第42話 行き先を失った音にも、鳴らす理由はある
西園寺真琴は、三年間、夏のコンクールを目標に音楽部を率いてきた。
一年生のとき、伴奏で舞台に立ち、頭が真っ白になって止まった。
それでも続けてきたのは、いつか自分の弾いた音を、誰かの心へ届けたいと思っていたからだった。
三年生の夏。
最後のコンクール。
その舞台が、直前になくなるとは、真琴は思ってもいなかった。
*
七月一日。
放課後の音楽室。
真琴は、部員たちを前に、顧問から聞いたばかりの話を伝えた。
「今年のコンクール、地区大会の会場が使えなくなった」
部員たちがざわめいた。
「会場の建物に、耐震の問題が見つかったらしい。急遽、閉鎖することになった」
「代わりの会場は」
小宮山鈴が尋ねた。
「探してるけど、この規模の会場を、あと二週間で見つけるのは難しいって、顧問の先生が言ってた」
「じゃあ、コンクール自体が」
「中止になるかもしれない」
部室が静まり返った。
三上ひなたが、震える声で言った。
「私たち、ずっとこれに向けて練習してきたのに」
「分かってる」
真琴は、それだけ言うのが精一杯だった。
*
その夜、真琴は自宅で、正式な連絡を受け取った。
地区大会は、今年に限り中止。
次のコンクールは、来年へ持ち越し。
三年生には、来年がない。
真琴は、その一文を、何度も読み返した。
三年間の練習。
夏休みも冬休みも返上して積み重ねてきた時間。
その全部が、行き先を失ったまま、宙に浮いてしまった気がした。
*
翌日、音楽室には、いつもより人が少なかった。
真琴が入ると、鈴とひなたが窓際で話していた。
「小宮山さん、三上さん」
「先輩」
二人は、真琴を見て、少し気まずそうな顔をした。
「昨日、あれから何人か辞めるかもって言ってました」
鈴が言った。
「辞める?」
「目標がなくなったなら、続ける意味がないって」
真琴は、その言葉に胸を突かれた。
「先輩は、どう思ってるんですか」
ひなたが尋ねる。
真琴は、すぐには答えられなかった。
*
昼休み、真琴は一人で図書室へ向かった。
目的があったわけではなかった。
ただ、誰にも会いたくなかった。
入口の木箱を見る。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、見覚えのある文字があった。
『大きな目標に向かって積み重ねてきましたが、その目標が急になくなってしまいました。積み重ねてきたものは、行き先を失うと、意味がなくなりますか』
真琴は、その紙の前で長く立ち止まった。
これは、田所という一年生が書いたものだと、噂で聞いたことがあった。
自分とは違う競技の話。
それでも、今の自分の状況と、あまりにも重なっていた。
「気になりますか」
カウンターにいた白石悠が声をかけた。
「これ、私のことみたい」
真琴は、コンクール中止のことを話した。
三年間の練習。
三年生には後がないこと。
部員が辞めるかもしれないこと。
悠は最後まで聞いた。
「西園寺さんは、何のために練習してきましたか」
「コンクールで結果を出すため」
「それだけですか」
真琴は、少し考えた。
「弾いた音を、誰かに届けるため」
「その目的は、コンクールがなくなったら、達成できませんか」
真琴は、はっとした。
「コンクールが、目的そのものだと思ってました」
「目的への道の一つが、なくなっただけかもしれません」
「でも、道がなくなったら、行けないでしょう」
「別の道を探すことはできますか」
真琴は、すぐには答えられなかった。
*
放課後、真琴は音楽室へ戻った。
三年生の部員たちが集まっていた。
「先輩、これからどうするんですか」
一年生の一人が尋ねる。
真琴は、少し息を吸った。
「今から、決めようと思う」
「決めるって?」
「コンクールがなくなっても、私たちが練習してきたものが消えるわけじゃない」
「でも、発表する場所がないんですよね」
「場所は、探せばあるかもしれない」
真琴は、部員たちを見渡した。
「文化祭は、まだ先だけど、そこで演奏することはできる」
「文化祭は、コンクールとは違います」
鈴が言った。
「違う。それは分かってる」
真琴は頷いた。
「でも、誰かに届けるという意味では、同じかもしれない」
「先輩は、それで納得できるんですか」
真琴は、正直に答えた。
「まだ納得できてない。悔しい」
部員たちが、真琴を見た。
「三年間、コンクールのために練習してきた。それがなくなって、悔しくないわけがない」
「じゃあ、どうして」
「悔しいのと、練習の意味がなくなることは、別だと思うから」
真琴は、悠の言葉を思い出しながら言った。
「目的への道の一つが、なくなっただけかもしれない」
*
その日の練習後、真琴は一人でグランドピアノの前に座った。
誰もいない音楽室。
窓の外は、夕方の光に染まっていた。
真琴は、コンクールの課題曲を、最初から弾き始めた。
誰に聞かせるためでもない。
ただ、指が覚えている音を、確かめたかった。
途中、扉が開く音がした。
振り返ると、鈴とひなたが立っていた。
「先輩」
「二人とも、まだいたのか」
「聞いてました」
鈴が言った。
「弾き終わるまで待ってたんです」
ひなたが続けた。
「私、辞めようか迷ってました」
「うん」
「でも、今の演奏聞いて、少し違う気がしました」
「どう違う?」
「先輩、悔しいはずなのに、ちゃんと弾いてました」
真琴は、鍵盤に手を置いたまま、少し笑った。
「悔しいまま弾いてもいいって、最近この学校で誰かに教えてもらった」
「誰にですか」
「図書室の白石くん」
「あそこの箱、みんな見てるんですね」
鈴が言う。
「私も最近見てる」
ひなたも頷いた。
「三上さんも、まだ悔しい?」
「悔しいです。でも、辞めるのはやめようと思います」
真琴は頷いた。
「文化祭、一緒にやろう」
「はい」
*
正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
真琴は近づいた。
猫は目を開けた。
「目標、なくなっちゃった」
尻尾が動く。
「悔しいよ、正直」
猫はあくびをした。
「でも、次の場所、探すことにした」
校長は門柱から降りて、真琴の足元を通り過ぎた。
まるで、次はどこへ行くのか、先に見に行くような足取りだった。
*
翌日、真琴は音楽部の全員に、文化祭での演奏会の企画を提案した。
顧問の許可を取り、体育館での特別演奏会という形が決まった。
三年生の引退までの残り時間で、新しい目標に向けて、部は動き出した。
真琴は、放課後、再び図書室へ寄った。
「答え、決まりました」
「書きますか」
真琴は付箋を取った。
『コンクールがなくなって、悔しい気持ちは消えませんでした。でも、練習してきたことが消えたわけではないと分かりました。目的への道の一つがなくなっただけで、別の道を探すことにしました』
書いて、質問の下へ貼る。
「田所さんも、これを読むかもしれません」
「陸上と音楽で、道は違うけどな」
「目標を失った経験は、共通しているかもしれません」
真琴は頷いた。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『新しい目標を立てたのに、前の目標ほど本気になれません。前のものより小さく見えてしまいます。これは、前の目標に未練があるということですか』
真琴はその紙を見て、少し立ち止まった。
文化祭の演奏会。
コンクールほどの緊張感は、まだ持てていなかった。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「今は、まだ」
「なぜですか」
「演奏会が終わってから、答えたい」
真琴は図書室を出た。
音楽室からは、まだ誰かの練習する音が聞こえていた。
新しい道を歩き始めたばかりの音は、まだ少し、迷いを含んでいた。
それでも、確かに鳴り続けていた。




