第2話 友達の作り方を、猫は知らない
朝霧紬は、高校に入学する三日前から「おはよう」の練習をしていた。
鏡の前に立ち、口角を少しだけ上げる。
「おはよう」
硬い。
もっと自然に。
「おはよう」
今度は声が小さい。
相手に聞こえなければ、言っていないのと同じだ。
「おはよう!」
大きすぎる。
選挙活動ではないのだから、朝から廊下中へ響かせる必要はない。
紬は鏡に映る自分を見つめ、ため息をついた。
肩の少し下まで伸びた黒髪。
中学の卒業式が終わった日に買った青いリボン。
母親には「高校生になるんだから、もう少し大人っぽいものにしたら」と言われたが、紬はこの色が気に入っていた。
空の色に似ているから。
晴れている日の、少しだけ遠く感じる空。
見上げることはできても、自分から近づくことはできない。
それは、紬にとって人間関係とよく似ていた。
話したい。
仲良くなりたい。
一緒に笑ってみたい。
けれど、どう近づけばいいのか分からない。
だから中学三年間、紬には「いつも一緒にいる友達」がいなかった。
話しかけられれば答えられる。
班活動にも参加できる。
必要な連絡もできる。
決して一人きりだったわけではない。
ただ、休み時間になると自然に隣へ来る相手がいなかった。
放課後に「一緒に帰ろう」と言える相手がいなかった。
休日に連絡を取る相手がいなかった。
それだけだった。
それだけのことが、紬にはずっと寂しかった。
高校では変わろう。
中学を卒業した日の夜、そう決めた。
誰も自分のことを知らない場所なら、今までとは違う自分になれるかもしれない。
明るくて。
よく笑って。
誰にでも自分から話しかけられる。
そんな自分に。
だから、「おはよう」の練習をした。
話しかけるための最初の一言。
友達になるための入口。
それが完璧に言えれば、きっと高校生活もうまくいく。
紬は本気でそう思っていた。
入学初日の朝。
教室の前で深呼吸を三回してから、扉を開けた。
窓際の席に座っていた女子生徒と目が合った。
明るそうな子だった。
茶色がかった髪を肩の辺りで切りそろえ、鞄にはいくつものキーホルダーをつけていた。
今だ。
練習した通りに。
笑顔で。
自然に。
「お、おは――」
「おはよう!」
相手の方が先だった。
紬の口から出かけていた言葉は、行き場を失って喉の奥へ戻った。
「同じクラスだよね? 私、西野結菜。よろしく!」
「あ……朝霧、紬です」
「紬ちゃんね。席どこ?」
「あそこ」
「近いじゃん! よかったー。知ってる人いなくて不安だったんだ」
結菜はそう言って笑った。
知っている人がいないことを、少しも気にしていないような笑い方だった。
紬が三日間練習した「おはよう」は、結局言えなかった。
けれど、初めて名前を呼んでもらえた。
それだけで、その日は少しだけ成功だったと思えた。
問題は二日目だった。
昨日話したのだから、今日も話しかけていいはずだ。
けれど、昨日は相手から話しかけてくれた。
今日はどうすればいい。
教室へ入った瞬間に挨拶するべきか。
席に着いてからの方が自然か。
相手が別の人と話していたらどうする。
声をかけて邪魔だったら。
昨日はたまたま話しただけで、今日はもう自分のことを忘れていたら。
考え始めると、足が重くなった。
気づけば紬は、青葉ヶ丘高校の正門前で立ち止まっていた。
時刻は七時四十五分。
登校する生徒たちが、次々と紬の横を通り過ぎていく。
そこで、門柱の上に猫がいることに気づいた。
茶色と白のまだら模様。
右の耳が少し欠けている。
首輪はない。
けれど、どこか堂々としている。
通り過ぎる生徒が次々と声をかけていた。
「おはよう、校長」
「今日も早いね」
「校長、眠そう」
猫は返事をしなかった。
鳴きもしない。
ただ、半分だけ目を開け、生徒たちを眺めている。
紬は少し離れたところから、その様子を見ていた。
猫は何もしていない。
愛想よく尻尾を振るわけでもない。
自分から近づいていくわけでもない。
それでも、みんなから話しかけてもらえる。
「……ずるい」
小さく呟く。
猫の耳が、ほんの少し動いた。
「だって、何もしなくても友達がいるじゃん」
猫は返事をしない。
「私は三日も練習したのに」
猫は前足を舐め始めた。
完全に興味を失われたらしい。
「聞いてる?」
紬は門柱へ近づいた。
猫は逃げなかった。
「今日ね、昨日話した子に、もう一回話しかけないといけないの」
猫は前足を舐め続けている。
「話しかけないと、たぶん何も始まらないから」
言葉にしてみると、ひどく当たり前だった。
話さなければ、仲良くなれない。
それなのに紬は、話す前から嫌われる心配ばかりしている。
「どうしたらいいと思う?」
猫は答えない。
「まあ、分からないよね」
当たり前だ。
猫なのだから。
そのとき、後ろから男子生徒の声がした。
「おはよう、校長」
紬は反射的に振り返った。
二年生らしい。
ネクタイの色が一年生とは違う。
やや長めの前髪。
穏やかそうな顔立ち。
男子生徒は紬の存在に気づくと、一瞬だけ足を止めた。
「あ、ごめん。話してた?」
「え?」
「校長と」
「い、いえ。別に」
「そう」
男子生徒はそれ以上聞かず、猫へ視線を戻した。
「今日は何も持ってないぞ」
猫は男子生徒の手元を見てから、露骨に顔を背けた。
「現金だな」
男子生徒は少し笑った。
その笑い方を見たとき、紬は昨日の放課後を思い出した。
公園の近く。
この男子生徒が、一人の女子生徒と並んで猫へ餌をあげていた。
女子生徒は長い黒髪で、よく笑っていた。
二人は楽しそうに話していた。
猫に餌をあげていただけなのに、隣にいることがとても自然に見えた。
紬が高校生活に抱いていた、ぼんやりとした憧れ。
誰かと一緒に帰る。
誰かと笑う。
誰かに自分の話をする。
それが昨日、目の前にあった。
羨ましかった。
だから今、聞いてしまった。
「あの」
男子生徒が振り返る。
「昨日、一緒にいた女の人って……」
「女の人?」
「黒い髪の」
「ああ、篠原?」
名前を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分でも理由は分からない。
恋ではない。
名前も知らなかった相手だ。
ただ、憧れていた景色の中にいる人へ、名前がついた。
それだけで、その景色が急に自分から遠くなった気がした。
「先輩の……彼女ですか?」
男子生徒は目を見開いた。
「違う」
否定が早かった。
「昨日初めてまともに話した」
「そうなんですか?」
「ああ。猫に餌をやりたいって言うから、一緒にいただけ」
「一緒に帰ってましたよね」
「見てたの?」
「たまたま」
紬は少し恥ずかしくなり、視線を落とす。
男子生徒は困ったように頬をかいた。
「途中まで道が同じだったから」
「そうなんですね」
「何でそんなこと聞くの?」
「それは……」
高校生になれば、自然にあんな関係になれるのか知りたかった。
友達はどうやって作るのか。
昨日まで他人だった相手と、どうしてあんなふうに話せるのか。
猫を挟んで笑い合う二人が、紬には魔法を使っているように見えた。
けれど、それを口にするのは恥ずかしい。
「すみません。変なこと聞いて」
「別にいいけど」
男子生徒は校門の時計を見た。
「そろそろ行かないと遅れるよ」
「あ」
紬も時計を見る。
いつの間にか七時五十二分。
「じゃあ」
男子生徒は軽く手を上げ、校門をくぐった。
紬はその背中を見送る。
昨日隣にいた女子とは、昨日初めてまともに話した。
その言葉が、頭に残った。
昨日初めて話した相手と、あんなふうに一緒にいられる。
なら、自分だって。
「……おはよう」
今度は猫へ向かって言った。
練習より小さかった。
けれど、昨日より自然だった。
猫は返事の代わりに、一度だけ尻尾を揺らした。
◇
一年五組の教室へ入ると、西野結菜はすでに席にいた。
近くの女子生徒二人と話している。
紬は教室の入り口で足を止めた。
やっぱり、もう友達ができている。
昨日自分へ話しかけたのも、ただ近くにいたから。
結菜のような明るい子なら、誰とでも話せる。
紬一人にこだわる理由なんてない。
今声をかけたら、会話を邪魔するかもしれない。
自分の席へ行こう。
そう思ったとき、結菜がこちらを見た。
「紬、おはよう!」
教室の中で、はっきりと名前を呼ばれた。
昨日よりもずっと自然に。
紬は一瞬、動けなかった。
結菜の周りにいた二人も、こちらを見る。
今だ。
三日間練習した言葉。
友達になるための入口。
口角を上げる。
声は大きすぎず、小さすぎず。
「おはよう、結菜ちゃん」
言えた。
結菜が笑った。
「おはよ。こっち来なよ」
紬は席へ鞄を置いてから、三人の輪へ入った。
「昨日話した朝霧紬ちゃん」
結菜が二人に紹介する。
「こっちは佐倉真帆と、森川莉子」
「よろしく」
「よろしくね」
二人が笑う。
紬も笑い返した。
「よろしく」
そのあと何を話したのかは、あまり覚えていない。
出身中学。
通学時間。
好きな教科。
どこの部活に入るか。
ごく普通の会話。
けれど紬にとっては、そのすべてが新しかった。
休み時間になっても、席から立つ理由を探さなくていい。
スマートフォンを見て、忙しいふりをしなくていい。
誰かの話を聞きながら笑ってもいい。
自分から質問してもいい。
会話の途中で少し黙ってしまっても、誰も気にしない。
紬が一言話すまで、待ってくれる。
友達になるというのは、もっと大きな出来事だと思っていた。
特別なきっかけ。
感動的な約束。
互いに秘密を打ち明ける瞬間。
そういうものが必要だと思っていた。
実際は違った。
おはようと言う。
席の近くへ行く。
一緒に笑う。
それだけで、昨日まで知らなかった人が、今日には少し知っている人になる。
昼休み。
結菜が机へ弁当を置きながら言った。
「中庭で食べない?」
「中庭?」
「今日めっちゃ天気いいし。教室より気持ちよさそう」
真帆と莉子は部活の仮入部説明があるらしく、先に教室を出ていった。
紬は少し迷ってから頷く。
「行きたい」
「じゃあ決まり」
結菜は弁当袋を持ち、紬の腕を軽く引いた。
誰かに腕を引かれて教室を出る。
そのことが、紬には少しだけくすぐったかった。
◇
青葉ヶ丘高校の中庭には、花壇と数脚の木製ベンチが置かれている。
中央には、何のためにあるのか分からない小さな噴水。
水は出ていなかった。
故障中という札が、去年から掛かったままらしい。
「ここ、夏になったら絶対暑いよね」
結菜がベンチへ座る。
「木陰は涼しいかも」
「蚊が多そう」
「それは嫌だね」
二人で弁当を広げる。
結菜の弁当箱には、白いご飯と冷凍食品らしい唐揚げ、ウインナー、卵焼きが詰められていた。
「朝霧家、お弁当かわいい」
結菜が紬の弁当を覗き込む。
花の形に切られた人参。
小さなおにぎり。
タコの形のウインナー。
「お母さんが作ったから」
「うちもお母さんだけど、こんな努力感じないよ。ほら」
結菜がウインナーを箸で持ち上げる。
切れ目すら入っていない。
「普通のウインナーだ」
「普通が悪いわけじゃないけど、朝霧家との差がすごい」
「味は同じだよ」
「いや、タコになった瞬間に二割増しでおいしくなる」
「そうかな」
「見た目は大事」
結菜は真剣な顔で言った。
「人間も?」
「人間?」
「かわいい子とか、明るい子の方が友達ができやすいのかなって」
口に出してから、重い話をしてしまったかもしれないと思った。
けれど結菜は、卵焼きを口へ入れながら首を傾げただけだった。
「紬、友達できにくかった?」
「うん」
「なんで?」
「話しかけるの苦手だから」
「今、普通に話してるじゃん」
「結菜ちゃんが話してくれるから」
「じゃあ私が話しかければ解決だね」
あまりにも簡単に言う。
紬が何年も悩んでいたことを、結菜は一秒で片づけた。
「でも、結菜ちゃんには、ほかにも友達いるでしょう?」
「いるよ」
「私がいなくても困らないよね」
「困る困らないで友達選ぶの?」
「選ばないけど……」
「じゃあ、いいじゃん」
結菜はウインナーを食べる。
「友達って、一人しか作っちゃいけないわけじゃないし。真帆も莉子も友達。紬も友達。それじゃ駄目?」
紬はすぐに答えられなかった。
中学時代、教室の中でグループができるたびに、自分はどこにも入れないと思っていた。
誰かにとって一番にならなければ、友達とは呼べないような気がしていた。
いつも一緒。
何でも話せる。
休日も遊ぶ。
そうでなければ本当の友達ではない。
だから最初の一歩すら踏み出せなかった。
けれど結菜は、まるで好きな食べ物を一つ増やすように、紬を友達に加えた。
「私、友達でいいの?」
「昨日からそうだと思ってた」
「昨日から?」
「名前聞いて、ちょっと話したし」
「それだけで?」
「友達になるのに試験とかある?」
「ないけど」
「じゃあ友達」
結菜が笑う。
紬は目を伏せた。
泣くほどのことではない。
たった一日話しただけだ。
それでも目の奥が少し熱くなった。
「……ありがとう」
「何が?」
「友達になってくれて」
「こちらこそ」
結菜は照れくさそうに笑い、箸を動かした。
その拍子に、箸が指から滑った。
「あ」
木のベンチへ当たり、地面へ落ちる。
さらに転がり、通りかかった誰かの靴へぶつかった。
「ご、ごめんなさい!」
結菜と紬が同時に立ち上がる。
そこにいたのは、男子生徒だった。
二年生。
胸には図書委員の腕章。
両腕で何冊かの本を抱えている。
男子生徒は足元の箸を見ると、本を片腕で支えながらしゃがみ込んだ。
「はい」
「すみません、ありがとうございます」
結菜が箸を受け取る。
「洗った方がいいよ」
「そうします」
「水道、あっちだから」
男子生徒は中庭の端を指さした。
声は静かだった。
親切をしているという意識すらなさそうに、必要なことだけを伝える。
そのまま立ち去ろうとしたとき、抱えていた本の間から何かが落ちた。
小さな栞だった。
白い厚紙に、青いリボンがついている。
「あの、落としました」
紬が拾い上げる。
男子生徒が振り返った。
「ああ、ありがとう」
栞を受け取ろうと手を伸ばす。
紬は、その青いリボンを見つめた。
自分の髪に結んでいるものと、よく似た色だった。
「手作りですか?」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。
男子生徒は少し驚いた顔をした。
「たぶん」
「たぶん?」
「図書室の返却本に挟まってた。誰のか分からなくて」
「落とし物なんですね」
「うん。図書室で預かるつもり」
「きれいですね」
白い厚紙には、小さな星がいくつも描かれている。
青いリボンは少しほつれていた。
長く使われていたものらしい。
「そうだね」
男子生徒は栞を本の間へ挟み直した。
「じゃあ」
「あの」
また呼び止めてしまった。
男子生徒が振り返る。
何を言えばいい。
名前を聞く。
図書委員なのか尋ねる。
おすすめの本を聞く。
どれも不自然な気がした。
「……箸、拾ってくれてありがとうございました」
自分の箸ではない。
男子生徒は一瞬だけ戸惑ったあと、小さく笑った。
「どういたしまして」
そして今度こそ、中庭を出ていった。
結菜が横から紬の顔を覗き込む。
「紬」
「何?」
「先輩、かっこよかったね」
「そうかな」
「絶対モテるタイプ」
「親切だっただけだよ」
「紬、顔赤い」
「赤くない」
「赤いよ」
「暑いから」
「四月だけど?」
「日差しが強いから」
「木陰だけど?」
「結菜ちゃん、箸洗ってきた方がいいよ」
「話そらした」
結菜は笑いながら水道へ向かった。
紬は男子生徒が消えた校舎の入り口を見る。
胸が速く鳴っている。
恋ではない。
名前も知らない。
少し話しただけ。
けれど、今朝の先輩とは違う種類の感覚だった。
昨日、公園で見た二人には憧れた。
あんなふうに誰かと自然に笑いたいと思った。
今の男子生徒には、もう少し話してみたいと思った。
その違いが何なのか、紬にはまだ分からなかった。
◇
午後の授業中。
紬はノートの端に、無意識に星を描いていた。
一つ。
二つ。
三つ。
昼休みに見た栞と同じような、小さな星。
「朝霧」
教師に名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。
「この問題、答えられるか」
「えっ」
黒板には英語の文章が書かれている。
どこを読んでいたのか、まったく分からない。
教室の中から小さな笑い声が聞こえた。
紬の顔が熱くなる。
「すみません。分かりません」
「初日から窓の外へ魂を飛ばすなよ」
「はい……」
教師が別の生徒を指名する。
紬はうつむいた。
恥ずかしい。
入学二日目で、ぼんやりしていた生徒として覚えられた。
すると、斜め前の席から小さな紙が回ってきた。
開く。
『青春してるね』
結菜の字だった。
紬は紙の裏へ書く。
『してない』
前へ戻す。
すぐにまた返ってくる。
『図書委員の先輩』
『違う』
『顔赤い』
『授業中だから前向いて』
『友達に冷たい』
最後の一文を見た瞬間、紬は笑いそうになった。
口元を手で隠す。
教師に見つからないように、窓の外へ顔を向けた。
友達。
何度見ても、嬉しい言葉だった。
◇
放課後。
結菜はバドミントン部の仮入部へ行くことになっていた。
「紬も来る?」
「今日はやめとく」
「何か用事?」
「図書室、見てみようかなって」
「へえ」
結菜が意味ありげに笑う。
「本を見に行くだけ」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
「誰かの真似?」
「今日会った先輩の友達が言ってた」
「もう先輩の友達まで知ってるの?」
「違う。朝、別の先輩と話して」
「紬、私が思ってるより青春してる?」
「してないって」
「じゃあ明日、報告よろしく」
「何を?」
「図書室で何があったか」
「何も起きないよ」
「そういう日に限って起きる」
結菜は笑い、体育館へ向かった。
紬は一人で図書室を目指す。
校舎の二階。
廊下の一番奥。
扉の横には、青葉ヶ丘高校図書室と書かれた木製の札が掛かっている。
中へ入ると、紙と古い本の匂いがした。
教室よりも少しだけ空気が冷たい。
高い本棚。
窓際の長机。
カウンター。
利用者は少なかった。
数人の生徒が静かに本を読んでいる。
カウンターの内側には、昼休みに会った男子生徒がいた。
紬の足が止まる。
来ることは分かっていた。
図書委員の腕章をつけていたのだから。
それでも実際に姿を見ると、心臓が大きく鳴った。
帰ろうか。
まだ気づかれていない。
本を読む用事なら、明日でもいい。
そう思った瞬間、男子生徒が顔を上げた。
目が合う。
「あ」
男子生徒が先に声を出した。
「昼の」
「こんにちは」
紬は反射的に頭を下げた。
声が裏返らなかっただけでも成功だ。
「図書室、使う?」
「はい。少し見てみようかなって」
「初めて?」
「はい」
「利用カードは生徒証と一緒になってるから、借りるときは出して」
「分かりました」
「返却はカウンターか、廊下の箱。休みの日は箱でいいよ」
「はい」
説明が終わる。
会話も終わる。
紬はその場に立ち尽くした。
何か言わないと。
ここまで来た意味がない。
「栞」
男子生徒が首を傾げる。
「栞?」
「昼に落とした、青いリボンの」
「ああ」
男子生徒はカウンターの横に置かれた透明な箱を指さした。
中にはハンカチ、ペン、付箋など、図書室で見つかった落とし物が入っている。
青いリボンの栞もあった。
「持ち主、分かりました?」
「まだ」
「名前、書いてないんですね」
「うん。ただ、返却された本は分かるから、借りた人を調べようかと思ったけど」
「できないんですか?」
「個人情報だから、落とし物のために勝手に調べるのは微妙だって司書さんに言われた」
「そうなんですね」
「掲示だけ出してみる」
男子生徒は手元の紙を見せた。
『青いリボンの栞を預かっています』
丁寧な字で書かれている。
「先輩が書いたんですか?」
「そうだけど」
「字、きれいですね」
「普通だよ」
「私、字がすぐ斜めになるので」
「ノートを斜めに置いてるんじゃない?」
「置いてます」
「じゃあ真っすぐ置けばいい」
「そんな簡単に直ります?」
「たぶん」
男子生徒は真面目な顔で答えた。
紬は思わず笑った。
「何?」
「いえ。結構、普通のこと言うなと思って」
「変なこと言うと思ってた?」
「もう少し特別なコツがあるのかと」
「字を真っすぐ書くための特別な修行は知らない」
男子生徒も少し笑う。
昼休みより長く話せた。
それだけで紬の胸は軽くなった。
「先輩の名前、聞いてもいいですか?」
言った。
言ってしまった。
男子生徒は少し目を見開いた。
「俺?」
「ほかに誰もいないので」
「そうだけど」
男子生徒は胸元の名札を指さした。
図書委員の腕章に隠れて見えにくい。
白石悠。
「白石先輩」
「うん」
「私は朝霧紬です」
「朝霧」
名前を呼ばれた。
ただ確認しただけ。
それでも嬉しかった。
「一年五組?」
「はい」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
会話が終わった。
けれど今度は、終わっても寂しくなかった。
名前を知った。
名前を覚えてもらった。
昨日まで知らなかった人が、今日には少し知っている人になった。
昼休みに結菜と話したことを思い出す。
友達になるのに、試験はない。
恋を始めるのにも、きっと特別な資格はいらない。
ただし、これはまだ恋ではない。
たぶん。
「本、探してたんじゃないの?」
白石が言う。
「あ、そうでした」
「好きなジャンルは?」
「恋愛小説」
答えてから、選択を間違えたと思った。
この状況で恋愛小説と言うのは、あまりにも分かりやすい。
「恋愛か」
白石は特に気にした様子もなく、カウンターから出てきた。
「こっち」
本棚の間を歩いていく。
紬は少し遅れて後を追う。
「この辺が国内の恋愛小説。軽い話なら上の棚。重いのは下」
「重い?」
「読んだあと三日くらい引きずる」
「そんな分類なんですか?」
「俺の中では」
「図書館の正式分類じゃないんですね」
「正式には作者名順」
白石は一冊の本を抜き取った。
「これは読みやすい」
「先輩も恋愛小説読むんですか?」
「何でも読むよ」
「恋愛もするんですか?」
口から出た瞬間、時間が止まった。
紬は自分の発言を理解するまでに二秒かかった。
「ち、違います」
「何が?」
「今のは、本の話の流れで」
「恋愛をするかって聞かれたと思ったけど」
「忘れてください」
「努力する」
「努力じゃなくて忘れてください」
今朝会った先輩も、似たようなやり取りをしていた気がする。
この学校では、恥ずかしいことを言った人間に「努力する」と返す決まりでもあるのだろうか。
白石は少し考えた。
「したことはない」
「え?」
「恋愛」
紬は顔を上げる。
「そうなんですか?」
「そう見えない?」
「いえ、その……」
「モテそう?」
「はい」
正直に答えると、白石は困ったように笑った。
「言われたことないな」
「絶対ありますよ」
「朝霧は?」
「あるように見えます?」
「分からない」
「ないです」
「じゃあ同じだ」
その言葉が、少し嬉しい。
何が同じなのかも曖昧なのに。
白石から本を受け取る。
表紙には、桜並木を歩く男女の後ろ姿が描かれていた。
「借ります」
「無理にそれじゃなくていいよ」
「先輩のおすすめなので」
白石は一瞬だけ黙った。
「面白くなかったら返して」
「図書室の本なので、面白くても返します」
「そうだった」
今度は二人で笑った。
◇
貸出手続きを終え、紬は図書室を出た。
胸元には借りた本。
足取りは軽かった。
校門へ向かう途中、廊下の窓から中庭が見える。
昼に結菜と弁当を食べたベンチ。
箸が転がった場所。
白石と出会った場所。
一日に二度も話した。
名前まで知った。
これは十分な出来事だった。
校門を出ると、門柱の上に校長がいた。
「校長」
紬は足を止める。
鞄から猫用のおやつを取り出した。
昨日はパン。
今日は、きちんと買ってきたもの。
「今日はね、友達ができた」
猫は袋の音に反応し、顔を上げる。
「昨日から友達だったらしいけど、今日ちゃんと分かったの」
門柱の下へおやつを置く。
猫が飛び下り、食べ始める。
「それから、名前も聞いた」
校長は食べている。
「白石悠先輩」
名前を口にすると、胸が少しくすぐったい。
「図書委員で、字がきれいで、普通のことを真面目に言う人」
猫は二つ目を食べる。
「恋愛したことないんだって」
そこで、自分が何を報告しているのか気づく。
「別に、だからどうってことじゃないよ」
猫は返事をしない。
「ただ、ちょっと話しただけ」
猫は三つ目を要求するように、紬の指先へ鼻を寄せた。
「校長は食べ物のことしか考えてないね」
紬は最後の一つを渡した。
「羨ましい」
朝は、猫なら何もしなくても友達ができて羨ましいと思った。
今は少し違う。
校長には、人間の友達の作り方は分からない。
名前を呼ばれたときの嬉しさも。
初めて誰かと弁当を食べる楽しさも。
気になる人へ名前を聞くまでの緊張も。
たぶん分からない。
それらは全部、面倒くさい人間にしか味わえないものだ。
「明日も、おはようって言えるかな」
校長は前足を舐め始めた。
「言わないと駄目だよね」
誰かと仲良くなりたいなら。
今日を昨日だけの出来事にしたくないなら。
紬は門柱へ背を預け、借りた本を開いた。
最初のページ。
一人の少女が、春の教室で隣の席の少年へ声をかける場面から始まっていた。
紬は少し笑った。
「小説だと簡単そうに見えるのにね」
風が吹く。
髪の青いリボンが揺れる。
本のページが一枚めくれた。
そのとき、校門の向こうから声がした。
「朝霧?」
顔を上げる。
白石悠が立っていた。
図書委員の腕章は外している。
鞄を肩へ掛け、こちらを少し不思議そうに見ていた。
「まだいたんだ」
「校長に話してました」
「猫と?」
「はい」
「返事する?」
「しません」
「じゃあ俺と同じだ」
「先輩も話すんですか?」
「たまに」
白石が門柱へ近づく。
校長は彼の姿を見ると、一度だけ鳴いた。
「俺には返事した」
「ずるい」
「付き合いが長いから」
白石は紬の手元の本を見る。
「もう読んでるんだ」
「少しだけ」
「どう?」
「まだ一ページです」
「じゃあ分からないか」
「でも、たぶん面白いです」
「一ページで?」
「先輩が選んだので」
白石は返事をしなかった。
わずかに視線をそらしたように見えた。
「朝霧、駅の方?」
「はい」
「俺も。途中まで一緒に行く?」
一瞬、言葉が理解できなかった。
昨日、公園の向こうで見た光景を思い出す。
先輩と女子生徒が並んで歩いていた。
自分には、まだ遠い世界だと思っていた。
けれど今、その入口が目の前にある。
ただし、これは恋人同士の下校ではない。
知り合ったばかりの先輩と後輩。
途中まで道が同じだから、一緒に帰るだけ。
それでいい。
最初は何でも、それだけでいい。
「はい」
紬は本を閉じ、立ち上がった。
「一緒に帰りたいです」
言ってから、少し直接的すぎたかもしれないと思う。
白石は驚いた顔をした。
けれど、すぐに笑った。
「じゃあ行こう」
二人は歩き始める。
校門を出る。
肩が触れるほど近くはない。
会話もまだぎこちない。
「白石先輩は、毎日図書委員なんですか?」
「当番は週二回」
「今日は当番だったんですね」
「そう」
「ほかの日も図書室にいます?」
「よくいる」
「じゃあ、また行ってもいいですか?」
「図書室は誰でも入っていい場所だけど」
「そうじゃなくて」
紬は言葉を探す。
今日だけではなく。
これからも。
「先輩がいる日に、話しかけてもいいですか?」
白石は少しだけ目を見開いた。
それから前を向いたまま答える。
「もちろん」
たった四文字。
けれど、それは紬にとって、今日二つ目の大切な言葉になった。
友達。
もちろん。
誰かとつながるために必要なのは、完璧な挨拶ではなかった。
明るい性格でも。
気の利いた会話でも。
特別なきっかけでもない。
少し怖くても、自分から一歩だけ近づくこと。
そして相手が差し出してくれた言葉を、疑わずに受け取ること。
それだけだった。
歩道の端に、桜の花びらが積もっている。
白石がその上を歩く。
紬も少し遅れて同じ場所を踏む。
「朝霧」
「はい」
「そのリボン」
紬は髪へ触れた。
「これですか?」
「図書室の落とし物と、色が似てるな」
「私のじゃないですよ」
「分かってる。形が違うから」
「もしかして、ずっと見てたんですか?」
「栞を?」
「私のリボンを」
白石が黙る。
紬も、自分で言っておきながら恥ずかしくなる。
「今のは忘れてください」
「努力する」
「先輩もそれ言うんですね」
「何が?」
「何でもないです」
紬は笑った。
今朝、鏡の前で何度練習しても作れなかった自然な笑顔だった。
◇
その日の夜。
紬は借りた恋愛小説を、ベッドの上で読んでいた。
主人公の少女は、隣の席の少年へ話しかけるまでに何度も失敗していた。
笑顔が不自然になったり。
声が小さすぎて聞こえなかったり。
別の人へ挨拶してしまったり。
紬は何度も、自分のことのように笑った。
スマートフォンが震える。
結菜からだった。
『図書室どうだった?』
紬は少し考えてから返信する。
『本借りた』
『それだけ?』
『先輩の名前聞いた』
すぐに既読がつく。
『青春!!!!』
『うるさい』
『名前は?』
『白石悠先輩』
『かっこよ』
『名前だけで判断しないで』
『明日詳しく聞く』
紬は笑い、スマートフォンを伏せた。
明日。
その言葉が、昨日までとは違う響きを持っている。
明日、教室へ行けば結菜がいる。
図書室へ行けば、白石がいるかもしれない。
校門には校長がいる。
今日の続きが、明日にもある。
紬は本を閉じ、机の上に置いた。
鏡の前へ立つ。
三日前と同じように、口角を少し上げる。
「おはよう」
声は小さかった。
けれど硬くない。
もう一度。
「おはよう、結菜ちゃん」
自然に言えた。
続ける。
「おはようございます、白石先輩」
言った瞬間、顔が熱くなった。
紬は両手で顔を覆い、その場へしゃがみ込む。
「何してるんだろ、私」
部屋の外から母親の声がした。
「紬、まだ起きてるの?」
「もう寝る!」
慌てて答える。
ベッドへ潜り込み、布団を頭までかぶった。
恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
明日の朝が少し楽しみだった。
◇
翌朝。
七時四十三分。
紬が正門へ着くと、校長は門柱の上にいなかった。
「あれ?」
周囲を見回す。
警備員室の軒下。
植え込み。
公園のベンチ。
どこにもいない。
少しだけ心配になる。
昨日、餌を食べすぎて具合が悪くなったのではないか。
車道へ飛び出したのではないか。
そんなことを考えていると、校舎側から猫の鳴き声が聞こえた。
正門の内側。
いつもは越えない白い線の向こうから、校長が歩いてくる。
口に何かをくわえていた。
「校長?」
猫は紬の足元へ来ると、くわえていたものを落とした。
青いリボンのついた栞だった。
図書室に預けられていたはずの落とし物。
「どうしてこれを?」
校長が答えるはずはない。
栞には、昨日は気づかなかった文字が書かれていた。
裏面。
小さな字で、一つの名前。
白石結衣。
「白石……?」
紬は栞を拾い上げる。
白石悠と同じ名字。
偶然かもしれない。
家族かもしれない。
校長は、もう興味を失ったように前足を舐め始めている。
「これ、図書室へ返さないと」
紬は栞を握り、校舎へ向かった。
昨日まで名前も知らなかった誰かの落とし物。
けれどその名前は、今日、別の物語の入口になる。
紬はまだ、それを知らなかった。




