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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第5話 転んだ場所は、もうここにはない

 田所陸は、走ることが好きだった。


 速いから好きになったのか。


 好きだったから速くなったのか。


 本人にも、もうよく分からない。


 幼い頃から、考えるより先に足が動く子どもだった。


 母親に呼ばれれば廊下を走り、父親が帰ってくれば玄関まで走り、近所の公園へ遊びに行くときも、友達と並んで歩くことができなかった。


「危ないから走らないの」


 何度注意されても、三歩後にはまた走っている。


 転んでは膝を擦りむき、母親に呆れられた。


「どうしてそんなに走りたいの?」


 そう尋ねられたことがある。


 陸は少し考えてから、


「歩くより早いから」


 と答えた。


 母親は笑った。


「そりゃそうだけど」


 当時の陸には、それ以外の理由など必要なかった。


 速く進める。


 風が顔へ当たる。


 周りの景色が後ろへ流れていく。


 それだけで楽しかった。


 小学校に入ると、運動会の徒競走では毎年一位になった。


 足の速い子。


 いつの間にか、それが陸の一番分かりやすい特徴になった。


 勉強は普通。


 絵は下手。


 歌えば音が外れる。


 人前で話すのは苦手ではないが、特別うまいわけでもない。


 けれど走れば、誰より速かった。


 中学校では迷わず陸上部へ入った。


 短距離。


 百メートル。


 二百メートル。


 四百メートルリレー。


 走るたびに記録が出た。


 顧問から期待された。


 仲間から頼りにされた。


 大会ではアンカーを任された。


 自分は走る人間だ。


 ずっと、そう信じていた。


 だからこそ、中学最後の大会で転んだ瞬間、陸は自分の全てを失ったような気がした。


     ◇


 四月十二日。


 午前七時二十五分。


 青葉ヶ丘高校のグラウンドには、朝の冷たい空気が残っていた。


 空は晴れている。


 昨夜降った雨のせいで、トラックの内側には小さな水たまりができていた。


 赤茶色の走路は少し湿っている。


 陸上部の朝練へ参加している一年生は、田所陸を含めて四人。


 正式入部はまだだが、全員すでに入部届を出している。


「一年、アップ始めるぞ」


 二年生の部員が声を上げる。


「はい!」


 陸は答え、ほかの一年生とともに走り始めた。


 グラウンドを二周。


 軽いジョギング。


 腕を回し、腿を上げ、徐々に体を温める。


 走り出せば、余計なことを考えずに済む。


 足の裏が地面を押す感触。


 呼吸。


 腕の振り。


 隣を走る相手の足音。


 それだけに集中すればいい。


「田所、速いな」


 隣を走っていた一年生が言った。


 名前は松岡亮。


 中学ではサッカー部だったが、高校から陸上を始めるらしい。


「まだアップだぞ」


「アップでも速いって」


「松岡がゆっくりなんじゃないか」


「初心者に厳しいな」


 二人で笑う。


 陸は速度を少し落とした。


 グラウンドの端。


 校舎三階の音楽室から、ピアノの音が聞こえた。


 昨日より少しだけ滑らかな『愛の挨拶』。


 まだ間違える。


 それでも、途中で止まる回数は減っている。


 陸は音楽室の窓を見上げた。


 朝練へ向かう途中、廊下で小宮山鈴を見かけた。


 一年三組の隣の席。


 入学してから、何度か話した程度の相手。


 いつも丁寧な言葉を使い、少し近寄りがたい。


 昨日までは、そう思っていた。


 けれど音楽室でピアノを弾く鈴は、教室にいるときとは違って見えた。


 怖がっている。


 それでも鍵盤へ触れている。


 陸は扉の外から、


『走り直せた?』


 と口だけで尋ねた。


 鈴は頷いた。


 それを見て、陸は少し嬉しかった。


 同時に、自分は本当に走り直せているのかと考えた。


 高校の陸上部へ入った。


 また毎日走っている。


 それだけなら、答えは「はい」だ。


 けれど、リレーのバトンを持つと、今も右足が重くなる。


「田所!」


 声が飛んできた。


 陸は我に返る。


「ぼんやりするな。次、流し!」


「はい!」


 百メートルの直線を、七割程度の力で走る。


 一年生四人が横へ並ぶ。


 スタートライン。


 陸は姿勢を整える。


「行くぞ。三、二、一!」


 走り出す。


 足は動く。


 ほかの一年生をすぐに引き離す。


 風を切る。


 速い。


 自分でも分かる。


 ゴール。


「やっぱ速いな」


 松岡が息を弾ませながら追いつく。


「中学で何やってた?」


「短距離」


「大会とか出てた?」


「一応」


「どれくらい?」


「県大会」


「まじか。じゃあ、リレーの選手とか?」


 その言葉に、陸の右足がわずかに強張った。


「まあ」


「アンカー?」


「一回だけ」


「一回だけ?」


「最後の大会で」


「結果は?」


 松岡に悪気はない。


 単純に興味を持っただけだ。


 それでも陸は、すぐには答えられなかった。


「最下位」


「え?」


「俺が転んだから」


 松岡の表情が止まった。


「ごめん」


「何で謝るんだよ」


「聞かない方がよかったかなって」


「別に。昔の話だ」


 陸は笑った。


 うまく笑えていたと思う。


「そのあと、また走った?」


「今走ってるだろ」


「そうじゃなくて、リレー」


 陸は答えなかった。


 転んだあとも、練習ではバトンを持った。


 けれど大会には出ていない。


 中学最後の大会だったのだから、当然だ。


 高校で再びリレーへ出場しない限り、あの続きを走ることはできない。


「今度は転ばないといいな」


 松岡が言った。


 無神経と言えば無神経だった。


 だが、陸は嫌ではなかった。


 腫れ物に触るような同情より、ずっと楽だった。


「次はお前にバトン渡すかもな」


「俺、足遅いよ」


「速くなれ」


「やっぱ厳しいな」


 監督の笛が鳴る。


「一年、集合!」


 二人は先輩たちのもとへ走った。


     ◇


 中学最後の大会は、夏だった。


 陸たちの学校は、四百メートルリレーで県大会出場を狙っていた。


 第一走者の高橋。


 第二走者の佐野。


 第三走者の木村。


 アンカーの陸。


 四人は一年生の頃から一緒に走っていた。


 全員が特別速かったわけではない。


 個人種目なら、陸以外は県大会へ届かない。


 けれどバトンパスだけは、どの学校にも負けない自信があった。


 放課後。


 休日。


 雨の日は廊下。


 何度も何度も、バトンを渡した。


「声、小さい!」


「もっと前で受けろ!」


「田所、走り出すの遅い!」


「木村が遅いんだろ!」


「人のせいにすんな!」


 喧嘩もした。


 顧問に怒鳴られた。


 それでも記録は少しずつ縮まった。


 大会当日。


 予選を通過した。


 決勝では、上位三校が県大会へ進める。


 第三走者の木村から、陸へバトンが渡る。


 三位。


 前を走る二人との差は、ほとんどない。


 行ける。


 陸は思った。


 ここから抜ける。


 バトンを握る。


 腕を振る。


 カーブへ入る。


 前の選手の背中が近づく。


 あと少し。


 そこで、右足のスパイクが走路へ引っかかった。


 理由は分からない。


 焦って足が前へ出すぎたのか。


 体が内側へ傾いたのか。


 ただ、地面が急に顔の前へ迫った。


 肩から走路へ倒れた。


 手のひらが擦れる。


 膝へ強い痛みが走る。


 バトンが手を離れた。


 視界の端で、ほかの選手たちが走り去っていく。


 歓声が遠くなった。


 陸は地面へ倒れたまま、バトンを探した。


 数メートル先へ転がっている。


 立ち上がる。


 足が痛い。


 それでも拾う。


 走る。


 すでに誰も見えない。


 ゴールまで残り七十メートル。


 観客席から拍手が聞こえた。


「頑張れ!」


「最後まで走れ!」


 応援の声。


 陸には、それが一番苦しかった。


 頑張れと言われなくても走る。


 最後まで走るしかない。


 けれど、もう勝負は終わっている。


 仲間たちの三年間を、自分が終わらせた。


 陸は最下位でゴールした。


 木村たちが駆け寄ってきた。


「大丈夫か?」


「怪我は?」


「バトン拾ってくれてよかった」


 誰も責めなかった。


 それが余計に苦しかった。


「ごめん」


 陸は何度も言った。


「ごめん」


 高橋が肩を叩く。


「転ぶこともある」


「でも」


「陸がアンカーじゃなかったら、決勝まで来てない」


 正しいことを言ってくれた。


 けれど、陸は受け取れなかった。


「ごめん」


 それしか言えなかった。


 その日から三日間、陸は誰とも話さなかった。


 家でも。


 学校でも。


 陸上部の仲間とも。


 木村からメッセージが来た。


『お前のせいじゃない』


 返事をしなかった。


 高橋から電話が来た。


 出なかった。


 四日目。


 陸は一人で学校のグラウンドへ行った。


 大会は終わり、三年生は引退していた。


 誰もいないトラック。


 大会とは違う場所。


 それでも陸は、アンカーのスタート地点へ立った。


 バトンはない。


 一人で走り出した。


 最初のカーブ。


 転んだ場所ではない。


 分かっている。


 それでも右足が止まりそうになった。


 速度を落とした。


 ゴールまで走った。


 記録は測らなかった。


 何度も繰り返した。


 けれど、転んだ大会の感覚は消えなかった。


 同じ場所を走り直したかった。


 同じ仲間と。


 同じバトンで。


 同じレースを。


 当然、それはできない。


 終わった大会は戻らない。


 だから陸は、高校でも陸上部へ入ると決めた。


 もう一度リレーへ出る。


 今度は転ばない。


 そうすれば、あの日をやり直せる気がした。


     ◇


 朝練が終わり、陸は一年三組の教室へ入った。


 小宮山鈴は、すでに席へ座っていた。


 机の中へ何かをしまっている。


「おはよう」


 陸が声をかける。


 鈴が顔を上げた。


「おはようございます」


「今日も音楽室行った?」


「はい」


「弾いた?」


「少しだけ」


「走り直せたな」


 陸が笑うと、鈴はわずかに眉を寄せた。


「田所くんは、何でも走ることに例えるんですね」


「分かりやすいだろ」


「音楽と陸上は違います」


「失敗しても、もう一回やるのは同じじゃない?」


「単純すぎます」


「複雑に考えすぎじゃない?」


「田所くんが考えなさすぎです」


「それはよく言われる」


 陸は隣の席へ座る。


「でも、ピアノ教えたんだろ?」


「どうして知っているんですか」


「廊下から見えた」


「見ていたんですか」


「少しだけ」


「忘れてください」


「努力する」


 鈴がため息をつく。


「最近、その返事をよく聞きます」


「流行ってるのか?」


「知りません」


 鈴は鞄から入部届の控えを取り出した。


 部活動名には、音楽部。


「本当に入ったんだな」


「昨日言ったでしょう」


「よかったじゃん」


「まだ一日目です」


「一日目が一番大事だろ」


「どうしてですか」


「始めなきゃ、二日目は来ないから」


 陸は何気なく言った。


 鈴が少し黙る。


「田所くんは」


「何?」


「陸上を始め直せたんですか」


 昨日、自分から話した。


 好きだったものが怖くなった場合はどうするのか。


 その問いに、陸は、


「怖くなくなるまで近くにいれば?」


 と答えた。


 だが、自分はどうなのか。


「部活には入った」


「そうではなくて」


「リレー?」


 鈴は頷く。


「まだ」


「怖いんですか」


「怖くはない」


 反射的に否定した。


 鈴は何も言わない。


 陸は机の上へ視線を落とす。


「……少しだけ」


「そうですか」


「笑わないの?」


「私が笑えるわけないでしょう」


「それもそうだな」


 鈴は少し考えた。


「同じ場所を走り直したいんですか」


「できるなら」


「でも、中学校の大会は終わっています」


「分かってる」


「同じ仲間でもない」


「分かってるって」


「では、走り直せません」


 陸は顔を上げた。


「厳しいな」


「事実です」


「小宮山、たまに容赦ないよな」


「田所くんに言われたくありません」


「昨日、上手に弾けって誰も言ってないって朝霧に言われたんだろ」


「どうしてそこまで知っているんですか」


「音楽室の扉、開いてたから」


「盗み聞きです」


「聞こえたんだよ」


「忘れてください」


「努力する」


「絶対忘れないでしょう」


 鈴は少し不機嫌そうに言った。


 陸は笑った。


「でも、小宮山は同じ曲を弾き直したんじゃないだろ?」


「昔の発表会で弾いた曲です」


「同じ舞台じゃない」


「そうですね」


「同じ客もいない」


「はい」


「それでも走り直せたって頷いた」


 鈴は黙った。


「じゃあ俺も、別の場所でいいんじゃないか」


「私に聞かないでください」


「小宮山が言ったんだろ。同じ大会は走り直せないって」


「だからといって、別の大会で転ばなければ過去が消えるわけではありません」


「消したいわけじゃない」


 口にしてから、陸は自分の本当の気持ちに気づいた。


 ずっと、消したいと思っていた。


 あの日の転倒。


 仲間の顔。


 最下位のゴール。


 全部なかったことにしたかった。


 けれど、本当に消してしまえば。


 高橋たちと何度も練習した時間も。


 予選を通過した喜びも。


 転んだあと、最後まで走ったことも。


 全て消えてしまう。


「俺、走り直したいんじゃなくて」


 陸はゆっくり言った。


「次を走りたいのかも」


 鈴が陸を見る。


「次?」


「あの大会の続きじゃない。新しいリレー」


「それなら、できますね」


「簡単に言うな」


「田所くんが言ったんでしょう」


「そうだけど」


「では、やればいいです」


 鈴は教科書を机へ出す。


「音を一つ出すより簡単でしょう。田所くんは、もう走れるんですから」


 今度は陸が返事をできなかった。


 確かに走れる。


 足は動く。


 記録も落ちていない。


 怖いのは、バトンを持って走ること。


 なら、持てばいい。


 そんなに簡単なことではない。


 けれど鍵盤を怖がっていた鈴が、一音を出したように。


 まずは一本、バトンを持って走ればいい。


     ◇


 放課後。


 陸上部の体験練習には、朝より多くの一年生が参加していた。


 短距離。


 長距離。


 跳躍。


 投擲。


 それぞれ希望する種目へ分かれる。


 陸は短距離グループへ入った。


 顧問は、体育教師の新田。


 三十代。


 短く刈った髪。


 声が大きい。


「今日はタイム計測のあと、リレーのバトン練習をする」


 その言葉に、陸の心臓が強く鳴った。


「一年も全員参加。経験者が初心者へ教えろ」


「はい!」


 周囲が返事をする。


 陸も少し遅れて答えた。


 百メートルのタイム計測。


 陸は一年生の中で一番速かった。


 二年生と比べても上位。


「田所、中学のベストは?」


 新田が尋ねる。


「十一秒七です」


「悪くない。高校で十一秒前半を狙える」


「はい」


「リレー経験は?」


 まただ。


 答えなければならない。


「あります」


「ポジションは?」


「アンカーでした」


「じゃあ一年の指導頼む」


「……はい」


 断る理由はなかった。


 松岡を含む初心者三人へ、バトンの持ち方から教える。


「握りすぎるな。落とさない程度でいい」


「これくらい?」


「もう少し下。渡す方が持ちやすい」


「右手と左手どっち?」


「走順によるけど、基本は交互」


 説明はできる。


 自分で何百回もやった。


 受け渡しの姿勢。


 声を出すタイミング。


 手の角度。


 相手との距離。


「田所、見本」


 新田が言う。


 陸の体が固まる。


「二年の柴田と組め。田所が受ける側」


 二年生の柴田がバトンを持つ。


「よろしく」


「お願いします」


 二人でテークオーバーゾーンへ移動する。


 陸が前。


 柴田が後ろ。


「軽くでいいぞ」


 柴田が言う。


「はい」


「声かけるから」


 陸はスタート位置へ立つ。


 前を見る。


 走り出すタイミングを測るため、肩越しに後方を確認する。


 柴田が近づく。


 走り出す。


 加速。


「はい!」


 声。


 左手を後ろへ伸ばす。


 バトンが手のひらへ当たる。


 その瞬間。


 夏の大会が戻ってきた。


 木村の声。


 バトンの感触。


 カーブ。


 引っかかる右足。


 転がるバトン。


 陸の速度が落ちた。


 バトンを握れない。


 手のひらへ当たったまま、地面へ落ちる。


 乾いた音。


 練習が止まった。


「悪い」


 柴田が言う。


「渡す位置、ずれた」


「違います」


 陸は地面のバトンを見る。


「俺が」


 周囲の視線が集まる。


 一年生たち。


 二年生。


 顧問。


 笑っている者はいない。


 けれど、同情されるのも嫌だった。


「もう一回お願いします」


 陸はバトンを拾った。


 柴田が少し驚く。


「大丈夫か?」


「はい」


 新田が陸を見る。


「無理するな」


「無理じゃないです」


 大丈夫。


 昔から、そう言ってきた。


 痛くても。


 怖くても。


 大丈夫。


 しかし今回は、少し違った。


 本当に大丈夫だからではない。


 大丈夫になるために、もう一度やる。


「お願いします」


 陸は位置へ戻る。


 後ろから松岡の声がした。


「田所!」


 振り返る。


「転んでも、俺が拾う!」


「縁起でもないこと言うな!」


「落としても拾う!」


「お前、走る側だろ!」


 周囲から笑いが起きる。


 陸も笑った。


 少しだけ肩の力が抜けた。


 もう一度。


 柴田が走る。


 陸は前を見る。


 近づく足音。


 走り出す。


「はい!」


 手を伸ばす。


 バトンが当たる。


 握る。


 今度は落とさなかった。


 走る。


 ただの練習。


 全力でもない。


 観客もいない。


 順位もない。


 それでも陸は、バトンを持ってゴールまで走った。


「止まれー!」


 新田の声が飛ぶ。


 陸は減速する。


 振り返る。


 柴田が手を上げた。


「今のは良かった」


「ありがとうございます」


 新田が言う。


「田所、次は渡す側。松岡に渡せ」


「はい」


 練習は続く。


 一度できたからといって、恐怖が完全に消えたわけではない。


 バトンを握るたび、右足が少し重い。


 けれど落としても、もう一度拾えばいい。


 今日の練習で初めてバトンを持つ松岡は、何度も失敗した。


 受ける手が見つからず、陸の指へぶつけた。


「痛っ!」


「ごめん!」


「手じゃなくてバトン見ろ」


「見たら前見えないだろ」


「前見ながら渡すんだよ」


「難しい!」


「だから練習するんだろ」


 今度は陸がバトンを渡す。


「はい!」


 松岡の手へ入る。


 松岡が走る。


 すぐにバトンを落とした。


「あっ!」


 地面へ転がる。


 松岡が慌てて戻る。


 陸も追いかける。


 二人の手が同時にバトンへ伸び、頭がぶつかった。


「いてっ!」


「田所が来るから!」


「お前が遅いからだろ!」


 二人でバトンを取り合いながら笑う。


 転がったバトン。


 拾う仲間。


 その光景は、あの日と同じではなかった。


 けれど、もう怖いだけのものでもなかった。


     ◇


 練習後。


 陸はグラウンドの端でストレッチをしていた。


 空は夕方の色へ変わっている。


 松岡が隣へ座った。


「さっき、バトン落としたとき変だったよな」


 陸は前屈しながら答える。


「何が」


「田所。顔真っ青だった」


「そうか?」


「俺より緊張してた」


「経験者だから、失敗できないと思っただけ」


「本当?」


「本当」


 松岡は疑っているようだった。


 陸は少し迷った。


 中学最後の大会。


 転倒。


 最下位。


 朝、話したところまでは松岡も知っている。


「バトン持ったの、あの大会以来だった」


 陸は言った。


「練習でも?」


「中学の引退後は、一人で走ってたから」


「怖かった?」


「少し」


「少し?」


「かなり」


 正直に言うと、少し楽になった。


 松岡は地面の小石を拾い、指で弾いた。


「俺、田所でも怖いことあるんだって安心した」


「何だそれ」


「速いやつって、何でも簡単にできると思ってた」


「できないよ」


「じゃあ俺も、足遅くても大丈夫か」


「それは練習しろ」


「厳しい」


 二人で笑う。


「リレー、出たい?」


 松岡が尋ねる。


「出たい」


 今度は迷わず答えた。


「アンカー?」


「それはまだ分からない」


「怖いから?」


「チームで一番合う順番にすればいい。俺がアンカーとは限らない」


 以前なら、アンカーでなければ走り直したことにならないと思っただろう。


 同じ位置。


 同じ責任。


 同じ場面。


 そこで転ばずに走り切る。


 けれど、もう同じレースではない。


 新しい仲間。


 新しい学校。


 新しいバトン。


 なら、自分の役割も新しくていい。


「松岡がアンカーかもな」


「絶対無理」


「今から練習すれば」


「田所が走れよ」


「楽するな」


 新田が遠くから叫ぶ。


「一年、片づけ終わってないぞ!」


「はい!」


 二人は立ち上がり、道具を片づけるため走った。


     ◇


 翌朝。


 田所陸は、いつもより少し早く正門へ着いた。


 門柱の上には校長。


 猫は登校してくる生徒を、眠そうに眺めている。


「おはよう」


 陸が声をかける。


 校長は一度だけ目を開けた。


「昨日、バトン持った」


 猫は返事をしない。


「一回落とした」


 尻尾が動く。


「二回目は持てた」


 校長は前足を舐め始める。


「小宮山が、猫は人の話を遮らないって言ってたけど」


 陸はしゃがみ込む。


「聞いてないのと、遮らないのは違うよな」


 校長は顔を背けた。


「まあいいや」


 陸は立ち上がる。


 正門をくぐろうとしたとき、後ろから走ってくる足音が聞こえた。


「待って!」


 女子生徒の声。


 陸が振り返る。


 一年生の女子が、息を切らしながら坂道を上ってくる。


 長い髪を後ろで束ね、肩には大きなスポーツバッグ。


 胸元には一年二組の名札。


 彼女は正門の直前で足を止め、両膝へ手をついた。


「間に合った……」


 時計を見る。


 七時三十七分。


 遅刻するような時間ではない。


「朝練?」


 陸が尋ねる。


 女子は顔を上げた。


「え?」


「バッグ大きいから」


「あ……はい。バスケ部の」


「体育館、もう開いてるぞ」


「知ってます」


「じゃあ何で止まったの」


 女子は答えず、門柱の上の校長を見る。


 猫も彼女を見ている。


「そこにいたんだ」


 女子が呟いた。


 鞄から、小さな赤い首輪を取り出す。


 鈴がついている。


「これ、あなたのじゃないよね」


 校長は動かない。


「昨日、体育館の裏に落ちてたの」


 女子は首輪を握った。


 表情からは、落とし物を拾っただけには見えなかった。


「誰かの猫、逃げたのか?」


 陸が尋ねる。


 女子は少し迷ってから答えた。


「私の猫です」


「いつから?」


「三日前」


 入学式の日。


 青葉ヶ丘高校で、新しい物語が始まった日。


 その一方で、一匹の猫が家からいなくなっていた。


 門柱の上の校長が、赤い首輪へ鼻を近づける。


 鈴が小さく鳴った。


 女子生徒は、祈るような目で猫を見つめる。


「この匂い、知ってる?」


 当然、校長は答えない。


 けれど、首輪の匂いをもう一度嗅ぐと、門柱から飛び下りた。


 そして校舎ではなく、道路の向こう側へ歩き始めた。


「校長?」


 陸が呼ぶ。


 猫は振り返らない。


 女子生徒は赤い首輪を握りしめ、その後を追った。


「待って!」


 朝練の開始時刻が近い。


 陸は一瞬、グラウンドの方を見る。


 それから、走り去る少女と猫を見た。


「先生に遅れるって言わないとな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、陸も二人のあとを走り始めた。


 昨日までなら、決められたトラックから外れることを少しためらったかもしれない。


 けれど今は知っている。


 走る場所は、丸いトラックの上だけではない。


 誰かを追いかける道もまた、次のスタートラインになる。

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