第4話 入部届には、まだ名前を書けない
青葉ヶ丘高校の音楽室には、二台のピアノがある。
一台は、窓際に置かれた古いアップライトピアノ。
黒い塗装には細かな傷があり、鍵盤のいくつかは、ほかよりわずかに黄ばんでいる。長く学校に置かれてきたせいか、低い音を強く弾くと、どこかで小さな金属音が混じった。
もう一台は、教室の中央に置かれたグランドピアノ。
文化祭や合唱コンクール、入学式の練習に使われるため、普段は黒いカバーがかけられている。
誰でも自由に触っていい楽器ではない。
けれど、朝の早い時間だけは、時々そのカバーが外されていた。
四月十一日。
午前七時四十分。
一年三組の小宮山鈴は、音楽室の扉から少し離れた廊下に立っていた。
小柄な体。
肩に届かない程度の黒髪。
丸い黒縁眼鏡。
制服の胸元には、入学したばかりの一年生だけがつける仮の名札がある。
右手には、四つ折りにした一枚の紙。
昨日、担任から配られた入部届だった。
部活動名。
学年。
組。
出席番号。
生徒氏名。
保護者氏名。
書く場所は、ほとんど埋めてある。
まだ空白なのは、たった一か所。
部活動名。
そこへ「音楽部」と書けば終わる。
書いて、顧問へ提出すればいい。
それだけのことが、鈴にはできなかった。
音楽室の中から、ピアノの音が聞こえている。
たどたどしい演奏だった。
右手の旋律が一音遅れ、左手の伴奏が途中で止まる。
弾き直す。
また間違える。
そのたびに演奏者は小さく息を吐き、今度は最初へ戻らず、間違えた場所から続けようとしていた。
曲名は『愛の挨拶』。
昨日、廊下で尋ねられて答えた曲。
エルガーが、婚約者へ贈ったとされる曲。
鈴は、曲について説明しようと思えば、もう少し詳しく話せた。
原題。
作曲された年。
最初は別の題名だったこと。
旋律の構造。
演奏するときに難しい箇所。
けれど昨日は、
「好きな人へ贈った曲って言われています」
とだけ答えた。
それ以上話せば、音楽に詳しいことが知られてしまう。
詳しいと知られれば、必ず次の質問が来る。
「何か楽器をやっているの?」
その質問へ、鈴はうまく答えられなかった。
やっていた。
今は、やっていない。
正確には、弾いていない。
けれど、やめたとも言い切れない。
自宅の居間には、今も鈴のピアノがある。
毎週火曜日になれば、母親が、
「今日は練習しないの?」
と尋ねる。
鈴は毎回、
「宿題が多いから」
「入学したばかりで疲れたから」
「今日は気分じゃないから」
と答える。
母親はそれ以上何も言わない。
何も言わないことが、鈴には一番苦しかった。
音楽室のピアノが止まった。
鈴は扉の小窓から、そっと中をのぞく。
三年生の男子生徒が、グランドピアノの前に座っていた。
名前は相沢直樹。
昨日、廊下で同級生らしい女子生徒が呼んでいたため、名前だけは知っている。
合唱部の三年生。
ピアノは初心者。
好きな人へ曲を聞かせるため、卒業までに弾けるようになろうとしている。
どこまでが事実なのか、鈴は知らない。
昨日は扉の外で、三年生の女子二人が話しているのを少し聞いただけだ。
けれど、誰かに聞かせるために練習しているという話は本当らしかった。
相沢は楽譜へ顔を近づけ、右手だけで旋律を確認している。
決して上手ではない。
指使いも効率が悪い。
力が入りすぎて、手首が固まっている。
その弾き方を続ければ、速い箇所で必ず詰まる。
鈴には分かった。
分かるから、言いたくなる。
そこは三の指からではなく、二の指で始めた方がいい。
左手は全部を強く弾かず、一音目だけ少し支える。
右手の旋律を歌うように。
ペダルは踏みっぱなしにしない。
けれど、言えない。
知らない先輩だから。
勝手に聞いていたから。
何より、自分はもう、人へピアノを教えられるような人間ではないから。
相沢が再び弾き始める。
同じ箇所で止まった。
鈴の右手が、無意識に動く。
廊下の空中に、見えない鍵盤を作るように。
二。
三。
一。
二。
指だけなら、今も動く。
頭の中では、音も聞こえる。
次の一音も分かる。
鈴の体は、まだ曲を覚えている。
それなのに本物の鍵盤を前にすると、何もできなくなる。
「入らないの?」
背後から声がして、鈴の肩が跳ねた。
慌てて振り返る。
そこには、一人の女子生徒が立っていた。
肩の少し下まで伸びた黒髪。
青いリボン。
昨日、廊下で見かけた一年生。
名前は、確か朝霧紬。
白石悠と一緒に、三年生の教室へ栞を届けていた。
「すみません」
鈴は反射的に頭を下げた。
「どうして謝るの?」
「邪魔になっていたかと思って」
「廊下は広いよ」
紬は鈴の手元を見る。
「入部届?」
鈴は紙を背中へ隠した。
隠したあとで、余計に怪しくなったと思った。
「違います」
「紙に『入部届』って見えたけど」
「……入部届です」
「音楽部?」
鈴は答えなかった。
紬は扉の小窓から中を見た。
「あの先輩、今日も練習してる」
「知り合いですか?」
「昨日、少し話しただけ。子猫のことで」
「子猫?」
「学校の近くにいるんだよ。校長が見つけたの」
「校長先生が?」
「猫の方」
「ああ」
入学して三日。
鈴も正門の猫が「校長」と呼ばれていることは知っていた。
今朝も門柱の上にいた。
ただ、話しかけることはできなかった。
「小宮山さんだよね?」
紬が言った。
「どうして名前を」
「名札」
「……そうでした」
「私は朝霧紬。一年五組」
「小宮山鈴です。一年三組」
「知ってる。名札」
紬が少し笑う。
自分が言われたことを、そのまま返された。
鈴も笑うべきなのか迷い、口元だけをわずかに動かした。
「ピアノ、詳しいんだよね?」
紬の言葉に、鈴の表情が固まる。
「どうして」
「昨日、曲名をすぐ教えてくれたから」
「有名な曲なので」
「私もピアノを弾くけど、廊下で少し聞いただけだと、すぐには分からなかった」
鈴は紬を見る。
「朝霧さんも、ピアノを?」
「幼稚園の頃から」
「今も?」
「うん。家で弾いてる」
迷いなく答えた。
鈴には、そのことが眩しく感じられた。
「小宮山さんは?」
「私は……」
やっていた。
今はやっていない。
その言葉が喉まで上がり、止まる。
「少しだけです」
「少しだけで、あの曲分かるんだ」
「昔、弾いたことがあるので」
「じゃあ、やっぱり音楽部?」
紬が、鈴の背中に隠された入部届を指さす。
「まだ決めていません」
「見学した?」
「昨日、少しだけ」
「どうだった?」
「みんな、上手でした」
それは本当だった。
音楽部の見学では、二年生と三年生が歓迎演奏をしていた。
ピアノ。
ヴァイオリン。
フルート。
クラリネット。
少人数の合奏。
鈴の中学校には、吹奏楽部はあっても音楽部はなかった。
青葉ヶ丘高校の音楽部は、個人で楽器を練習し、文化祭や校内行事で小さな演奏会を行う部活だった。
ピアノだけを続けることもできる。
ほかの楽器へ挑戦することもできる。
入学前に学校案内で存在を知ったとき、鈴は少しだけ期待した。
高校へ入ったら、もう一度ピアノを弾けるかもしれない。
けれど見学へ行き、演奏を聞いた瞬間、その期待は消えた。
皆が上手だったからではない。
皆が、楽しそうだったからだ。
音を間違えても笑い、互いに教え合い、次は何を弾くか話している。
鈴はその輪の中に、自分が入る姿を想像できなかった。
「上手だから、入りにくい?」
紬が尋ねる。
鈴は目を伏せる。
「そういうわけでは」
「じゃあ、どうして?」
答えたくない。
けれど紬は、単純な好奇心で聞いているようには見えなかった。
自分も何かを迷ったことがある人の顔だった。
「弾けなくなったんです」
気づけば、口にしていた。
「指を怪我したの?」
「いいえ」
「鍵盤が怖い?」
鈴は顔を上げた。
「どうして分かったんですか」
「私も、発表会の前に怖くなったことがあるから」
「でも、今は弾いているんですよね」
「うん。完全に同じじゃないと思う」
紬は無理に分かったふりをしなかった。
「小宮山さんは、どうして怖くなったの?」
音楽室の中で、相沢がまた同じ箇所を間違えた。
鈴は小窓へ視線を向けた。
「コンクールで、止まったからです」
◇
小宮山鈴がピアノを始めたのは、四歳のときだった。
近所の子どもが通っていた教室へ、母親に連れられていった。
最初は、右手の人差し指一本で音を出すだけだった。
鍵盤を押す。
音が鳴る。
隣の鍵盤を押せば、違う音が鳴る。
それが面白かった。
家へ帰ってからも、机の上を鍵盤代わりにして指を動かした。
五歳で初めて発表会へ出た。
短い曲だった。
客席には父親と母親と祖母がいた。
演奏を終えると、三人とも大きな拍手をしてくれた。
母親は何度も、
「上手だった」
と言った。
父親は演奏を撮影した映像を、家族や親戚へ見せた。
鈴は褒められることが嬉しかった。
もっと難しい曲を弾けば、もっと喜んでもらえる。
そう思った。
毎日練習した。
同年代の子どもより、上達は早かった。
小学校三年生で、初めてコンクールへ出た。
予選を通過した。
翌年は、小さな賞をもらった。
先生は鈴に、
「あなたには才能がある」
と言った。
母親も嬉しそうだった。
それから、ピアノは少しずつ変わっていった。
好きなものから、上手でなければいけないものへ。
一日休むと、不安になった。
同じ教室の子が難しい曲を弾けば、焦った。
発表会で間違えると、帰りの車の中で泣いた。
母親は、
「誰にでも失敗はあるよ」
と言った。
鈴は、その言葉を優しさとして受け取れなかった。
失敗してもいいなら、どうして毎日何時間も練習しているのか。
失敗しないためではないのか。
中学二年生の冬。
鈴は、地区のピアノコンクールへ出た。
その年、先生は本気で全国大会を狙っていた。
課題曲は、鈴がそれまで弾いた中で最も難しかった。
何か月も練習した。
学校から帰ればピアノ。
夕食のあともピアノ。
休日も朝からピアノ。
指が痛くても弾いた。
眠くても弾いた。
自分が好きな曲を弾く時間はなかった。
母親は体調を心配した。
先生は、
「今頑張れば、きっと結果がついてくる」
と言った。
鈴もそう信じた。
本番の日。
舞台袖で、自分の名前が呼ばれた。
客席は暗く、中央のピアノだけが照らされている。
何度も経験した光景だった。
いつも通り歩く。
椅子の高さを調節する。
客席へ一礼する。
鍵盤へ手を置く。
最初の音。
順調だった。
中盤までは、一度も間違えなかった。
そして、難しい連続音の直前。
突然、次の音が分からなくなった。
何度も練習した。
指も覚えている。
頭でも分かっている。
はずなのに、何も出てこない。
手が止まった。
音楽が消えた。
会場が静かになった。
数秒だったのかもしれない。
鈴には、何分にも感じられた。
客席のどこかで、誰かが小さく咳をした。
その音で我に返った。
途中から弾き直そうとした。
けれど指が震えた。
別の音を押した。
また止まった。
もう続けられなかった。
鈴は椅子から立ち、頭を下げた。
拍手が聞こえた。
慰めるような、まばらな拍手。
舞台袖へ戻った瞬間、足が動かなくなった。
先生が駆け寄ってきた。
「大丈夫。まだ終わりじゃないから」
母親が抱きしめようとした。
鈴は、その手を振り払った。
「大丈夫じゃない」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「全部、終わった」
その日から、鈴はピアノを弾けなくなった。
鍵盤へ指を置くことはできる。
簡単な音階も弾ける。
けれど曲を始めようとすると、舞台上で音が消えた瞬間を思い出す。
次の音が分からなくなる。
また止まる。
誰かが見ている。
誰かが失望する。
そう思うと、指が動かない。
先生は何度も、
「少しずつ戻ればいい」
と言った。
母親は教室を辞めてもいいと言った。
鈴は教室を辞めた。
それでも、ピアノを処分してほしいとは言えなかった。
居間にある黒いピアノは、今も鈴が戻るのを待つように置かれている。
◇
鈴が話し終えるまで、紬は何も言わなかった。
同情の言葉も。
励ます言葉も。
音楽室の中からは、相沢の演奏が続いている。
何度も止まる。
けれど、また始める。
「怖くないのかな」
鈴は呟いた。
「あの先輩ですか?」
「何度も間違えているのに」
「誰も見てないと思ってるんじゃない?」
鈴は紬を見る。
紬は少し笑った。
「私たち、見てるけど」
「それなら、なおさら」
「私も最初、どうしてあんなに間違えても続けられるんだろうって思った」
「朝霧さんも?」
「うん。でも、昨日少し話して、たぶん上手に弾くことだけが目的じゃないんだと思った」
「好きな人に聞かせるため?」
「それもあると思う。でも、弾こうとしたことを、自分で忘れないためかも」
鈴には、よく分からなかった。
演奏は、上手く弾くためにするものではないのか。
人へ聞かせるなら、間違えてはいけないのではないか。
紬が、鈴の手元を見る。
「入部届、出さないの?」
「まだ」
「音楽部に入ったら、絶対ピアノを弾かないといけない?」
「分かりません」
「聞いてみた?」
「いいえ」
「じゃあ、見学だけもう一回行けば?」
「行って、何をするんですか」
「何もしなくてもいいか聞く」
「部活なのに?」
「校長なんて、何もしないのに毎日学校にいるよ」
「猫と一緒にしないでください」
鈴は思わず言った。
紬が笑う。
「少し笑った」
「笑っていません」
「笑ってた」
「それより、朝霧さんはどうしてここへ?」
「音楽部の見学」
「入るんですか?」
「迷ってる。家でピアノを続けるか、学校で違うことをするか」
「朝霧さんも入部届を?」
紬は鞄から紙を取り出した。
部活動名の欄は空白だった。
「同じだね」
「私は、音楽部と図書委員で迷っています」
「図書委員?」
「図書委員は部活じゃないけど」
「白石先輩がいるからですか」
鈴が言うと、紬の顔が赤くなった。
「どうして知ってるんですか」
「昨日、栞を届けていました」
「あれだけで?」
「音楽室の廊下で、恋愛の話をしていました」
「聞いてたの?」
「少しだけ」
「忘れて」
「努力します」
「努力じゃなくて忘れて」
紬は顔を覆った。
その様子を見て、鈴は今度こそ少し笑った。
「小宮山さん」
「はい」
「今度は本当に笑った」
「朝霧さんが変なことを言うからです」
「私のせい?」
「そうです」
「じゃあ、責任を取って一緒に見学へ行く」
「どういう責任ですか」
「一人だと入りにくいでしょう?」
鈴は音楽室の扉を見る。
中には相沢しかいない。
音楽部の活動時間ではない。
「今は見学できません」
「じゃあ放課後」
「私はまだ入ると決めていません」
「決めるために見学するんでしょう?」
正しいことを言われた。
鈴は反論できなかった。
「放課後、ここで待ってる」
「勝手に決めないでください」
「来なかったら一人で行く」
「それなら私が行かなくても」
「小宮山さんが来たら嬉しい」
紬はそう言い、階段へ向かった。
数歩進んでから、振り返る。
「それと」
「何ですか」
「あの先輩に、指使いを教えてあげたら?」
鈴の体が固まる。
「できません」
「どうして?」
「私は、もうピアノを」
「弾かなくても、分かることはあるでしょう?」
鈴は答えなかった。
紬はそれ以上言わず、廊下を歩いていった。
◇
朝のホームルームが始まっても、鈴は入部届を机の中へしまえなかった。
教科書の下。
ノートの横。
視界に入らない場所へ置こうとする。
けれど、何度も触ってしまう。
「それ、どこに出すの?」
隣の席から声がした。
鈴は紙を押さえる。
隣に座る男子生徒。
名前は田所陸。
背が高く、髪が短い。
入学初日の自己紹介では、陸上部に入ると話していた。
「見ないでください」
「見てない。入部届って上に書いてあるから」
「なら聞かないでください」
「何部か迷ってる?」
「関係ありません」
「冷たいな」
陸は気を悪くした様子もなく、自分の入部届を机へ出した。
部活動名には、陸上競技部と大きく書かれている。
「よくすぐ決められましたね」
「中学でもやってたから」
「高校では、違うことをやろうと思わなかったんですか」
「少しは。でも、走るの好きだし」
「失敗したことは?」
「あるよ」
「それでも?」
「失敗したら、やめるの?」
鈴は黙った。
陸は何気なく言っただけだ。
鈴の事情を知らない。
「やめる人もいるでしょう」
「いるだろうね」
「それが悪いとは限りません」
「悪いとは言ってない」
陸は窓の外を見る。
グラウンドでは、朝練を終えた陸上部員が片づけをしていた。
「俺、中学最後の大会で転んだんだ」
「え?」
「リレーのアンカー。最後のカーブで足引っかけて」
「負けたんですか」
「最下位」
陸は笑った。
「笑えるんですか」
「今は」
「そのときは?」
「三日くらい、誰とも話さなかった」
鈴は陸を見る。
いつも明るそうに見える。
入学二日で、すでに何人かの男子と仲良くなっている。
そんな人にも、話したくないほどの失敗があった。
「どうして、また陸上部に?」
「転んだ場所、走り直したかったから」
「同じ場所ではないでしょう」
「似たようなもんだよ。トラックはどこも丸いし」
「適当ですね」
「小宮山、笑った?」
「笑っていません」
「ちょっと笑ってた」
今朝から、二度目だった。
「それで、何部?」
「まだ決めていません」
「好きなのにしたら」
「好きだったものが、怖くなった場合は?」
陸が鈴を見る。
鈴は、口に出したことを後悔した。
「無理に答えなくていいです」
「怖くなくなるまで、近くにいれば?」
「近くに?」
「俺も大会のあと、しばらく走れなかった。でも陸上部の練習は見に行ってた」
「どうして」
「好きだったから」
陸は自分の入部届を持ち上げる。
「怖いのと、嫌いなのは別じゃん」
チャイムが鳴った。
担任が教室へ入ってくる。
会話はそこで終わった。
鈴は入部届を見つめる。
怖い。
けれど嫌いではない。
それだけは、ずっと分かっていた。
◇
放課後。
音楽室の前には、朝霧紬が本当に待っていた。
手には、朝と同じ入部届。
「来た」
紬が言う。
「帰ろうと思ったんですが」
「思っただけ?」
「朝霧さんが待っていると思ったので」
「嬉しい」
素直に言われると、鈴は困る。
「別に、入ると決めたわけではありません」
「分かってる」
「見学するだけです」
「うん」
「ピアノも弾きません」
「私も今日は弾かない」
「今日は?」
「そのうち」
紬は扉を開けた。
音楽室には、五人の生徒がいた。
二年生が三人。
三年生が二人。
昨日見学で演奏していた音楽部員たち。
窓際ではフルートの音出し。
奥ではヴァイオリンの弓へ松脂を塗っている。
グランドピアノの前には、三年生の女子生徒が座っていた。
「見学?」
女子生徒が顔を上げる。
音楽部の部長、三年生の西園寺真琴。
昨日の説明で名前を聞いた。
「はい」
紬が答える。
鈴は小さく頭を下げた。
「昨日も来てたよね。小宮山さんと、朝霧さん」
「覚えていたんですか」
鈴が尋ねる。
「一年生の名札、見てたから。座って」
二人は壁際の椅子へ座る。
「楽器は?」
真琴が尋ねる。
「ピアノです」
紬は答えた。
鈴は迷う。
「小宮山さんは?」
「……以前、ピアノを」
「今は?」
「弾いていません」
「そう」
真琴は、それ以上聞かなかった。
「音楽部は、必ず人前で演奏しなきゃいけないんですか」
鈴は自分から尋ねた。
「そんなことないよ」
「でも、文化祭や発表会が」
「出たい人が出る。合奏だけ参加する人もいるし、裏方だけの人もいる」
「裏方?」
「譜面の整理、会場準備、録音、ポスター作り。音楽が好きなら、演奏以外にもやることはあるから」
鈴は膝の上で指を握る。
「楽器を弾かない人が入ってもいいんですか」
「いいよ」
「部活なのに?」
「楽器を弾く部じゃなくて、音楽を楽しむ部だから」
昨日、楽しそうに演奏していた理由が、少し分かった。
上手くなるためだけの場所ではない。
結果を出すためだけでもない。
「ただし」
真琴が続ける。
「楽器を触りたくなったら、止めない」
鈴が顔を上げる。
「無理に弾かせはしない。でも、弾きたいのに怖いだけなら、一緒に怖がることはできる」
「どうして」
「私も一度、舞台で止まったから」
真琴はグランドピアノへ視線を向けた。
「二年の合唱コンクール。伴奏の途中で頭が真っ白になった」
「それから、どうしたんですか」
「最初の一週間は、ピアノの蓋も開けられなかった」
「今は」
「弾けるよ。今でも本番前は怖いけど」
「どうやって」
「一人のときに間違える練習をした」
「間違える練習?」
「絶対間違えないようにすると、間違えた瞬間に全部終わるでしょう?」
鈴は、あの日の舞台を思い出す。
一音間違えた。
次が分からなくなった。
全部が終わったと思った。
「わざと別の音を弾いて、そこから戻る。途中で止めて、続きから始める。誰かに咳をしてもらう。椅子を鳴らしてもらう」
「そんな練習が」
「本番は、練習通りにはならないから」
真琴が少し笑う。
「完璧に弾く練習だけじゃなくて、失敗しても続ける練習をした」
朝、相沢が何度も間違えながら、途中から弾き直していた。
最初へ戻らず、止まった場所から。
結衣が、間違えた場所から続きを始めればいいと思ったことを、鈴は知らない。
けれど同じことが、今、鈴の中にも届いた。
「少しだけ」
鈴は言った。
声が震えた。
「ピアノに触ってもいいですか」
紬が隣で息を止める。
真琴は、驚いた顔をしなかった。
「もちろん」
立ち上がり、窓際のアップライトピアノを指す。
「グランドより、こっちの方が落ち着く?」
「はい」
鈴は椅子の前へ立つ。
足が重い。
鍵盤の蓋は開いている。
白と黒。
何年も見てきた配列。
椅子へ座る。
高さを調節する。
手を膝の上へ置く。
呼吸が浅くなる。
音楽室の空気が、コンクール会場の空気へ変わる。
客席。
暗い照明。
止まった指。
咳。
「小宮山さん」
紬の声。
鈴は振り返る。
「誰も、上手に弾いてって言ってないよ」
音楽部員たちは、楽器の手入れを続けている。
鈴を囲んで見ているわけではない。
真琴も、少し離れた場所で楽譜を整理している。
「一音だけでもいい」
紬が言う。
鈴は鍵盤へ右手を置いた。
人差し指。
中央のド。
押す。
一音が鳴った。
古いピアノの、少しくすんだ音。
それだけ。
鈴は指を離す。
何も起こらなかった。
誰も失望しない。
拍手もない。
順位もつかない。
ただ、一音が鳴った。
「もう一つ」
紬が言う。
「命令しないでください」
「お願い」
「同じです」
鈴は次のレを押した。
ミ。
ファ。
ソ。
五つの音。
指は震えている。
それでも動いた。
「音階ですね」
「うん」
「誰でも弾けます」
「今の小宮山さんにしか弾けなかったよ」
鈴は紬を見る。
意味が分からない。
けれど、少しだけ胸が軽くなった。
鈴は両手を鍵盤へ置いた。
昔、最初に発表会で弾いた曲。
右手だけでも弾ける、短い旋律。
最初の二小節。
そこまで弾いて、指が止まる。
次の音が分からなくなったわけではない。
怖くなった。
「止まった」
鈴は呟く。
「うん」
紬が答える。
「もう駄目です」
「続き、分かる?」
「分かります」
「じゃあ、そこから」
鈴は止まった場所を見る。
最初へ戻りたい。
弾き直したい。
最初からなら、今度は失敗しないかもしれない。
けれど、真琴の言葉を思い出す。
失敗しても続ける練習。
鈴は、止まった次の音を押した。
演奏が再び始まる。
短い曲。
全部で一分もない。
何度か音が揺れた。
左手はつけなかった。
それでも最後まで弾いた。
最後の音が消える。
音楽室は静かだった。
誰も大きな拍手をしなかった。
真琴が一度だけ、軽く手を叩いた。
紬も同じように、一度だけ拍手した。
ほかの部員も、それぞれ一度ずつ。
慰めるような拍手ではない。
次を要求する拍手でもない。
たった今、一曲が終わったことへの拍手。
鈴は俯いた。
涙が落ちそうになった。
泣きたくない。
失敗したわけではない。
成功したとも言えない。
ただ、一曲を弾いた。
それだけで泣くのは、大げさだ。
「小宮山さん」
紬が近くへ来る。
「眼鏡、曇ってる」
「曇っていません」
「涙で見えなくなってる?」
「違います」
「そっか」
紬は追及しなかった。
それがありがたかった。
◇
音楽室を出る頃には、空が少し赤くなっていた。
鈴と紬は、並んで昇降口へ向かう。
二人の手には、入部届。
紬の部活動名は、まだ空白。
鈴の紙にも、まだ何も書かれていない。
「書かないの?」
紬が尋ねる。
「今、書こうと思っています」
鈴は廊下の窓台へ紙を置いた。
ペンを取り出す。
部活動名。
空白へ、ゆっくり書く。
音楽部。
少しだけ字が震えた。
「書いた」
紬が言う。
「見れば分かります」
「おめでとう」
「まだ入っただけです」
「入る前から怖かったんだから、大きいよ」
鈴は入部届を見つめる。
「朝霧さんは?」
「まだ迷ってる」
「音楽部に入りましょう」
「急に勧誘するね」
「一人だと不安なので」
口に出してから、鈴は恥ずかしくなった。
紬は目を丸くし、それから笑った。
「今の、友達みたい」
「違うんですか」
「友達でいいの?」
「朝霧さんが嫌でなければ」
「嫌じゃない」
「なら」
「じゃあ友達」
紬は簡単に言った。
まるで、それ以外の可能性などないように。
鈴は小さく頷いた。
「よろしくお願いします」
「友達に敬語?」
「急には変えられません」
「じゃあ、そのうち」
階段を下りる。
正門の前には、今日も校長がいた。
門柱の上ではなく、警備員室の軒下で丸くなっている。
「校長」
紬が近づく。
猫は顔を上げた。
「今日はおやつないよ」
猫はすぐに目を閉じた。
「露骨」
鈴が言う。
「小宮山さんも話しかけてみる?」
「猫に?」
「相談に乗ってくれるよ」
「返事をしないんでしょう」
「人の話を途中で遮らない」
「それは長所なんですか」
「たぶん」
鈴は校長の前へしゃがむ。
何を話せばいいのか分からない。
「今日、音楽部に入りました」
猫は目を閉じたまま。
「ピアノを弾きました」
耳が少し動いた。
「一度止まりました」
猫は返事をしない。
「でも、最後まで弾きました」
自分で言葉にすると、改めて実感が湧いた。
あの日、舞台で止まった。
最後まで弾けなかった。
今日は止まった。
けれど、途中から続けた。
同じではなかった。
「聞いていますか」
校長は大きなあくびをした。
「やっぱり役に立ちません」
「でも、少し話しやすいでしょう?」
「人間よりは」
「私も人間だけど」
「朝霧さんは、少し猫に近いです」
「どういう意味?」
「勝手に近づいてきます」
「嫌だった?」
鈴は少し考える。
「今日だけは、よかったです」
「明日は?」
「明日は、明日考えます」
「小宮山さん、結構面白いね」
「初めて言われました」
二人は正門を出た。
途中まで帰る方向は同じだった。
「明日の朝も、音楽室へ行く?」
紬が尋ねる。
「部活は放課後です」
「相沢先輩の練習、見る?」
「見るだけなら」
「指使い、教えてあげればいいのに」
「まだ言うんですか」
「小宮山さんなら、すぐ直せるでしょう?」
「でも、先輩に失礼です」
「間違ってるのに黙って見てる方が失礼かも」
「それは違います」
「じゃあ、明日一緒に聞いてみよう」
「朝霧さんが聞いてください」
「小宮山さんが教えるんだから、小宮山さんが」
「嫌です」
「じゃあ私が、『この子が教えたいそうです』って」
「絶対にやめてください」
二人の声が、夕方の道へ続く。
鈴は、自分がこんなに長く誰かと話したのは久しぶりだと気づいた。
ピアノをやめてから、音楽の話を避けてきた。
失敗の話も。
怖いという気持ちも。
誰にも話したくなかった。
けれど今日、話した。
鍵盤へ触れた。
音を出した。
入部届へ名前を書いた。
何かが元通りになったわけではない。
怖さは残っている。
明日になれば、また弾けないかもしれない。
それでも、昨日とは違う。
音楽をやめた人間ではなく、もう一度始めたばかりの人間になった。
◇
翌朝。
午前七時三十八分。
鈴は、昨日より少し早く学校へ着いた。
正門の門柱には、校長が座っている。
「おはようございます」
鈴が言う。
猫は返事をしない。
それでも鈴は、少しだけ笑った。
音楽室へ向かう。
廊下の途中で、紬と合流した。
「来た」
「朝霧さんも」
「約束したから」
「していません」
「心の中で」
「勝手に作らないでください」
二人で音楽室の前へ行く。
中から、相沢のピアノが聞こえた。
昨日と同じ箇所。
同じ間違い。
相沢が止まる。
もう一度弾き始めようとする。
鈴は扉の前で足を止めた。
心臓が速くなる。
「行こう」
紬が言う。
「待ってください」
「今言わないと、また明日になるよ」
その言葉は、どこかで聞いた話に似ていた。
言いたいことを三年間言えなかった先輩。
昨日、勇気を出して名前を聞いた紬。
入部届を何日も空白のまま持っていた自分。
鈴は深呼吸した。
扉をノックする。
ピアノが止まった。
「はい」
中から相沢の声。
鈴は扉を開けた。
「失礼します」
相沢が振り返る。
「一年生?」
「小宮山鈴です。音楽部に入りました」
「そうなんだ。おめでとう」
「あの」
声が震える。
「演奏を勝手に聞いて、すみません」
「別にいいよ。まだ下手だけど」
「右手の指使いを変えた方が、弾きやすいと思います」
言った。
相沢が目を瞬く。
怒るだろうか。
余計なお世話だと言われるだろうか。
「どこ?」
相沢は、ただ尋ねた。
「この小節です」
鈴はピアノへ近づく。
楽譜を指さす。
「ここを三の指から始めると、次で手が詰まります。二の指から始めて、ここで一をくぐらせると」
「弾いてみてくれる?」
鈴の体が固まる。
「私は」
「右手だけでいい」
紬が後ろで、何も言わず見ている。
鈴は相沢の隣へ座った。
鍵盤へ右手を置く。
昨日より怖い。
見られているから。
けれど、これは演奏ではない。
教えるための数小節。
誰かが弾けるようになるための音。
鈴は、ゆっくり指を動かした。
二。
三。
一。
二。
空中で何度も動かしていた通りに。
音がつながる。
「なるほど」
相沢が同じように弾く。
一度目は失敗した。
二度目。
今まで止まっていた箇所を、初めて越えた。
「弾けた」
相沢が笑った。
「ありがとう、小宮山」
「いえ」
たった数小節。
自分が弾いたわけではない。
コンクールのような結果もない。
それでも鈴の胸の中に、小さな音が残った。
誰かのために役立った音。
失敗しなかったからではない。
失敗しても、もう一度弾いたから生まれた音。
「小宮山」
相沢が言う。
「また分からないところ、聞いてもいい?」
鈴は少し迷った。
昨日までの自分なら、断っていた。
「私でよければ」
答える。
「助かる」
音楽室の窓から、朝の光が入る。
ピアノの黒い表面へ、白い光が映った。
鈴の背後で、紬が静かに笑っている。
そのさらに向こう。
開いた扉の外に、一人の男子生徒が立っていた。
一年三組の田所陸。
朝練へ向かう途中らしい。
陸上部の鞄を肩へかけ、音楽室の中を見ている。
鈴と目が合うと、陸は軽く右手を上げた。
そして、声には出さず、口だけを動かした。
『走り直せた?』
鈴は少し考えた。
それから小さく頷いた。
陸は笑い、階段の方へ走っていった。
今度は転ばずに。




