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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第44話 止まって見える時間にも、進み方はある



一ノ瀬葵は、美術部に入って三か月が経っても、まだ一度も自分の絵をコンクールへ出したことがなかった。


文化祭のとき、人のいない校舎の絵を描いた。


あの絵は、メインポスターには選ばれなかったけれど、パンフレットの表紙や案内図に使われた。


葵にとって、それは誇らしい経験だった。


けれど、あれから三か月。


周りの部員たちは、次々と新しい作品を仕上げ、外部のコンクールへ出品していた。


葵だけが、まだ何も出せていなかった。



七月四日。


放課後の美術室。


一年生の後輩、長谷部いろはが、完成したばかりの水彩画を柚葉へ見せていた。


「これ、県のコンクールに出そうと思うんです」


「いいじゃん。締切、今週末だっけ」


「はい」


柚葉が絵を見ながら頷く。


「構図、思い切ったね」


「先輩たちの絵を見て、勉強になりました」


葵は、その会話を少し離れた場所で聞いていた。


いろはは、入部してまだ二か月だった。


自分より、ずっと後から始めた後輩。


それなのに、もうコンクールに出す絵を仕上げている。


葵は、自分のスケッチブックを見た。


まだ、線画のままの絵が、何枚も途中で止まっていた。



「葵ちゃん、最近、あまり描いてないよね」


柚葉が声をかけてきた。


「描いてます。でも、完成しなくて」


「何が引っかかってるの」


葵は、少し考えた。


「みんな、どんどん進んでるのに、私だけ止まってる気がして」


「止まってるって?」


「いろはさんも、コンクールに出す絵、もう仕上げてます。私は、文化祭のあと、何も出せてません」


柚葉は、少し困ったような顔をした。


「同じ速さで進む必要、あるのかな」


「でも、遅れてるのは事実です」


「遅れてるって、誰と比べて?」


葵は、答えられなかった。



その日の放課後、葵は一人で図書室へ寄った。


目的があったわけではなかった。


ただ、美術室にいるのが、少し息苦しかった。


入口の木箱を見る。


『答えのない質問を入れてください』


掲示板には、見覚えのある文字があった。


『前を向いて頑張っている人を見ると、自分だけ止まっている気がします。同じ時間を過ごしているはずなのに、差が開いていくのが怖いです』


葵は、その紙の前で長く立ち止まった。


これは、早川という一年生が返事を書いていたことも、少し前に耳にしていた。


「気になりますか」


カウンターにいた白石悠が声をかけた。


「これ、私のことみたい」


葵は、美術部のことを話した。


後輩のいろはが、もうコンクールに出す絵を仕上げていること。

自分は、まだ何も完成させられていないこと。

止まっているように感じること。


悠は最後まで聞いた。


「一ノ瀬さんは、絵を描いていないわけではないですよね」


「描いてます。でも、完成しない」


「完成しないのは、なぜですか」


「分かりません。途中で、これでいいのか分からなくなって、止まってしまいます」


「それは、止まっているのではなく、悩んでいるということではないでしょうか」


葵は、はっとした。


「止まっているのと、悩んでいるのは、違いますか」


「止まっているなら、何も動いていません。でも、悩みながら描き直しているなら、動いているのだと思います」


葵は、自分のスケッチブックを思い出した。


何度も描き直した線。

消しては、また描いた形。


あれは、止まっていた時間ではなかったのかもしれない。



正門で、校長が門柱の上に座っていた。


「校長」


葵は近づいた。


猫は目を開けた。


「私、止まってると思ってた」


尻尾が動く。


「でも、悩んでるだけだったのかもしれない」


校長は、伸びをして門柱から降りた。


葵の足元をゆっくり通り過ぎ、また植え込みの方へ歩いていく。


その歩みは、速くも遅くもなかった。


ただ、自分のペースで進んでいるだけだった。



その夜、葵は自室で、スケッチブックを開いた。


何度も描き直した絵。


人のいない教室と、窓辺に置かれた一輪の花。


葵は、初めてこの絵に、完成させる勇気を持てた気がした。


一晩かけて、細部まで丁寧に描き込んだ。



翌日の放課後、葵は完成した絵を美術室へ持っていった。


「先輩、見てもらえますか」


柚葉が絵を見る。


「これ、いつの間に」


「昨日、描き上げました」


「コンクール、出す?」


「出します。締切、今週末ですよね」


「うん」


柚葉は少し驚いた顔をした後、笑った。


「葵ちゃんらしい絵だね」


「らしいって?」


「誰もいない場所を描くのに、そこにいた人の気配が残ってる」


葵は、少し照れくさくなった。


いろはが、絵をのぞき込んだ。


「一ノ瀬先輩、すごいです」


「いろはさんの絵も、すごかったよ」


「私、先輩の絵が完成するの、ずっと待ってました」


「待ってたの?」


「はい。文化祭のパンフレットの絵、好きだったので」


葵は、その言葉に驚いた。


自分が止まっていると思っていた間も、誰かは、自分の絵を待っていてくれた。



放課後、葵はもう一度図書室へ寄った。


自分の質問への返事が増えていた。


『止まっているように見える時間も、悩みながら動いている時間かもしれません』


『進む速さは人によって違います。遅いことは、間違っていることではありません』


葵は最後の一枚を読んで、頷いた。


「今日、絵を完成させました」


「どうでしたか」


「止まってたんじゃなくて、悩んでただけだったって分かりました」


「良かったです」


葵は新しい付箋を取った。


『悩みながら描き直していた時間も、動いている時間だったと気づきました。誰かが、私の絵が完成するのを待ってくれていました。進む速さは、比べなくていいのかもしれません』


書いて、質問の下へ貼る。


「早川さんも、これを読むかもしれません」


「陸上や勉強と、絵は違うけどな」


「止まって見える時間への怖さは、共通しているかもしれません」


葵は頷いた。



その隣に、また新しい問いが貼られていた。


『自分のペースを大事にしたいけれど、周りに置いていかれる不安が消えません。マイペースでいることは、逃げているだけですか』


葵はその紙を見て、少し立ち止まった。


今の自分にとって、近い問いだった。


「これ、書きますか」


悠が尋ねる。


「まだ、完全には答えられない」


「なぜですか」


「コンクールの結果、まだ分からないから」


「結果が出たら、書きますか」


「うん。結果がどうでも、書きたいことがある気がする」


葵は図書室を出た。


美術室からは、まだ誰かが絵を描く筆の音が聞こえていた。


速い人もいれば、遅い人もいる。


それでも、みんなが、それぞれのペースで、何かを完成させようとしていた。



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