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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第45話 自分の速さにも、行き先はある



小川凪には、書くのが遅い、という自覚があった。


遅いというのは、字を書く速度の話ではない。


一つの物語を仕上げるまでに、人よりずっと長い時間がかかるという意味だった。


中学のとき、初めて書いた小説を、友達に見せたことがある。


『透明な席』という題名の、まだ完成していない話だった。


あのときは、途中で終わっていることを、後ろめたく思っていた。


完成させられない自分を、どこかで責めていた。


今はもう、途中で終わることを、それほど怖がらなくなった。


文芸部に入って、桐生乃々花や佐伯美月と出会い、完成しない話も置いておいていいのだと知った。


それでも、七月に入ってから、凪は再び、自分の速さについて考えるようになっていた。



七月五日。


放課後の文芸部室。


「部誌の締め切り、来週の金曜日ね」


部長の桐生乃々花が、机の上に原稿用紙の束を広げながら言った。


「今回、応募が多いから、選考も大変」


「乃々花先輩、もう三本出したんですよね」


佐伯美月が言う。


「四本」


「早いですね」


「締め切りがあると、逆に書ける」


乃々花は、涼しい顔で言った。


「美月は?」


「二本、出しました」


「凪は?」


乃々花の視線が、凪へ向いた。


凪は、鞄の中の原稿を見た。


まだ、一本も完成していなかった。


「まだです」


「まだ? 今回、間に合いそう?」


「分かりません」


凪は、正直に答えた。


乃々花は、少し考えるような顔をしたが、それ以上は聞かなかった。



部活が終わったあと、凪は一人で部室に残った。


机の上には、書きかけの原稿が三枚。


『帰り道の途中に』という題名だけ決まっている話だった。


主人公が、いつもと違う道を選んで帰るところから始まる。


その先を、凪はまだ書けずにいた。


急げば、締め切りまでに書き上げられるかもしれない。


けれど、急いで書いた話は、いつも自分にとって嘘くさく感じられた。


言葉を選ぶ時間。


登場人物の気持ちを、何度も想像し直す時間。


凪にとって、それは省略できないものだった。


でも、周りを見ると、みんなそれをこなしながら、何本も仕上げている。


自分だけが、置いていかれている気がした。



その夜、凪は自室でノートパソコンを開いた。


『帰り道の途中に』の続きを書こうとする。


けれど、一行も進まなかった。


スマートフォンを見ると、部活のグループチャットに、乃々花からのメッセージが届いていた。


『今回、五本出す部員もいるみたい。二年の川島さんと美術部合同で、絵と小説のコラボ企画も出るって』


凪は、そのメッセージを何度も読んだ。


自分だけが、まだ何も出せていない。



翌日、昼休み。


凪は図書室で、桐生乃々花と佐伯美月と一緒に弁当を食べていた。


「凪、顔色悪いよ」


美月が言う。


「大丈夫」


「大丈夫って言うとき、大体大丈夫じゃないんだよね、この学校の人」


乃々花が笑いながら言った。


「最近、この学校でみんなそれ言いますよね」


「流行ってるんだって」


凪は、少しだけ笑った。


けれど、すぐにまた表情が曇った。


「乃々花先輩」


「何」


「マイペースでいるのって、逃げてることになりますか」


乃々花は、箸を止めた。


「どういう意味」


「みんな、締め切りに向けて何本も書いてます。私は、一本も間に合わないかもしれない」


「うん」


「急げばいいのに、急がない自分は、ただ逃げてるだけなんじゃないかって」


乃々花は、少し考えてから言った。


「凪は、書くのが嫌になった?」


「嫌にはなってません」


「じゃあ、逃げてるわけじゃないんじゃない」


「でも、結果として、間に合わないかもしれません」


「間に合わないことと、逃げてることは、別だと思うけど」


美月も頷いた。


「私も、前は完成させるのが怖かった。でも、凪の場合は、怖いんじゃなくて、丁寧なんだと思う」


「丁寧?」


「凪の話、いつも時間かけてるだけあって、細かいところまで考えてあるでしょ」


凪は、その言葉をすぐには受け止められなかった。



昼休みの後半、凪は一人で図書室へ向かった。


掲示板の前に立つ。


いつもの木箱。


『答えのない質問を入れてください』


掲示板には、見覚えのある文字があった。


『自分のペースを大事にしたいけれど、周りに置いていかれる不安が消えません。マイペースでいることは、逃げているだけですか』


凪は、その紙の前で長く立ち止まった。


「気になりますか」


カウンターにいた白石悠が声をかけた。


「これ、私が今、思ってることと同じです」


凪は、文芸部のことを話した。


部誌の締め切りが近いこと。


周りが何本も書き上げていること。


自分は、まだ一本も完成していないこと。


急ぐことが怖くて、でもそれが逃げなのか分からないこと。


悠は最後まで聞いた。


「小川さんは、なぜ時間をかけて書くんですか」


「急いで書くと、自分でも納得できない話になるからです」


「納得できない話は、書きたくないですか」


「書きたくないです」


「では、時間をかけることは、逃げるためではなく、納得するために必要な時間ではないですか」


凪は、少し考え込んだ。


「でも、締め切りには意味があります。間に合わなかったら、部誌に載せられません」


「載せることが、目的ですか」


凪は、答えに詰まった。


「小川さんにとって、書くことの目的は、部誌に載せることですか。それとも、自分が納得できる話を書くことですか」


「両方だと思ってました」


「両方が、いつも同じ時間で叶うとは限らないと思います」


凪は、その言葉を、頭の中で何度も繰り返した。



放課後、凪は文芸部室へ戻った。


乃々花が、原稿の最終確認をしていた。


「乃々花先輩」


「何」


「今回、私、間に合わないかもしれません」


「うん」


「でも、書くのをやめたいわけじゃないです」


「知ってる」


乃々花は、原稿から顔を上げた。


「部誌の締め切りに間に合わなかった人、今までにもいたよ」


「そうなんですか」


「去年の先輩で、一年かけて一本の話を仕上げた人がいた。部誌には一度も載らなかったけど、卒業するとき、その一本だけを、みんなに配ってた」


凪は、その話を初めて聞いた。


「その先輩、逃げてたと思う?」


「思いません」


「じゃあ、凪も同じじゃない」


凪は、少し安心した。


「でも、今回の締め切りに間に合わなかったら、部誌に何も出せません」


「一部でも、載せられるよ」


「一部?」


「今回だけ、完成した部分だけを載せる枠を作ろうと思ってた」


乃々花は、そう言って部誌の企画表を見せた。


「未完成作品コーナー」


という項目が、追加されていた。


「これ、いつから」


「今、決めた」


凪は、少し笑った。


「先輩、思いつきで動きますね」


「凪のために思いついたんだよ」


乃々花は、少し照れくさそうに言った。



その日の夜、凪は改めて『帰り道の途中に』の原稿と向き合った。


完成させることを、無理に急がなくてもいい。


その代わり、今の自分が納得できる分だけを、丁寧に仕上げよう。


凪は、最初の場面から、もう一度言葉を選び直した。


主人公が、いつもと違う道を選ぶ理由。


その道の先で、何を見るのか。


急がずに、けれど止まらずに、少しずつ書き進めた。



正門で、校長が門柱の上に座っていた。


「校長」


凪は近づいた。


猫は目を開けた。


「私、マイペースなの、逃げだと思ってた」


尻尾が動く。


「でも、逃げてるんじゃなくて、丁寧なんだって、言ってもらえた」


猫はあくびをした。


「あなたも、マイペースだよね」


校長は、答えずに、また目を細めた。


急かされることもなく、急ぐこともなく、ただそこにいる。


その姿が、今の凪には、少しだけ心強く見えた。



締め切りの前日。


凪は、原稿を完成させられなかった。


途中まで書けたところで、区切りをつけた。


完成した部分だけを、乃々花へ提出する。


「ここまで」


「うん」


「未完成作品コーナーに、載せてもらえますか」


「もちろん」


乃々花は、原稿を受け取った。


「凪の話、この先どうなるの」


「まだ、決めてません」


「決まったら、続き書く?」


「書きます。急がずに」


乃々花は頷いた。


「それでいいと思う」



放課後、凪はもう一度図書室へ寄った。


自分の質問への返事が増えていた。


『時間をかけることは、逃げるためではなく、納得するために必要な時間かもしれません』


『部誌に載せることと、自分が納得できる話を書くことは、いつも同じ時間で叶うとは限りません』


凪は最後の一枚を読んで、頷いた。


「今日、未完成のまま提出しました」


「どうでしたか」


「怖かったけど、逃げてはいないって思えました」


「良かったです」


凪は新しい付箋を取った。


『急いで書くことは、私にとって書くことの意味を薄くしてしまいます。時間をかけることは、逃げるためではなく、納得するために必要な時間でした。今回は未完成のまま提出しましたが、続きは急がずに書きます』


書いて、質問の下へ貼る。


「一ノ瀬さんも、これを読むかもしれません」


「絵と小説で、違うけどな」


「進む速さについての悩みは、共通しているかもしれません」


凪は頷いた。



その隣に、また新しい問いが貼られていた。


『未完成のまま人に見せるのが怖いです。完璧に仕上げてから見せたいのに、いつまでも完璧になりません。未完成を見せることは、失礼なことですか』


凪はその紙を見て、少し立ち止まった。


自分が今日、初めて経験したことと、近い問いだった。


「これ、書きますか」


悠が尋ねる。


「書けます」


「早いですね」


「これは、今日の自分の話だから」


凪は付箋を取った。


『未完成を見せるのは、私も怖かったです。でも、見せてみたら、待っていてくれる人がいました。完璧を待つより、今の形を見せる方が、誰かに届くこともあると思います』


書いて、質問の下へ貼る。


悠が、その付箋を読んで、少し微笑んだ。


「今日は、たくさん書きましたね」


「今日は、書きたいことが多かった」


凪は図書室を出た。


部室の方から、まだ誰かの原稿用紙をめくる音が聞こえていた。


速い人もいれば、遅い人もいる。


完成させる人もいれば、途中で置いていく人もいる。


それでも、みんなが、それぞれの速さで、何かを書き続けていた。



週末、部誌『青い栞』の最新号が完成した。


未完成作品コーナーには、凪の『帰り道の途中に』の冒頭部分が載っていた。


題名の下に、小さく一文が添えられている。


『この続きは、書けたときに』


乃々花が付け足した一文だった。


凪は、その部誌を、何度も読み返した。


完成していない話が、こうして誰かの手に渡る。


それは、凪にとって、初めての経験だった。



月曜日の朝。


凪が教室へ入ると、隣のクラスの生徒が声をかけてきた。


「小川さんだよね。部誌読んだよ。続き、楽しみにしてる」


凪は、少し驚いた。


「まだ、途中までしか書けてないんですけど」


「途中までで、もう気になる」


その一言が、凪の中に、あたたかく残った。


急がなくていい。


でも、待っていてくれる人がいる。


凪は、その両方を抱えたまま、今日も自分の速さで、次の一行を探し始めた。



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