第7話 出られない試合にも、ベンチはある
青葉ヶ丘高校男子バスケットボール部二年生、榊原湊は、「大丈夫」という言葉を便利に使っていた。
シュートを外したとき。
「大丈夫。次は入る」
監督に叱られたとき。
「大丈夫。気にしてない」
テストの点数が赤点ぎりぎりだったとき。
「大丈夫。ぎりぎりは、ほぼ満点」
それは大丈夫ではない、とクラスメイトに言われても、湊は気にしなかった。
大丈夫と言ってしまえば、周囲はひとまず安心する。
本人も、それ以上考えなくて済む。
痛くても。
苦しくても。
不安でも。
言葉にしてしまえば、その瞬間だけは本当に大丈夫な人間になれる気がした。
だから四月十四日の朝。
右足首に黒いサポーターを巻き、歩くたびに鋭い痛みが走っていても、湊は言った。
「大丈夫」
誰に聞かれても。
何度聞かれても。
それ以外の答えを持っていなかった。
◇
午前七時十三分。
青葉ヶ丘高校体育館。
朝練が始まる前のコートには、まだ冷たい空気が残っていた。
天井近くの窓から差し込む朝日が、磨かれた床の上へ長い四角形を作っている。
ボールが一つ、床を打つ。
ドン。
右手。
ドン。
左手。
ドン。
切り返す。
湊は一人でドリブルを続けていた。
本来の集合時刻は七時二十分。
ほかの部員は更衣室か、まだ登校途中だろう。
誰もいないうちに、右足がどれだけ動くのか確かめておきたかった。
ゆっくりなら走れる。
直線も問題ない。
痛むのは、強く踏み込んだとき。
横へ切り返したとき。
ジャンプから着地したとき。
つまり、バスケットボールをするうえで必要な動作のほとんどだった。
「行ける」
湊は小さく呟いた。
右からゴールへ入る。
一歩目。
二歩目。
右足で床を蹴る。
痛みが走った。
体がわずかに傾く。
放ったボールはバックボードの端へ当たり、リングを外れた。
「くそ」
跳ね返ったボールを追う。
痛みを悟られないよう、歩幅を一定にする。
一人しかいないのに。
誰も見ていないのに。
それでも足を引きずらないように歩く。
癖になっていた。
「朝から景気悪い音させてんな」
体育館の入口から声がした。
男子バスケ部の副主将、三年生の倉橋大和。
百八十センチを超える長身。
短く刈った髪。
口は悪いが、後輩の面倒見はいい。
湊にとっては、最も苦手で、最も信頼している先輩だった。
「おはようございます」
「今のシュート、リングに嫌われてたぞ」
「朝はリングも機嫌悪いんですよ」
「お前と同じにするな」
倉橋はスポーツバッグを床へ置いた。
湊の右足へ視線を落とす。
「それ、いつから巻いてる」
「これですか?」
「ほかに何がある」
「昨日から」
「怪我したのか」
「少し捻っただけです」
「いつ」
「昨日の練習で」
「聞いてない」
「言ってないですから」
「何で言わない」
「言うほどじゃないんで」
倉橋が眉を寄せる。
「歩いてみろ」
「嫌です」
「何で」
「先輩の命令で歩くの、犬みたいじゃないですか」
「じゃあ走れ」
「もっと嫌です」
「榊原」
声の調子が変わった。
湊は笑うのをやめる。
「本当に大丈夫です」
「大丈夫なやつは、そこまで必死に大丈夫って言わない」
「格言みたいに言わないでください」
「右からレイアップ」
「今やりました」
「もう一回」
断れば、余計に疑われる。
湊はボールを持ち、ゴールへ向かった。
速度を落とす。
一歩。
二歩。
できるだけ左足で跳ぶ。
それでも着地の瞬間、右足首に痛みが走る。
顔には出さなかった。
今度のシュートは入った。
「ほら」
湊が言う。
「入りました」
「着地で右足浮かせただろ」
「見間違いです」
「もう一回」
「しつこいですよ」
「左から」
湊は舌打ちしたくなるのをこらえた。
左側から入れば、最後の踏み切りは右足になる。
一番痛む動作。
「時間ないですよ。もうすぐみんな来ます」
「だから今やれ」
「先輩、朝から面倒くさいですね」
「知ってる」
倉橋はコートの中央へ立ったまま動かない。
逃がすつもりはないらしい。
湊は左側へ回った。
ボールを一度床へつく。
走り出す。
一歩目。
右足で踏み切る。
強い痛み。
体が上がらない。
ボールはリングへ届かず、手前で落ちた。
着地した右足から力が抜ける。
湊はその場へ膝をついた。
「榊原!」
倉橋が駆け寄る。
「大丈夫です」
「その言葉禁止」
「何でですか」
「今のお前が言うと、全部嘘になる」
湊は床へ手をついた。
右足首が熱い。
サポーターの下で腫れているのが分かる。
「立てるか」
「立てます」
「立つな」
「どっちですか」
「一人で立つなって言ってる」
倉橋が肩を貸す。
「保健室」
「まだ開いてないでしょう」
「顧問に連絡する」
「やめてください」
「何で」
「大会近いから」
倉橋が湊を見る。
「だからこそだろ」
「次の土曜、練習試合があります」
「知ってる」
「そこでメンバー決めるって、監督が言ってた」
「知ってる」
「休んだら外される」
口に出すと、不安が形になった。
湊は今まで、それを言葉にしないようにしていた。
言えば本当になる。
怪我を報告する。
練習を休む。
練習試合へ出られない。
ベンチ入りメンバーから外れる。
試合へ出られない。
全部、一本の道のようにつながっている。
「外されたくない」
湊は倉橋の肩を借りたまま言った。
「俺、去年ほとんど試合出てないんです」
「分かってる」
「今年は出たい」
「分かってる」
「先輩たちは夏で引退する」
「それも分かってる」
「じゃあ」
「分かってるから、無理するなって言ってる」
倉橋の声が体育館へ響く。
入口へ来ていた数人の部員が足を止めた。
湊は視線を落とす。
「怪我を隠して練習して、完全に壊したらどうする」
「そこまでじゃない」
「お前は医者か」
「自分の足です」
「自分の足ほど、自分じゃ分からないこともある」
倉橋は湊をベンチへ座らせた。
「顧問に連絡する」
「待ってください」
「待たない」
「倉橋先輩」
「嫌われても言う」
倉橋はスマートフォンを取り出した。
「それが先輩の仕事だ」
◇
湊が右足首を捻ったのは、前日の放課後だった。
五対五の実戦練習。
残り三十秒。
一点差。
練習でしかない。
それでも湊は、本番のつもりでプレーしていた。
相手のシュートが外れる。
リバウンドを取る。
前には誰もいない。
速攻。
湊は全力で走った。
パスを受ける。
背後から追ってきた選手をかわすため、右へ一歩切り込む。
そのとき、右足が相手の靴へ乗った。
足首が外側へ折れる。
倒れそうになる。
けれど湊は踏みとどまり、そのままシュートを放った。
ボールは入った。
チームメイトが歓声を上げる。
「ナイス!」
「逆転!」
痛みより先に、嬉しさが来た。
湊は何でもない顔で守備へ戻った。
練習終了後。
靴を脱ぐと、右足首が少し腫れていた。
「大丈夫か?」
同級生に聞かれた。
「大丈夫」
すぐに答えた。
氷で冷やせば治る。
一晩寝れば痛みは引く。
高校生の体は、そのくらい都合よくできている。
そう思った。
帰宅すると、母親に足を引きずっていることを気づかれた。
「怪我した?」
「してない」
「でも」
「疲れただけ」
自室でサポーターを巻き、早く寝た。
朝になれば大丈夫。
そう信じた。
実際は、前日より腫れていた。
階段を下りるだけでも痛かった。
それでも学校へ来た。
休めば、誰かが自分の場所へ入る。
部活動は、待ってくれない。
一年生も入ってくる。
三年生が引退すれば、試合へ出られる人数は増える。
けれど同時に、自分がチームを支えなければならない。
湊には、休んでいる時間などないと思っていた。
◇
顧問の佐伯は、湊の足を見るなり練習参加を禁止した。
「病院へ行け」
「授業が」
「午前中に行ってこい」
「そこまでじゃありません」
「倉橋」
「はい」
「こいつの口から『大丈夫』が出たら、一回につき腕立て十回させろ」
「分かりました」
「何で倉橋先輩が」
「大丈夫か?」
倉橋が尋ねる。
「大丈――」
湊は途中で止めた。
倉橋が指を折る。
「今ので五回」
「未遂です」
「半分」
「理不尽」
佐伯はため息をついた。
「冗談を言えるなら元気だな。だが足は別だ」
「練習試合には出ます」
「診断次第」
「メンバー選考が」
「怪我を隠す選手は、技術以前の問題で外す」
湊の表情が固まる。
「何でですか」
「チームを危険にするからだ」
「俺一人の怪我でしょう」
「お前が動けない状態で試合へ出たら、誰がカバーする」
「それは」
「痛みで判断が遅れれば、味方とぶつかる。無理に跳べば、相手の足へ着地する。お前一人の問題じゃない」
佐伯の言葉は正しい。
正しいから、腹が立った。
「去年、試合に出られなかったのは知ってる」
佐伯が続ける。
「今年に賭けてるのも知ってる」
「なら」
「だからこそ、今後全部を棒に振るような真似はさせない」
湊は唇を噛んだ。
「病院へ行け。話はそれからだ」
◇
診断は、軽度の足関節捻挫。
骨に異常はない。
数日は安静。
腫れが引くまで走らない。
少なくとも土曜日の練習試合には出場しない方がいい。
医師は穏やかに説明した。
湊にとっては、最後の一文以外ほとんど聞こえなかった。
「出られないんですか」
「無理をすれば出られる、という言い方はできるよ」
医師が言う。
「ただ、その結果、治るまで何週間もかかる可能性がある」
「テーピングすれば」
「できることと、やっていいことは違う」
最近、似たような言葉を何度も聞く気がする。
病院を出る。
母親へ診断結果を送る。
顧問にも連絡。
佐伯からは、
『今日は部活を休んで帰宅しろ』
と返ってきた。
湊は画面を見つめた。
帰りたくなかった。
学校へ戻っても、練習へ参加できない。
チームメイトが走っているのを、ベンチから見るだけ。
そんな自分を想像したくなかった。
かといって家へ帰れば、怪我をしたという事実だけが残る。
湊は結局、午後の授業には出席した。
◇
二年四組。
教室へ戻ると、担任に事情を聞かれた。
「捻挫です」
「松葉杖は?」
「必要ないです」
「階段、気をつけろよ」
「はい」
席へ向かう。
窓際の後方。
椅子へ座ると、前の席の女子が振り返った。
「怪我したの?」
同じクラスの川島柚葉。
美術部。
去年も同じクラスだったが、ほとんど話したことはない。
肩までの髪を低い位置でまとめ、制服の袖には鉛筆の黒い汚れがついている。
「少し捻っただけ」
「歩き方、少しじゃないけど」
「みんな同じこと言うな」
「本当に少しなら、そんなに言われないんじゃない?」
正論を言われ、湊は机へ突っ伏した。
「何日休むの?」
「休まない」
「部活」
「数日」
「嫌そう」
「嫌だよ」
湊は顔を伏せたまま答えた。
「試合に出られない」
「今週?」
「練習試合」
「本番じゃないんだ」
「メンバーを決める試合」
「それなら、出たいね」
柚葉は簡単に言った。
同情でも、説教でもない。
湊は少しだけ顔を上げる。
「美術部に、怪我で休むとかある?」
「右手を怪我したら描けない」
「左手で描けば?」
「バスケも左足だけでやれば?」
「無理」
「同じ」
「意外と厳しいな」
「左手で描く練習をしたことはあるけど」
「できた?」
「描けた。でも、自分が描きたいものではなかった」
柚葉は机の中からスケッチブックを取り出した。
開かれたページには、教室の窓から見える桜の木が描かれている。
鉛筆だけ。
細かな枝。
舞う花びら。
校庭を歩く生徒たち。
「上手いな」
「美術部だから」
「それ言ったら、俺もバスケ部だから上手くないと困る」
「上手いんでしょう?」
「まあ」
「自分で言うんだ」
「そこ否定したら、俺に何が残る」
言ってから、少し自嘲的すぎたと思った。
柚葉は笑わなかった。
「バスケ以外、何もないの?」
「ない」
「本当に?」
「勉強は普通。歌は下手。絵は、丸に棒をつけた人間しか描けない」
「それは人間じゃなくて記号」
「友達はいるけど、別に俺じゃなくても困らない」
「それ、友達に言ったら怒られるよ」
「怒るかな」
「怒ると思う」
「何で」
「その人たちは、榊原くんだから一緒にいるんじゃない?」
湊は返事をしなかった。
「試合に出ないと、バスケ部じゃなくなるの?」
柚葉が尋ねる。
「ならないけど」
「出られない日に、できることはないの?」
「応援?」
「嫌そう」
「出たいからな」
「出たいのと、出られない日に何もしないのは別じゃない?」
また正論。
今日は正論ばかり投げられる日らしい。
「美術部で、描けないとき何する?」
湊が尋ねる。
「ほかの人の絵を見る。道具を片づける。展示の位置を考える。モデルになる」
「モデル?」
「じっと座ってる」
「地味」
「でも必要」
柚葉はスケッチブックを閉じた。
「主役だけで、作品はできないから」
◇
放課後。
湊は体育館の前にいた。
帰れと言われた。
けれど帰れなかった。
扉の向こうから、ボールの音が聞こえる。
ドン。
ドン。
シューズが床を擦る。
声が飛ぶ。
「左!」
「カバー!」
「ナイス!」
いつもなら自分も、その中にいる。
今日は扉一枚の外。
入るか迷う。
見ているだけなら、かえってつらい。
帰ろう。
そう思ったとき、背後から声がした。
「入らないんですか?」
振り返る。
朝、正門でボールを拾ってくれた一年生。
女子バスケ部の宮下ひよりだった。
練習着へ着替え、髪を後ろで束ねている。
「ああ、朝の」
「宮下ひよりです」
「榊原湊」
「足、病院へ行きました?」
「行った」
「どうでした」
「軽い捻挫」
「練習は?」
「数日休み」
「やっぱり、大丈夫じゃなかった」
「それを主将に言ったの、宮下?」
ひよりが一瞬黙る。
「連絡グループで、男子部の主将へ」
「何で」
「痛そうだったから」
「誰にも言わないでって言っただろ」
「言われました」
「じゃあ何で」
「私も、猫のことを誰にも言わなくて、困ったから」
「猫?」
「飼い猫が逃げたんです」
ひよりは、入学式の日から三日間、飼い猫を探していたことを話した。
一人で見つけようとした。
迷惑をかけたくなかった。
けれど、陸や先輩たちへ話したことで見つけられた。
「怪我と猫は違うだろ」
「違います」
「なら」
「でも、一人で何とかしようとして、もっと悪くするところは同じかもしれません」
湊は言葉を失った。
一年生に説教されている。
「先輩、怒ってますか」
「少し」
「すみません」
「謝るくらいなら言うなよ」
「でも、言わない方が後悔すると思ったので」
ひよりは体育館の扉へ手をかけた。
「私は練習へ行きます」
「ああ」
「先輩は?」
「帰る」
「本当に?」
「顧問に言われた」
「帰りたいんですか」
「帰りたくはない」
「じゃあ、中に入ればいいのに」
「何しに」
「分かりません」
「無責任だな」
「でも、部員なんでしょう?」
ひよりは扉を開けた。
体育館の音が大きくなる。
「試合へ出られない日でも」
ひよりが言う。
「部員じゃなくなるわけじゃないでしょう?」
先ほど柚葉にも、同じことを言われた。
湊はため息をつく。
「今日は年下に説教される日か」
「説教したつもりはありません」
「その方が余計つらい」
ひよりは女子部のコートへ走っていった。
湊は開いた扉の前に残された。
帰る。
入る。
選択肢は二つ。
湊は右足へ体重をかけないよう、ゆっくり体育館へ入った。
◇
「何しに来た」
佐伯は湊を見るなり言った。
「帰れって言いましたよね」
「見学です」
「足を休ませろ」
「ベンチに座ります」
「家にも椅子はある」
「家だと練習見えないです」
佐伯は眉間へ指を当てた。
「絶対にコートへ入るな」
「はい」
「ボールを触るな」
「はい」
「痛みが増したら帰れ」
「はい」
「大丈夫と言うな」
湊は返事を止めた。
「何て言えばいいんですか」
「痛いなら痛いと言え」
「今は少し痛いです」
「よし」
「それで褒められるの、何か違いません?」
倉橋がベンチへタオルを置く。
「座れ」
「先輩、嬉しそうですね」
「監視できるからな」
練習が始まる。
湊はベンチに座り、チームメイトを見る。
ウォーミングアップ。
シュート練習。
二対二。
三対三。
普段はコートの中から見ている景色。
外から見ると、気づくことが多かった。
味方の動き。
パスを出せる場所。
誰が守備へ戻るのが遅いか。
ボールを持っていない選手が、どこへ走っているか。
「山根、右空いてる!」
思わず声が出た。
山根が右へパスを出す。
シュートが決まる。
「ナイス!」
湊が叫ぶ。
次のプレー。
倉橋がゴール下へ切り込む。
相手が二人寄る。
「外!」
倉橋がボールを外へ戻す。
三点シュート。
成功。
「今のいい!」
声を出すたび、少しだけコートへ戻れた気がした。
五対五の途中。
一年生が守備の位置を間違える。
湊はベンチから立ち上がりかけた。
右足へ痛みが走る。
すぐに座る。
「一年、相手じゃなくて味方見ろ!」
一年生が振り返る。
「ヘルプ入ったら、その後ろ埋めろ!」
「はい!」
次の守備。
今度は位置が合った。
ボールを奪う。
速攻。
シュートが決まる。
湊は誰より大きく拍手した。
自分が決めたわけではない。
それでも嬉しかった。
「榊原」
佐伯が隣へ座る。
「どうだ」
「何がですか」
「外から見るチーム」
「俺がいないと弱いですね」
「その自信はどこから来る」
「でも」
湊はコートを見る。
「思ったより、やることあります」
「そうだな」
「声を出す。動きを見る。一年に教える」
「ほかには」
「水を出す。タオルを渡す。得点をつける」
「地味だろ」
「地味です」
「必要だ」
昼間、柚葉が言った。
主役だけでは作品はできない。
バスケットボールも同じだった。
試合へ出る五人。
ベンチの選手。
マネージャー。
顧問。
応援。
記録をつける者。
全員で一つの試合になる。
それを、湊は知っていたはずだった。
自分がコートへ立つことばかりを考え、忘れていた。
「先生」
「何だ」
「練習試合、出られませんよね」
「診断通りならな」
「ベンチには入れますか」
佐伯が湊を見る。
「何をする」
「声を出します」
「それだけか」
「相手の守備を見ます。一年にも教えます。得点もつけます」
「試合へ出られないのに?」
「部員なんで」
佐伯は少しだけ笑った。
「最初からそのつもりだ」
「じゃあ聞かないでください」
「お前が自分で決める必要があった」
「先生、たまに面倒くさいですね」
「倉橋に似たんだろ」
「逆です」
◇
土曜日。
青葉ヶ丘高校男子バスケットボール部は、隣町の南城高校との練習試合を迎えた。
湊の右足首は、まだ少し腫れている。
歩くことはできるが、走ることは禁止。
ユニフォームは着なかった。
チームジャージ。
ベンチの端。
試合前のアップを見ながら、胸の奥が痛んだ。
出たい。
やはり出たい。
コートへ立ちたい。
ボールを持ちたい。
シュートを打ちたい。
その気持ちは消えていない。
「榊原」
倉橋が呼ぶ。
「相手のスタメン、見たか」
「見ました」
「どう」
「四番が左利き。六番は外から打つ。センターは動き遅いけど、リバウンド強い」
「作戦は」
「四番は右へ行かせる。六番はボール持つ前から寄る。センターは正面から押さず、前へ入る」
「監督みたいだな」
「監督より見てます」
佐伯が後ろから湊の頭を軽く叩く。
「聞こえてるぞ」
「冗談です」
「半分本気だろ」
試合が始まる。
青葉ヶ丘は序盤から苦戦した。
南城の守備が速い。
パスコースを消される。
倉橋にボールが集まりすぎる。
「逆サイド!」
湊が叫ぶ。
「一回中へ入れてから戻せ!」
ベンチから声を出す。
コートの選手が反応する。
パスが回る。
空いた選手がシュートを決める。
「ナイス!」
第一クォーター終了。
二点差。
タイムアウトで選手が戻ってくる。
湊はタオルと水を渡す。
「相手、速い」
一年生が息を弾ませる。
「速いんじゃなくて、読まれてる」
湊が言う。
「パス出す前に相手見すぎ。顔向けた瞬間、次がばれてる」
「どうすれば」
「一回ゴールを見る。打つふりして、相手を動かす」
「分かった」
「あと守備、相手の胸見ろ。ボールばっかり追うな」
次のクォーター。
一年生が、湊の言った通りに動く。
相手の守備をかわす。
得点。
ベンチへ戻ると、真っ先に湊を見る。
「できた!」
「一回で喜ぶな。次もやれ」
「はい!」
湊は笑った。
試合は最後まで接戦だった。
残り十秒。
同点。
青葉ヶ丘のボール。
倉橋がドリブルで入る。
二人が寄る。
外へパス。
一年生が受ける。
シュート。
外れる。
リバウンド。
別の一年生が飛び込む。
残り二秒。
ボールを押し込む。
ブザー。
得点。
青葉ヶ丘が二点差で勝った。
選手たちが歓声を上げる。
湊もベンチから立ち上がった。
右足をかばいながら、それでも両手を上げる。
「ナイス!」
コートから一年生が走ってくる。
「榊原先輩!」
そのまま抱きつかれそうになり、湊は両手で止めた。
「足! 足痛いから!」
「すみません!」
「でもナイス」
「先輩が言ってくれたから」
「最後のリバウンドはお前だろ」
「でも」
「お前が取った。お前の得点」
その言葉を口にしたとき、湊は気づいた。
誰かを支えたからといって、その人の活躍を自分のものにする必要はない。
けれど、自分が何もしていないわけでもない。
コートで得点した者。
パスを出した者。
声を出した者。
全員の仕事がつながって、一つの得点になる。
湊は今日、一度もボールへ触れていない。
それでも確かに、試合の中にいた。
◇
試合後。
片づけを終えると、佐伯が部員を集めた。
「今日の内容を踏まえ、春季大会へ向けたメンバーは来週発表する」
湊の胸が少し強く鳴る。
「怪我人も含め、今後の練習態度を見る」
佐伯が湊を見る。
「試合へ出る十五人だけがチームではない。だが、十五人に入りたい気持ちを捨てる必要もない」
「はい」
湊は答えた。
「榊原」
「はい」
「治せ」
「はい」
「中途半端に戻るな」
「分かりました」
以前なら、
「大丈夫です。すぐ戻れます」
と言っただろう。
今日は言わなかった。
大丈夫かどうかは、今決めることではない。
痛いなら休む。
治ったら戻る。
それまでは、それまでにできることをする。
◇
月曜日の朝。
四月十七日。
湊は、いつもよりゆっくり学校へ向かった。
走らない。
右足を無理にかばわず、医師から教えられた歩き方を意識する。
正門前。
門柱の上には、校長がいた。
「おはよう」
湊が声をかける。
猫は目を開ける。
「この前、悪かったな。急に止まって」
校長は返事をしない。
「おかげで怪我ばれたけど」
尻尾が揺れる。
「まあ、結果的にはよかった」
体育館側から、宮下ひよりが歩いてくる。
「おはようございます」
「おはよう」
「足、どうですか」
「まだ痛い」
素直に答えた。
ひよりが少し驚く。
「大丈夫って言わないんですね」
「禁止された」
「誰に?」
「いろんな人に」
「そうですか」
「宮下」
「はい」
「この前、連絡してくれてありがとう」
ひよりが目を見開いた。
「怒ってたんじゃ」
「怒ってた」
「じゃあ」
「怒ってたけど、助かった」
湊は少し頭を下げた。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
ひよりは照れたように視線をそらした。
「ルナは?」
「元気です。今朝も私の椅子を取ってました」
「ならよかった」
ひよりは体育館へ向かう。
湊も校舎へ歩き始めた。
正門を抜けたところで、後ろから声をかけられる。
「榊原くん」
振り返る。
川島柚葉が、スケッチブックを抱えて立っていた。
「この前の試合、勝った?」
「見に来てたの?」
「美術室の窓から少しだけ体育館が見えるから」
「勝った」
「出た?」
「出てない」
「何してたの」
「ベンチで声出してた」
「それだけ?」
以前の湊なら、その言葉を責められたように感じただろう。
今は違う。
「それだけじゃない」
湊は答えた。
「結構忙しかった」
「そっか」
柚葉は少し笑った。
「じゃあ、描けそう」
「何を」
「試合へ出られなかったバスケ部員」
「嫌だよ、そんな地味な絵」
「主役だけじゃ作品はできないんでしょう?」
「それ、川島が言ったんだろ」
「覚えてたんだ」
「正論ばっかり言うから」
「モデルになってくれる?」
「嫌だ」
「じっと座ってるだけ」
「部活で走れないうえに、美術部で動くなって言われるの?」
「今の榊原くんにぴったり」
「絶対嫌だ」
湊は歩き出した。
柚葉も隣を歩く。
「十分だけ」
「嫌」
「五分」
「嫌」
「猫も描くから」
「何で校長が出るんだよ」
「動かないモデルが必要」
「校長は勝手に動くだろ」
二人の声が、朝の校舎へ続いていく。
◇
放課後。
美術室。
窓際の椅子に、榊原湊が座っていた。
「何で俺、ここにいるんだろ」
「五分だけって言ったでしょう」
柚葉はイーゼルの前で鉛筆を動かしている。
「もう十五分経ってる」
「まだ顔が描けてない」
「下手なんじゃない?」
「帰っていいよ」
「途中で帰ったら、変な顔のまま残るだろ」
「気になるんだ」
「気になる」
湊は椅子へ深く座る。
右足は前へ伸ばしている。
足首にはサポーター。
膝の上にはバスケットボール。
試合へ出られない選手。
それでもボールを手放してはいない。
「川島」
「何」
「どうして俺を描こうと思ったの」
「教室で、すごく嫌そうな顔してたから」
「怪我したんだから当然だろ」
「嫌な顔の人、描きやすい」
「性格悪いな」
「でも、そのあと体育館で笑ってた」
鉛筆が紙の上を走る。
「美術室から見えたの?」
「少しだけ。ベンチで一番大きな声出してた」
「うるさかった?」
「楽しそうだった」
湊は黙った。
「同じ人なのに、全然違う顔だったから」
「それで描きたいって?」
「うん」
「変わってる」
「よく言われる」
美術室の奥では、別の部員たちが作業している。
油絵の匂い。
紙を切る音。
窓の外から聞こえる運動部の声。
湊は、コート以外の放課後を初めてゆっくり眺めた。
「バスケ部に戻ったら、この絵どうするの」
「完成したら文化祭に出すかも」
「勝手に?」
「嫌なら出さない」
「タイトルは」
柚葉は少し考える。
「『ベンチ』」
「そのままじゃん」
「じゃあ榊原くんが考えて」
「『出られない試合にも、ベンチはある』」
「長い」
「いいだろ」
「小説みたい」
「じゃあ『大丈夫じゃない人』」
「それは少し好き」
「嫌だよ」
二人で笑う。
そのとき、美術室の扉が開いた。
「川島先輩、いますか?」
一年生の女子生徒が顔を出した。
手には、丸めた大きな紙。
胸元には一年四組の名札。
「いるよ」
柚葉が答える。
「どうしたの?」
「文化祭ポスターの去年のデータ、見せてもらいたくて」
「もう文化祭?」
「生徒会から、候補を早めに作ってほしいって」
「気が早いね」
一年生は美術室へ入る。
湊の前を通り、柚葉の絵をのぞき込んだ。
「バスケ部の人ですか?」
「そう」
「モデル?」
「無理やり」
「無理やりじゃない。俺は帰ろうとした」
「まだ帰ってないでしょう」
一年生は少し笑った。
そして手にしていた紙を机へ広げる。
そこには、青葉ヶ丘高校の校舎と桜。
正門の門柱には、小さな猫。
その下に、大きく書かれた文字。
『この学校には、まだ知らない誰かがいる』
「これ、私が考えた案なんです」
少女が言う。
「でも、生徒会の人に『文化祭らしくない』って言われて」
柚葉は紙を見つめる。
「名前は?」
「一ノ瀬葵です」
一年四組、一ノ瀬葵。
彼女は自分の描いたポスターを見下ろしながら、少し悔しそうに唇を噛んでいた。
「私、これが一番いいと思ってるんです」
窓の外では、運動部の掛け声が響いている。
音楽室からは、少し上達したピアノ。
正門では、校長が今日も誰かの話を聞いている。
まだ春が始まったばかりの青葉ヶ丘高校で、文化祭の最初の一枚が、誰にも選ばれないまま机の上へ広げられていた。




