第3話 栞の裏側に、まだ言えないこと
白石結衣には、弟がいる。
二つ年下。
名前は悠。
小さい頃は、結衣の後ろをどこへでもついてきた。
結衣が公園へ行けば公園へ。
図書館へ行けば図書館へ。
友達と遊ぼうとすれば、玄関で靴を履きながら、
「僕も行く」
と当然のように言った。
当時の悠は、姉という存在を、自分が行きたい場所へ連れていってくれる便利な乗り物くらいに思っていたのかもしれない。
「今日は駄目」
「どうして」
「友達と遊ぶから」
「僕も友達になる」
「急には無理なの」
「何で?」
「何ででも」
「結衣ちゃんだけずるい」
そう言って泣く。
仕方なく連れていく。
結衣の友達に遊んでもらい、帰る頃には結衣より楽しそうにしている。
そんな弟だった。
けれど小学生、中学生と成長するにつれ、二人が一緒に出かけることは少なくなった。
悠は結衣のことを「結衣ちゃん」と呼ばなくなった。
代わりに、
「姉ちゃん」
と呼ぶようになった。
それも中学二年生になる頃には、
「おい」
「ちょっと」
「そこの人」
になった。
「そこの人って誰」
「姉ちゃんしかいないだろ」
「だったら姉ちゃんって言いなさい」
「面倒くさい」
「人を呼ぶことの何が面倒くさいの」
「全部」
弟という生き物は、ある時期を境に突然かわいくなくなる。
結衣はそう確信していた。
もちろん、悠が本当に嫌いなわけではない。
熱を出せば心配する。
帰りが遅ければ連絡する。
好きそうな本を見つければ、何も言わず机へ置いておく。
ただ、本人の前で優しくするのが少しだけ恥ずかしくなった。
それは悠も同じなのだと思う。
朝、結衣が寝坊していれば起こす。
重い荷物を持っていれば、文句を言いながら代わりに持つ。
風邪を引いたときには、頼んでもいないのにスポーツドリンクを買ってくる。
けれど、
「心配した」
とは絶対に言わない。
家族というのは、不思議だ。
近くにいるから、何も言わなくても分かると思ってしまう。
本当は、言わなければ分からないことばかりなのに。
◇
四月十日。
午前七時五十分。
青葉ヶ丘高校三年二組。
白石結衣は、自分の席で英単語帳を開いていた。
読んでいるふりをしているだけで、一つも頭には入っていない。
ページの端には、
departure――出発。
decision――決意。
confess――告白する。
という単語が並んでいた。
「朝から露骨だね」
前の席に座っている女子が、椅子ごと振り返る。
赤城沙耶。
二年生の頃から同じクラスで、結衣が学校で最もよく話す相手だった。
「何が」
「単語」
「偶然だから」
「出発、決意、告白」
「教科書を作った人に言って」
「今の結衣にぴったり」
「朝から人の単語帳をのぞかないで」
「だって結衣、さっきから同じページを五分くらい見てるし」
結衣は黙ってページをめくった。
次のページの一番上には、
failure――失敗。
と書かれていた。
「戻した方がいいんじゃない?」
「うるさい」
単語帳を閉じる。
沙耶は机へ肘をつき、結衣の顔を眺めた。
「今日こそ言うの?」
「何を」
「相沢に」
結衣は鞄から教科書を取り出すふりをした。
「別に言うことない」
「三年間好きだった人が、高校卒業したら県外の大学に行くんでしょう?」
「まだ合格してない」
「受かったら」
「縁起でもない言い方しないで」
「推薦だから、ほぼ決まってるじゃん」
「それでも、まだ正式じゃない」
「逃げてる」
「逃げてない」
「逃げてる人は、みんなそう言う」
沙耶は大きくため息をついた。
「一年生のとき、文化祭が終わったら告白するって言った」
「覚えてない」
「二年生のとき、修学旅行から帰ったら告白するって言った」
「言ってない」
「三年生になる前に告白するって言った」
「それは……」
「言ったよね?」
「冬休み前で、少し気持ちが弱ってた」
「いつも弱ってるじゃん」
「人を病人みたいに言わないで」
「恋の病」
「寒い」
「春なのに?」
「沙耶が寒い」
結衣は窓の外を見る。
校庭を囲む桜は満開だった。
風が吹くたび、淡い花びらが舞っている。
三年前。
入学したばかりの頃も、同じように桜が咲いていた。
その日、結衣は初めて相沢直樹と話した。
出会いは、決して劇的ではなかった。
昇降口で結衣が教室の場所を探していたところへ、
「一年生の教室なら二階だよ」
と声をかけてきた。
相沢も一年生だった。
結衣と同じように、真新しい制服。
けれど自分よりずっと落ち着いて見えた。
「知ってる」
緊張していた結衣は、つい無愛想に答えた。
「じゃあ、何探してるの?」
「図書室」
「入学初日から?」
「悪い?」
「悪くないけど、珍しいなと思って」
「あなたに関係ないでしょ」
「確かに」
相沢は怒らなかった。
少しだけ笑うと、
「図書室なら三階の一番奥」
と教えてくれた。
そのあと、相沢も同じ方向へ歩き始めた。
「何でついてくるの」
「俺も図書室に行くから」
「本当に?」
「疑い深いな」
結局、二人で図書室まで歩いた。
図書室はまだ閉まっていた。
入口には、
『新入生の利用開始は明日からです』
という紙が貼られていた。
「……入れない」
結衣が呟くと、相沢は笑った。
「入学初日から閉館日に図書室へ来るやつ、初めて見た」
「あなたも来たでしょう」
「俺は君についてきただけ」
「図書室に行くって言った」
「嘘」
「最低」
「でも、一人で来て閉まってたら寂しいだろ」
その言葉が、なぜか心に残った。
知らない学校。
知らない教室。
知らない人ばかりの春。
その中で初めて、自分の気持ちを見つけてもらえたような気がした。
それから二人は、少しずつ話すようになった。
同じクラスではなかった。
部活も違った。
結衣は図書委員。
相沢は合唱部。
それでも図書室で会った。
相沢は本が好きではないくせに、練習がない日は図書室へ来た。
「何しに来てるの」
「静かだから」
「本読まないなら帰って」
「図書委員って、利用者を追い出していいの?」
「寝るだけなら家で寝なさい」
「家だと妹がうるさい」
「妹いるんだ」
「小学生。俺の部屋へ勝手に入ってくる」
「弟も同じ」
家族の話。
授業の話。
部活の話。
少しずつ互いのことを知った。
いつ好きになったのか、結衣自身にも分からない。
ただ、図書室へ来ない日が少し寂しくなった。
廊下で姿を探すようになった。
相沢が別の女子と話していると、理由もなく不機嫌になった。
それを沙耶に指摘され、
「好きなんじゃない?」
と言われたとき、初めて自分の気持ちに名前がついた。
一年生の夏だった。
結衣は、青いリボンの栞を作った。
図書委員のイベントで、手作り栞を配ることになったのだ。
色画用紙を切り、星を描き、穴を開けてリボンを結ぶ。
配布用とは別に、自分のための一枚を作った。
裏には名前を書いた。
白石結衣。
その下へ、小さく、
『文化祭が終わったら、相沢くんに言う』
と書いた。
忘れないため。
逃げないため。
けれど文化祭が終わっても、言えなかった。
相沢が合唱部の女子と楽しそうに話しているのを見て、勇気が消えた。
二年生になると、栞の下へ新しい言葉を加えた。
『修学旅行から帰ったら言う』
修学旅行が終わっても、言えなかった。
相沢と同じ班ではなかった。
自由行動で一緒に回ることもなかった。
お土産は渡した。
「妹に」
と嘘をついて、女の子向けのキーホルダーを選んでもらった。
本当は相沢へ渡すつもりだった。
結局、家で使っている。
三年生になる前。
もう一度、栞へ書いた。
『春になったら言う』
春になった。
今、三年生になった。
それでも言えない。
しかも、その大切な栞をなくした。
「結衣」
沙耶の声で、現実に戻る。
「何」
「今日、相沢、昼休みに音楽室で練習するって」
「何の」
「ピアノ」
「相沢、ピアノ弾けたっけ」
「弾けないから練習してるんでしょ」
「どうしてピアノ?」
「知らない」
沙耶は意味ありげに笑う。
「好きな人に聞かせたいんじゃない?」
「合唱部なのに?」
「歌って告白するのは恥ずかしいから、ピアノにしたとか」
「ピアノの方が恥ずかしくない?」
「結衣、気になる?」
「別に」
「音楽室、見に行く?」
「行かない」
「本当に?」
「行かない」
結衣は英単語帳を開き直した。
今度は、
coward――臆病者。
という単語が目に入った。
「この教科書、喧嘩売ってる」
「何の話?」
◇
一時間目が始まる直前。
教室の後ろの扉から、男子生徒が顔を出した。
「白石結衣、いる?」
弟の悠だった。
三年生の教室に二年生が来るのは珍しい。
クラスの数人が振り返る。
結衣は嫌な予感がした。
「何」
「ちょっと」
「ここで言って」
「人がいるから」
「家族の話なら家でして」
「そうじゃなくて」
悠は手招きする。
仕方なく結衣は廊下へ出た。
そこには、一年生の女子生徒が立っていた。
肩の少し下まで伸びた黒髪。
青いリボン。
胸の名札には、朝霧紬と書かれている。
紬は緊張した様子で、両手を前へ揃えていた。
「この子が、校門で拾ったらしい」
悠が言う。
「何を?」
紬が手を開く。
青いリボンのついた、白い栞。
結衣は息を止めた。
「これ」
紬が差し出す。
間違いない。
三年前に作った栞。
星の位置も。
少しほつれた青いリボンも。
裏返せば、結衣の名前と、誰にも見られたくない言葉が書かれている。
「どこで」
「校門の猫が持ってきたんです」
「猫?」
「校長」
悠が補足する。
「図書室の落とし物箱に入ってたのに、朝になったら猫が持ってた」
「どういうこと?」
「俺も知らない」
結衣は栞を受け取る。
すぐに裏面を確認した。
名前は残っている。
その下の文字は、何度も指でこすったため薄くなっていた。
近くで見なければ読めない。
紬が読んだ様子はない。
「白石先輩のものですか?」
紬が尋ねる。
「うん。ありがとう」
「よかった」
紬はほっとしたように笑った。
「図書室の本に挟まってたみたいです」
「何の本?」
「恋愛小説です。白石先輩――悠先輩が昨日、私に貸してくれた本と同じ棚にあったみたいで」
「俺は貸してない。図書室の本」
悠が言う。
「おすすめしてくれた」
「それを貸したって言うのか?」
「細かいね、悠」
「姉ちゃんに言われたくない」
紬が二人を交互に見る。
「お二人、きょうだいなんですね」
「残念ながら」
悠が答える。
「それはこっちの台詞」
「顔、似てないですね」
「よく言われる」
二人の声が重なった。
紬が少し笑った。
悠が結衣を見る。
「その栞、そんなに大事なの?」
「別に」
「見つけたって言ったら、顔変わった」
「変わってない」
「何か書いてある?」
悠が手を伸ばす。
結衣は反射的に栞を胸元へ引いた。
「触らないで」
「怪しい」
「人のものを勝手に見るなって、小学校で習わなかった?」
「名前しか見てない」
「だったら、それ以上見る必要ないでしょう」
「誰かへの遺言?」
「縁起でもない」
「告白文とか」
結衣の肩が跳ねた。
悠が目を細める。
「本当に?」
「違う」
「今の反応、正解だろ」
「違うって言ってる」
紬が申し訳なさそうに口を挟む。
「あの、私は何も読んでません」
「大丈夫」
結衣はできるだけ穏やかに笑った。
「本当にありがとう。ずっと探してたから」
「見つかってよかったです」
紬が頭を下げる。
その青いリボンが揺れた。
栞のリボンと、よく似た色。
「紬ちゃん」
「はい」
「そのリボン、きれいだね」
突然褒められ、紬は少し驚いた。
「ありがとうございます」
「似合ってる」
「母には、子どもっぽいって言われました」
「そんなことない。青は、勇気が出る色だから」
「勇気?」
「私の場合はね」
結衣は栞のリボンへ触れる。
青いリボンを選んだ理由。
広い空のような色なら、自分の小さな悩みも軽くなる気がした。
けれど三年間、栞は勇気をくれなかった。
正確には、栞がくれなかったのではない。
受け取ろうとしなかった。
「結衣」
悠が言う。
「何」
「今日、言えば?」
主語はなかった。
それでも何のことか分かった。
「だから違うって」
「誰か知らないけど」
「知らないなら口出さないで」
「三年も栞に書いてるくらいなら、もう言った方がいいだろ」
「見たの?」
「少し」
「最低」
「事故だ。裏返したら見えた」
「忘れて」
「努力する」
「努力じゃなくて忘れなさい」
紬が驚いた顔をする。
「それ、みんな言うんですね」
「何が?」
「何でもないです」
予鈴が鳴った。
悠は一年生の紬を教室へ送ると言い、歩き始める。
「じゃあ」
紬が結衣へ頭を下げた。
「失礼します」
「本当にありがとう」
「白石先輩」
紬は数歩進んでから振り返った。
「私、昨日、少しだけ勇気を出してよかったって思ったんです」
「昨日?」
「名前を聞きました」
紬が悠を見る。
悠は何の話か分からないような顔をしている。
「だから、白石先輩も」
そこまで言って、紬は少し恥ずかしそうに笑った。
「余計なことだったら、すみません」
二人が廊下を歩いていく。
結衣は栞を握ったまま、その背中を見送った。
三年生の自分が、一年生に背中を押される。
情けない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
◇
昼休み。
結衣は音楽室の前にいた。
行かないと宣言したはずだった。
それなのに、沙耶に連れられ、気づけばここまで来ていた。
「私は何もしてないよ」
沙耶が言う。
「腕を引っ張った」
「最後は自分で歩いた」
「階段で離してくれなかったから」
「階段で手を離したら危ないでしょう」
「そもそも連れてこないで」
「じゃあ帰る?」
音楽室の中から、ピアノの音が聞こえる。
聞いたことのある曲だった。
けれど、曲名が思い出せない。
ゆっくりとした旋律。
音が途切れる。
同じ部分から、もう一度。
何度も間違えながら、少しずつ進んでいく。
「相沢、練習してるね」
沙耶が小声で言う。
「下手」
「始めたばかりなんでしょう」
「合唱部なんだから、歌えばいいのに」
「誰かに聞かせるなら、歌は恥ずかしいんじゃない?」
「ピアノも十分恥ずかしい」
「結衣、さっきも同じこと言ってた」
「そうだっけ」
小窓から中を見る。
相沢はグランドピアノの前に座っていた。
普段よりも真剣な顔。
楽譜へ目を落とし、両手を鍵盤へ置いている。
結衣は、相沢がピアノを弾く姿を初めて見た。
指は不器用だった。
右手と左手が合わず、何度も止まる。
それでも諦めず、最初から弾き直す。
「何の曲?」
結衣が尋ねる。
「『愛の挨拶』」
背後から別の声がした。
振り返ると、一年生の女子が立っていた。
朝の紬ではない。
小柄で、丸い眼鏡をかけている。
胸には音楽部の仮入部札。
「知ってるの?」
沙耶が尋ねる。
「有名な曲なので。好きな人へ贈った曲って言われてます」
「へえ」
沙耶が結衣を見る。
「こっち見ないで」
眼鏡の女子は二人の空気に気づいたのか、軽く頭を下げて階段へ向かった。
「好きな人に贈る曲だって」
「曲の由来と、相沢が練習してる理由は関係ない」
「本当に?」
「相沢がそんな分かりやすいことするわけない」
「じゃあ、誰に聞かせるんだろうね」
沙耶が音楽室の扉へ手をかける。
「ちょっと」
「入る?」
「入らない」
「じゃあ、ここで盗み聞き?」
「それも嫌」
「帰る?」
「……少しだけ聞く」
「素直じゃないね」
結衣は扉の横へ立ち、目を閉じた。
音だけを聞く。
何度も間違える。
止まる。
やり直す。
完璧ではない。
それでも、誰かへ届かせようとしている音だった。
誰に。
何のために。
考えるほど、胸が苦しくなる。
相沢に好きな人がいるのかもしれない。
卒業前に、その相手へ気持ちを伝えるつもりなのかもしれない。
なら、自分が今さら告白しても遅い。
そんな考えが浮かぶ。
けれど、それは三年間、何度も使ってきた逃げ道だった。
文化祭では、相沢が女子と話していたから。
修学旅行では、同じ班ではなかったから。
三年生になる前は、受験の邪魔になるから。
今日は、ピアノを聞かせたい相手がいるかもしれないから。
理由はいくらでも作れる。
言わないための理由だけは、毎回すぐに見つかった。
結衣はポケットから栞を取り出した。
裏面の薄い文字。
『文化祭が終わったら、相沢くんに言う』
『修学旅行から帰ったら言う』
『春になったら言う』
全部、過去の自分が書いた。
そして全部、守らなかった。
結衣はシャープペンシルを取り出した。
三つの文の下へ、新しい言葉を書く。
『今日、言う』
手が震えた。
文字が少し曲がった。
けれど、今までで一番濃く書けた。
「沙耶」
「何?」
「先に教室戻って」
「本当に?」
「うん」
「逃げない?」
「逃げない」
「信用できない」
「友達でしょう」
「友達だから信用できない」
「ひどい」
沙耶は少し笑った。
それから結衣の肩を軽く叩く。
「頑張って」
「簡単に言わないで」
「三年間待ったんだから、それくらい言わせて」
沙耶は階段へ向かった。
途中で振り返り、
「告白できなくても、相沢に栞だけは見せなよ」
「絶対嫌」
「じゃあ告白して」
「分かったから行って」
沙耶の姿が見えなくなる。
結衣は一人で、音楽室の前に立った。
ピアノが止まる。
椅子を動かす音。
今出てくる。
心臓が痛いほど鳴る。
逃げたい。
教室へ戻りたい。
栞へ書いた文字を消したい。
けれど、足は動かなかった。
扉が開く。
「白石?」
相沢が立っていた。
額へ少し汗が浮かんでいる。
「何してるの」
「通りかかった」
「昼休みに音楽室の前を?」
「たまたま」
「三年生の教室、反対側だけど」
「遠回りしたかったの」
「何で?」
「運動不足だから」
相沢は疑うように結衣を見る。
「聞いてた?」
「少し」
「最悪」
「どうして」
「まだ全然弾けないから」
「下手だった」
「正直すぎる」
「でも、少しずつ弾けてた」
「慰め?」
「本当」
相沢は音楽室の中を振り返る。
「卒業までに間に合うかな」
「誰かに聞かせるの?」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
相沢は一瞬黙った。
「まあ」
「好きな人?」
「何で分かった」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
やっぱり。
誰かいる。
三年間言えなかった間に、相沢は別の誰かを好きになった。
当たり前だ。
相沢の時間は、結衣を待つためにあるわけではない。
「分かりやすい曲だから」
「曲を知ってた?」
「さっき教えてもらった」
「誰に」
「一年生」
「何で一年生と話してるんだ」
「そこ気にする?」
結衣は笑おうとした。
うまく笑えたか分からない。
「聞かせる相手、彼氏いるの?」
「何で彼氏」
「彼女かもしれない」
「何の話?」
「好きな相手」
「女だよ」
「そう」
少しだけ安心した自分が情けない。
「その人、相沢のこと好きなの?」
「分からない」
「告白する?」
「そのつもり」
「いつ」
「卒業までに」
「遅い」
「白石に言われたくない」
相沢の声が少し低くなった。
結衣は顔を上げる。
「どういう意味」
「そのまま」
「私、誰かに告白するなんて言った?」
「言ってない」
「じゃあ何で」
「三年間、言いたいことがある顔してたから」
「何それ」
「一年の頃から」
「分かってたの?」
「何となく」
結衣の頬が熱くなる。
「だったら、どうして何も言わなかったの」
「俺から聞くことじゃないだろ」
「そうだけど」
「白石も何も言わなかった」
「言えるわけない」
「俺だって言えなかった」
「相沢は好きな人にピアノ弾くんでしょう」
「だから練習してる」
「私には関係ない」
言葉が、思ったより強く出た。
相沢が黙る。
結衣は後悔した。
このままでは、また逃げる。
好きな人がいると聞いて、勝手に傷ついて、何も言わずに終わる。
それなら、栞に書いた三年間と同じだ。
結衣はポケットの中で、栞を強く握った。
「相沢」
「何」
「私、あなたが好き」
声は小さかった。
ピアノの音よりも。
廊下を通る風の音よりも。
けれど、相沢には届いた。
驚いた顔をしている。
「一年生の頃から」
結衣は続ける。
「文化祭が終わったら言おうと思った。言えなかった。修学旅行のあとにも言おうと思った。言えなかった。三年生になる前にも」
ポケットから栞を出す。
裏面を相沢へ見せた。
「全部、言えなかった」
相沢が薄い文字を読む。
結衣は恥ずかしさで消えたくなった。
「笑わないで」
「笑ってない」
「引いてる?」
「引いてない」
「重い?」
「少し」
「やっぱり」
「三年分だから」
「帰る」
栞を引こうとする。
相沢が手首をつかんだ。
「待って」
「何」
「最後の文字」
『今日、言う』
相沢が指さす。
「今日、言ったな」
「言った」
「じゃあ、この栞の役目終わり?」
「そうかも」
「なら、俺にくれない?」
「嫌」
「即答」
「恥ずかしいことしか書いてない」
「俺の名前しか書いてない」
「だから嫌なの」
相沢は笑った。
「俺が好きなのも、白石」
結衣は動けなかった。
「……何」
「好きな人」
「誰が?」
「俺が」
「誰を?」
「白石結衣を」
理解できる言葉なのに、意味が頭へ入ってこない。
「嘘」
「何で」
「だって、ピアノ」
「白石に聞かせるつもりだった」
「どうしてピアノ?」
「歌だと、合唱部の延長みたいだろ」
「ピアノも意味分からない」
「文化祭のとき、白石がこの曲好きって言ったから」
「言ったっけ」
「覚えてないの?」
「三年前だよ」
「俺は覚えてた」
「……ずるい」
「何が」
「私ばっかり、三年間悩んでたみたい」
「俺も言えなかった」
「相沢は平気そうだった」
「白石も平気そうだった」
「全然平気じゃなかった」
「俺も」
二人とも、相手が何も思っていないと思っていた。
二人とも、言わなくてもいつか気づいてもらえると思っていた。
二人とも、傷つくのが怖かった。
三年間。
同じ図書室で。
同じ廊下で。
何度も話しながら。
一番大切なことだけを言えなかった。
「どうする?」
相沢が尋ねる。
「何を」
「告白したあと」
「知らない」
「白石から告白したのに?」
「初めてだから」
「俺も」
「じゃあ、どうすればいいの」
「付き合う?」
あまりにも普通に言う。
結衣は目をそらした。
「何で疑問形」
「断られたら嫌だから」
「私、今好きって言った」
「それでも」
「相沢も臆病じゃん」
「白石にだけは言われたくない」
二人で笑った。
「付き合う」
結衣が言う。
「本当に?」
「もう一回言わせないで」
「言って」
「嫌」
「三年間待った」
「私も」
「じゃあ、お互い様か」
相沢が手を差し出した。
「何」
「栞」
「これは駄目」
「じゃあ、手」
結衣は相沢の手を見る。
「学校で?」
「誰もいない」
「誰か来るかもしれない」
「嫌ならいい」
手を下ろそうとする。
結衣は慌てて、その手をつかんだ。
「嫌とは言ってない」
「面倒くさいな」
「相沢に言われたくない」
手のひらが温かい。
三年間、何度も隣を歩いた。
肩が触れたこともある。
本を渡すとき、指が触れたこともある。
けれど、自分から手をつないだのは初めてだった。
音楽室の中。
開いたままの楽譜が、春の風で揺れている。
「ピアノ」
結衣が言う。
「聞かせて」
「まだ下手」
「卒業まで待つ」
「告白は待てなかったのに?」
「三年待った」
「そうだった」
「それに」
結衣は少しだけ笑った。
「上手になるまで待ってたら、卒業しそう」
「そこまで下手じゃない」
「さっき何回間違えた?」
「数えてたの?」
「十一回」
「怖い」
「図書委員は数字に強いの」
「初めて聞いた」
二人は音楽室へ入った。
相沢がピアノの前へ座る。
結衣はその隣へ立つ。
「間違えても笑うなよ」
「笑わない」
「絶対?」
「努力する」
「努力じゃなくて笑うな」
「みんな同じこと言う」
「何の話?」
「何でもない」
相沢が鍵盤へ指を置いた。
最初の音。
二つ目。
三つ目。
ゆっくりと、旋律が始まる。
やはり上手ではなかった。
途中で一度止まった。
左手が違う音を押した。
相沢は小さく舌打ちし、最初からやり直そうとする。
「続けて」
結衣が言う。
「間違えた」
「いいから」
「最初からの方が」
「今の続きが聞きたい」
相沢は少し迷い、止まった場所から弾き始めた。
完璧ではない。
それでも、結衣はその曲を最後まで聞いた。
下手なところも。
間違えたところも。
言えなかった三年間も。
全部、自分たちの時間だった。
やり直す必要はない。
間違えた場所からでも、続きを始めればいい。
最後の音が、音楽室へ残る。
「どう?」
相沢が尋ねる。
「下手」
「帰る」
「でも」
結衣は続けた。
「一番好きな曲になった」
相沢は何も言わなかった。
ただ、耳まで赤くなっていた。
◇
放課後。
結衣は図書室へ向かった。
弟の悠はカウンターの中で、本の整理をしていた。
「悠」
「何」
「これ」
青いリボンの栞を差し出す。
悠が受け取らず、眉をひそめる。
「大事なんじゃなかったの」
「大事だった」
「過去形?」
「役目が終わったから」
「言ったの?」
「何を」
「告白」
「忘れたんじゃなかったの?」
「努力したけど無理だった」
「最低」
「それで?」
悠は少しだけ笑っている。
「成功した」
「そう」
「反応薄い」
「おめでとう」
「もっと驚かないの?」
「相沢先輩だろ」
結衣は目を見開く。
「何で知ってるの」
「姉ちゃん、相沢先輩が家の前通るたび、カーテンから見てたから」
「いつの話」
「中学の頃から」
「嘘」
「本当」
「誰にも言ってないよね」
「今度、紬に」
「絶対やめて」
「冗談」
悠は栞を受け取った。
「これ、俺にくれるの?」
「欲しそうだったから」
「別に」
「なら返して」
手を伸ばすと、悠は栞を自分のポケットへ入れた。
「もらう」
「どっちなの」
「姉ちゃんが書いたところ、消していい?」
「絶対消して」
「記念に残す」
「燃やすよ」
「人にあげたものを?」
「まだ所有権は私にある」
「ないだろ」
くだらない言い合い。
昔と変わらない。
けれど結衣は、少しだけ素直になってみようと思った。
「悠」
「何」
「朝、ありがとう」
「俺は何もしてない」
「紬ちゃんを連れてきてくれた」
「向こうが姉ちゃんに返したいって言ったから」
「それでも」
悠が本を棚へ戻す。
「それと」
「まだあるの」
「心配してくれて、ありがとう」
悠の手が止まる。
「誰が」
「三年も悩んでるなら言えばって」
「別に心配してない」
「はいはい」
「本当に」
「分かった」
結衣は笑った。
「それから、好きな本をいつも私の机へ置いてるの、知ってるから」
「知らない」
「悠以外に誰が置くの」
「母さん」
「お母さんは推理小説しか読まない」
「父さん」
「お父さんは本読まない」
「校長」
「猫が二階の部屋へ本持ってくるの?」
「知らない」
悠は顔をそらした。
耳が少し赤い。
「ありがとう」
結衣はもう一度言った。
悠は返事をしなかった。
けれどポケットの上から、栞の形を確かめるように触れた。
◇
翌朝。
午前七時四十五分。
青葉ヶ丘高校の正門前。
校長は門柱の上で丸くなっていた。
朝霧紬がやってくる。
「おはよう、校長」
昨日よりも自然な挨拶。
猫は返事をしない。
紬は鞄から猫用のおやつを取り出した。
「昨日は栞、届けてくれてありがとう」
校長が門柱から飛び下りる。
「白石先輩、嬉しそうだったよ」
紬は、おやつを一つ地面へ置いた。
「何かいいことあったのかな」
校長は食べる。
「聞いても、教えてくれないよね」
そのとき、正門の向こうからピアノの音が聞こえた。
音楽室の窓が開いているらしい。
まだ早い時間。
誰かが、一人で練習している。
ゆっくりとした、どこかで聞いたことのある曲。
何度か音を間違える。
途中で止まる。
けれど最初へは戻らず、その場所からまた弾き始める。
紬は校舎を見上げた。
三階の音楽室。
開いた窓辺に、一人の女子生徒が立っていた。
丸い眼鏡。
小柄な体。
昨日、廊下で曲名を教えてくれた一年生だった。
彼女は誰にも見つからないように、音楽室の中をじっと見つめている。
その手には、まだ一度も提出していない入部届が握られていた。




