子バスケ部員を思い出す。
怪我を隠し、大丈夫と言っていた榊原湊。
航平は言い直した。
「少し考え事してます。でも、練習はできます」
顧問は一瞬驚いた。
「そうか。できなくなったら言え」
「はい」
練習へ戻る。
今度は、目の前のボールを見る。
◇
練習後。
航平はグラウンドの端へ座り、部誌を開いた。
最後のページまで読む。
『ゴールの向こうに、誰もいない』
物語の主人公は、誰もいないゴールへパスを出す。
転がり続けたボールは、やがて校庭の端で止まる。
主人公は取りに行かない。
誰かが返してくれるのを待つ。
けれど、誰もいない。
日が暮れる。
帰宅時間になる。
主人公はようやく、自分でボールを取りに行く。
最後の場面。
『彼はボールを拾った。
返してくれる相手はいなかった。
それでも、蹴った場所から止まった場所まで、自分の足で歩いた。
遠すぎると思っていた距離は、歩けばたどり着けた。
ただ、もう一度蹴るかどうかは決められなかった。』
そこで物語は終わっていた。
救いがあるのか分からない。
主人公は友人と仲直りしない。
返事も来ない。
それでも、自分でボールを拾った。
航平は何度も最後の行を読む。
『もう一度蹴るかどうかは決められなかった。』
颯は、連絡を待っているのか。
もう一度、航平と話したいのか。
それとも、二度と蹴り返したくないのか。
分からない。
分からないまま、航平は自分の都合で答えを決めていた。
謝れば戻れる。
会えば話せる。
友達だったのだから、分かり合える。
全部、航平の希望だった。
「小野寺」
後ろから声がした。
振り返る。
田所陸。
陸上部の練習を終えたらしく、首へタオルをかけている。
「何読んでる?」
「小説」
「珍しい」
「何で」
「サッカー雑誌しか読まなそう」
「偏見だろ」
「面白い?」
「分からない」
「面白くない?」
「そうじゃない」
陸は航平の隣へ座った。
「友達が書いたかもしれない」
「かもしれない?」
「名前がない」
「聞けば?」
「連絡つかない」
「じゃあ作者に?」
「作者も匿名」
「難しいな」
「簡単に言うなよ」
「何も言ってない」
陸はグラウンドを見る。
「返事来ないの?」
「二か月」
「長い」
「もう送らない方がいいと思う?」
「俺に聞く?」
「知らない人の方が言いやすい」
「同じ学校だけど」
「ほとんど知らない」
「少し傷つくな」
陸は笑う。
「俺なら、一回送る」
「何て」
「返事はいらないって」
「それ、返事がほしい人が書くと嘘だろ」
「じゃあ、返事はほしい。でも今は返さなくてもいい」
「矛盾してる」
「気持ちって大体矛盾してない?」
陸はバトンを持つように右手を前へ出す。
「渡したい。でも受け取るかは相手が決める」
「落とされたら」
「拾うかどうかも相手が決める」
「陸上の例え、分かりにくい」
「最近それ言われる」
「誰に」
「隣の席」
陸は立ち上がった。
「でも、投げつけるなよ」
「何を」
「言葉。渡せる距離まで行って、置け」
「格好つけてる?」
「少し」
「台無し」
陸は笑い、校舎へ戻っていった。
◇
その夜。
航平は、自室の机へ便箋を置いた。
手紙を書くのは、小学校以来かもしれない。
『宮原颯へ』
最初の一行。
そのあとが続かない。
『久しぶり』
違う。
毎週のようにメッセージを送っていた時期がある。
『元気ですか』
よそよそしい。
『この前、お前が書いた小説を見つけた』
本人だと決まったわけではない。
匿名を暴くようで嫌だ。
『最後の試合のことを謝りたい』
何を謝るのか分からない。
航平は紙を丸めた。
新しい便箋。
『俺は、ずっとお前が最後のシュートを外したことを気にしていると思ってた。』
書く。
『だから、気にするなと言った。次があると言った。一人で負けたわけじゃないと言った。』
そこまで書き、手を止める。
『でも、全部お前のためじゃなかった。』
認める。
『俺が早く普通に戻ってほしかった。お前とまたサッカーしたかった。話せない状態が面倒だった。だから、いつまで気にしてるんだと言った。』
言葉が続く。
『あの試合のあと、水道のところで、お前が「航平なら決めてた」と言ったとき、俺は一瞬そう思った。自分なら決めたかもしれないと思った。すぐに違うと言ったけど、嘘だった。』
手が震えた。
これを読まれたら、さらに傷つけるかもしれない。
書かない方がいいのか。
けれど、ここを隠して謝っても意味がない。
『でも、あのパスを出したことは後悔していない。お前が走っていたから出した。決めると思ったから出した。外したあとに、お前を一人にしたことを後悔している。』
水道。
追わなかった。
一人にした方がいいと、自分で決めた。
『次があると言ったけど、あの日の試合に次はなかった。お前がそう思っていたのに、俺は分かろうとしなかった。』
さらに書く。
『連絡を返してほしいと思っている。話したい。できればまた友達になりたい。これは俺の希望だ。』
航平は何度も読み返す。
返事はいらないと書けば、格好はつく。
でも嘘になる。
『返事はほしい。でも、今すぐでなくていい。返したくないなら返さなくていい。』
それも矛盾している。
けれど今の本当。
『この手紙を読まずに捨ててもいい。読んで怒ってもいい。俺にもう連絡するなと言ってもいい。』
『ただ、俺は今も、お前へパスを出したことを失敗だと思っていない。それだけは伝えたかった。』
最後。
『小野寺航平』
便箋は四枚になった。
長い。
重い。
航平は苦笑した。
「これ、送るのか」
封筒へ入れる。
宛名を書く。
住所は、年賀状を送ったことがあるため知っている。
切手はない。
明日買う。
送るかどうかは、そのあと決める。
◇
翌朝。
航平は封筒を鞄へ入れ、学校へ向かった。
正門。
門柱の上には校長。
「おはよう」
猫は目を開けない。
「手紙書いた」
尻尾が少し動く。
「送るか迷ってる」
校長は返事をしない。
「返事が来なかったら、きついよな」
猫があくびをする。
「相談する相手、間違えた」
航平は校内へ入る。
昇降口へ向かう途中、文芸部の桐生乃々花を見かけた。
手には大量の原稿用紙。
一枚が風で落ちる。
航平が拾った。
「どうぞ」
「ありがとう」
乃々花が受け取る。
航平の鞄から、白い封筒が少し見えている。
「手紙?」
「見ないでください」
「見てない」
「じゃあ聞かないでください」
「小説かと思った」
「手紙です」
「書いたんだ」
「まあ」
「送る?」
「迷ってます」
乃々花は少し考える。
「小説なら、書いただけで終わりにもできる」
「手紙は?」
「相手がいるから、送らないと独り言」
「送ったら迷惑かもしれない」
「内容による」
「重いです」
「重さは相手が決める」
「無責任ですね」
「読んでないから」
乃々花は原稿を抱え直す。
「でも、返事を強制してないなら、送ってもいいんじゃない」
「どうして分かるんですか」
「その顔で、返事しろって書く人はいない」
「どんな顔ですか」
「返事が怖い顔」
美月にも似たようなことを言っていたらしい。
「先輩、顔で何でも分かった気になるタイプ?」
「小説を書く人は、そういうふりをする」
「実際は?」
「半分外れる」
「駄目じゃないですか」
「だから本人に決めてもらう」
乃々花は歩き出す。
「送るかどうかも、小野寺くんが決めれば」
「名前」
「名札」
「ああ」
最近、この学校ではよくある。
◇
昼休み。
航平は郵便局ではなく、学校近くのコンビニへ行った。
切手を買う。
封筒へ貼る。
店の前にあるポスト。
投函口。
封筒を持ったまま立つ。
入れれば戻せない。
手紙は颯の家へ届く。
本人が受け取るとは限らない。
家族が見るかもしれない。
颯が嫌がるかもしれない。
航平は腕を下ろす。
今日はやめる。
そう思った。
「小野寺?」
後ろから声。
振り返る。
一年六組の佐伯美月。
隣には神谷玲奈。
二人も昼休みに外へ出たらしい。
「何してるの」
玲奈が尋ねる。
「手紙」
「送る?」
「迷ってる」
美月が封筒を見る。
「返事、ほしい?」
「ほしい」
「来なかったら?」
「きつい」
「送らなかったら?」
「ずっと、来ない」
自分で答えた。
送らなければ、手紙への返事は絶対に来ない。
送っても来ないかもしれない。
けれど、颯が読む可能性は生まれる。
「私は、返事を書いてもらって嬉しかった」
美月が言う。
「でも、その人と小野寺くんの友達は違う」
「分かってる」
「だから、送った方がいいとは言えない」
「じゃあ何で話しかけたの」
「迷ってる人がいたから」
玲奈が言う。
「放送でも、届いたことだけ伝えた」
「知ってる」
「手紙も、まず届くだけかもしれない」
「返事は?」
「そのあと」
「来なかったら」
「届いたかも分からない」
「怖いな」
「うん」
玲奈は簡単に認めた。
「でも、怖くなくなってから送ろうと思ったら、ずっと送れないかもしれない」
朝霧紬から聞いた言葉。
誰かから誰かへ渡っていく。
航平はポストを見る。
封筒を見る。
「二人、見ないで」
「どうして」
「入れるところ」
「恥ずかしい?」
「何となく」
美月と玲奈は背中を向けた。
「これでいい?」
「うん」
航平は封筒を投函口へ入れた。
指を離す。
小さな音。
中へ落ちた。
取り戻せない。
「入れた」
玲奈が振り返る。
「聞こえた」
「見ないでって言っただけで、聞くなとは言ってない」
美月が言う。
「どう?」
「何が」
「送った気持ち」
「怖い」
「それだけ?」
「少し楽」
「矛盾してる」
「気持ちは大体矛盾するらしい」
「誰が言ったの」
「陸上部」
二人は学校へ戻る。
航平も後ろを歩く。
返事はまだない。
届いてすらいない。
それでも、鞄の中から封筒がなくなった。
言葉は自分の手を離れた。
◇
一週間。
返事はなかった。
メッセージアプリにも通知はない。
電話もない。
航平は毎日、自宅の郵便受けを確認した。
朝。
帰宅後。
夕食前。
何もない。
二週間。
返事はない。
やはり送らない方がよかったかもしれない。
捨てられた。
読まれたうえで無視された。
家族が本人へ渡さなかった。
悪い可能性ばかり考える。
それでも、追い打ちのメッセージは送らなかった。
返事を待つ。
自分の不安を軽くするために、相手へ言葉を重ねない。
それが今できる唯一のことだった。
◇
五月二十二日。
放課後。
サッカー部の練習が終わり、航平はグラウンドの片づけをしていた。
「小野寺」
顧問が呼ぶ。
「職員室に、お前宛ての物が届いてる」
「俺に?」
「学校へ郵便。差出人は知らない」
心臓が強く鳴る。
航平は職員室へ走った。
「廊下走るな!」
教師の声。
速度を落とす。
職員室の机。
白い封筒。
宛名。
『青葉ヶ丘高校 一年四組 小野寺航平様』
差出人。
『宮原颯』
手が震えた。
自宅ではなく、学校宛て。
航平の手紙に学校名を書いたからだろう。
封筒は薄い。
一枚だけかもしれない。
職員室では開けられない。
航平は正門へ向かった。
門柱の下。
校長が座っている。
「返事、来た」
猫は航平の顔を見る。
「開けるぞ」
誰へ確認しているのか分からない。
封を切る。
中には、便箋が一枚。
短い文章。
『小野寺航平へ。
手紙を読みました。
返事をするか迷いました。
俺は、最後のシュートを外したことだけで学校へ行けなくなったわけではありません。
試合より前から、教室でも部活でも、自分が誰かの邪魔をしている気がしていました。
最後のシュートで、それが正しいと証明された気がしました。
航平が悪いわけではありません。
でも、あのとき航平と話すと、自分が一番嫌いな自分に戻る気がして、返事ができませんでした。
今も、会うのは少し怖いです。
ただ、パスを出したことを失敗だと思っていないと書いてくれたのは、嬉しかったです。
俺も、受けようと走ったことは後悔していません。
文芸部誌を見つけたんだと思います。
あの小説は俺が書きました。
去年、青葉ヶ丘の文化祭で作品募集をしていたので送りました。
名前を出さないなら載せてもいいと言われました。
今は、別の学校の通信制課程に通っています。
毎日は行けていません。
サッカーもしていません。
また友達になれるかは、今は分かりません。
でも、もう連絡するなとは思っていません。
すぐには返せないかもしれないけど、メッセージを送ってもいいです。
返事が遅くても、怒らないでください。
宮原颯』
航平は最後まで読んだ。
もう一度。
三度。
返事は来た。
仲直りではない。
会う約束もない。
また友達になれるとは書かれていない。
それでも。
『メッセージを送ってもいいです』
航平はスマートフォンを取り出した。
アプリを開く。
『宮原颯』
未読のメッセージが並んでいる。
新しい文章を打つ。
『手紙ありがとう。返事、遅くても怒らない』
送信しようとして止まる。
何か足りない。
もう一行。
『俺も、パス出した相手がお前でよかった』
重いかもしれない。
けれど、本当だ。
送信。
メッセージが画面に表示される。
すぐに既読はつかない。
返事もない。
それでいい。
今度は待てる。
少なくとも、どこへ届くか分かっている。
◇
翌朝。
航平が目を覚ますと、スマートフォンに通知が一つあった。
宮原颯。
返事。
『今読むと恥ずかしいから、小説の感想は言わなくていい』
航平は笑った。
すぐに打つ。
『最後、よかった』
既読。
数分後。
『言わなくていいって書いた』
『努力して忘れる』
『絶対忘れないだろ』
『うん』
短いやり取り。
以前と同じではない。
颯の返信は遅い。
会話もすぐに止まる。
それでも返事がある。
航平はメッセージ履歴を消さなかった。
未読のまま残った過去の言葉も、そのまま。
返事がなかった時間まで、なかったことにはしたくなかった。
◇
放課後。
航平は文芸部室の扉をノックした。
「どうぞ」
乃々花の声。
扉を開ける。
部室には乃々花と美月。
二人とも原稿を書いている。
「小野寺くん」
美月が顔を上げる。
「どうしたの」
「部誌、返しに」
航平は『青い栞』を机へ置いた。
「図書室へ返せば」
「その前に聞きたいことがあって」
乃々花が手を止める。
「匿名の作者は教えない」
「もう分かりました」
「本人に聞いた?」
「手紙が来た」
「そう」
乃々花はそれ以上、内容を尋ねなかった。
「この作品」
航平は『ゴールの向こうに、誰もいない』のページを開く。
「誰が選んだんですか」
「去年の部長」
「先輩は?」
「読んだ」
「どう思いました」
乃々花は少し考える。
「終わってないと思った」
「でも短編として終わってる」
「話は終わってる。でも主人公は、もう一度蹴るか決めてない」
「作者も決めてなかった」
「今は?」
「少し蹴った」
「返ってきた?」
「少し」
乃々花は頷く。
「なら、続きは小説じゃなくていいね」
「どういう意味ですか」
「本人が生きて続きをやるなら、書かなくてもいい」
美月が航平を見る。
「返事、来たんだ」
「うん」
「よかった」
「完全に元通りではないけど」
「元通りじゃなくても、続きにはなる」
美月は自分の原稿へ視線を落とす。
『透明な席』も、主人公が突然元へ戻る話ではなかった。
透明なまま。
それでも返事が来る。
「これ」
航平は部誌を閉じる。
「また借りてもいいですか」
「図書室で手続きして」
「先輩、文芸部員でしょう」
「図書委員じゃない」
「融通利かない」
「本をなくす人は、大体そう言う」
「なくしません」
「返却期限は守って」
航平は部誌を持ち上げる。
「文芸部って、サッカーの話でもいいんですか」
「小説なら」
「書くとは言ってません」
「聞いただけ?」
「聞いただけです」
「見学する?」
「しません」
美月が少し笑う。
「みんな最初そう言うらしいよ」
「誰が」
「桐生先輩」
「今いるの二人だけだろ」
「細かい」
乃々花が言った。
航平は部室を出る。
扉を閉める直前、乃々花が呼んだ。
「小野寺くん」
「何ですか」
「匿名で出したいなら、それでもいいから」
「書きません」
「はいはい」
扉を閉める。
航平は渡り廊下を歩いた。
書くつもりはない。
少なくとも、今は。
けれど頭の中には、一つの場面があった。
誰もいないゴール。
転がるボール。
遠くにいる相手。
今度は強すぎないパス。
受け取るかどうかは相手が決める。
◇
五月二十四日。
昼休み。
航平のスマートフォンへ、颯から一枚の写真が届いた。
公園のベンチ。
足元に、古いサッカーボール。
『家の近くで少し蹴った』
航平は写真を見る。
返信。
『リフティング何回?』
数分後。
『十二回』
中学一年生。
最初の一週間で達成した回数。
航平は笑う。
『次は十三回』
『百回じゃないのか』
『無理だろ』
『即答すんな』
あの頃と同じ言葉。
けれど、同じ時間ではない。
戻ったのではなく、続きが始まった。
航平はスマートフォンを机へ置く。
窓の外。
グラウンドでは、田所陸がバトン練習をしている。
体育館からは、バスケットボールの音。
音楽室から、少しずつ上達するピアノ。
正門では、校長が誰かの話を聞いている。
返事がない時間にも、送った言葉は消えていなかった。
届かなかったのではない。
返せる場所へ相手がたどり着くまで、そこに残っていた。
◇
その日の放課後。
文芸部室。
美月が机へ向かっていると、扉の下から一枚の紙が滑り込んできた。
「何?」
乃々花が拾う。
原稿用紙ではない。
小さなメモ。
『文芸部の皆さんへ。
校内で拾った文章を、部誌へ載せることはできますか。
作者の名前は分かりません。
でも、捨てたくありません。』
差出人の名前もない。
紙の裏には、短い詩が書かれていた。
『朝、靴箱に花があった。
私のためではないと分かっていた。
それでも一日だけ、
自分が祝われたことにした。』
美月は詩を読む。
「誰が書いたんだろう」
「拾った文章って書いてる」
乃々花は部室の扉を開ける。
廊下には誰もいない。
渡り廊下の先。
一人の女子生徒が、足早に角を曲がった。
制服の胸元には、二年生の名札。
手には、花のなくなった小さな植木鉢。
乃々花は追わなかった。
メモをもう一度見る。
「載せられますか」
美月が尋ねる。
「作者の許可がない」
「拾った人が書いたのかもしれない」
「それも分からない」
「じゃあ」
「まず、返事を置く」
乃々花は新しい紙を取り出した。
『文章を預かりました。すぐには載せられません。書いた人、または拾った人へ。話せる範囲で、もう少し教えてください。』
文芸部室の扉へ貼る。
美月は、短い詩を見つめた。
誰のためでもなかった花を、自分のためだと思う一日。
それが嘘なのか。
救いなのか。
まだ分からない。
けれど、名前のない文章は、捨てられずにここへ届いた。
次に扉を開けるのが誰なのか。
今は、まだ誰も知らなかった。




