第一話 青春は巡る
今日の脇役が、明日の主人公になる。
青葉ヶ丘高校の正門には、生徒たちから「校長」と呼ばれる一匹の野良猫がいる。
泣きたい日も、誰にも言えない秘密がある日も、校長はただ黙って話を聞いてくれる。
放送室に届く名前のない手紙。
渡せなかった花。
最後の一枚が残ったカメラ。
病室から、まだ聞いたことのない学校の音を求める生徒。
一つの物語で誰かに救われた生徒が、次の物語では別の誰かへ手を伸ばす。
主人公は毎話変わる。
けれど、言葉や想いは途切れない。
これは、青葉ヶ丘高校で過ごす生徒たちの、小さな後悔と恋と再出発をつないでいく連作青春群像劇。
青葉ヶ丘高校の正門前には、毎朝一匹の猫がいる。
茶色と白のまだら模様。右の耳だけが少し欠けていて、春も夏も秋も冬も、まるで自分の仕事であるかのように登校する生徒たちを眺めている。
晴れた日は門柱の上。
雨の日は警備員室の軒下。
雪の降るような寒い朝だけは、校門近くの植え込みに潜り込み、顔だけを外へ出している。
学校の中へ入ってくることは、ほとんどない。
正門の白い線を境に、そこから先は人間の領域だと理解しているらしい。
誰が飼っているわけでもない。
首輪もない。
けれど、ひどく痩せてもいなかった。
生徒たちからパンの端や弁当のおかずを分けてもらい、時には警備員から煮干しを受け取りながら、それなりに器用に生きている。
その猫は、生徒たちから「校長」と呼ばれていた。
本物の校長よりも早く登校し、本物の校長よりも多くの生徒に名前を知られている。
誰が呼び始めたのかは分からない。
けれど、今では教師の一部まで、その名で呼んでいた。
「おはよう、校長」
四月八日の朝。
水瀬晴人は、門柱の上で前足を舐めている猫に声をかけた。
校長は一瞬だけ顔を上げた。
それから晴人の手元を確認し、何も持っていないと分かると、興味を失ったように顔を背けた。
「露骨だな」
晴人が右手を差し出す。
猫は鼻先を少しだけ近づけたが、触らせるつもりはないらしい。尻尾だけをゆっくりと左右へ動かし、また前足の手入れを始めた。
「新学期初日くらい愛想よくしろよ」
返事はない。
「今年もよろしくな」
晴人はそう言い残し、正門をくぐった。
昨夜まで降っていた雨の名残が、歩道のところどころに小さな水たまりを作っていた。
空はよく晴れている。
朝の光が水面へ反射し、歩くたびに足元でちらちらと揺れた。
春の空気はまだ少し冷たい。
ブレザーの隙間から入り込む風が、寝起きの体を強引に目覚めさせる。
校庭を囲むように植えられた桜は、ほとんど満開だった。
淡い花びらが枝先で揺れ、風が吹くたびに、そのうち何枚かが生徒たちの肩や髪へ落ちていく。
入学式を終えたばかりの一年生たちは、まだ制服に着られているように見えた。
案内板の前で足を止めている者。
同じ中学校の友人を見つけて急に表情を明るくする者。
一人で歩いていることを気にしていないふりをしながら、何度も周囲を確認している者。
誰もが、新しい場所で自分の立ち位置を探している。
二年生になった晴人も、実のところ、それほど変わらなかった。
一年間過ごした校舎。
見慣れた昇降口。
知っている教師。
それでも、クラス替えの朝だけは落ち着かない。
自分がどこへ置かれるのか。
誰の隣になるのか。
誰と一年を過ごすのか。
それだけで、見慣れた学校が少しだけ別の場所に見える。
「晴人!」
背後から名前を呼ばれた。
振り返るより早く、肩へ腕が回される。
「お前、逃げるように先行くなよ」
「重い。離れろ」
「久々の再会だぞ?」
「昨日、コンビニで会っただろ」
「あれは春休み中の俺たちだ。今日からは二年生の俺たち。別人だ」
「お前は進級するたびに人格が変わるのか?」
肩に回された腕を振り払う。
大崎拓真は、大げさに傷ついた顔をした。
癖のある短い髪。
少し日に焼けた肌。
人との距離を縮めることに、まったく迷いのない性格。
晴人とは小学校からの付き合いだった。
晴人が友人を作るのが得意ではない代わりに、拓真は友人を作ることを呼吸くらい簡単にやってのける。
「クラス見た?」
「まだ」
「俺、見た」
「じゃあ言うなよ」
「俺とお前、同じクラス」
「なんで言うんだよ」
「安心しただろ?」
「落胆した」
「照れんなって」
「何に照れる要素があるんだ」
二人で昇降口へ向かう。
靴箱の前には生徒たちが集まり、掲示されたクラス名簿を見ながら声を上げていた。
「やった、同じ!」
「うわ、担任あの先生じゃん」
「知ってる人、全然いないんだけど」
喜びと落胆の声が混ざり合っている。
晴人は人の隙間から二年三組の欄を探した。
水瀬晴人。
大崎拓真。
確かに名前が並んでいる。
ほかには、去年同じクラスだった者が数人。
顔だけ知っている者が何人か。
その中に、一つだけ目に留まる名前があった。
篠原澪。
去年は隣のクラスだった。
話したことは、ほとんどない。
同じ委員会になったことも、授業で組んだこともなかった。
ただ、名前と顔が一致する程度には知られている生徒だった。
成績がよく、教師からの評判もいい。
生徒会に所属していて、文化祭や学校説明会で司会をしていたのを見たことがある。
男子の間で人気がある、という話も聞いたことがあった。
「お」
晴人の視線に気づいた拓真が、名簿をのぞき込む。
「篠原いるじゃん」
「いるな」
「反応薄いな」
「クラスメイトになるだけだろ」
「男はみんな、篠原と同じクラスになったら少し喜ぶものなんだよ」
「主語を大きくするな」
「晴人は去年、篠原と話したことある?」
「ない」
「俺はある」
「聞いてない」
「自動販売機の前で小銭落としたら拾ってくれた」
「それを会話に数えるなら、お前は店員とも毎日会話してるな」
「嫉妬するなって」
「してない」
拓真を押しのけ、上履きへ履き替える。
そのとき、後ろで小さな音がした。
何かが床へ落ちた音。
振り返ると、一人の女子生徒がしゃがみ込んでいた。
鞄の口が開き、中から筆箱や手帳が散らばっている。
「大丈夫?」
晴人より先に、拓真が声をかけた。
「あ、はい。すみません」
女子生徒が顔を上げる。
篠原澪だった。
長い黒髪の一部が頬にかかっている。
名簿で見た直後だったため、晴人はすぐに分かった。
「鞄、開いてたみたい」
拓真が筆箱を拾う。
「ありがとうございます」
晴人も、足元へ転がってきた手帳を拾った。
薄い水色の表紙。
片隅に、小さな猫のシールが貼られている。
澪へ渡そうとしたとき、開いたページが一瞬だけ見えた。
四月八日。
その下に、丸みのある字で短い言葉が書かれている。
話しかける。
読もうと思ったわけではない。
たまたま目に入っただけだった。
晴人はすぐに手帳を閉じた。
「これ」
「あ……ありがとう」
澪は手帳を受け取ると、少し慌てたように胸元へ抱えた。
「中、見た?」
「見てない」
嘘ではない。
一行が目に入っただけだ。
「なら、よかった」
澪は安心したように笑った。
その笑顔が予想以上に近くにあり、晴人はわずかに視線をそらす。
「二人とも、二年三組だよね?」
澪が名簿を見ながら言った。
「俺たちのこと知ってる?」
拓真が自分を指さす。
「大崎くんは有名だから」
「まじで?」
「去年、体育祭のリレーで転んだあと、そのまま一人で二十メートルくらい走ってた人」
「有名になる方向が違った」
「水瀬くんは図書室によくいるよね」
不意に名前を呼ばれ、晴人は瞬きをした。
「知ってるのか?」
「私もたまに行くから。いつも同じ窓際の席に座ってるでしょう?」
「まあ」
晴人は図書室が好きだった。
静かで、誰にも話しかけられない。
それだけの理由だ。
澪は何度か見かけていたらしい。
晴人の方は、彼女に気づいた記憶がなかった。
「今年一年、よろしくね」
澪が言う。
「よろしく」
「よろしく。困ったことがあったら何でも俺に聞いて。晴人以外のことなら、大抵分かるから」
「一番身近な人間のことが分からないのかよ」
「お前は難しいんだよ」
澪が小さく笑った。
それが、その日の最初の会話だった。
◇
二年三組の教室は、校舎の三階東側にあった。
窓の外には校庭と、その向こうの住宅街が見える。
晴れた日には、さらに遠くの山まで見渡せるらしい。
黒板には、担任の手で座席表が貼り出されていた。
晴人は一番後ろの窓際。
その隣が、篠原澪だった。
「青春じゃん」
座席表を見た拓真が、晴人の肩を叩く。
「何が」
「朝に出会い、教室で隣の席。物語なら、もう好きになる」
「現実は教師が座席を決めただけだ」
「現実をそうやって一つずつ否定するから、お前の人生は地味なんだよ」
「余計なお世話だ」
「ちなみに俺は前から二番目」
「よかったな。居眠りできないぞ」
「担任の死角になる席を探す」
「真面目に授業受けろ」
晴人が席に鞄を置くと、澪も隣へやってきた。
「本当に隣だね」
「そうだな」
「嫌そう?」
「いや。そういう意味じゃない」
「冗談」
澪は椅子を引き、座る。
窓から入った風が、彼女の髪を揺らした。
柔らかい香りが一瞬だけ漂う。
晴人は机の中を確認するふりをして、視線をそらした。
やがてチャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。
四十代半ばの男性教師。
国語を担当する片桐という教師で、教室へ入るなり、黒板に大きく自分の名前を書いた。
「片桐修一。担任になったからには、お前たちの名前を一週間以内に全員覚える。だから、お前たちも今日中に俺の名前を覚えろ。明日間違えたやつは、俺の精神的な敵とみなす」
教室に笑いが起きる。
「ただし、人生相談は基本的に受け付けない。俺は四十三歳独身だ。相談に乗れるほど人生を成功させていない」
「先生、なんで結婚しないんですか?」
誰かが声を上げた。
「結婚しないんじゃない。できないんだ。質問者はあとで職員室に来なさい」
さらに笑いが広がる。
冗談の通じる教師らしい。
始業式。
学級活動。
教科書の配布。
午前中は細かな説明だけで過ぎていった。
教室では、すでに小さな人間関係が作られ始めていた。
去年同じクラスだった者同士。
部活が同じ者同士。
たまたま席が近かった者同士。
晴人は自分から話しかけることが得意ではなかったが、隣に澪がいたため、何度か自然に会話が生まれた。
「数学の教科書、去年より厚くない?」
「気のせいじゃないか」
「比べてみる?」
「去年の持ってきてないだろ」
「そうだった」
そんな中身のないやり取り。
それでも、話が途切れても不思議と気まずくならなかった。
澪は無理に会話を続けようとせず、必要なら静かにしていられる人だった。
晴人にとって、それはありがたかった。
昼休みになると、拓真が後ろから椅子を持ってきた。
「記念すべき二年生最初の昼飯だ。盛大にやろう」
「何を盛大にするんだ」
「弁当の開封」
「一人でやれ」
「篠原も一緒に食べようぜ」
拓真は、人との距離を縮めることに一切ためらいがない。
澪は少し驚いた顔をしたあと、頷いた。
「いいの?」
「もちろん。晴人のおごりで」
「弁当をどうやっておごるんだよ」
三人で机を囲む。
澪の弁当は、小さな二段のものだった。
彩りよく詰められた卵焼き、肉団子、ほうれん草のおひたし。
ご飯の上には、桜の形に切られた人参が載っている。
「すごいな」
拓真が感心する。
「自分で作ったの?」
「半分くらい。卵焼きはお母さん」
「女子力高い」
「その言葉、雑に使わない方がいいよ」
「すみません」
澪が笑い、拓真が素直に頭を下げる。
「水瀬くんのは?」
「母親」
「一度も作ったことない?」
「中学の調理実習で焼きそばを作った」
「それは自炊歴に含めない方がいいと思う」
「俺は目玉焼きなら作れる」
拓真が胸を張る。
「お前、この前フライパンに殻落としてたよな」
「あれはカルシウム」
「食べる気だったの?」
「体にいいから」
「大崎くんって、思ってたより変な人なんだね」
「褒められた」
「褒めてないと思うぞ」
三人の会話は、思った以上に続いた。
拓真がいるため沈黙はなく、澪もよく笑った。
晴人は時々言葉を挟みながら、二人のやり取りを聞いていた。
「そういえば」
弁当を食べ終えた頃、澪が晴人を見る。
「水瀬くん、朝、校門の猫に話しかけてたよね」
「見てたのか」
「私、少し後ろを歩いてたから」
「校長のこと?」
拓真が口を挟む。
「校長?」
「猫の名前」
「あの子、校長っていうの?」
「通称だけどな」
「どうして校長?」
「本物より登校が早くて、本物より生徒に人気があるから」
「かなり失礼だね」
澪は笑いながら、鞄の中から小さな袋を取り出した。
市販の猫用おやつだった。
「これ、朝渡そうと思ったんだけど、友達に呼ばれて渡せなかったの」
「持ってきてたんだ」
「猫、好きだから」
「晴人も猫好きだぜ」
「お前が答えるな」
「犬より猫?」
澪が尋ねる。
「どっちも好きだけど、飼ったことはない」
「私も。家がペット禁止だから」
「じゃあ帰りに校長へ渡す?」
「いいの?」
「別に俺に許可を取る必要はないだろ」
「そうなんだけど」
澪は少し嬉しそうに、おやつの袋を見た。
「一人だと逃げられそうな気がして」
「あいつは食べ物があれば逃げない」
「現金な猫だよ」
拓真が言った。
「お前と同じだな」
「俺は食べ物がなくても人を愛せる」
「今日、購買のパンをくれなかった佐伯の悪口を十分くらい言ってただろ」
「あれは別問題」
そのとき、昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。
澪はおやつを鞄へ戻した。
「じゃあ、帰りに」
晴人は小さく頷いた。
ただ猫に餌をやるだけ。
約束と呼ぶほどのものではない。
それでも、その言葉は午後の授業中も、頭の片隅へ残り続けた。
◇
放課後。
春の陽はまだ高く、校庭では運動部が練習を始めていた。
野球部の掛け声。
テニスボールが地面を打つ音。
吹奏楽部の楽器が、音階を何度も上り下りする。
新学期初日の校舎には、これから始まる一年への期待と、まだ何も定まっていない落ち着かなさが同居していた。
晴人は帰り支度を終え、隣の席を見る。
澪は女子生徒二人と話していた。
朝から何度か話しかけていた友人たちだ。
「澪、生徒会行かなくていいの?」
「今日は顔合わせだけだから、少し遅れても大丈夫」
「じゃあ一緒に帰ろうよ」
「あ……ごめん。今日はちょっと」
澪が一瞬、晴人の方を見る。
友人の二人も、同じように晴人へ視線を向けた。
晴人は思わず、机の中を確認するふりをした。
「ああ、なるほど」
「何、その顔」
「別にー」
二人は意味ありげに笑った。
澪の頬がわずかに赤くなる。
「本当に、猫におやつをあげるだけだから」
「猫ねえ」
「校門の猫」
「分かった分かった。邪魔しません」
「だから違うって」
晴人は聞こえないふりを続けた。
説明すればするほど怪しくなるのは、なぜなのだろう。
友人たちが教室を出ていく。
澪は鞄を持って立ち上がった。
「ごめんね」
「何が?」
「変な勘違いされたかも」
「気にしてない」
「そう?」
「ああ」
「水瀬くんって、こういうとき強いね」
「何も考えてないだけだ」
「それを強いって言うんじゃない?」
二人で教室を出る。
階段を下り、昇降口へ向かう。
廊下には、まだ多くの生徒が残っていた。
部活動へ向かう者。
新しいクラスでできた友人と話し込む者。
下駄箱の前で、先輩らしい男子生徒に声をかけられている一年生。
誰もが、それぞれの放課後を始めている。
「水瀬くんは、部活入ってないんだよね?」
「ああ」
「去年も?」
「帰宅部」
「何かやりたいことないの?」
「特には」
「もったいない」
「篠原は生徒会だろ」
「うん。書記」
「忙しそうだな」
「忙しいよ。入る?」
「嫌だ」
「即答」
「人前に出るの苦手だから」
「書記ならあまり出ないよ」
「去年、文化祭で司会してただろ」
「あれは会長が熱出したから」
「上手かった」
何気なく言うと、澪が足を止めた。
「見てたの?」
「体育館にいたから」
「そうじゃなくて、覚えてたんだ」
「目立ってたからな」
「……そっか」
澪は少しだけうつむき、また歩き始めた。
その横顔が、なぜか嬉しそうに見えた。
昇降口で靴へ履き替え、外へ出る。
校門へ近づくにつれ、春の風が強くなった。
桜の花びらが、校庭から道路へ流れていく。
「あ」
澪が門柱を見る。
しかし、そこに校長はいなかった。
「いないな」
「朝はいたのに」
「気まぐれだから」
二人で正門の周囲を見回す。
警備員室の軒下。
植え込みの陰。
道路を挟んだ向かいの公園。
どこにも茶トラの姿はない。
「少し待つ?」
澪が言った。
「生徒会は?」
「まだ時間あるから」
二人は正門脇の低い塀の近くで待つことにした。
立ったままでは落ち着かず、澪は塀へ腰を下ろす。
晴人も少し離れた場所に座った。
通り過ぎる生徒たちが、時々こちらを見た。
「こうしてると、本当に待ち合わせみたいだね」
澪が言う。
「猫との待ち合わせだろ」
「猫は時間を守らないね」
「人間に合わせる理由がないからな」
「それはそうかも」
澪は鞄からおやつを取り出し、袋を指で軽く叩いた。
「私、昔、一度だけ猫を拾ったことがあるの」
「飼えないんじゃなかったか?」
「小学生のとき。雨の日に段ボールへ入ってた子猫を見つけて、どうしても放っておけなくて」
「家に連れて帰った?」
「うん。ものすごく怒られた」
「だろうな」
「でも、一晩だけ置いてくれた。次の日、お母さんが飼ってくれる人を探してくれて」
「優しいな」
「お母さん?」
「どっちも」
澪は少し笑った。
「本当は、ずっと飼いたかったんだけどね」
「今も会うのか?」
「最初の頃は写真を送ってもらってた。でも、引っ越したみたいで」
「そうか」
「だからかな。野良猫を見ると、放っておけなくなる」
風が吹き、澪の髪が頬にかかる。
彼女はそれを耳へかけながら、道路の向こうを見た。
「水瀬くんは?」
「何が?」
「どうしてあの猫に毎朝話しかけてるの?」
「特に理由はない」
「そういう人ほど、理由があったりする」
「本当にない。ただ、入学した日の朝にもいたから」
「去年の?」
「ああ。知り合いが全然いなくて、正門の前で少し立ち止まったんだ。そのとき、門柱の上にいた」
「話しかけたの?」
「『お前も一人か』って」
言ってから、自分でも少し恥ずかしくなる。
澪は笑わなかった。
「返事は?」
「無視された」
「校長らしいね」
「それから、いる日は何となく声をかけるようになった」
「じゃあ、同級生みたいなものだ」
「猫と?」
「同じ日に青葉ヶ丘へ来たなら」
「校長はもっと前からいるかもしれないぞ」
「それでも、あなたが出会ったのは同じ日でしょう?」
澪の言葉に、晴人は返事をしなかった。
確かに、そうかもしれない。
存在していた時間ではなく、自分の中へ入ってきた日。
それを出会いと呼ぶのなら、校長と晴人は同じ日に青葉ヶ丘高校へやってきた。
「篠原って、そういうこと言うんだな」
「どういうこと?」
「もっと現実的な人だと思ってた」
「失礼じゃない?」
「悪い意味じゃない」
「水瀬くんこそ、もっと無口な人だと思ってた」
「実際、無口だろ」
「今日は結構話してるよ」
言われて、晴人は気づく。
澪とは、朝に初めてまともに話したばかりだ。
それなのに、思ったより長く会話が続いている。
拓真が間にいない今も。
「迷惑だった?」
「いや」
「ならよかった」
澪は安心したように笑った。
そのとき、道路の向こうで小さな鳴き声がした。
「あ」
公園の植え込みの下から、茶トラの猫が姿を現した。
澪が立ち上がる。
「校長」
猫はこちらを見た。
しかし、道路を渡ろうとはしない。
ちょうど車が何台か続けて通り過ぎていく。
「危ないから、こっちが行こう」
晴人と澪は横断歩道へ向かった。
信号は赤。
二人は並んで待つ。
澪は猫から目を離さず、手の中のおやつを握っていた。
「逃げないといいけど」
「食べ物を見せれば来る」
「信頼されてるね」
「食べ物が信頼されてるだけだ」
信号が青へ変わる。
二人は道路を渡った。
校長は植え込みの下へ戻ろうとしていたが、澪がおやつの袋を開ける音を聞くと、ぴたりと動きを止めた。
「ほら」
澪がしゃがみ、手のひらへおやつを載せる。
猫は慎重に近づいてきた。
一歩。
また一歩。
澪は動かない。
呼びかけもしない。
猫が自分から来るのを待っている。
やがて校長は彼女の指先の匂いを嗅ぎ、おやつへ口をつけた。
「食べた」
澪の声が、驚くほど嬉しそうに弾んだ。
「そりゃ食べるだろ」
「でも、初めてだから」
校長は一つ食べ終えると、さらに手のひらへ鼻を寄せた。
「まだ欲しいみたい」
「現金だな」
「誰かさんと同じだね」
「拓真か」
「水瀬くん」
「俺?」
「猫を理由にしたら、こうして一緒に帰ってくれた」
晴人は一瞬、言葉を失った。
澪は猫を見ていた。
冗談を言ったようにも、本気で言ったようにも見える。
「別に、猫がいなくても」
そこまで言って、続きが出てこない。
猫がいなくても、一緒に帰った。
そう言おうとした。
けれど、それではまるで、自分から澪と帰りたかったと認めるような気がした。
実際、嫌ではなかった。
むしろ、少し楽しみにしていた。
それを口へ出すには、まだ知り合ったばかりすぎる。
「猫がいなくても?」
澪がこちらを見る。
「……道が同じなら」
情けない答えだった。
澪は数秒、晴人を見たあと、ふっと笑った。
「じゃあ、今度は道が同じ日に」
「同じ学校から帰るんだから、途中までは同じだろ」
「それもそうだね」
校長が二人の間で鳴いた。
続きを催促するような声だった。
「はいはい」
澪がもう一つおやつを渡す。
その瞬間だった。
公園の入り口から、甲高い犬の鳴き声が響いた。
散歩中の小型犬が、校長を見つけて勢いよく走り出した。
飼い主の女性がリードを引く。
「こら、待ちなさい!」
校長は驚き、道路の方へ飛び出した。
「危ない!」
澪が立ち上がる。
信号は赤。
道路には車が走っている。
晴人は考えるより先に、猫を追っていた。
「水瀬くん!」
校長は車道の直前で足を止めた。
しかし、背後から犬の声が迫る。
晴人は猫の前へ回り込み、両腕を広げた。
「こっち来い!」
猫が逃げる方向を変える。
晴人の横をすり抜け、公園の奥へ走った。
ほっとした直後、足元が滑った。
昨夜の雨が残したぬかるみ。
晴人は体勢を崩し、そのまま地面へ手をついた。
「大丈夫!?」
澪が駆け寄ってくる。
「大丈夫」
「手、見せて」
「平気だって」
「いいから」
右の手のひらが擦れていた。
傷は浅いが、細かな砂がついている。
制服の膝も泥で汚れていた。
「血、出てる」
「これくらい」
「公園の水道で洗おう」
澪は晴人の手首をつかみ、水飲み場へ連れていく。
冷たい水で傷を流す。
細かな砂が落ちると、赤い擦り傷がはっきりと見えた。
「痛い?」
「少し」
「さっき大丈夫って言った」
「大丈夫の範囲内」
「男子って、どうしてすぐ平気なふりするんだろ」
「女子はしないのか?」
「するけど」
「じゃあ同じだ」
「そうかも」
澪は鞄からハンカチを取り出し、晴人の手の水分を拭いた。
「汚れるぞ」
「洗えばいいから」
白い布に、小さな猫の刺繍が入っている。
「猫ばっかりだな」
「好きだから」
「手帳にも猫のシール貼ってたな」
口に出してから、晴人はしまったと思った。
澪の手が止まる。
「やっぱり見た?」
「中身は見てない。表紙だけ」
「本当に?」
「四月八日のところに『話しかける』って書いてあったのは見えた」
正直に言うと、澪は耳まで赤くなった。
「それ、見てるじゃん」
「一瞬だけだ」
「忘れて」
「何を?」
「今すぐ忘れて」
「努力する」
「努力じゃなくて忘れて」
澪は両手で顔を覆った。
「最悪……」
「別に変なことじゃないだろ。誰かに話しかける予定だったんだろ?」
「そうだけど」
「友達?」
「……水瀬くん」
「俺?」
「去年から、話しかけようと思ってた」
晴人は傷の痛みも忘れ、澪を見る。
彼女は顔から手を外さない。
「どうして」
「図書室でよく見かけたから」
「それだけ?」
「本を読んでるときの顔が、少しだけ寂しそうだった」
「そんな顔してない」
「してた」
「本に集中してただけだ」
「声をかけたら迷惑かなって思って、結局一度も話せなかった」
「それで手帳に?」
「新しいクラスが同じだったら、今年こそ話しかけようって」
話しかける。
朝、手帳に書かれていた一言。
大した意味はないと思っていた。
けれど澪にとっては、一年間できなかったことを実行するための言葉だった。
「だから朝、俺に挨拶したのか」
「うん」
「靴箱で鞄落としたのも?」
「あれは普通に失敗しただけ」
「そこは計画じゃないんだな」
「そんな計画立てないよ」
澪がようやく顔を上げる。
頬はまだ赤かった。
「変だと思った?」
「いや」
「怖いとか」
「思わない」
「気持ち悪いとか」
「全然」
晴人は傷ついた手を見た。
「俺は篠原のこと、ほとんど知らなかった」
「うん」
「でも篠原は、一年前から俺のことを見てたんだな」
「ずっと見てたみたいに言わないで。たまにだから」
「それでも」
人に見られることが苦手だった。
注目されることも、期待されることも。
けれど、誰にも気づかれないことが寂しくないわけではなかった。
図書室の窓際。
一人で本を読む自分を、誰かが知っていた。
それを嬉しいと思った。
「話しかけてくれてよかった」
晴人が言う。
澪は目を見開いた。
「本当に?」
「ああ」
「無理してない?」
「してない」
「じゃあ……」
澪は少し迷ったあと、笑った。
「明日も話しかけていい?」
「隣の席なんだから、話しかけるだろ」
「そうじゃなくて」
澪は言葉を探すように視線を落とす。
「今日だけじゃなくて、これからも」
風が吹いた。
桜の花びらが、公園の中へ舞い込む。
晴人の肩に一枚。
澪の髪に一枚。
少し離れた場所では、校長が何事もなかったように前足を舐めている。
「もちろん」
晴人は答えた。
たった四文字。
けれど澪は、今日一番嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見たとき、晴人は気づいた。
澪が欲しかったのは、猫に渡すおやつでも、傷を拭くためのハンカチでもない。
たぶん、ずっと返事が欲しかったのだ。
話しかけてもいいという返事。
隣にいてもいいという返事。
これから少しずつ知り合ってもいいという返事。
晴人はそれを、一年遅れてようやく渡した。
◇
生徒会へ向かう澪と校門で別れ、晴人は一人で帰宅した。
右手の傷には、澪が持っていた絆創膏が貼られている。
白地に、小さな猫の顔。
ここまで猫で揃える必要があるのだろうか。
けれど、剥がす気にはなれなかった。
夜。
夕食を終え、自室の机で教科書を整理していると、スマートフォンが震えた。
拓真からだった。
『篠原とどこ行った?』
晴人は短く返す。
『猫に餌やった』
すぐに返信が来る。
『本当に猫だけ?』
『猫だけ』
『青春を猫のせいにするな』
既読だけつけ、スマートフォンを伏せる。
少しして、別の通知が届いた。
表示された名前を見て、晴人は手を止める。
篠原澪。
クラスの連絡用グループから追加されたらしい。
『今日はありがとう。手、大丈夫?』
晴人は右手を見る。
じんじんと少し痛む。
『大丈夫。猫の絆創膏が効いてる』
数秒後。
『それ、私の一番お気に入りだったんだけど』
晴人は思わず笑った。
『じゃあ返す』
『使用済みはいらない』
『新しいの買って返す』
『同じの、もう売ってないよ』
少し考える。
『じゃあ別の猫のやつ探す』
返信が来るまで、今度は少し時間がかかった。
『一緒に探してくれる?』
晴人は画面を見つめた。
絆創膏を探すだけ。
それだけの話だ。
けれど、昼間の約束と同じで、別の意味があるように感じた。
『いいよ』
送信する。
澪から、猫が喜んでいるスタンプが返ってきた。
晴人はベッドへ寝転がり、右手を天井へ伸ばした。
猫の絆創膏。
一年前から自分を見ていた少女。
明日も話しかけていいかと尋ねた声。
特別なことは何も起きていない。
告白されたわけでもない。
恋人になったわけでもない。
ただ、知らなかった誰かと、少しだけ知り合った。
それだけだ。
それでも、昨日までと同じ高校生活には、もう戻れないような気がした。
春という季節は、不公平だと思っていた。
人だけを急かし、新しい場所へ押し込み、変わることを強要する。
けれど、もしかすると違うのかもしれない。
春は、変われと言っているのではない。
ほんの少しだけ、昨日とは違うことをしてみろと言っているのだ。
誰かに話しかける。
誰かの隣へ座る。
いつもと違う道を歩く。
渡せなかったものを渡す。
それだけで、何も起こらなかったはずの一日が、誰かにとって忘れられない一日になる。
晴人は目を閉じた。
明日の朝、校長に話しかける。
そのあと、隣の席の澪に、おはようと言う。
今度は、自分から。
◇
翌朝。
七時四十六分。
校長は、いつもの門柱の上へ座っていた。
昨日の騒ぎなど、最初からなかったような顔で、登校してくる生徒たちを見下ろしている。
晴人は足を止めた。
「おはよう、校長」
猫は返事をしない。
「昨日は大変だったな」
尻尾が一度だけ揺れた。
「今日も篠原がおやつ持ってくるかもしれないぞ」
その言葉へ反応したのか、校長が顔を上げる。
「現金なやつ」
晴人は笑い、正門をくぐった。
その少し後。
一人の女子生徒が、門柱の前で立ち止まった。
篠原澪ではなかった。
一年生らしい、真新しい制服。
肩の下まで伸びた髪を、青いリボンで結んでいる。
少女は猫の前へしゃがみ込むと、鞄から小さなビニール袋を取り出した。
「ねえ、校長」
呼び名を知っているらしい。
けれど、猫へ向けられた声は、親しげというより、どこか切実だった。
「昨日、あの人と一緒にいた女の子、誰?」
校長は答えない。
少女は唇を噛み、手の中の袋を強く握った。
中には、細かくちぎられたパンが入っている。
「教えてくれたら、全部あげるのに」
校長は袋の匂いを嗅ぎ、門柱から飛び下りた。
少女の足元へ近づき、何事もなかったように鳴く。
それが答えなのか。
ただ腹が減っているだけなのか。
人間には、分からなかった。




