第44話 止まって見える時間にも、進み方はある
一ノ瀬葵は、美術部に入って三か月が経っても、まだ一度も自分の絵をコンクールへ出したことがなかった。
文化祭のとき、人のいない校舎の絵を描いた。
あの絵は、メインポスターには選ばれなかったけれど、パンフレットの表紙や案内図に使われた。
葵にとって、それは誇らしい経験だった。
けれど、あれから三か月。
周りの部員たちは、次々と新しい作品を仕上げ、外部のコンクールへ出品していた。
葵だけが、まだ何も出せていなかった。
*
七月四日。
放課後の美術室。
一年生の後輩、長谷部いろはが、完成したばかりの水彩画を柚葉へ見せていた。
「これ、県のコンクールに出そうと思うんです」
「いいじゃん。締切、今週末だっけ」
「はい」
柚葉が絵を見ながら頷く。
「構図、思い切ったね」
「先輩たちの絵を見て、勉強になりました」
葵は、その会話を少し離れた場所で聞いていた。
いろはは、入部してまだ二か月だった。
自分より、ずっと後から始めた後輩。
それなのに、もうコンクールに出す絵を仕上げている。
葵は、自分のスケッチブックを見た。
まだ、線画のままの絵が、何枚も途中で止まっていた。
*
「葵ちゃん、最近、あまり描いてないよね」
柚葉が声をかけてきた。
「描いてます。でも、完成しなくて」
「何が引っかかってるの」
葵は、少し考えた。
「みんな、どんどん進んでるのに、私だけ止まってる気がして」
「止まってるって?」
「いろはさんも、コンクールに出す絵、もう仕上げてます。私は、文化祭のあと、何も出せてません」
柚葉は、少し困ったような顔をした。
「同じ速さで進む必要、あるのかな」
「でも、遅れてるのは事実です」
「遅れてるって、誰と比べて?」
葵は、答えられなかった。
*
その日の放課後、葵は一人で図書室へ寄った。
目的があったわけではなかった。
ただ、美術室にいるのが、少し息苦しかった。
入口の木箱を見る。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、見覚えのある文字があった。
『前を向いて頑張っている人を見ると、自分だけ止まっている気がします。同じ時間を過ごしているはずなのに、差が開いていくのが怖いです』
葵は、その紙の前で長く立ち止まった。
これは、早川という一年生が返事を書いていたことも、少し前に耳にしていた。
「気になりますか」
カウンターにいた白石悠が声をかけた。
「これ、私のことみたい」
葵は、美術部のことを話した。
後輩のいろはが、もうコンクールに出す絵を仕上げていること。
自分は、まだ何も完成させられていないこと。
止まっているように感じること。
悠は最後まで聞いた。
「一ノ瀬さんは、絵を描いていないわけではないですよね」
「描いてます。でも、完成しない」
「完成しないのは、なぜですか」
「分かりません。途中で、これでいいのか分からなくなって、止まってしまいます」
「それは、止まっているのではなく、悩んでいるということではないでしょうか」
葵は、はっとした。
「止まっているのと、悩んでいるのは、違いますか」
「止まっているなら、何も動いていません。でも、悩みながら描き直しているなら、動いているのだと思います」
葵は、自分のスケッチブックを思い出した。
何度も描き直した線。
消しては、また描いた形。
あれは、止まっていた時間ではなかったのかもしれない。
*
正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
葵は近づいた。
猫は目を開けた。
「私、止まってると思ってた」
尻尾が動く。
「でも、悩んでるだけだったのかもしれない」
校長は、伸びをして門柱から降りた。
葵の足元をゆっくり通り過ぎ、また植え込みの方へ歩いていく。
その歩みは、速くも遅くもなかった。
ただ、自分のペースで進んでいるだけだった。
*
その夜、葵は自室で、スケッチブックを開いた。
何度も描き直した絵。
人のいない教室と、窓辺に置かれた一輪の花。
葵は、初めてこの絵に、完成させる勇気を持てた気がした。
一晩かけて、細部まで丁寧に描き込んだ。
*
翌日の放課後、葵は完成した絵を美術室へ持っていった。
「先輩、見てもらえますか」
柚葉が絵を見る。
「これ、いつの間に」
「昨日、描き上げました」
「コンクール、出す?」
「出します。締切、今週末ですよね」
「うん」
柚葉は少し驚いた顔をした後、笑った。
「葵ちゃんらしい絵だね」
「らしいって?」
「誰もいない場所を描くのに、そこにいた人の気配が残ってる」
葵は、少し照れくさくなった。
いろはが、絵をのぞき込んだ。
「一ノ瀬先輩、すごいです」
「いろはさんの絵も、すごかったよ」
「私、先輩の絵が完成するの、ずっと待ってました」
「待ってたの?」
「はい。文化祭のパンフレットの絵、好きだったので」
葵は、その言葉に驚いた。
自分が止まっていると思っていた間も、誰かは、自分の絵を待っていてくれた。
*
放課後、葵はもう一度図書室へ寄った。
自分の質問への返事が増えていた。
『止まっているように見える時間も、悩みながら動いている時間かもしれません』
『進む速さは人によって違います。遅いことは、間違っていることではありません』
葵は最後の一枚を読んで、頷いた。
「今日、絵を完成させました」
「どうでしたか」
「止まってたんじゃなくて、悩んでただけだったって分かりました」
「良かったです」
葵は新しい付箋を取った。
『悩みながら描き直していた時間も、動いている時間だったと気づきました。誰かが、私の絵が完成するのを待ってくれていました。進む速さは、比べなくていいのかもしれません』
書いて、質問の下へ貼る。
「早川さんも、これを読むかもしれません」
「陸上や勉強と、絵は違うけどな」
「止まって見える時間への怖さは、共通しているかもしれません」
葵は頷いた。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『自分のペースを大事にしたいけれど、周りに置いていかれる不安が消えません。マイペースでいることは、逃げているだけですか』
葵はその紙を見て、少し立ち止まった。
今の自分にとって、近い問いだった。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「まだ、完全には答えられない」
「なぜですか」
「コンクールの結果、まだ分からないから」
「結果が出たら、書きますか」
「うん。結果がどうでも、書きたいことがある気がする」
葵は図書室を出た。
美術室からは、まだ誰かが絵を描く筆の音が聞こえていた。
速い人もいれば、遅い人もいる。
それでも、みんなが、それぞれのペースで、何かを完成させようとしていた。




