第41話 積み重ねた一秒にも、本番はある
田所陸は、決勝の朝、いつもより三十分早く目が覚めた。
理由は分かっていた。
怖いからだった。
*
六月二十九日。
地区大会二日目。
男子四百メートルリレー決勝。
競技場のスタンドには、予選のときよりも多くの人が集まっていた。
陸はアップシューズの紐を結びながら、何度も同じ場所を結び直していた。
「田所、紐、もうそれ以上締めても速くならないぞ」
松岡亮が声をかける。
「分かってる」
「顔、こわばってますよ」
「分かってるって」
陸は立ち上がり、軽くジャンプした。
足の感覚は、いつも通りだった。
それでも、胸の中だけが、いつもと違う速さで動いていた。
*
控えのテントで、新田先生がメンバーを集めた。
「予選と同じ並びでいく。木村、松岡、二階堂、田所」
二階堂ひかるは、少し青い顔をしていた。
「二階堂、大丈夫か」
新田が聞く。
「大丈夫です」
いつもの返事だった。
陸は、その返事の裏にあるものを、少しだけ想像できるようになっていた。
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招集場所へ向かう途中、陸はひかると並んで歩いた。
「怖いか」
「怖いです」
「俺も怖い」
ひかるが陸を見た。
「先輩でも?」
「今朝、いつもより三十分早く起きた」
「私も同じです」
二人は少し笑った。
「予選と同じことをすればいい。ただ、それだけだ」
陸は自分に言い聞かせるように言った。
「先輩、昨日、図書室の質問箱に書くって言ってましたよね」
「書く。決勝が終わったら」
「私も、書こうと思ってます」
「同じ質問に?」
「はい」
二人は、招集所の列に並んだ。
*
スターティングブロックに、第一走者の木村が構える。
陸は、第四コーナーの外側で、待機の姿勢を取った。
視界の端に、スタンドの色とりどりの応援旗が見える。
その中に、松岡亮の家族が持つ小さな旗も見えた。
新田先生が、コースの脇で静かに見守っている。
ピストルの音が響いた。
木村がスタートする。
最初の直線を、力強く駆け抜ける。
バトンが、松岡へ渡る。
わずかに乱れたが、落とさなかった。
松岡が全力で走る。
カーブを抜け、二階堂へ。
バトンが渡る瞬間、陸は息を止めた。
乱れなかった。
ひかるは、これまでで一番安定した受け渡しを見せた。
そのまま、ひかるが直線を走る。
自分に近づいてくる背中を、陸は見つめた。
残り数十メートル。
陸は、腕を後ろへ伸ばした。
振り返らない。
足音だけを頼りに、タイミングを合わせる。
「はい!」
ひかるの声が飛んだ。
バトンが、陸の手のひらに触れた。
握る。
落とさなかった。
陸は走り出した。
*
最後の直線。
隣のレーンの選手と、ほとんど並んでいた。
脚が重い。
それでも、止まらなかった。
ゴールライン。
陸は、身体を投げ出すようにテープを切った。
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結果は、僅差の二位だった。
優勝は逃したが、県大会への出場権を獲得する順位だった。
チーム全員が、トラック脇で抱き合った。
「やった!」
松岡が叫ぶ。
「二階堂、最後まで安定してた!」
「先輩たちのおかげです」
ひかるは涙をこらえながら言った。
「田所、良いフィニッシュだった」
新田が肩を叩く。
「はい」
陸は、まだ息が整わないまま答えた。
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競技場の帰り道、陸とひかるは並んで歩いた。
「先輩」
「何」
「積み重ねてきたこと、意味あったと思いますか」
陸は少し考えた。
「あった」
「本番の一瞬で、全部決まっちゃう気がしてました」
「一瞬で決まったのは、結果だけだと思う」
「結果だけ?」
「バトンを受け取れたのも、お前が渡すタイミングを合わせられたのも、全部、今までの練習の積み重ねだった」
ひかるは、その言葉を噛みしめるように聞いていた。
「本番って、練習の外側にあるものじゃなくて、練習の続きなのかもしれないな」
陸は、自分でも意外な言葉が口から出たことに少し驚いた。
「先輩、今の、いいこと言いましたね」
「柄じゃないけどな」
「メモしていいですか」
「やめろ」
二人は笑った。
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その日の夕方、陸は図書室へ向かった。
白石悠が、いつも通りカウンターにいた。
「決勝、どうでしたか」
「二位だった。県大会に行ける」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
陸は掲示板の前に立った。
『決勝という大きな舞台の前で、急に怖くなりました。今まで積み重ねてきたものが、本番の一瞬で崩れそうな気がします。積み重ねてきたことは、本当に本番でも意味を持ちますか』
昨日、決勝が終わってから書くと決めていた質問だった。
「今なら、書けそうですか」
「書ける」
陸は紙を取った。
『今日、決勝を走りました。バトンを受け取れたのも、渡すタイミングが合ったのも、全部これまでの練習の積み重ねでした。本番は、練習の外側にあるものじゃなくて、練習の続きなんだと思いました。積み重ねてきたことは、ちゃんと本番でも意味を持ちます』
書いて、質問の下へ貼る。
「良い答えですね」
「他人事みたいに言うなよ」
「私は走っていないので」
「それはそうだけど」
陸は少し笑った。
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正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
陸は近づいた。
猫は目を開けた。
「決勝、勝てた。二位だけど」
尻尾が動く。
「あんたには関係ないことだけどな」
猫は伸びをして、陸の足元へ近づいてきた。
珍しく、頭を陸の足へこすりつけた。
「何だよ、今日は機嫌いいな」
校長は、それだけしてまた門柱へ戻っていった。
陸は、少しだけ誇らしい気持ちになった。
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その夜、陸は帰宅してすぐ、小野寺航平にメッセージを送った。
『今日、決勝だった。二位だった』
すぐに返事が来る。
『おめでとう』
『お前に聞いた言葉、役に立った』
『どの言葉?』
『失敗しないことを信じるんじゃなくて、失敗しても立て直せることを信じるって話』
『それ、宮原に言われた言葉だから、俺の言葉じゃないけどな』
陸は少し笑った。
誰かの言葉が、別の誰かを通して、また別の誰かへ渡っていく。
この学校では、そういうことがよく起きているらしかった。
*
翌日、陸は図書室の掲示板をもう一度見た。
自分の付箋の下に、新しい返事が増えていた。
『本番は練習の外側ではなく、続きだという考え方、私も参考にします』
『積み重ねが意味を持つかどうかは、結果ではなく、そのときの自分に聞けば分かるのかもしれません』
陸は最後の一枚を読んで、少し考えた。
「これ、誰が書いたんだろう」
「分からないことにしています」
「毎回それだな」
「必要な決まりなので」
陸は苦笑した。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『大きな目標に向かって積み重ねてきましたが、その目標が急になくなってしまいました。積み重ねてきたものは、行き先を失うと、意味がなくなりますか』
陸はその紙を、長く見つめた。
目標がなくなる、という経験を、自分はまだしたことがなかった。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「今の俺には、まだ分からない」
「そうですか」
「でも、誰かには分かるはずだ」
陸は図書室を出た。
正門の向こうから、夏の匂いのする風が吹いていた。
目標を失った誰かが、今どこかで、その風を受けているのかもしれなかった。




