第43話 小さく見える目標にも、届く先はある
早川直人には、ずっと一つだけの目標があった。
学校に戻ること。
入院していた二か月半、それだけを考えて過ごしてきた。
六月、少しずつ通学できるようになり、七月に入った今では、ほぼ毎日教室で授業を受けられるようになっていた。
目標は、叶った。
それなのに、直人は最近、朝起きるたびに、少しだけ胸の奥が重かった。
*
七月三日。
一年五組の教室。
中間試験の範囲表が配られた。
「早川、テスト、大丈夫か」
隣の席の男子が声をかける。
「分からない」
「入院してた分、範囲多いもんな」
「うん」
直人は、範囲表を見つめた。
数学、英語、国語、理科、社会。
どれも、教科書の半分近くを、まだ自分の力だけでは追いつけていなかった。
担任からは、
「無理のない範囲で、平均点を目指せばいい」
と言われていた。
平均点。
それが、今の自分の目標だった。
けれど、その言葉を聞くたびに、直人は少しだけ寂しくなった。
*
放課後、直人は保健室へ寄った。
体調確認のため、週に一度、養護教諭と話す時間を作ってもらっていた。
「最近、どう?」
「普通です」
「普通って?」
「学校には来られてます」
「うん」
「でも」
直人は言葉を探した。
「目標が、前より小さくなった気がします」
養護教諭は、優しく聞いていた。
「入院してたときは、学校に戻ることだけ考えてました。それが叶って、今は、平均点を取ることが目標です」
「それは、悪いことかな」
「悪くはないです。でも、前の目標より、大事に思えなくて」
「未練があるのかな。入院してたときの方が、目標が分かりやすかったから」
直人は、その言葉に少し考え込んだ。
*
教室に戻ると、クラスメイトの女子、高野千夏が声をかけてきた。
「早川くん、放送室行かない?」
「今日?」
「昔、放送で音を届けてもらったんでしょ。神谷さんたちに、お礼言いに行こうよ」
直人は少し驚いた。
「まだ言えてなかったな、ちゃんとは」
「じゃあ、行こう」
二人は放送室へ向かった。
*
放送室には、神谷玲奈と長谷川蒼太がいた。
「早川くん」
玲奈が顔を上げる。
「あのときの録音、まだ聞き返すことあります」
「本当?」
「学校の音、あれで初めて知ったので」
蒼太が、少し照れくさそうに言った。
「録音、役に立ちましたか」
「役に立った。本当にありがとう」
直人は頭を下げた。
玲奈が、少し嬉しそうな顔をした。
「今、学校生活はどうですか」
「毎日来られてる。でも」
「でも?」
「テストの目標が、平均点になって」
直人は、保健室で話したことを、また少し話した。
玲奈は、静かに聞いていた。
「私も、似たようなことがあった」
「玲奈先輩も?」
「放送で止まって、それから小さな目標ばかり立てるようになった。教室で一言話す、とか」
「それ、小さいですか」
「小さいと思ってた。でも、今は違う気がする」
「どう違うんですか」
「大きいか小さいかじゃなくて、届くかどうかが大事なんだと思う」
直人は、その言葉を頭の中で繰り返した。
*
放課後、直人は一人で図書室へ寄った。
まだ足を運んだことのない場所だった。
入口の木箱を見る。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、いくつもの問いが貼られている。
その中の一枚に、目が留まった。
『新しい目標を立てたのに、前の目標ほど本気になれません。前のものより小さく見えてしまいます。これは、前の目標に未練があるということですか』
直人は、その紙の前で立ち止まった。
「気になりますか」
カウンターにいた白石悠が声をかけた。
「これ、俺のことみたいだ」
直人は、自分のことを話した。
学校に戻ることを目標にしてきたこと。
今は、平均点を取ることが目標であること。
それが、前より小さく見えて、本気になれないこと。
悠は最後まで聞いた。
「早川さんにとって、学校に戻ることは、何のための目標でしたか」
「分かりません。ただ、戻りたかった」
「戻って、何がしたかったんですか」
直人は少し考えた。
「授業を受けたかった。友達と話したかった。普通に、一日を過ごしたかった」
「今、それはできていますか」
「できてます」
「では、目標は、まだ続いているのかもしれません」
直人は、その言葉に少し戸惑った。
「平均点を取ることも、その続きですか」
「授業を受け続けるために、必要なことではありませんか」
直人は、頷いた。
「大きい目標が終わって、小さい目標に変わったんじゃなくて」
「一つの目標が、形を変えて続いているのかもしれません」
直人は、その考え方を、初めて持てた気がした。
*
正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
直人は近づいた。
猫は目を開けた。
「あなたに会うのも、久しぶりだ」
入院中に聞いた録音の中で、初めて鳴き声を聞いた猫だった。
「あのとき、あなたの声、録音で聞いたよ」
尻尾が動く。
「今日は、直接聞けた」
校長は、直人の足元へ近づき、靴の匂いを嗅いだ。
「俺の目標、小さくなったのかなって思ってた」
猫はあくびをした。
「でも、今日、そうじゃないかもって言われた」
校長は、直人の足に頭をこすりつけた。
温かい重みが、足首に伝わった。
*
その夜、直人は自室の机で、数学の問題集を開いた。
平均点。
小さな目標だと思っていた。
けれど、今は少し違う気がした。
入院中、教科書を開くことすらできなかった日々があった。
あの頃の自分から見れば、今、問題集に向かえていること自体が、続きの一歩だった。
直人は、一問ずつ、丁寧に解いていった。
*
翌日の放課後、直人はもう一度図書室へ寄った。
付箋を一枚取る。
『学校に戻ることが目標だったとき、その先に、授業を受けること、友達と話すこと、普通の一日を過ごすことがありました。今の小さな目標は、その続きなんだと気づきました。大きさが変わったんじゃなくて、形が変わっただけかもしれません』
書いて、質問の下へ貼る。
「答え、見つかりましたか」
「見つかったっていうより、思い出した」
「何をですか」
「なんで戻りたかったのか」
悠は頷いた。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『前を向いて頑張っている人を見ると、自分だけ止まっている気がします。同じ時間を過ごしているはずなのに、差が開いていくのが怖いです』
直人はその紙を見て、少し考えた。
入院していた間、周りが前へ進んでいく感覚を、何度も味わった。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「書ける気がする」
「今、ですか」
「今しか書けない気がする」
直人は付箋を取った。
『差が開いていくのが怖い気持ち、分かります。でも、止まっていた時間も、無駄じゃなかったです。戻ってきてから、前より小さなことを、前より大事に思えるようになりました』
書いて、質問の下へ貼る。
「早いですね」
「これは、自分が答えられることだったから」
直人は図書室を出た。
正門では、校長がまだ門柱の上にいた。
「また来る」
猫は答えなかった。
それでも、直人には、聞いてもらえた気がした。
*
教室に戻ると、千夏が待っていた。
「放送室、行ってきたね」
「うん。ありがとうって言えた」
「よかった」
「千夏、俺、目標のこと、少し分かった気がする」
「何それ、急に」
「大きい目標が終わったんじゃなくて、形が変わって続いてるだけなんだって」
「難しいこと言うね」
「自分でも、まだ全部は分かってない」
「でも、良い顔してる」
直人は、少し照れくさくなった。
「テスト、一緒に勉強する?」
「うん」
二人は、放課後の教室に残り、問題集を開いた。
窓の外では、夏の始まりを告げる蝉の声が、少しずつ大きくなっていた。




