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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第4話 入部届には、まだ名前を書けない

 青葉ヶ丘高校の音楽室には、二台のピアノがある。


 一台は、窓際に置かれた古いアップライトピアノ。


 黒い塗装には細かな傷があり、鍵盤のいくつかは、ほかよりわずかに黄ばんでいる。長く学校に置かれてきたせいか、低い音を強く弾くと、どこかで小さな金属音が混じった。


 もう一台は、教室の中央に置かれたグランドピアノ。


 文化祭や合唱コンクール、入学式の練習に使われるため、普段は黒いカバーがかけられている。


 誰でも自由に触っていい楽器ではない。


 けれど、朝の早い時間だけは、時々そのカバーが外されていた。


 四月十一日。


 午前七時四十分。


 一年三組の小宮山鈴は、音楽室の扉から少し離れた廊下に立っていた。


 小柄な体。


 肩に届かない程度の黒髪。


 丸い黒縁眼鏡。


 制服の胸元には、入学したばかりの一年生だけがつける仮の名札がある。


 右手には、四つ折りにした一枚の紙。


 昨日、担任から配られた入部届だった。


 部活動名。


 学年。


 組。


 出席番号。


 生徒氏名。


 保護者氏名。


 書く場所は、ほとんど埋めてある。


 まだ空白なのは、たった一か所。


 部活動名。


 そこへ「音楽部」と書けば終わる。


 書いて、顧問へ提出すればいい。


 それだけのことが、鈴にはできなかった。


 音楽室の中から、ピアノの音が聞こえている。


 たどたどしい演奏だった。


 右手の旋律が一音遅れ、左手の伴奏が途中で止まる。


 弾き直す。


 また間違える。


 そのたびに演奏者は小さく息を吐き、今度は最初へ戻らず、間違えた場所から続けようとしていた。


 曲名は『愛の挨拶』。


 昨日、廊下で尋ねられて答えた曲。


 エルガーが、婚約者へ贈ったとされる曲。


 鈴は、曲について説明しようと思えば、もう少し詳しく話せた。


 原題。


 作曲された年。


 最初は別の題名だったこと。


 旋律の構造。


 演奏するときに難しい箇所。


 けれど昨日は、


「好きな人へ贈った曲って言われています」


 とだけ答えた。


 それ以上話せば、音楽に詳しいことが知られてしまう。


 詳しいと知られれば、必ず次の質問が来る。


「何か楽器をやっているの?」


 その質問へ、鈴はうまく答えられなかった。


 やっていた。


 今は、やっていない。


 正確には、弾いていない。


 けれど、やめたとも言い切れない。


 自宅の居間には、今も鈴のピアノがある。


 毎週火曜日になれば、母親が、


「今日は練習しないの?」


 と尋ねる。


 鈴は毎回、


「宿題が多いから」


「入学したばかりで疲れたから」


「今日は気分じゃないから」


 と答える。


 母親はそれ以上何も言わない。


 何も言わないことが、鈴には一番苦しかった。


 音楽室のピアノが止まった。


 鈴は扉の小窓から、そっと中をのぞく。


 三年生の男子生徒が、グランドピアノの前に座っていた。


 名前は相沢直樹。


 昨日、廊下で同級生らしい女子生徒が呼んでいたため、名前だけは知っている。


 合唱部の三年生。


 ピアノは初心者。


 好きな人へ曲を聞かせるため、卒業までに弾けるようになろうとしている。


 どこまでが事実なのか、鈴は知らない。


 昨日は扉の外で、三年生の女子二人が話しているのを少し聞いただけだ。


 けれど、誰かに聞かせるために練習しているという話は本当らしかった。


 相沢は楽譜へ顔を近づけ、右手だけで旋律を確認している。


 決して上手ではない。


 指使いも効率が悪い。


 力が入りすぎて、手首が固まっている。


 その弾き方を続ければ、速い箇所で必ず詰まる。


 鈴には分かった。


 分かるから、言いたくなる。


 そこは三の指からではなく、二の指で始めた方がいい。


 左手は全部を強く弾かず、一音目だけ少し支える。


 右手の旋律を歌うように。


 ペダルは踏みっぱなしにしない。


 けれど、言えない。


 知らない先輩だから。


 勝手に聞いていたから。


 何より、自分はもう、人へピアノを教えられるような人間ではないから。


 相沢が再び弾き始める。


 同じ箇所で止まった。


 鈴の右手が、無意識に動く。


 廊下の空中に、見えない鍵盤を作るように。


 二。


 三。


 一。


 二。


 指だけなら、今も動く。


 頭の中では、音も聞こえる。


 次の一音も分かる。


 鈴の体は、まだ曲を覚えている。


 それなのに本物の鍵盤を前にすると、何もできなくなる。


「入らないの?」


 背後から声がして、鈴の肩が跳ねた。


 慌てて振り返る。


 そこには、一人の女子生徒が立っていた。


 肩の少し下まで伸びた黒髪。


 青いリボン。


 昨日、廊下で見かけた一年生。


 名前は、確か朝霧紬。


 白石悠と一緒に、三年生の教室へ栞を届けていた。


「すみません」


 鈴は反射的に頭を下げた。


「どうして謝るの?」


「邪魔になっていたかと思って」


「廊下は広いよ」


 紬は鈴の手元を見る。


「入部届?」


 鈴は紙を背中へ隠した。


 隠したあとで、余計に怪しくなったと思った。


「違います」


「紙に『入部届』って見えたけど」


「……入部届です」


「音楽部?」


 鈴は答えなかった。


 紬は扉の小窓から中を見た。


「あの先輩、今日も練習してる」


「知り合いですか?」


「昨日、少し話しただけ。子猫のことで」


「子猫?」


「学校の近くにいるんだよ。校長が見つけたの」


「校長先生が?」


「猫の方」


「ああ」


 入学して三日。


 鈴も正門の猫が「校長」と呼ばれていることは知っていた。


 今朝も門柱の上にいた。


 ただ、話しかけることはできなかった。


「小宮山さんだよね?」


 紬が言った。


「どうして名前を」


「名札」


「……そうでした」


「私は朝霧紬。一年五組」


「小宮山鈴です。一年三組」


「知ってる。名札」


 紬が少し笑う。


 自分が言われたことを、そのまま返された。


 鈴も笑うべきなのか迷い、口元だけをわずかに動かした。


「ピアノ、詳しいんだよね?」


 紬の言葉に、鈴の表情が固まる。


「どうして」


「昨日、曲名をすぐ教えてくれたから」


「有名な曲なので」


「私もピアノを弾くけど、廊下で少し聞いただけだと、すぐには分からなかった」


 鈴は紬を見る。


「朝霧さんも、ピアノを?」


「幼稚園の頃から」


「今も?」


「うん。家で弾いてる」


 迷いなく答えた。


 鈴には、そのことが眩しく感じられた。


「小宮山さんは?」


「私は……」


 やっていた。


 今はやっていない。


 その言葉が喉まで上がり、止まる。


「少しだけです」


「少しだけで、あの曲分かるんだ」


「昔、弾いたことがあるので」


「じゃあ、やっぱり音楽部?」


 紬が、鈴の背中に隠された入部届を指さす。


「まだ決めていません」


「見学した?」


「昨日、少しだけ」


「どうだった?」


「みんな、上手でした」


 それは本当だった。


 音楽部の見学では、二年生と三年生が歓迎演奏をしていた。


 ピアノ。


 ヴァイオリン。


 フルート。


 クラリネット。


 少人数の合奏。


 鈴の中学校には、吹奏楽部はあっても音楽部はなかった。


 青葉ヶ丘高校の音楽部は、個人で楽器を練習し、文化祭や校内行事で小さな演奏会を行う部活だった。


 ピアノだけを続けることもできる。


 ほかの楽器へ挑戦することもできる。


 入学前に学校案内で存在を知ったとき、鈴は少しだけ期待した。


 高校へ入ったら、もう一度ピアノを弾けるかもしれない。


 けれど見学へ行き、演奏を聞いた瞬間、その期待は消えた。


 皆が上手だったからではない。


 皆が、楽しそうだったからだ。


 音を間違えても笑い、互いに教え合い、次は何を弾くか話している。


 鈴はその輪の中に、自分が入る姿を想像できなかった。


「上手だから、入りにくい?」


 紬が尋ねる。


 鈴は目を伏せる。


「そういうわけでは」


「じゃあ、どうして?」


 答えたくない。


 けれど紬は、単純な好奇心で聞いているようには見えなかった。


 自分も何かを迷ったことがある人の顔だった。


「弾けなくなったんです」


 気づけば、口にしていた。


「指を怪我したの?」


「いいえ」


「鍵盤が怖い?」


 鈴は顔を上げた。


「どうして分かったんですか」


「私も、発表会の前に怖くなったことがあるから」


「でも、今は弾いているんですよね」


「うん。完全に同じじゃないと思う」


 紬は無理に分かったふりをしなかった。


「小宮山さんは、どうして怖くなったの?」


 音楽室の中で、相沢がまた同じ箇所を間違えた。


 鈴は小窓へ視線を向けた。


「コンクールで、止まったからです」


     ◇


 小宮山鈴がピアノを始めたのは、四歳のときだった。


 近所の子どもが通っていた教室へ、母親に連れられていった。


 最初は、右手の人差し指一本で音を出すだけだった。


 鍵盤を押す。


 音が鳴る。


 隣の鍵盤を押せば、違う音が鳴る。


 それが面白かった。


 家へ帰ってからも、机の上を鍵盤代わりにして指を動かした。


 五歳で初めて発表会へ出た。


 短い曲だった。


 客席には父親と母親と祖母がいた。


 演奏を終えると、三人とも大きな拍手をしてくれた。


 母親は何度も、


「上手だった」


 と言った。


 父親は演奏を撮影した映像を、家族や親戚へ見せた。


 鈴は褒められることが嬉しかった。


 もっと難しい曲を弾けば、もっと喜んでもらえる。


 そう思った。


 毎日練習した。


 同年代の子どもより、上達は早かった。


 小学校三年生で、初めてコンクールへ出た。


 予選を通過した。


 翌年は、小さな賞をもらった。


 先生は鈴に、


「あなたには才能がある」


 と言った。


 母親も嬉しそうだった。


 それから、ピアノは少しずつ変わっていった。


 好きなものから、上手でなければいけないものへ。


 一日休むと、不安になった。


 同じ教室の子が難しい曲を弾けば、焦った。


 発表会で間違えると、帰りの車の中で泣いた。


 母親は、


「誰にでも失敗はあるよ」


 と言った。


 鈴は、その言葉を優しさとして受け取れなかった。


 失敗してもいいなら、どうして毎日何時間も練習しているのか。


 失敗しないためではないのか。


 中学二年生の冬。


 鈴は、地区のピアノコンクールへ出た。


 その年、先生は本気で全国大会を狙っていた。


 課題曲は、鈴がそれまで弾いた中で最も難しかった。


 何か月も練習した。


 学校から帰ればピアノ。


 夕食のあともピアノ。


 休日も朝からピアノ。


 指が痛くても弾いた。


 眠くても弾いた。


 自分が好きな曲を弾く時間はなかった。


 母親は体調を心配した。


 先生は、


「今頑張れば、きっと結果がついてくる」


 と言った。


 鈴もそう信じた。


 本番の日。


 舞台袖で、自分の名前が呼ばれた。


 客席は暗く、中央のピアノだけが照らされている。


 何度も経験した光景だった。


 いつも通り歩く。


 椅子の高さを調節する。


 客席へ一礼する。


 鍵盤へ手を置く。


 最初の音。


 順調だった。


 中盤までは、一度も間違えなかった。


 そして、難しい連続音の直前。


 突然、次の音が分からなくなった。


 何度も練習した。


 指も覚えている。


 頭でも分かっている。


 はずなのに、何も出てこない。


 手が止まった。


 音楽が消えた。


 会場が静かになった。


 数秒だったのかもしれない。


 鈴には、何分にも感じられた。


 客席のどこかで、誰かが小さく咳をした。


 その音で我に返った。


 途中から弾き直そうとした。


 けれど指が震えた。


 別の音を押した。


 また止まった。


 もう続けられなかった。


 鈴は椅子から立ち、頭を下げた。


 拍手が聞こえた。


 慰めるような、まばらな拍手。


 舞台袖へ戻った瞬間、足が動かなくなった。


 先生が駆け寄ってきた。


「大丈夫。まだ終わりじゃないから」


 母親が抱きしめようとした。


 鈴は、その手を振り払った。


「大丈夫じゃない」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


「全部、終わった」


 その日から、鈴はピアノを弾けなくなった。


 鍵盤へ指を置くことはできる。


 簡単な音階も弾ける。


 けれど曲を始めようとすると、舞台上で音が消えた瞬間を思い出す。


 次の音が分からなくなる。


 また止まる。


 誰かが見ている。


 誰かが失望する。


 そう思うと、指が動かない。


 先生は何度も、


「少しずつ戻ればいい」


 と言った。


 母親は教室を辞めてもいいと言った。


 鈴は教室を辞めた。


 それでも、ピアノを処分してほしいとは言えなかった。


 居間にある黒いピアノは、今も鈴が戻るのを待つように置かれている。


     ◇


 鈴が話し終えるまで、紬は何も言わなかった。


 同情の言葉も。


 励ます言葉も。


 音楽室の中からは、相沢の演奏が続いている。


 何度も止まる。


 けれど、また始める。


「怖くないのかな」


 鈴は呟いた。


「あの先輩ですか?」


「何度も間違えているのに」


「誰も見てないと思ってるんじゃない?」


 鈴は紬を見る。


 紬は少し笑った。


「私たち、見てるけど」


「それなら、なおさら」


「私も最初、どうしてあんなに間違えても続けられるんだろうって思った」


「朝霧さんも?」


「うん。でも、昨日少し話して、たぶん上手に弾くことだけが目的じゃないんだと思った」


「好きな人に聞かせるため?」


「それもあると思う。でも、弾こうとしたことを、自分で忘れないためかも」


 鈴には、よく分からなかった。


 演奏は、上手く弾くためにするものではないのか。


 人へ聞かせるなら、間違えてはいけないのではないか。


 紬が、鈴の手元を見る。


「入部届、出さないの?」


「まだ」


「音楽部に入ったら、絶対ピアノを弾かないといけない?」


「分かりません」


「聞いてみた?」


「いいえ」


「じゃあ、見学だけもう一回行けば?」


「行って、何をするんですか」


「何もしなくてもいいか聞く」


「部活なのに?」


「校長なんて、何もしないのに毎日学校にいるよ」


「猫と一緒にしないでください」


 鈴は思わず言った。


 紬が笑う。


「少し笑った」


「笑っていません」


「笑ってた」


「それより、朝霧さんはどうしてここへ?」


「音楽部の見学」


「入るんですか?」


「迷ってる。家でピアノを続けるか、学校で違うことをするか」


「朝霧さんも入部届を?」


 紬は鞄から紙を取り出した。


 部活動名の欄は空白だった。


「同じだね」


「私は、音楽部と図書委員で迷っています」


「図書委員?」


「図書委員は部活じゃないけど」


「白石先輩がいるからですか」


 鈴が言うと、紬の顔が赤くなった。


「どうして知ってるんですか」


「昨日、栞を届けていました」


「あれだけで?」


「音楽室の廊下で、恋愛の話をしていました」


「聞いてたの?」


「少しだけ」


「忘れて」


「努力します」


「努力じゃなくて忘れて」


 紬は顔を覆った。


 その様子を見て、鈴は今度こそ少し笑った。


「小宮山さん」


「はい」


「今度は本当に笑った」


「朝霧さんが変なことを言うからです」


「私のせい?」


「そうです」


「じゃあ、責任を取って一緒に見学へ行く」


「どういう責任ですか」


「一人だと入りにくいでしょう?」


 鈴は音楽室の扉を見る。


 中には相沢しかいない。


 音楽部の活動時間ではない。


「今は見学できません」


「じゃあ放課後」


「私はまだ入ると決めていません」


「決めるために見学するんでしょう?」


 正しいことを言われた。


 鈴は反論できなかった。


「放課後、ここで待ってる」


「勝手に決めないでください」


「来なかったら一人で行く」


「それなら私が行かなくても」


「小宮山さんが来たら嬉しい」


 紬はそう言い、階段へ向かった。


 数歩進んでから、振り返る。


「それと」


「何ですか」


「あの先輩に、指使いを教えてあげたら?」


 鈴の体が固まる。


「できません」


「どうして?」


「私は、もうピアノを」


「弾かなくても、分かることはあるでしょう?」


 鈴は答えなかった。


 紬はそれ以上言わず、廊下を歩いていった。


     ◇


 朝のホームルームが始まっても、鈴は入部届を机の中へしまえなかった。


 教科書の下。


 ノートの横。


 視界に入らない場所へ置こうとする。


 けれど、何度も触ってしまう。


「それ、どこに出すの?」


 隣の席から声がした。


 鈴は紙を押さえる。


 隣に座る男子生徒。


 名前は田所陸。


 背が高く、髪が短い。


 入学初日の自己紹介では、陸上部に入ると話していた。


「見ないでください」


「見てない。入部届って上に書いてあるから」


「なら聞かないでください」


「何部か迷ってる?」


「関係ありません」


「冷たいな」


 陸は気を悪くした様子もなく、自分の入部届を机へ出した。


 部活動名には、陸上競技部と大きく書かれている。


「よくすぐ決められましたね」


「中学でもやってたから」


「高校では、違うことをやろうと思わなかったんですか」


「少しは。でも、走るの好きだし」


「失敗したことは?」


「あるよ」


「それでも?」


「失敗したら、やめるの?」


 鈴は黙った。


 陸は何気なく言っただけだ。


 鈴の事情を知らない。


「やめる人もいるでしょう」


「いるだろうね」


「それが悪いとは限りません」


「悪いとは言ってない」


 陸は窓の外を見る。


 グラウンドでは、朝練を終えた陸上部員が片づけをしていた。


「俺、中学最後の大会で転んだんだ」


「え?」


「リレーのアンカー。最後のカーブで足引っかけて」


「負けたんですか」


「最下位」


 陸は笑った。


「笑えるんですか」


「今は」


「そのときは?」


「三日くらい、誰とも話さなかった」


 鈴は陸を見る。


 いつも明るそうに見える。


 入学二日で、すでに何人かの男子と仲良くなっている。


 そんな人にも、話したくないほどの失敗があった。


「どうして、また陸上部に?」


「転んだ場所、走り直したかったから」


「同じ場所ではないでしょう」


「似たようなもんだよ。トラックはどこも丸いし」


「適当ですね」


「小宮山、笑った?」


「笑っていません」


「ちょっと笑ってた」


 今朝から、二度目だった。


「それで、何部?」


「まだ決めていません」


「好きなのにしたら」


「好きだったものが、怖くなった場合は?」


 陸が鈴を見る。


 鈴は、口に出したことを後悔した。


「無理に答えなくていいです」


「怖くなくなるまで、近くにいれば?」


「近くに?」


「俺も大会のあと、しばらく走れなかった。でも陸上部の練習は見に行ってた」


「どうして」


「好きだったから」


 陸は自分の入部届を持ち上げる。


「怖いのと、嫌いなのは別じゃん」


 チャイムが鳴った。


 担任が教室へ入ってくる。


 会話はそこで終わった。


 鈴は入部届を見つめる。


 怖い。


 けれど嫌いではない。


 それだけは、ずっと分かっていた。


     ◇


 放課後。


 音楽室の前には、朝霧紬が本当に待っていた。


 手には、朝と同じ入部届。


「来た」


 紬が言う。


「帰ろうと思ったんですが」


「思っただけ?」


「朝霧さんが待っていると思ったので」


「嬉しい」


 素直に言われると、鈴は困る。


「別に、入ると決めたわけではありません」


「分かってる」


「見学するだけです」


「うん」


「ピアノも弾きません」


「私も今日は弾かない」


「今日は?」


「そのうち」


 紬は扉を開けた。


 音楽室には、五人の生徒がいた。


 二年生が三人。


 三年生が二人。


 昨日見学で演奏していた音楽部員たち。


 窓際ではフルートの音出し。


 奥ではヴァイオリンの弓へ松脂を塗っている。


 グランドピアノの前には、三年生の女子生徒が座っていた。


「見学?」


 女子生徒が顔を上げる。


 音楽部の部長、三年生の西園寺真琴。


 昨日の説明で名前を聞いた。


「はい」


 紬が答える。


 鈴は小さく頭を下げた。


「昨日も来てたよね。小宮山さんと、朝霧さん」


「覚えていたんですか」


 鈴が尋ねる。


「一年生の名札、見てたから。座って」


 二人は壁際の椅子へ座る。


「楽器は?」


 真琴が尋ねる。


「ピアノです」


 紬は答えた。


 鈴は迷う。


「小宮山さんは?」


「……以前、ピアノを」


「今は?」


「弾いていません」


「そう」


 真琴は、それ以上聞かなかった。


「音楽部は、必ず人前で演奏しなきゃいけないんですか」


 鈴は自分から尋ねた。


「そんなことないよ」


「でも、文化祭や発表会が」


「出たい人が出る。合奏だけ参加する人もいるし、裏方だけの人もいる」


「裏方?」


「譜面の整理、会場準備、録音、ポスター作り。音楽が好きなら、演奏以外にもやることはあるから」


 鈴は膝の上で指を握る。


「楽器を弾かない人が入ってもいいんですか」


「いいよ」


「部活なのに?」


「楽器を弾く部じゃなくて、音楽を楽しむ部だから」


 昨日、楽しそうに演奏していた理由が、少し分かった。


 上手くなるためだけの場所ではない。


 結果を出すためだけでもない。


「ただし」


 真琴が続ける。


「楽器を触りたくなったら、止めない」


 鈴が顔を上げる。


「無理に弾かせはしない。でも、弾きたいのに怖いだけなら、一緒に怖がることはできる」


「どうして」


「私も一度、舞台で止まったから」


 真琴はグランドピアノへ視線を向けた。


「二年の合唱コンクール。伴奏の途中で頭が真っ白になった」


「それから、どうしたんですか」


「最初の一週間は、ピアノの蓋も開けられなかった」


「今は」


「弾けるよ。今でも本番前は怖いけど」


「どうやって」


「一人のときに間違える練習をした」


「間違える練習?」


「絶対間違えないようにすると、間違えた瞬間に全部終わるでしょう?」


 鈴は、あの日の舞台を思い出す。


 一音間違えた。


 次が分からなくなった。


 全部が終わったと思った。


「わざと別の音を弾いて、そこから戻る。途中で止めて、続きから始める。誰かに咳をしてもらう。椅子を鳴らしてもらう」


「そんな練習が」


「本番は、練習通りにはならないから」


 真琴が少し笑う。


「完璧に弾く練習だけじゃなくて、失敗しても続ける練習をした」


 朝、相沢が何度も間違えながら、途中から弾き直していた。


 最初へ戻らず、止まった場所から。


 結衣が、間違えた場所から続きを始めればいいと思ったことを、鈴は知らない。


 けれど同じことが、今、鈴の中にも届いた。


「少しだけ」


 鈴は言った。


 声が震えた。


「ピアノに触ってもいいですか」


 紬が隣で息を止める。


 真琴は、驚いた顔をしなかった。


「もちろん」


 立ち上がり、窓際のアップライトピアノを指す。


「グランドより、こっちの方が落ち着く?」


「はい」


 鈴は椅子の前へ立つ。


 足が重い。


 鍵盤の蓋は開いている。


 白と黒。


 何年も見てきた配列。


 椅子へ座る。


 高さを調節する。


 手を膝の上へ置く。


 呼吸が浅くなる。


 音楽室の空気が、コンクール会場の空気へ変わる。


 客席。


 暗い照明。


 止まった指。


 咳。


「小宮山さん」


 紬の声。


 鈴は振り返る。


「誰も、上手に弾いてって言ってないよ」


 音楽部員たちは、楽器の手入れを続けている。


 鈴を囲んで見ているわけではない。


 真琴も、少し離れた場所で楽譜を整理している。


「一音だけでもいい」


 紬が言う。


 鈴は鍵盤へ右手を置いた。


 人差し指。


 中央のド。


 押す。


 一音が鳴った。


 古いピアノの、少しくすんだ音。


 それだけ。


 鈴は指を離す。


 何も起こらなかった。


 誰も失望しない。


 拍手もない。


 順位もつかない。


 ただ、一音が鳴った。


「もう一つ」


 紬が言う。


「命令しないでください」


「お願い」


「同じです」


 鈴は次のレを押した。


 ミ。


 ファ。


 ソ。


 五つの音。


 指は震えている。


 それでも動いた。


「音階ですね」


「うん」


「誰でも弾けます」


「今の小宮山さんにしか弾けなかったよ」


 鈴は紬を見る。


 意味が分からない。


 けれど、少しだけ胸が軽くなった。


 鈴は両手を鍵盤へ置いた。


 昔、最初に発表会で弾いた曲。


 右手だけでも弾ける、短い旋律。


 最初の二小節。


 そこまで弾いて、指が止まる。


 次の音が分からなくなったわけではない。


 怖くなった。


「止まった」


 鈴は呟く。


「うん」


 紬が答える。


「もう駄目です」


「続き、分かる?」


「分かります」


「じゃあ、そこから」


 鈴は止まった場所を見る。


 最初へ戻りたい。


 弾き直したい。


 最初からなら、今度は失敗しないかもしれない。


 けれど、真琴の言葉を思い出す。


 失敗しても続ける練習。


 鈴は、止まった次の音を押した。


 演奏が再び始まる。


 短い曲。


 全部で一分もない。


 何度か音が揺れた。


 左手はつけなかった。


 それでも最後まで弾いた。


 最後の音が消える。


 音楽室は静かだった。


 誰も大きな拍手をしなかった。


 真琴が一度だけ、軽く手を叩いた。


 紬も同じように、一度だけ拍手した。


 ほかの部員も、それぞれ一度ずつ。


 慰めるような拍手ではない。


 次を要求する拍手でもない。


 たった今、一曲が終わったことへの拍手。


 鈴は俯いた。


 涙が落ちそうになった。


 泣きたくない。


 失敗したわけではない。


 成功したとも言えない。


 ただ、一曲を弾いた。


 それだけで泣くのは、大げさだ。


「小宮山さん」


 紬が近くへ来る。


「眼鏡、曇ってる」


「曇っていません」


「涙で見えなくなってる?」


「違います」


「そっか」


 紬は追及しなかった。


 それがありがたかった。


     ◇


 音楽室を出る頃には、空が少し赤くなっていた。


 鈴と紬は、並んで昇降口へ向かう。


 二人の手には、入部届。


 紬の部活動名は、まだ空白。


 鈴の紙にも、まだ何も書かれていない。


「書かないの?」


 紬が尋ねる。


「今、書こうと思っています」


 鈴は廊下の窓台へ紙を置いた。


 ペンを取り出す。


 部活動名。


 空白へ、ゆっくり書く。


 音楽部。


 少しだけ字が震えた。


「書いた」


 紬が言う。


「見れば分かります」


「おめでとう」


「まだ入っただけです」


「入る前から怖かったんだから、大きいよ」


 鈴は入部届を見つめる。


「朝霧さんは?」


「まだ迷ってる」


「音楽部に入りましょう」


「急に勧誘するね」


「一人だと不安なので」


 口に出してから、鈴は恥ずかしくなった。


 紬は目を丸くし、それから笑った。


「今の、友達みたい」


「違うんですか」


「友達でいいの?」


「朝霧さんが嫌でなければ」


「嫌じゃない」


「なら」


「じゃあ友達」


 紬は簡単に言った。


 まるで、それ以外の可能性などないように。


 鈴は小さく頷いた。


「よろしくお願いします」


「友達に敬語?」


「急には変えられません」


「じゃあ、そのうち」


 階段を下りる。


 正門の前には、今日も校長がいた。


 門柱の上ではなく、警備員室の軒下で丸くなっている。


「校長」


 紬が近づく。


 猫は顔を上げた。


「今日はおやつないよ」


 猫はすぐに目を閉じた。


「露骨」


 鈴が言う。


「小宮山さんも話しかけてみる?」


「猫に?」


「相談に乗ってくれるよ」


「返事をしないんでしょう」


「人の話を途中で遮らない」


「それは長所なんですか」


「たぶん」


 鈴は校長の前へしゃがむ。


 何を話せばいいのか分からない。


「今日、音楽部に入りました」


 猫は目を閉じたまま。


「ピアノを弾きました」


 耳が少し動いた。


「一度止まりました」


 猫は返事をしない。


「でも、最後まで弾きました」


 自分で言葉にすると、改めて実感が湧いた。


 あの日、舞台で止まった。


 最後まで弾けなかった。


 今日は止まった。


 けれど、途中から続けた。


 同じではなかった。


「聞いていますか」


 校長は大きなあくびをした。


「やっぱり役に立ちません」


「でも、少し話しやすいでしょう?」


「人間よりは」


「私も人間だけど」


「朝霧さんは、少し猫に近いです」


「どういう意味?」


「勝手に近づいてきます」


「嫌だった?」


 鈴は少し考える。


「今日だけは、よかったです」


「明日は?」


「明日は、明日考えます」


「小宮山さん、結構面白いね」


「初めて言われました」


 二人は正門を出た。


 途中まで帰る方向は同じだった。


「明日の朝も、音楽室へ行く?」


 紬が尋ねる。


「部活は放課後です」


「相沢先輩の練習、見る?」


「見るだけなら」


「指使い、教えてあげればいいのに」


「まだ言うんですか」


「小宮山さんなら、すぐ直せるでしょう?」


「でも、先輩に失礼です」


「間違ってるのに黙って見てる方が失礼かも」


「それは違います」


「じゃあ、明日一緒に聞いてみよう」


「朝霧さんが聞いてください」


「小宮山さんが教えるんだから、小宮山さんが」


「嫌です」


「じゃあ私が、『この子が教えたいそうです』って」


「絶対にやめてください」


 二人の声が、夕方の道へ続く。


 鈴は、自分がこんなに長く誰かと話したのは久しぶりだと気づいた。


 ピアノをやめてから、音楽の話を避けてきた。


 失敗の話も。


 怖いという気持ちも。


 誰にも話したくなかった。


 けれど今日、話した。


 鍵盤へ触れた。


 音を出した。


 入部届へ名前を書いた。


 何かが元通りになったわけではない。


 怖さは残っている。


 明日になれば、また弾けないかもしれない。


 それでも、昨日とは違う。


 音楽をやめた人間ではなく、もう一度始めたばかりの人間になった。


     ◇


 翌朝。


 午前七時三十八分。


 鈴は、昨日より少し早く学校へ着いた。


 正門の門柱には、校長が座っている。


「おはようございます」


 鈴が言う。


 猫は返事をしない。


 それでも鈴は、少しだけ笑った。


 音楽室へ向かう。


 廊下の途中で、紬と合流した。


「来た」


「朝霧さんも」


「約束したから」


「していません」


「心の中で」


「勝手に作らないでください」


 二人で音楽室の前へ行く。


 中から、相沢のピアノが聞こえた。


 昨日と同じ箇所。


 同じ間違い。


 相沢が止まる。


 もう一度弾き始めようとする。


 鈴は扉の前で足を止めた。


 心臓が速くなる。


「行こう」


 紬が言う。


「待ってください」


「今言わないと、また明日になるよ」


 その言葉は、どこかで聞いた話に似ていた。


 言いたいことを三年間言えなかった先輩。


 昨日、勇気を出して名前を聞いた紬。


 入部届を何日も空白のまま持っていた自分。


 鈴は深呼吸した。


 扉をノックする。


 ピアノが止まった。


「はい」


 中から相沢の声。


 鈴は扉を開けた。


「失礼します」


 相沢が振り返る。


「一年生?」


「小宮山鈴です。音楽部に入りました」


「そうなんだ。おめでとう」


「あの」


 声が震える。


「演奏を勝手に聞いて、すみません」


「別にいいよ。まだ下手だけど」


「右手の指使いを変えた方が、弾きやすいと思います」


 言った。


 相沢が目を瞬く。


 怒るだろうか。


 余計なお世話だと言われるだろうか。


「どこ?」


 相沢は、ただ尋ねた。


「この小節です」


 鈴はピアノへ近づく。


 楽譜を指さす。


「ここを三の指から始めると、次で手が詰まります。二の指から始めて、ここで一をくぐらせると」


「弾いてみてくれる?」


 鈴の体が固まる。


「私は」


「右手だけでいい」


 紬が後ろで、何も言わず見ている。


 鈴は相沢の隣へ座った。


 鍵盤へ右手を置く。


 昨日より怖い。


 見られているから。


 けれど、これは演奏ではない。


 教えるための数小節。


 誰かが弾けるようになるための音。


 鈴は、ゆっくり指を動かした。


 二。


 三。


 一。


 二。


 空中で何度も動かしていた通りに。


 音がつながる。


「なるほど」


 相沢が同じように弾く。


 一度目は失敗した。


 二度目。


 今まで止まっていた箇所を、初めて越えた。


「弾けた」


 相沢が笑った。


「ありがとう、小宮山」


「いえ」


 たった数小節。


 自分が弾いたわけではない。


 コンクールのような結果もない。


 それでも鈴の胸の中に、小さな音が残った。


 誰かのために役立った音。


 失敗しなかったからではない。


 失敗しても、もう一度弾いたから生まれた音。


「小宮山」


 相沢が言う。


「また分からないところ、聞いてもいい?」


 鈴は少し迷った。


 昨日までの自分なら、断っていた。


「私でよければ」


 答える。


「助かる」


 音楽室の窓から、朝の光が入る。


 ピアノの黒い表面へ、白い光が映った。


 鈴の背後で、紬が静かに笑っている。


 そのさらに向こう。


 開いた扉の外に、一人の男子生徒が立っていた。


 一年三組の田所陸。


 朝練へ向かう途中らしい。


 陸上部の鞄を肩へかけ、音楽室の中を見ている。


 鈴と目が合うと、陸は軽く右手を上げた。


 そして、声には出さず、口だけを動かした。


『走り直せた?』


 鈴は少し考えた。


 それから小さく頷いた。


 陸は笑い、階段の方へ走っていった。


 今度は転ばずに。

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