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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第6話 帰る場所を、君は知っている

 宮下ひよりが飼っている猫は、自分の名前を理解している。


 少なくとも、ひよりはそう信じていた。


「ルナ」


 呼べば耳を動かす。


「ごはん」

 

 と言えば、眠っていても起きる。


「病院」


 と言えば、押し入れの奥へ逃げる。


 家族が別の部屋で話しているときも、自分の名前が出た瞬間だけ顔を上げる。


 だから、理解している。


 理解した上で、人間の都合が悪いときだけ聞こえないふりをしている。


 猫とは、そういう生き物だ。


「ルナ。そこ、私の席」


 ひよりがダイニングの椅子を指さすと、灰色の猫は座面の中央で丸くなったまま、片目だけを開けた。


 退く気はないらしい。


「学校、遅れるんだけど」


 ルナは目を閉じた。


「聞こえてるよね?」


 尻尾の先が一度だけ動いた。


「ひより、別の椅子に座ればいいでしょう」


 台所から母親が言う。


「私の椅子なのに」


「ルナにとっては、今座っている場所がルナの場所なのよ」


「理不尽」


「猫に人間の所有権を説いても無駄」


 ひよりは向かいの椅子へ座り、朝食のトーストをかじった。


 四月八日。


 青葉ヶ丘高校の入学式当日。


 新しい制服を着たひよりは、緊張していた。


 中学校までとは違う道。


 知らない校舎。


 知らないクラスメイト。


 バスケットボール部へ入ることは決めていたが、そこで自分が通用するかも分からない。


 昨夜は早く寝ようと思ったのに、結局午前一時まで眠れなかった。


 期待と不安で、胸の中が落ち着かなかった。


「ルナはいいな」


 ひよりは、椅子で丸くなる猫へ手を伸ばした。


「今日もいつも通りで」


 ルナは触れられる直前に立ち上がり、ひよりの手を避けた。


 そのまま床へ飛び下りる。


「何で避けるの」


「しつこいからじゃない?」


「お母さんはどっちの味方?」


「公平な立場で猫の味方」


「公平じゃない」


 ルナは台所へ歩き、母親の足元へ体をこすりつける。


「ほら」


「何が、ほら、なの」


「好かれる人は追いかけないのよ」


 母親が笑った。


 ひよりは制服のポケットへ手を入れ、もう一度持ち物を確認した。


 ハンカチ。


 生徒証。


 スマートフォン。


 入学式の案内。


 忘れ物はない。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。玄関開けたままにしないでね」


「分かってる」


 ひよりが廊下へ出ると、ルナが後ろからついてきた。


「見送り?」


 玄関で振り返る。


 ルナは数歩離れた場所に座っている。


 ひよりは靴を履き、扉を細く開けた。


「外は駄目だよ」


 ルナは完全な室内飼いだった。


 生後三か月ほどの頃、雨の日に家の近くで鳴いていたところを、ひよりと母親が保護した。


 それから四年。


 外へ出たことは、動物病院へ連れていくときくらいしかない。


 扉を大きく開ければ飛び出すような猫ではなかった。


 外の音が聞こえるだけで、廊下の奥へ逃げる。


 だから、ひよりも油断していた。


「行ってきます、ルナ」


 扉を開ける。


 その瞬間、道路から大きな音がした。


 工事車両が鉄板を踏んだ音。


 ひよりが驚いて外を見る。


 同じ瞬間、ルナが廊下から走った。


「え?」


 足元を灰色の影が通り抜ける。


 ルナは玄関を飛び出し、庭へ。


 そのまま垣根の隙間を抜け、道路の向こうへ走った。


「ルナ!」


 ひよりは鞄を玄関へ落とし、追いかけた。


 新しい革靴が地面を強く打つ。


 ルナは振り返らない。


 近所の家と家の間。


 細い路地。


 灰色の尻尾が一瞬見え、すぐに消える。


「待って!」


 猫が待つはずはない。


 分かっている。


 それでも呼ぶ。


「ルナ!」


 ひよりは入学式の集合時刻ぎりぎりまで、近所を探した。


 母親も仕事を休み、探してくれた。


 餌の袋を振った。


 家の周囲。


 公園。


 駐車場。


 側溝。


 名前を呼び続けた。


 けれどルナは見つからなかった。


「ひより、学校へ行きなさい」


 母親が言った。


「でも」


「入学式でしょう」


「ルナが」


「お母さんが探すから」


「私が扉を開けたから逃げたんだよ」


「誰のせいかを決めるのは、見つけてからでいい」


「でも」


「ルナが帰ってきたとき、ひよりまでいなかったら困るでしょう」


 母親は無理に笑った。


「学校へ行っておいで」


 ひよりは泣きそうになりながら、青葉ヶ丘高校へ向かった。


 入学式では、校長の話も。


 担任の名前も。


 隣の席の生徒の顔も。


 ほとんど覚えていなかった。


 頭の中には、灰色の背中だけがあった。


     ◇


 三日後。


 四月十三日。


 午前七時三十七分。


 ひよりは青葉ヶ丘高校の正門前で、肩を大きく上下させていた。


「間に合った……」


 朝練開始まで、あと十分ほど。


 本来なら、もっと早く家を出るつもりだった。


 けれど、今朝もルナを探した。


 家の周囲を一周。


 近所の公園。


 掲示板へ貼った迷い猫のチラシ。


 誰かが連絡をくれていないか、スマートフォンを確認。


 結局、家を出るのが遅くなった。


「朝練?」


 声をかけられ、ひよりは顔を上げた。


 一年生の男子が立っていた。


 短く整えた髪。


 肩には陸上部のスポーツバッグ。


 少しだけ汗をかいている。


「え?」


「バッグ大きいから」


 男子がひよりのバッグを見る。


「あ……はい。バスケ部です」


「体育館なら、もう開いてるぞ」


「知ってます」


「じゃあ、何で止まったの」


 ひよりはすぐに答えなかった。


 門柱の上。


 茶色と白のまだら模様の猫が、こちらを見ている。


 右耳が少し欠けている。


 青葉ヶ丘高校で「校長」と呼ばれている猫。


 入学式の日から毎朝見かけていた。


 ルナを探しているせいで、猫の姿が目に入るたび足が止まる。


 色も違う。


 体格も違う。


 ルナではないと、一目で分かる。


 それでも、もしかすると何かを知っているのではないかと思ってしまう。


 猫同士なら、人間には分からないことが分かるのではないか。


 冷静に考えれば、そんなはずはない。


 けれど、頼れるものなら何にでも頼りたかった。


「そこにいたんだ」


 ひよりは鞄の外ポケットから、小さな赤い首輪を取り出した。


 銀色の鈴。


 内側には、油性ペンで母親の電話番号が書かれている。


「これ、あなたのじゃないよね」


 校長が首輪を見る。


 昨日の夕方。


 体育館の裏側で、この首輪を見つけた。


 朝練で使うビブスを片づけたあと、ボールを倉庫へ戻す途中だった。


 建物の壁と植え込みの間。


 土の上へ落ちていた。


 汚れていたが、間違いなくルナのものだった。


 ルナは青葉ヶ丘高校の近くまで来ている。


 少なくとも、昨日までは。


 希望が生まれた。


 同時に、首輪だけが外れていたことが怖かった。


 何かに引っかかったのか。


 誰かに外されたのか。


 事故に遭ったのではないか。


「昨日、体育館の裏に落ちてたの」


 ひよりは首輪を握った。


 門柱の猫が、鼻を動かす。


「誰かの猫、逃げたのか?」


 隣の男子が尋ねた。


 ひよりは少し迷った。


 高校へ入学してから、ルナがいなくなったことを誰にも話していない。


 担任にも。


 クラスメイトにも。


 バスケ部の先輩にも。


 言ったところで困らせるだけだと思った。


 入学したばかりの相手へ、重い話をしたくなかった。


「私の猫です」


 初めて、学校で口にした。


「いつから?」


「三日前」


 男子の表情が変わった。


 気の毒そうな顔ではない。


 真剣に考える顔。


「家は、この近く?」


「歩いて十五分くらい」


「学校まで来る可能性はあるな」


「でも、ずっと家の中で飼ってたから、道は知らないはずです」


「猫って、どれくらい移動するんだろ」


「分かりません」


「首輪があったなら、この辺にいるかもしれない」


「そう思って、朝早く来ました」


 校長が門柱から顔を近づけ、赤い首輪の匂いを嗅いだ。


 鈴が、小さく鳴る。


「この匂い、知ってる?」


 ひよりは尋ねた。


 校長は答えない。


 首輪の匂いを、もう一度嗅ぐ。


 そして門柱から飛び下りた。


 校舎側ではなく、道路の向こうへ歩き始める。


「校長?」


 男子が呼ぶ。


 猫は振り返らない。


 ひよりは反射的に後を追った。


「待って!」


 赤い首輪を握りしめ、道路を確認する。


 校長は横断歩道へ向かっている。


 信号が青へ変わるのを待つように、歩道の端で座った。


「本当に分かってるの?」


 ひよりが追いつく。


 猫は返事をしない。


 信号が変わる。


 校長が歩き出す。


 ひよりもついていく。


「先生に遅れるって言わないとな」


 背後から男子の声がした。


 振り返ると、陸上部のバッグを持った男子も走ってくる。


「来るんですか?」


「一人より二人の方が探せるだろ」


「でも、朝練」


「連絡する」


 男子はスマートフォンを取り出した。


「バスケ部にも言った方がいいんじゃない?」


「怒られます」


「無断でいなくなる方が怒られる」


「……それはそうです」


 ひよりも部活の連絡グループを開いた。


 まだ先輩ばかりで、メッセージを送るのは緊張する。


『家から逃げた飼い猫の手がかりを見つけたため、朝練に少し遅れます。申し訳ありません』


 送信。


 すぐに三年生の主将から返信が来た。


『了解。見つからなかったら練習後にみんなで探す。気をつけて』


 ひよりは画面を見つめた。


 怒られなかった。


 それどころか、探すと言ってくれた。


「何て?」


 男子が尋ねる。


「見つからなかったら、練習後にみんなで探すって」


「よかったな」


「入ったばかりなのに」


「入ったばかりでも部員だろ」


 男子は簡単に言った。


 ひよりは返事をしなかった。


 高校のバスケ部へ入ると決めたのは、中学時代から憧れていたから。


 地区大会で青葉ヶ丘高校の試合を見た。


 声をかけ合い、最後まで走り続ける先輩たち。


 自分も、このチームでプレーしたいと思った。


 しかし入学して三日。


 まだ先輩の名前も全員覚えていない。


 自分がチームの一員だという実感はなかった。


 それでも向こうは、ひよりをもう部員として扱ってくれている。


「そういえば」


 ひよりは隣を走る男子を見る。


「名前、聞いてませんでした」


「田所陸。一年三組」


「宮下ひより。一年二組です」


「よろしく」


「何をよろしくするんですか」


「猫探し」


「ああ」


 二人は校長の後を追った。


     ◇


 校長は、人間に道を教えることなど考えていないようだった。


 電柱の匂いを嗅ぐ。


 植え込みへ頭を突っ込む。


 民家の塀の上へ飛び乗る。


 気が向けば立ち止まり、前足を舐める。


「本当に案内してるのか?」


 陸が言う。


「分かりません」


「ただ散歩してるだけじゃない?」


「でも、首輪の匂いを嗅いでから歩き出しました」


「偶然かも」


「分かってます」


 ひよりの声が少し強くなった。


 陸が黙る。


「……すみません」


「いや、俺が悪い」


「田所くんの言う通りです。猫に案内してもらえるなんて、本当は思ってません」


「でも、ほかに手がかりないんだろ」


「はい」


「じゃあ、今はついていけばいい」


 陸は、校長が入った細い路地を見る。


「違ったら、別の方法を考える」


 ひよりは小さく頷いた。


 校長は学校から離れ、住宅街へ入っていく。


 道の端には、昨夜の雨でできた水たまり。


 自転車置き場。


 閉まった商店。


 ゴミ収集所。


 猫が隠れられそうな場所は、いくらでもある。


「ルナ!」


 ひよりは時々名前を呼んだ。


「ルナ!」


 返事はない。


 住宅の窓が開き、年配の女性が顔を出した。


「猫を探してるの?」


「はい。灰色で、これくらいの大きさです」


 ひよりは両手で体格を示す。


「赤い首輪だったんですけど、昨日学校の裏で見つかって」


「昨日の夜、灰色の猫なら見たよ」


「本当ですか?」


「そこの駐車場。車の下にいた」


 女性が先の角を指さす。


「呼んだら逃げたけど」


「ありがとうございます!」


 ひよりは駆け出した。


「待て、宮下!」


 陸が追う。


 校長は、二人を気にせず別の方向へ歩いていた。


 ひよりは一瞬迷った。


 目撃情報。


 校長。


 どちらを追う。


「駐車場は俺が見る!」


 陸が言った。


「宮下は校長についていけ!」


「でも」


「あとで連絡する!」


 陸は角を曲がり、駐車場へ走った。


 ひよりは校長を追う。


「校長、待って!」


 猫へ向かって人間のように呼びかけている自分が、少しおかしかった。


 けれど、笑う余裕はない。


 校長は低い塀の上へ飛び乗った。


 そのまま塀を歩き、住宅の裏手へ向かう。


 ひよりは道路側を回り込む。


 古い空き家。


 庭は雑草が伸び、門は閉じている。


 校長は塀の上から庭へ下りた。


「そこにいるの?」


 ひよりは門の隙間から中を見る。


 草。


 壊れた植木鉢。


 古い物置。


 猫が隠れるには十分な場所。


「ルナ」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


 勝手に敷地へ入ることはできない。


 表札は外されている。


 空き家なのかもしれないが、所有者はいる。


 ひよりはスマートフォンで陸へ連絡する。


『校長が空き家の庭に入りました』


 すぐに返信。


『駐車場にはいない。今行く』


 ひよりは門の前で待った。


 校長が庭の奥へ進む。


 物置の下へ鼻を近づける。


 次の瞬間。


 低い唸り声が聞こえた。


 校長が後ろへ飛び退く。


「何?」


 物置の下。


 暗がりの中で、何かが動いた。


 灰色。


 ひよりの心臓が跳ねる。


「ルナ?」


 黄色い目が、門の方を見る。


「ルナ!」


 灰色の猫は、さらに奥へ体を引いた。


 鳴かない。


 近づいてこない。


 ひよりは門へ手をかける。


 鍵がかかっている。


「ルナ、私だよ」


 赤い首輪を、門の隙間から見せる。


「迎えに来たよ」


 ルナは動かない。


 耳を伏せている。


 怯えている。


「どうして」


 呼べば来ると思っていた。


 名前を理解している。


 自分のことも分かる。


 四年間一緒にいた。


 それなのに、ルナはひよりから逃げるように暗がりへ隠れている。


「宮下!」


 陸が走ってきた。


「いた?」


「あそこ」


 ひよりが指さす。


 陸は門の隙間から庭を見る。


「灰色の猫」


「ルナです」


「間違いない?」


「分かります」


 背中の縞模様。


 左後ろ足だけ白い。


 間違えるはずがない。


「門、開かない?」


「鍵が」


「勝手に入れないな」


「でも、このままだと」


「家の持ち主を探そう」


「時間がかかります」


「驚かせて道路へ逃げたら、もっと危ない」


 陸の言葉は正しい。


 ひよりは門を握ったまま、ルナを見る。


「帰りたくないのかな」


「え?」


「呼んでも来ない」


「怖いだけだろ」


「私から逃げたんです」


 入学式の日。


 玄関を開けた。


 ルナが飛び出した。


 それから三日。


 探しても帰ってこなかった。


 ひよりの中に、小さな疑いがあった。


 ルナは、家が嫌だったのではないか。


 室内だけの暮らしが嫌で、外へ出たかった。


 ひよりに触られるのが嫌だった。


 だから逃げた。


「猫は、嫌なら帰ってこないんですか」


 ひよりが尋ねる。


「俺に聞かれても」


「そうですよね」


「でも」


 陸は少し考えた。


「怖いときって、知ってる相手にも近づけないことあるんじゃない?」


「猫でも?」


「俺、猫の気持ちは分からないけど」


 陸は門の前へしゃがむ。


「俺も怖いとき、仲間から電話来ても出なかった」


「何が怖かったんですか」


「中学の最後の大会で転んだ」


 陸は短く説明した。


 リレー。


 アンカー。


 最下位。


 仲間は責めなかった。


 それでも三日間、誰とも話せなかった。


「心配してくれてるのは分かってた」


 陸が言う。


「でも、顔を見たら自分が失敗したことを思い出すから、逃げた」


「ルナも?」


「外へ出た自分を責めてるとは思わないけど」


「当たり前です」


「猫だからな」


 少しだけ笑いそうになった。


 陸は続ける。


「でも、三日間ずっと怖かったなら、今すぐ普段通りには戻れないかもしれない」


「じゃあ、どうしたら」


「いつも通りのもの、持ってない?」


「いつも通り?」


「餌とか、毛布とか」


 ひよりは考える。


 鞄の中には何もない。


 赤い首輪だけ。


 ルナが毎日使っていたもの。


 名前を呼ぶ。


 餌を出す。


 それ以外。


「歌」


「歌?」


「私、ルナが寝るとき、よく歌ってたんです」


「何を」


「童謡」


「歌えば?」


「ここで?」


「ほかに誰もいない」


「田所くんがいます」


「俺は聞かないふりする」


「無理です」


「猫を連れて帰りたいんだろ」


 正論だった。


 ひよりは門の前へしゃがんだ。


 ルナが見える位置。


 けれど、近づきすぎない。


 何を歌う。


 家でよく歌っていた曲。


 母親が子どもの頃、ひよりへ歌った曲。


 ひよりがルナへ歌うようになった曲。


 小さく息を吸う。


「ゆうやけ、こやけで……」


 声が震えた。


 恥ずかしい。


 朝の住宅街。


 知らない男子の前。


 空き家の門へ向かい、一人で童謡を歌っている。


 通行人が来たら、確実に変な目で見られる。


 それでも続ける。


「ひが、くれて……」


 ルナの耳が動いた。


 ひよりは歌う。


 家の居間。


 ソファ。


 膝の上で丸くなるルナ。


 喉を鳴らす音。


 思い出しながら。


「おてて、つないで……」


 途中で涙が出た。


 声が詰まる。


「みな、かえろ……」


 ルナが物置の下から、少しだけ前へ出た。


 ひよりは動かなかった。


 手も伸ばさない。


 歌い続ける。


「からすと、いっしょに……」


 ルナがもう一歩。


 校長は離れた場所に座り、じっと見ている。


 陸も何も言わない。


「かえりましょ……」


 歌い終わる。


 ルナは物置の外へ出ていた。


 泥で汚れている。


 首元の毛が乱れている。


 体が少し細く見えた。


「ルナ」


 ひよりは今度は名前だけを呼んだ。


 ルナが鳴いた。


 小さな声。


 三日ぶりに聞く声。


 ひよりは両手で口元を押さえた。


 すぐに駆け寄りたい。


 抱きしめたい。


 けれど門がある。


 ルナを驚かせるかもしれない。


「どうしよう」


 そのとき、背後から別の声がした。


「そこの家なら、管理してる人知ってるよ」


 振り返る。


 先ほど窓から教えてくれた年配の女性だった。


「自治会長さんが鍵持ってる。電話してあげる」


「本当ですか?」


「灰色の猫、この庭へ入るところ見たから、気になって」


「お願いします!」


 女性がスマートフォンを取り出す。


 十分ほどで、自治会長の男性が鍵を持ってきた。


 事情を説明すると、門を開けてくれた。


「急に入ると逃げるかもしれん。ゆっくりな」


「はい」


 ひよりは庭へ入った。


 一歩。


 ルナが身を低くする。


 ひよりは止まる。


「大丈夫」


 自分へ言うように、ルナへ言う。


「怒ってないよ」


 そもそも、怒る資格などない。


 扉を開けたのは自分。


 追いかけて怖がらせたのも自分。


「帰ろう」


 もう一歩。


 ルナは逃げない。


「お母さん、待ってるよ」


 一歩。


「ごはんもあるよ」


 もう一歩。


「私の椅子も、ルナにあげるから」


 陸が門の外で小さく笑った。


 ひよりは振り返らない。


「毎日座っていいよ」


 手を伸ばせば届く距離。


 それでも、ひよりは手を出さなかった。


 ルナから来るのを待つ。


 好かれる人は追いかけない。


 母親の言葉を思い出した。


 ルナが鼻を動かす。


 ひよりの靴。


 制服の裾。


 手。


 匂いを確かめる。


 そして、ひよりの足元へ体をこすりつけた。


「ルナ」


 今度は、ゆっくり抱き上げた。


 灰色の体。


 軽い。


 温かい。


 心臓が速く動いている。


 ルナは抵抗しなかった。


 ひよりの腕の中へ顔を埋めた。


「ごめんね」


 涙が落ちた。


「ごめん」


 ルナが、ひよりの顎へ鼻をつけた。


「帰ろう」


 赤い首輪をつける。


 鈴が小さく鳴る。


 三日ぶりに、ルナの音が戻った。


     ◇


 ルナを見つけたあと、母親へ連絡した。


 電話口で、母親はしばらく何も言わなかった。


 それから、


『よかった』


 と、泣きながら答えた。


 すぐに迎えに来ると言ったが、ひよりは学校へ連れていくことにした。


 一度動物病院で診てもらう必要はある。


 ただ、朝練へ遅れると連絡したまま、何も言わず帰宅するのもよくない。


 学校の警備員室で待たせてもらい、母親に迎えに来てもらうことになった。


「校内、猫を入れて大丈夫かな」


 陸が尋ねる。


「警備員さんに聞きます」


 ひよりはルナをしっかり抱えている。


「逃げない?」


「もう離しません」


「それ、猫は嫌がるんじゃない?」


「……少し緩めます」


 ルナは腕の中で大人しくしている。


 帰り道。


 校長は二人と一匹の前を歩いた。


「結局、校長が案内したのかな」


 陸が言う。


「分かりません」


「でも空き家まで行った」


「ルナの匂いを知ってたんでしょうか」


「体育館の裏で会ってたとか」


「猫同士で?」


「校長、学校の周辺詳しそうだし」


 校長が立ち止まり、振り返る。


「何」


 ひよりが尋ねる。


 猫はルナを見る。


 ルナも校長を見る。


 二匹は鳴かない。


 しばらく、ただ見つめ合う。


 それから校長は再び歩き出した。


「知り合いっぽい」


 陸が言う。


「猫の知り合いって、どういう関係なんでしょう」


「同級生?」


「年齢違うと思います」


「先輩と後輩」


「学校じゃないんだから」


「校長だけど」


「名前だけです」


 ひよりは、三日ぶりに自然に笑った。


 正門へ戻ると、警備員が驚いた。


「校長が増えた?」


「違います。飼い猫です」


「見つかったのか」


「はい」


「よかったなあ」


 事情を話すと、警備員室の中にある小さな段ボール箱を貸してくれた。


「前に保護猫を入れたやつ。母さんが来るまで、ここで見てるよ」


「ありがとうございます」


 ひよりはルナを箱へ入れた。


 蓋は閉めない。


 警備員が水を用意する。


 ルナは少しだけ飲んだ。


「宮下」


 バスケ部の先輩が正門の内側から走ってきた。


 三年生の主将。


 高瀬美緒。


「見つかった?」


「はい」


「よかった!」


 美緒は箱の中をのぞき込む。


「この子?」


「ルナです」


「かわいい」


 すぐに手を出さず、少し離れて見る。


 猫の扱いに慣れているようだった。


「怪我は?」


「見た感じはないです。でも母が迎えに来たら、病院へ」


「今日は部活休んでいいよ」


「でも」


「猫を連れて帰ってあげな」


「朝練、無断で」


「連絡したでしょう」


「遅れますって」


「理由を聞いて、誰が怒るの」


 美緒はひよりを見る。


「ただし、次に何かあったら、一人で抱えないこと」


「……はい」


「昨日、首輪見つけたときも、言えばみんなで探したのに」


「まだ入部したばかりだから」


「だから?」


「迷惑になると思って」


「一年生が頼るのは迷惑じゃない」


 美緒は言った。


「先輩に頼らない方が、先輩としては寂しい」


 ひよりは、見つけたばかりのルナを見る。


 ルナを探すのは、自分の責任。


 自分が逃がした。


 自分で見つけなければ。


 そう思っていた。


 けれど実際に見つけられたのは、たくさんの人がいたからだ。


 窓から目撃情報をくれた女性。


 鍵を持ってきてくれた自治会長。


 一緒に走った陸。


 朝練へ遅れることを許してくれた先輩。


 そして、何を考えているか分からない一匹の猫。


「すみません」


「謝らなくていい」


 美緒は笑う。


「今度から言って」


「はい」


「写真、部活のグループに送っていい?」


「何のですか」


「見つかった報告。みんな心配してる」


 美緒がルナの写真を撮る。


 数秒後。


 ひよりのスマートフォンに、次々とメッセージが届いた。


『よかった!』


『かわいい!』


『今度会わせて』


『宮下も無事?』


『病院終わったら結果教えて』


 名前と顔がまだ一致しない先輩もいる。


 それでも皆、ルナとひよりを心配してくれていた。


「部員だろ」


 隣で陸が言った。


「聞こえてます」


「さっき言った」


「二回言わなくていいです」


「大事なことだから」


 ひよりは少しだけ笑った。


「田所くんも、ありがとうございました」


「俺、ほとんど走っただけ」


「走るの得意なんでしょう?」


「一応」


「役に立ちました」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


「たぶんか」


 陸は時計を見る。


「俺、朝練行く」


「今から?」


「まだ少しできる」


「遅れたの、私のせいですよね」


「自分で来たから、宮下のせいじゃない」


「でも」


「気になるなら、今度バスケ部の練習で走るとき勝負しよう」


「私、バスケ部ですよ」


「コートの端から端まで」


「陸上部に勝てるわけないでしょう」


「じゃあハンデ」


「要りません」


「負けず嫌い?」


「普通です」


「負けず嫌いだな」


 陸は笑い、グラウンドへ向かって走った。


 その背中は、途中で一度も振り返らなかった。


     ◇


 母親が到着し、ルナを動物病院へ連れていった。


 幸い、軽い脱水と空腹だけだった。


 大きな怪我はない。


 念のため検査を受け、昼前には帰宅できた。


 ひよりは学校を休もうと思ったが、母親に言われた。


「ルナはお母さんが見てるから、学校へ戻りなさい」


「でも」


「三日間探して、見つけた。病院にも連れてきた。ひよりの役目は果たしたでしょう」


「ルナ、またいなくなったら」


「窓も扉も閉める」


「本当に?」


「今度はお母さんが責任を持つ」


 母親は、診察台の上で丸くなるルナを撫でた。


「それに、ひよりにも帰る場所が増えたんじゃない?」


「帰る場所?」


「学校」


 母親のスマートフォンには、ひよりが見せたバスケ部のグループメッセージが表示されている。


「待ってくれてる人がいるでしょう」


 ひよりは午後から学校へ戻った。


 一年二組の教室へ入ると、担任が少し驚いた。


「猫は?」


「見つかりました」


「よかったな」


 クラスメイトたちがこちらを見る。


 ルナのことを知らない者ばかり。


 ひよりは自分の席へ向かった。


 すると、前の席の女子が振り返った。


「猫、いなくなってたの?」


 名前は、佐々木菜月。


 入学式の日に一度だけ話した。


「うん。今日見つかった」


「写真ある?」


「見る?」


 スマートフォンを見せる。


 灰色のルナ。


 赤い首輪。


「かわいい!」


 菜月の声に、近くの女子生徒も集まってきた。


「何?」


「宮下さんの猫」


「見せて」


「名前は?」


「ルナ」


「女の子?」


「うん」


 会話が広がる。


 どこで見つけたのか。


 何歳なのか。


 どうして逃げたのか。


 ひよりは一つずつ答えた。


 今までなら、家のことを話すのが少し苦手だった。


 猫の写真を見せるのも、親しい人だけ。


 けれど今日は、ルナが帰ってきたことを誰かに話したかった。


「今度もっと写真見せて」


 菜月が言う。


「動画もあるよ」


「見たい」


「あとで送る」


「連絡先交換しよう」


 スマートフォンを出す。


 入学四日目。


 ひよりに、クラスで初めて連絡先を交換する相手ができた。


 ルナが逃げたことは、最悪の出来事だった。


 なかったことにしたい三日間。


 そう思っていた。


 けれど、この出来事があったから話した人もいる。


 助けてもらった。


 バスケ部の先輩との距離が少し近づいた。


 クラスメイトと連絡先を交換した。


 だからといって、ルナが逃げてよかったとは思わない。


 怖かった時間は、怖かったまま。


 失敗は、成功へ変わったりしない。


 ただ、その続きをどうするかは選べる。


 陸が言っていた。


 終わった大会を走り直すのではなく、次を走る。


 ひよりも、三日前の玄関へ戻ることはできない。


 扉を開けなかったことにはできない。


 けれど、これからはルナが外へ出ないよう気をつけられる。


 誰かに頼ることもできる。


 ルナとの次の一日を始められる。


     ◇


 放課後。


 ひよりは体育館へ向かった。


 午前中休んだ分、練習についていけるか不安だった。


 体育館の扉を開ける。


「宮下!」


 主将の美緒が呼ぶ。


「猫、どうだった?」


「軽い脱水だけでした。怪我はありません」


「よかった」


 先輩たちも安心したように笑う。


「写真見た」


「かわいかった」


「今度部活に連れてきて」


「学校には連れてきません」


 ひよりが即答すると、皆が笑った。


「その方がいい」


「また校長についていったら困るし」


「校長と知り合いなんじゃない?」


 朝の出来事は、美緒から皆へ伝わっているらしい。


 ひよりは体育館の床を見る。


「今日は練習、参加していいですか」


「もちろん」


「休んでもいいって言ったけど」


「家には母がいます。私も練習したいです」


 美緒が少し笑う。


「じゃあ着替えておいで」


「はい!」


 更衣室へ走る。


 ユニフォームではなく、練習着。


 新しいバスケットシューズ。


 まだ足に馴染んでいない。


 紐を結ぶ。


 コートへ戻る。


 ウォーミングアップ。


 ランニング。


 ストレッチ。


 基礎練習。


 ボールが床を叩く音。


 シューズが擦れる音。


 先輩たちの声。


 久しぶりに、頭の中からルナの姿が消えた。


 消えたことに罪悪感はなかった。


 ルナは家にいる。


 母親が見ている。


 自分はここにいていい。


「宮下、次!」


「はい!」


 パスを受ける。


 ドリブル。


 右からレイアップ。


 ボールがリングへ当たり、外れる。


「ごめんなさい!」


 反射的に言う。


 美緒がボールを拾った。


「今のは謝らなくていい」


「でも外しました」


「次、決めればいい」


 ボールが返ってくる。


 ひよりは再び走る。


 同じ右側。


 踏み込む。


 ボールを放つ。


 今度はリングを通った。


「ナイス!」


 先輩の声。


 ひよりは着地し、そのまま守備へ戻る。


 失敗した場所は、もうそこにはない。


 同じコート。


 同じゴール。


 けれど、次の一本は別の一本だ。


     ◇


 夜。


 ひよりが帰宅すると、ルナはいつもの椅子で丸くなっていた。


 赤い首輪。


 銀色の鈴。


 泥は拭かれ、毛もきれいになっている。


「ただいま」


 ひよりが声をかける。


 ルナは目を開けた。


「帰ってきたよ」


 近づく。


 以前なら、すぐに抱き上げただろう。


 今日は隣の椅子へ座るだけにした。


「私の席、使っていいって言ったもんね」


 ルナが体を起こす。


 椅子から床へ飛び下りた。


「退くの?」


 そして、ひよりの足元へ来る。


 前足を膝へかける。


「抱っこ?」


 手を差し出す。


 ルナは自分から膝の上へ乗った。


「……重い」


 嘘だった。


 三日間、ずっと軽く感じていた腕が、ようやく元の重さを取り戻した。


「おかえり」


 ひよりは小さく言った。


 ルナの喉が鳴る。


 ひよりは、あの童謡を歌い始めた。


 途中で母親が台所から顔を出した。


「久しぶりに歌ってるね」


「ルナが歌えって」


「本当に?」


「たぶん」


「猫の言葉が分かるようになったの?」


「分からない」


 ひよりはルナの背中を撫でる。


「分からなくても、待てば来てくれることは分かった」


 母親は何も言わず、少し笑った。


     ◇


 翌朝。


 四月十四日。


 午前七時二十分。


 ひよりは昨日より早く家を出た。


 玄関を開ける前に、ルナが廊下にいないことを確認する。


 リビングとの扉を閉める。


「行ってきます」


 扉の向こうから、鈴の音が聞こえた。


 ルナがいる。


 それだけで安心できた。


 青葉ヶ丘高校へ着く。


 校門の上には校長。


「おはよう」


 ひよりが声をかける。


 猫は目を開ける。


 鞄から、小さな猫用のおやつを取り出した。


「昨日のお礼」


 門柱の下へ一つ置く。


 校長が飛び下り、匂いを嗅ぐ。


「本当に案内してくれたのかは、分からないけど」


 猫は食べる。


「ルナ、無事だった」


 校長は二つ目を待つ。


「聞いてる?」


 待っている。


「一つだけ」


 ひよりはもう一つ置いた。


「食べすぎると体に悪いから」


 校長は不満そうにひよりを見る。


「ルナにも、いつも言ってる」


 そのとき、体育館側からボールが転がってきた。


 オレンジ色のバスケットボール。


 正門近くまで来て、ひよりの靴へ当たる。


「あっ、すみません!」


 体育館の方向から、一人の男子生徒が走ってきた。


 二年生。


 バスケットボール部の練習着。


 額には汗。


 右足を少し引きずっている。


 ひよりはボールを拾った。


「どうぞ」


「ありがとう」


 男子生徒が手を伸ばす。


 その瞬間、校長が二人の間を横切った。


 男子生徒が足を止める。


「危ない」


 急に止まったせいで、右足が崩れる。


「大丈夫ですか?」


 ひよりが支える。


「平気」


 男子生徒はすぐに答えた。


 右足首には、黒いサポーターが巻かれている。


「怪我してるんですか」


「少し捻っただけ」


「走って大丈夫なんですか」


「大丈夫」


 同じ言葉を繰り返す。


 ひよりは、昨日の陸を思い出した。


 大丈夫と言う人が、本当に大丈夫とは限らない。


 ピアノを怖がっていた鈴のことも、ひよりは知らない。


 しかし、同じ学校のどこかで、似た言葉を飲み込んでいる人は何人もいる。


「痛そうですけど」


「試合、近いから」


 男子生徒はボールを受け取る。


「誰にも言わないで」


「でも」


「本当に大したことない」


 そう言って笑い、体育館へ戻っていく。


 右足を少しだけ引きずりながら。


 ひよりは、その背中を見送った。


 校長が足元で鳴く。


「私、どうしたらいいと思う?」


 猫は答えない。


 けれど、ひよりはもう知っている。


 返事がないからといって、何もしなくていいわけではない。


 誰かが帰れなくなる前に。


 帰る場所を見失う前に。


 声をかけることくらいはできる。


 ひよりはバスケットボール部の連絡グループを開いた。


 男子部の主将の名前を探す。


 少し迷ったあと、メッセージを打ち始めた。


 正門の向こう。


 体育館では、再びボールの弾む音が響いていた。


 その音の一つだけが、少し不自然な間隔で続いていた。

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