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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第8話 選ばれなかった一枚にも、描いた理由がある

一ノ瀬葵は、絵を描くとき、最初に人を描かなかった。


 風景。


 建物。


 机。


 椅子。


 道端に落ちている空き缶。


 誰も座っていない公園のベンチ。


 人がいなくても、そこに誰かがいたことを感じられるもの。


 そういうものを描くのが好きだった。


「どうして人の顔を描かないの?」


 小学生の頃、図工の先生に聞かれたことがある。


 家族の絵を描くという授業だった。


 クラスメイトたちは、父親や母親、自分やきょうだいを画用紙いっぱいに描いていた。


 笑顔。


 手をつないでいる姿。


 食卓を囲んでいる様子。


 葵が描いたのは、四人分の靴だった。


 玄関に並べられた、父親の革靴。


 母親のパンプス。


 兄のスニーカー。


 葵の赤い長靴。


 先生はしばらく絵を見たあと、困ったように尋ねた。


「家族は?」


「描いてあります」


「靴だけじゃなくて」


「これが家族です」


 父親の革靴には、右のつま先に小さな傷がある。


 母親のパンプスは、いつもきれいに揃えられている。


 兄のスニーカーは、なぜか片方だけ斜めを向いている。


 葵の長靴は、兄の靴へ寄りかかるように置かれていた。


 葵にとっては、それで誰がどこにいるか分かった。


 けれど先生には伝わらなかった。


「人を描かないと、見る人には分からないよ」


 そう言われた。


 葵は、その言葉をずっと覚えていた。


 見る人に分からない絵には、意味がない。


 説明しなければ伝わらない絵は、失敗だ。


 だから、中学生になる頃には人も描くようになった。


 目。


 鼻。


 口。


 笑顔。


 誰が見ても楽しそうに見える表情。


 文化祭のポスターなら、笑顔で手を振る生徒。


 体育祭なら、ゴールテープを切る選手。


 合唱コンクールなら、大きく口を開けて歌うクラスメイト。


 先生から褒められる絵を描けるようになった。


 美術の成績はよかった。


 学校行事のポスターにも、何度か選ばれた。


 それでも葵が本当に好きだったのは、人のいない場所を描くことだった。


 誰かが来る前の教室。


 誰かが帰ったあとの体育館。


 雨の日の昇降口。


 そこにいるはずの人を、見る側が想像できる絵。


 高校へ入学して、最初に描いた文化祭ポスターも、そういう絵だった。


     ◇


 四月十七日。


 放課後。


 青葉ヶ丘高校美術室。


 一ノ瀬葵は、自分が描いたポスター案を机の上へ広げていた。


 青葉ヶ丘高校の校舎。


 満開の桜。


 正門。


 門柱の上に座る、茶色と白の猫。


 画面の中に、生徒は一人もいない。


 その代わり、校舎の窓はいくつも開いていた。


 音楽室の窓からは、風に揺れる白いカーテン。


 体育館の扉の前には、置き忘れられたバスケットボール。


 グラウンドには、一本のバトン。


 図書室の窓際には、開いた本。


 正門のそばには、赤い首輪。


 よく見なければ気づかないほど小さく描いた。


 誰かがいたこと。


 誰かがこれから来ること。


 それを感じられるように。


 ポスターの下には、大きな文字。


『この学校には、まだ知らない誰かがいる』


 葵は、この案が一番気に入っていた。


 けれど、生徒会の担当者からは言われた。


「文化祭らしくない」


 笑顔の生徒がいない。


 模擬店もない。


 ステージもない。


 楽しそうに見えない。


 何のポスターか分かりにくい。


 指摘は、すべて正しかった。


 正しいからこそ、悔しかった。


「私、これが一番いいと思ってるんです」


 葵は言った。


 目の前には、美術部の二年生、川島柚葉。


 その近くの椅子には、男子バスケットボール部の榊原湊が座っている。


 右足首には黒いサポーター。


 膝の上にはバスケットボール。


 先ほどまで柚葉の絵のモデルをしていたらしい。


 葵は美術部員ではなかった。


 入学したばかりで、まだ部活も決めていない。


 中学の頃にポスターを描いていたと担任へ話したところ、生徒会から文化祭のポスター案を早めに出してほしいと頼まれた。


 文化祭は秋。


 まだ何か月も先だ。


 けれど学校説明会や地域向け広報へ使うため、早い段階で基本デザインを決めたいらしい。


 葵は三枚描いた。


 一枚目。


 笑顔の生徒が模擬店で食べ物を渡している絵。


 二枚目。


 体育館のステージで演奏する生徒たち。


 三枚目。


 人のいない校舎と、一匹の猫。


 生徒会が選んだのは一枚目だった。


 葵自身が最も気に入っていない、分かりやすい絵。


「これ、生徒会に見せたの?」


 柚葉が尋ねる。


「はい」


「誰に?」


「二年生の篠原先輩です」


 榊原が反応する。


「篠原って、生徒会の書記の?」


「知ってるんですか」


「同じ学年。クラスは違うけど」


 葵は篠原澪の顔を思い出す。


 長い黒髪。


 落ち着いた話し方。


 葵の三枚の絵を、一枚ずつ丁寧に見てくれた。


 雑に却下されたわけではない。


 むしろ、だからこそ反論できなかった。


「篠原先輩は、この絵も好きだと言ってくれました」


「でも選ばれなかった?」


「はい」


「理由は?」


「初めて見る人に文化祭の楽しさが伝わりにくいって」


「正しいな」


 榊原が言った。


 葵は彼を見る。


「そうですよね」


「あ、いや」


 榊原が困ったように手を上げる。


「悪い意味じゃなくて。ポスターなら、何の案内か分からないと困るだろ」


「分かっています」


「でも、それでも気に入ってるんだよな」


「はい」


「じゃあ、ポスターじゃない形なら使えるんじゃない?」


 葵は瞬きをした。


「ポスターじゃない形?」


「俺に聞かれても分からないけど」


「無責任」


 柚葉が言う。


「案は出した」


「具体的じゃない」


「美術部が考えろよ」


「葵ちゃんは美術部じゃないよ」


「じゃあ川島が考えればいい」


「榊原くん、モデルの仕事終わってないから黙って」


「まだ終わってないの?」


 榊原は膝の上のボールを抱え直した。


「もう二十分くらい座ってる」


「右足休められてよかったでしょう」


「病院より動かない」


 二人のやり取りを聞きながら、葵はポスターへ視線を落とした。


 ポスターではない形。


 考えたこともなかった。


 この絵は文化祭ポスターとして描いた。


 選ばれなければ、失敗。


 使われなければ、描いた意味はない。


 ずっとそう思っていた。


「一ノ瀬さん」


 柚葉が呼ぶ。


「葵でいいです」


「じゃあ、葵ちゃん。どうしてこの絵を描いたの?」


「文化祭のポスターを頼まれたからです」


「そうじゃなくて」


 柚葉は絵の中の校舎を指さした。


「どうして人がいないの?」


 葵は答えを迷った。


 生徒会でも同じことを聞かれた。


 そのときは、


「その方が校舎を大きく描けるから」


 と答えた。


 本当の理由ではない。


「人を描くのが苦手?」


 柚葉が尋ねる。


「描けます」


「じゃあ、描きたくなかった?」


 葵は黙った。


 榊原も絵を見る。


「この猫、校長だろ」


「はい」


「バスケットボールもある」


 絵の中の小さなボール。


 体育館前。


「バトンも」


 榊原が見つけた。


「陸上部?」


「はい」


「赤い首輪は?」


「昨日、正門で猫に餌をあげていた一年生が持っていたものです」


「宮下か」


「知ってるんですか?」


「足の怪我を主将に密告した子」


「密告って言い方やめた方がいいよ」


 柚葉が言う。


「本人にはお礼言った」


「怒ってたの?」


「少し」


「子ども」


「川島に言われたくない」


 葵は二人を見た。


 榊原は絵に描いたボールの持ち主ではない。


 けれど、怪我をしたバスケットボール部員。


 赤い首輪の意味も知っている。


 バトンを置いたのは、朝に陸上部の一年生が校長へ話しかけている姿を見たから。


 音楽室の窓を描いたのは、毎朝ピアノの音が聞こえるから。


 図書室の本は、青いリボンの一年生が抱えて歩いているのを見たから。


 一つ一つは、葵が遠くから見ただけの景色だった。


 けれど、それぞれに物語がある。


「この学校へ入ってから」


 葵はゆっくり話した。


「毎日、正門であの猫を見ます」


「校長?」


「はい。みんなが話しかけてるんです。男子も女子も、先輩も先生も」


「人気者だからな」


「でも、猫は何も答えないでしょう?」


「まあ」


「それなのに、話しかけている人は、みんな少し違う顔をしてるんです」


 榊原が黙る。


 柚葉は葵の言葉を待っている。


「笑っている人もいるし、困っている人もいる。泣きそうな人もいる。猫に話しているだけなのに」


 葵はポスターの門柱を指さす。


「私は、その人たちの名前を知りません。何があったのかも知りません。でも、何かあるんだろうなと思います」


「だから、人を描かなかった?」


「人を描くと、その人の話になります」


「うん」


「でも、学校には、私がまだ知らない人がたくさんいるから」


 葵は自分で書いた言葉を見る。


『この学校には、まだ知らない誰かがいる』


「文化祭って、知らない人のことを少し知る日だと思ったんです」


 同じクラスでも話したことのない相手。


 別の学年。


 違う部活。


 普段は入らない教室。


 作品。


 演奏。


 模擬店。


 文化祭へ行けば、それまで知らなかった誰かが何を好きで、何を作り、何を練習してきたのか知ることができる。


「だから、この絵にしたかった」


 葵は言った。


「でも、説明しないと分からないなら、ポスターとしては失敗ですよね」


 小学生の頃に言われた言葉。


 人を描かないと、見る人には分からない。


 高校生になっても、同じだった。


 柚葉はしばらく絵を見た。


「説明しないと、全部は分からないと思う」


「やっぱり」


「でも、全部分かる絵がいい絵とは限らないよ」


 葵は顔を上げた。


「ポスターなら、何の行事か分かる必要はある。でも、見た瞬間に全部分かったら、そこで終わる」


「終わる?」


「分からないところがあるから、もう少し見る。これは何だろうって探す」


 柚葉は絵の中の小さなバトンを指さす。


「榊原くんは、これを見つけた」


「目立ってたから」


「小さいよ」


「陸上やってる知り合いがいるから」


「それが、この絵の見方なんじゃない?」


 柚葉が葵を見る。


「知っている人によって、見つけるものが違う」


 榊原が、膝の上のボールを見る。


「俺はボールに気づいた」


「私は音楽室の窓が気になった」


 柚葉が言う。


「葵ちゃんは全部知ってる。でも、見る人は自分が知っているものから探せる」


「でも文化祭らしくないです」


「なら、文化祭らしい情報を別に足せばいい」


「人を描く?」


「人じゃなくてもいい」


 柚葉は机の端からトレーシングペーパーを取り、ポスターの上へ重ねた。


 鉛筆で、校舎の窓の一部へ小さな旗を描く。


 正門には、文化祭の日付を書いた看板。


 体育館へ続く道には、手作りの案内板。


「絵そのものを変えずに、文化祭の日だと分かるものを入れる」


「でも、人はいない」


「誰かが今から来るように見える」


 葵は絵を見る。


 誰もいない校舎。


 けれど、文化祭の準備が整っている。


 門が開いている。


 旗が揺れている。


 今から、人が入ってくる。


「キャッチコピーも少し変えていいかも」


 榊原が言った。


「例えば?」


「『まだ知らない誰かに、会いに行く』」


 葵と柚葉が同時に榊原を見る。


「何」


「榊原くん、意外と考えるね」


「失礼だな」


「長いタイトル考えるの好きそう」


「この前の絵の題名、川島が短すぎたんだろ」


「『ベンチ』で十分」


「地味」


「でも絵は地味じゃない」


「完成してないだろ」


 二人はまた言い合いを始める。


 葵は、榊原が言った言葉を紙の余白へ書いた。


『まだ知らない誰かに、会いに行く。』


 少し直接的。


 けれど、今の絵に合っている。


「もう一度、生徒会へ持っていってもいいと思いますか」


 葵が尋ねる。


「いいと思う」


 柚葉が答える。


「でも、一度選ばれなかったんですよ」


「描き直したら別の案」


 榊原が言う。


「同じ絵です」


「試合だって、同じ相手と何回もやるだろ」


「絵とバスケは違います」


「最近それよく言われる」


「誰に?」


「一年生に」


 榊原は椅子から立ち上がろうとする。


 右足へ体重がかかり、顔が少し歪んだ。


「大丈夫?」


 葵が尋ねる。


「まだ痛い」


 すぐに答えた。


「大丈夫って言わないんですね」


「禁止されてる」


「誰に?」


「いろんな人に」


 榊原は座り直した。


「それに、痛いって言った方が、周りもどうすればいいか分かるから」


 葵はその言葉を聞き、自分のポスターを見た。


 説明しなければ分からない。


 それを失敗だと思っていた。


 けれど、分からないなら説明すればいい。


 見せ方を変えればいい。


 絵だけで全てを伝えられないからといって、描いたことが無駄になるわけではない。


「川島先輩」


「何?」


「少しだけ、ここで直してもいいですか」


「もちろん」


「道具、借りても?」


「好きなの使って」


 葵は鞄を椅子へ置いた。


 机の上へポスターを広げ直す。


 柚葉が画材を持ってくる。


 榊原はモデルの椅子へ戻される。


「まだ描くの?」


「葵ちゃんが作業してる間、動かないで」


「俺、もう必要ないだろ」


「怪我人は座ってなさい」


「美術部って怖いな」


 葵は鉛筆を持った。


 最初に、正門の横へ文化祭の日付を書いた看板を描く。


 まだ正式な開催日は決まっていないため、日付部分は空白。


 その下へ小さく、


『ようこそ、青葉ヶ丘へ』


 と書く。


 校舎の窓には、色とりどりの旗。


 体育館の前には、ステージ案内。


 図書室の窓には、展示を示す小さな札。


 それでも人は描かなかった。


 来る人のために、場所だけを用意した。


     ◇


 作業が終わった頃には、窓の外が夕方の色に変わっていた。


「できました」


 葵はポスターを机へ置く。


 元の絵と、大きくは変わっていない。


 人のいない校舎。


 桜。


 正門の猫。


 けれど、今は文化祭が始まる直前の景色に見える。


 扉の向こうから、誰かがやってくる。


 そう感じられた。


「いいじゃん」


 榊原が言った。


「さっきより文化祭っぽい」


「分かりやすくなった?」


「なった。でも、元の感じも残ってる」


 柚葉はしばらく黙って見ていた。


「キャッチコピー、これでいく?」


『まだ知らない誰かに、会いに行く。』


「はい」


「一番下に、文化祭名を大きく入れよう」


 柚葉が余白へ指を置く。


「青葉ヶ丘高等学校文化祭」


「正式名称、まだ決まっていないかもしれません」


「生徒会に確認しよう」


 そのとき、美術室の扉が開いた。


「川島さん、まだいる?」


 入ってきたのは、篠原澪だった。


 生徒会の腕章。


 手には書類の束。


 葵の体が固くなる。


「篠原先輩」


「あ、一ノ瀬さん」


 澪は机のポスターに気づいた。


「描き直してたの?」


「はい」


「見てもいい?」


 葵は一瞬迷った。


 一度選ばれなかった案。


 また見せても、結果は同じかもしれない。


 けれど、描き直した。


 説明する言葉もある。


「お願いします」


 澪はポスターの前へ立った。


 最初から最後まで、ゆっくり見る。


 新しく加えた旗。


 看板。


 キャッチコピー。


 門柱の猫。


「前より、文化祭の日だと分かりやすくなったね」


「はい」


「でも、人は入れなかったんだ」


「入れたくなかったので」


 以前は、そこまで言えなかった。


 澪が葵を見る。


「理由、聞いてもいい?」


 葵は深呼吸した。


「文化祭へ来る人を、描きたくなかったんです」


「来る人?」


「この絵を見る人が、自分で入れるようにしたくて」


 葵は正門を指さす。


「ここから入って、どこへ行くかを考えてほしい。音楽室か、体育館か、図書室か。まだ知らない誰かに会えるかもしれないって」


 澪は絵を見る。


「だから、人を描かなかった?」


「はい」


「前は、そこまで説明してくれなかったね」


「説明しないと伝わらない絵は、駄目だと思っていました」


「今は?」


「伝わらないなら、話せばいいと思いました」


 澪は少し笑った。


「一ノ瀬さんの絵を見た人全員へ、説明して回るの?」


「それは無理です」


「だよね」


「でも、キャッチコピーと、看板を足しました」


「絵が説明してくれる部分を増やしたんだ」


「はい」


 澪は書類の束を机へ置いた。


「実は、最初に選んだ案も、まだ決定ではないの」


「そうなんですか?」


「生徒会の中で、分かりやすさを優先するか、青葉ヶ丘らしさを優先するか意見が分かれてる」


「青葉ヶ丘らしさ?」


「校長を入れたいって会長が言ってる」


 榊原が笑う。


「本物の校長、怒らない?」


「もう確認した。猫の方が有名なのは認めてるって」


「器が大きい」


 澪は葵の絵を見る。


「明日の生徒会で、これも候補に戻していい?」


 葵はすぐに答えられなかった。


「本当に?」


「ただし、選ばれるとは約束できない」


「分かっています」


「また別の案になるかもしれない」


「はい」


「それでも出す?」


 以前なら、選ばれない可能性があるなら出したくないと思った。


 自分の絵が否定されるのが怖い。


 選ばれない一枚になるくらいなら、最初から見せない方がいい。


 けれど、今は違う。


「出します」


 葵は言った。


「選ばれなくても、描いた理由を説明できます」


「分かった」


 澪はポスターを大切そうに持ち上げた。


「預かるね」


「お願いします」


「それと、一ノ瀬さん」


「はい」


「文化祭のポスター、ほかにも使い道があるかもしれない」


 榊原が反応する。


「さっき俺も言った」


「例えば?」


 葵が尋ねる。


「校内掲示。文化祭パンフレットの表紙。特設サイト。来場者へ配る案内図」


「全部、同じ絵を?」


「メインポスターに選ばれなくても、一つのデザインをいろんな場所へ使える」


 澪は絵の中の小さな道具を見る。


「この絵、全部の場所へ行ってみたくなるから、案内図の表紙にも合いそう」


「選ばれなくても?」


「メインに選ばれることだけが、使われることじゃないでしょう?」


 榊原が、どこか得意そうに腕を組む。


「俺の案」


「榊原くん、何かしたの?」


「ポスター以外で使えばって言った」


「具体的には何も」


 柚葉が補足する。


「きっかけが大事」


「怪我人は黙って」


「今日ずっと扱いひどくない?」


 澪は笑った。


 葵も、少し笑った。


     ◇


 翌日の昼休み。


 一年四組。


 葵は自分の席で、弁当箱を開けていた。


 前の席に座る女子、橋本真理が振り返る。


「葵、生徒会から呼ばれてた?」


「うん」


「何かした?」


「悪いことではないよ」


「文化祭の絵?」


 葵は驚いた。


「どうして知ってるの」


「先生が言ってた。ポスター描いてるって」


「まだ決まってない」


「見せて」


「今、生徒会にある」


「写真は?」


 葵はスマートフォンを開く。


 完成した絵を撮った写真。


 真理へ見せる。


「かわいい」


「かわいい?」


「猫」


「そこ?」


「校長でしょう?」


「うん」


「人いないんだね」


 また言われた。


 けれど昨日ほど怖くない。


「見る人が、ここへ入るため」


 葵は説明した。


「どういうこと?」


「正門から自分が入って、どこへ行くか考えてほしいの」


 真理はしばらく写真を見る。


「私は体育館かな」


「バスケ?」


「ダンス部。文化祭で踊るかもしれないから」


「ダンス部なんだ」


「言ってなかった?」


「初めて聞いた」


「葵は?」


「まだ決めてない」


「美術部じゃないの?」


「迷ってる」


「この絵描けるなら、絶対入った方がいいじゃん」


「簡単に言うね」


「入りたくない?」


 葵は考える。


 美術部へ入れば、絵を描く。


 見せる。


 選ばれることも、選ばれないこともある。


 講評される。


 自分の描いた理由を話さなければならない。


 怖い。


 けれど、昨日の時間は楽しかった。


 柚葉と一緒に絵を直した。


 榊原の意見を聞いた。


 澪へ説明した。


 一人で描いていたときより、絵の中の世界が広がった。


「入りたいかもしれない」


 葵は答えた。


「かもしれない?」


「まだ見学一回だけだから」


「じゃあ、もう一回行けば」


「真理も来る?」


「私、絵下手だよ」


「上手じゃなくても、見学はできる」


「じゃあダンス部も来てよ」


「私、踊れない」


「踊れなくても、見学はできる」


 自分の言葉を、そのまま返された。


「分かった」


 葵は笑った。


「交換で」


     ◇


 放課後。


 生徒会室。


 葵は扉の前に立っていた。


 澪から、


『結果が決まったから、放課後来てください』


 とメッセージが届いた。


 教室からここまで来る間、何度も考えた。


 選ばれた。


 選ばれなかった。


 どちらでも受け止める。


 そう決めた。


 けれど、緊張はする。


 扉をノックする。


「どうぞ」


 中へ入る。


 澪。


 生徒会長。


 数人の役員。


 机の上には、三枚のポスター案。


 葵が最初に描いた、笑顔の生徒の絵。


 別の生徒が描いた、ステージ中心の絵。


 そして、人のいない校舎。


「一ノ瀬さん」


 生徒会長が言う。


「結論から言います」


 葵は背筋を伸ばす。


「メインポスターは、こちらの案になりました」


 会長が持ち上げたのは、笑顔の生徒が模擬店に立つ絵。


 葵が一番気に入っていなかった、自分の一枚目。


「そうですか」


 声は震えなかった。


「分かりやすさと、幅広い年代への伝わりやすさを優先しました」


「はい」


 選ばれなかった。


 やはり少し苦しい。


 けれど、以前のように全部が無駄になったとは思わなかった。


「ただし」


 会長が、三枚目の絵を持つ。


「こちらを、文化祭パンフレットの表紙と、校内案内図の基本デザインとして使いたいと思います」


 葵は顔を上げた。


「二つ?」


「はい。さらに、文化祭特設サイトのトップ画像にも」


「三つ」


「メインポスターより多くない?」


 澪が笑う。


「ポスターは町の人に文化祭があると伝える役割。こちらは、文化祭へ来た人に校内へ入ってもらう役割」


 会長は絵の正門を指さす。


「来場者が、この門から入る。どこへ行こうか考える。その入口として、とてもいいと思いました」


 葵は自分の絵を見る。


 メインには選ばれなかった。


 町中に貼られる一枚にはならない。


 けれど、文化祭へ来た人が最初に手に取るパンフレットになる。


 校内を歩く案内図になる。


 知らない誰かへ会いに行くための入口になる。


「使ってください」


 葵は言った。


「お願いします」


「こちらこそ」


 会長が頭を下げる。


「ただ、案内図にするには、校舎内の絵を増やす必要があります」


「描きます」


「かなり多いよ」


「描きたいです」


 即答した。


「美術部にも協力をお願いする予定です」


「私も、美術部に入ろうと思っています」


 澪が目を丸くする。


「決めたの?」


「今、決めました」


 言った瞬間、自分でも驚いた。


 けれど後悔はなかった。


 選ばれたいからではない。


 自分の絵を見せたい。


 分からないと言われたら説明したい。


 ほかの人の意見も聞きたい。


 描いた理由を、隠さなくていい場所へ行きたい。


     ◇


 その日の放課後。


 葵は入部届を持って美術室へ向かった。


 部活動名の欄には、


 美術部。


 はっきりと書いてある。


 扉を開ける。


「失礼します」


 柚葉が顔を上げた。


「葵ちゃん」


「入部届を持ってきました」


「本当に?」


「はい」


「おめでとう」


「まだ提出しただけです」


「最初の一枚が大事だから」


 どこかで聞いたような言葉だった。


 美術室には榊原はいない。


 代わりに、窓際のイーゼルへ一枚の絵が置かれていた。


 椅子に座る男子生徒。


 右足を前へ伸ばし、膝の上にバスケットボール。


 顔は少し不機嫌。


 けれど、窓の外の体育館へ視線を向けている。


「完成したんですか」


「まだ途中」


「タイトルは?」


「迷ってる」


「『ベンチ』じゃないんですか」


「榊原くんに地味って言われた」


「本人の案は?」


「『出られない試合にも、ベンチはある』」


「長いですね」


「でしょう?」


「でも、意味は分かります」


 葵は絵の前へ立つ。


 試合へ出ていない。


 コートにもいない。


 それでも、この人物がバスケットボール部員だと分かる。


 膝の上のボール。


 体育館を見る目。


 足首のサポーター。


 本人が走っている場面を描かなくても、何を思っているか想像できる。


「人を描いても、全部を描かなくていいんですね」


 葵が呟く。


「何?」


「何でもないです」


 葵は入部届を柚葉へ渡す。


「これから、よろしくお願いします」


「よろしく」


 美術室の奥から別の部員たちも顔を上げる。


「新入部員?」


「一年生?」


「名前は?」


「一ノ瀬葵です」


 自分から名乗った。


 誰かに紹介される前に。


「よろしくお願いします」


 少し緊張した。


 けれど声は、思ったよりはっきり出た。


     ◇


 翌朝。


 四月十九日。


 午前七時四十二分。


 青葉ヶ丘高校の正門。


 校長は、門柱の上にいた。


 葵は足を止める。


「おはよう、校長」


 猫は目を細める。


 葵は鞄から小さなスケッチブックを取り出した。


 立ったまま、門柱と猫を描き始める。


 以前なら、誰かに見られながら描くのは苦手だった。


 覗き込まれるかもしれない。


 下手だと思われるかもしれない。


 何を描いているのか聞かれるかもしれない。


 けれど、今日は少し違った。


「描いてるの?」


 声がした。


 顔を上げる。


 一年生の男子生徒。


 制服の袖を肘までまくり、片手に小さな工具箱を持っている。


 名札は一年四組。


 葵と同じクラス。


 名前は、長谷川蒼太。


 教室では、まだ一度も話したことがなかった。


「校長を」


「見ていい?」


 葵は少し迷い、スケッチブックを見せた。


「すごい」


 蒼太は素直に言った。


「まだ途中だよ」


「途中でも猫に見える」


「猫だから」


「俺が描いたら、たぶんじゃがいもになる」


 葵は少し笑った。


「その箱、何?」


「工具」


「見れば分かる」


「放送室のマイクスタンドが壊れたって聞いて。先生に頼まれた」


「直せるの?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「壊し方を見ないと分からない」


 蒼太は校舎を見る。


「文化祭までに放送設備も確認するらしいよ」


「文化祭?」


「放送委員だから」


「一年生なのに、もう?」


「機械が好きって言ったら、先生に捕まった」


「嫌なの?」


「少し。でも、触れるのは楽しい」


 葵はスケッチブックへ視線を戻す。


「私も、美術部に入った」


「絵が好きだから?」


「怖かったけど」


「何が?」


「見せるのが」


 蒼太は、葵の絵をもう一度見る。


「でも見せてくれた」


「今は」


「じゃあ、少し直った?」


 葵は校長を描きながら考える。


「直ったというより、怖くても見せられるようになった」


「それ、直ったんじゃない?」


「違う気がする」


「難しいな」


 蒼太は工具箱を持ち直した。


「じゃあ行く。遅れるから」


「うん」


 数歩進んだあと、蒼太が振り返る。


「一ノ瀬」


「何?」


「放送室、見たことある?」


「ない」


「面白いよ。機械ばっかりだけど」


「見てもいいの?」


「委員以外は勝手に入れない」


「じゃあ駄目じゃん」


「俺がいるときなら、先生に聞く」


 葵は少し驚いた。


 まだほとんど話したことのない相手。


 けれど、知らない場所へ誘われた。


「行ってみたい」


「分かった」


 蒼太は校舎へ向かう。


 工具箱の中で、金属が小さく鳴った。


 葵はその後ろ姿を見送った。


 まだ知らない誰か。


 まだ入ったことのない場所。


 昨日までの自分なら、絵の中にだけ置いていたもの。


 今は、自分から近づいてみたいと思う。


 葵はスケッチブックの端へ、小さな工具箱を描き加えた。


 校長が、興味なさそうにあくびをする。


「あなたは、この学校のことを全部知ってるの?」


 猫は答えない。


「知ってても、教えてくれないよね」


 葵は笑った。


 知らないなら、会いに行けばいい。


 分からないなら、聞けばいい。


 伝わらないなら、描き直せばいい。


 選ばれなかった一枚は、失敗した絵ではなかった。


 まだ置かれる場所が決まっていなかっただけだ。


 正門の向こう。


 蒼太が放送室へ向かって歩いていく。


 その手に持った工具箱の中には、一本だけ、持ち主の分からない古い鍵が入っていた。


 鍵の持ち手には、薄く消えかけた文字。


『旧放送室』


 青葉ヶ丘高校の案内図には、もう載っていない部屋の名前だった。

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