第45話 自分の速さにも、行き先はある
小川凪には、書くのが遅い、という自覚があった。
遅いというのは、字を書く速度の話ではない。
一つの物語を仕上げるまでに、人よりずっと長い時間がかかるという意味だった。
中学のとき、初めて書いた小説を、友達に見せたことがある。
『透明な席』という題名の、まだ完成していない話だった。
あのときは、途中で終わっていることを、後ろめたく思っていた。
完成させられない自分を、どこかで責めていた。
今はもう、途中で終わることを、それほど怖がらなくなった。
文芸部に入って、桐生乃々花や佐伯美月と出会い、完成しない話も置いておいていいのだと知った。
それでも、七月に入ってから、凪は再び、自分の速さについて考えるようになっていた。
*
七月五日。
放課後の文芸部室。
「部誌の締め切り、来週の金曜日ね」
部長の桐生乃々花が、机の上に原稿用紙の束を広げながら言った。
「今回、応募が多いから、選考も大変」
「乃々花先輩、もう三本出したんですよね」
佐伯美月が言う。
「四本」
「早いですね」
「締め切りがあると、逆に書ける」
乃々花は、涼しい顔で言った。
「美月は?」
「二本、出しました」
「凪は?」
乃々花の視線が、凪へ向いた。
凪は、鞄の中の原稿を見た。
まだ、一本も完成していなかった。
「まだです」
「まだ? 今回、間に合いそう?」
「分かりません」
凪は、正直に答えた。
乃々花は、少し考えるような顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
*
部活が終わったあと、凪は一人で部室に残った。
机の上には、書きかけの原稿が三枚。
『帰り道の途中に』という題名だけ決まっている話だった。
主人公が、いつもと違う道を選んで帰るところから始まる。
その先を、凪はまだ書けずにいた。
急げば、締め切りまでに書き上げられるかもしれない。
けれど、急いで書いた話は、いつも自分にとって嘘くさく感じられた。
言葉を選ぶ時間。
登場人物の気持ちを、何度も想像し直す時間。
凪にとって、それは省略できないものだった。
でも、周りを見ると、みんなそれをこなしながら、何本も仕上げている。
自分だけが、置いていかれている気がした。
*
その夜、凪は自室でノートパソコンを開いた。
『帰り道の途中に』の続きを書こうとする。
けれど、一行も進まなかった。
スマートフォンを見ると、部活のグループチャットに、乃々花からのメッセージが届いていた。
『今回、五本出す部員もいるみたい。二年の川島さんと美術部合同で、絵と小説のコラボ企画も出るって』
凪は、そのメッセージを何度も読んだ。
自分だけが、まだ何も出せていない。
*
翌日、昼休み。
凪は図書室で、桐生乃々花と佐伯美月と一緒に弁当を食べていた。
「凪、顔色悪いよ」
美月が言う。
「大丈夫」
「大丈夫って言うとき、大体大丈夫じゃないんだよね、この学校の人」
乃々花が笑いながら言った。
「最近、この学校でみんなそれ言いますよね」
「流行ってるんだって」
凪は、少しだけ笑った。
けれど、すぐにまた表情が曇った。
「乃々花先輩」
「何」
「マイペースでいるのって、逃げてることになりますか」
乃々花は、箸を止めた。
「どういう意味」
「みんな、締め切りに向けて何本も書いてます。私は、一本も間に合わないかもしれない」
「うん」
「急げばいいのに、急がない自分は、ただ逃げてるだけなんじゃないかって」
乃々花は、少し考えてから言った。
「凪は、書くのが嫌になった?」
「嫌にはなってません」
「じゃあ、逃げてるわけじゃないんじゃない」
「でも、結果として、間に合わないかもしれません」
「間に合わないことと、逃げてることは、別だと思うけど」
美月も頷いた。
「私も、前は完成させるのが怖かった。でも、凪の場合は、怖いんじゃなくて、丁寧なんだと思う」
「丁寧?」
「凪の話、いつも時間かけてるだけあって、細かいところまで考えてあるでしょ」
凪は、その言葉をすぐには受け止められなかった。
*
昼休みの後半、凪は一人で図書室へ向かった。
掲示板の前に立つ。
いつもの木箱。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、見覚えのある文字があった。
『自分のペースを大事にしたいけれど、周りに置いていかれる不安が消えません。マイペースでいることは、逃げているだけですか』
凪は、その紙の前で長く立ち止まった。
「気になりますか」
カウンターにいた白石悠が声をかけた。
「これ、私が今、思ってることと同じです」
凪は、文芸部のことを話した。
部誌の締め切りが近いこと。
周りが何本も書き上げていること。
自分は、まだ一本も完成していないこと。
急ぐことが怖くて、でもそれが逃げなのか分からないこと。
悠は最後まで聞いた。
「小川さんは、なぜ時間をかけて書くんですか」
「急いで書くと、自分でも納得できない話になるからです」
「納得できない話は、書きたくないですか」
「書きたくないです」
「では、時間をかけることは、逃げるためではなく、納得するために必要な時間ではないですか」
凪は、少し考え込んだ。
「でも、締め切りには意味があります。間に合わなかったら、部誌に載せられません」
「載せることが、目的ですか」
凪は、答えに詰まった。
「小川さんにとって、書くことの目的は、部誌に載せることですか。それとも、自分が納得できる話を書くことですか」
「両方だと思ってました」
「両方が、いつも同じ時間で叶うとは限らないと思います」
凪は、その言葉を、頭の中で何度も繰り返した。
*
放課後、凪は文芸部室へ戻った。
乃々花が、原稿の最終確認をしていた。
「乃々花先輩」
「何」
「今回、私、間に合わないかもしれません」
「うん」
「でも、書くのをやめたいわけじゃないです」
「知ってる」
乃々花は、原稿から顔を上げた。
「部誌の締め切りに間に合わなかった人、今までにもいたよ」
「そうなんですか」
「去年の先輩で、一年かけて一本の話を仕上げた人がいた。部誌には一度も載らなかったけど、卒業するとき、その一本だけを、みんなに配ってた」
凪は、その話を初めて聞いた。
「その先輩、逃げてたと思う?」
「思いません」
「じゃあ、凪も同じじゃない」
凪は、少し安心した。
「でも、今回の締め切りに間に合わなかったら、部誌に何も出せません」
「一部でも、載せられるよ」
「一部?」
「今回だけ、完成した部分だけを載せる枠を作ろうと思ってた」
乃々花は、そう言って部誌の企画表を見せた。
「未完成作品コーナー」
という項目が、追加されていた。
「これ、いつから」
「今、決めた」
凪は、少し笑った。
「先輩、思いつきで動きますね」
「凪のために思いついたんだよ」
乃々花は、少し照れくさそうに言った。
*
その日の夜、凪は改めて『帰り道の途中に』の原稿と向き合った。
完成させることを、無理に急がなくてもいい。
その代わり、今の自分が納得できる分だけを、丁寧に仕上げよう。
凪は、最初の場面から、もう一度言葉を選び直した。
主人公が、いつもと違う道を選ぶ理由。
その道の先で、何を見るのか。
急がずに、けれど止まらずに、少しずつ書き進めた。
*
正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
凪は近づいた。
猫は目を開けた。
「私、マイペースなの、逃げだと思ってた」
尻尾が動く。
「でも、逃げてるんじゃなくて、丁寧なんだって、言ってもらえた」
猫はあくびをした。
「あなたも、マイペースだよね」
校長は、答えずに、また目を細めた。
急かされることもなく、急ぐこともなく、ただそこにいる。
その姿が、今の凪には、少しだけ心強く見えた。
*
締め切りの前日。
凪は、原稿を完成させられなかった。
途中まで書けたところで、区切りをつけた。
完成した部分だけを、乃々花へ提出する。
「ここまで」
「うん」
「未完成作品コーナーに、載せてもらえますか」
「もちろん」
乃々花は、原稿を受け取った。
「凪の話、この先どうなるの」
「まだ、決めてません」
「決まったら、続き書く?」
「書きます。急がずに」
乃々花は頷いた。
「それでいいと思う」
*
放課後、凪はもう一度図書室へ寄った。
自分の質問への返事が増えていた。
『時間をかけることは、逃げるためではなく、納得するために必要な時間かもしれません』
『部誌に載せることと、自分が納得できる話を書くことは、いつも同じ時間で叶うとは限りません』
凪は最後の一枚を読んで、頷いた。
「今日、未完成のまま提出しました」
「どうでしたか」
「怖かったけど、逃げてはいないって思えました」
「良かったです」
凪は新しい付箋を取った。
『急いで書くことは、私にとって書くことの意味を薄くしてしまいます。時間をかけることは、逃げるためではなく、納得するために必要な時間でした。今回は未完成のまま提出しましたが、続きは急がずに書きます』
書いて、質問の下へ貼る。
「一ノ瀬さんも、これを読むかもしれません」
「絵と小説で、違うけどな」
「進む速さについての悩みは、共通しているかもしれません」
凪は頷いた。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『未完成のまま人に見せるのが怖いです。完璧に仕上げてから見せたいのに、いつまでも完璧になりません。未完成を見せることは、失礼なことですか』
凪はその紙を見て、少し立ち止まった。
自分が今日、初めて経験したことと、近い問いだった。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「書けます」
「早いですね」
「これは、今日の自分の話だから」
凪は付箋を取った。
『未完成を見せるのは、私も怖かったです。でも、見せてみたら、待っていてくれる人がいました。完璧を待つより、今の形を見せる方が、誰かに届くこともあると思います』
書いて、質問の下へ貼る。
悠が、その付箋を読んで、少し微笑んだ。
「今日は、たくさん書きましたね」
「今日は、書きたいことが多かった」
凪は図書室を出た。
部室の方から、まだ誰かの原稿用紙をめくる音が聞こえていた。
速い人もいれば、遅い人もいる。
完成させる人もいれば、途中で置いていく人もいる。
それでも、みんなが、それぞれの速さで、何かを書き続けていた。
*
週末、部誌『青い栞』の最新号が完成した。
未完成作品コーナーには、凪の『帰り道の途中に』の冒頭部分が載っていた。
題名の下に、小さく一文が添えられている。
『この続きは、書けたときに』
乃々花が付け足した一文だった。
凪は、その部誌を、何度も読み返した。
完成していない話が、こうして誰かの手に渡る。
それは、凪にとって、初めての経験だった。
*
月曜日の朝。
凪が教室へ入ると、隣のクラスの生徒が声をかけてきた。
「小川さんだよね。部誌読んだよ。続き、楽しみにしてる」
凪は、少し驚いた。
「まだ、途中までしか書けてないんですけど」
「途中までで、もう気になる」
その一言が、凪の中に、あたたかく残った。
急がなくていい。
でも、待っていてくれる人がいる。
凪は、その両方を抱えたまま、今日も自分の速さで、次の一行を探し始めた。




