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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第41話 積み重ねた一秒にも、本番はある


田所陸は、決勝の朝、いつもより三十分早く目が覚めた。


理由は分かっていた。


怖いからだった。



六月二十九日。


地区大会二日目。


男子四百メートルリレー決勝。


競技場のスタンドには、予選のときよりも多くの人が集まっていた。


陸はアップシューズの紐を結びながら、何度も同じ場所を結び直していた。


「田所、紐、もうそれ以上締めても速くならないぞ」


松岡亮が声をかける。


「分かってる」


「顔、こわばってますよ」


「分かってるって」


陸は立ち上がり、軽くジャンプした。


足の感覚は、いつも通りだった。


それでも、胸の中だけが、いつもと違う速さで動いていた。



控えのテントで、新田先生がメンバーを集めた。


「予選と同じ並びでいく。木村、松岡、二階堂、田所」


二階堂ひかるは、少し青い顔をしていた。


「二階堂、大丈夫か」


新田が聞く。


「大丈夫です」


いつもの返事だった。


陸は、その返事の裏にあるものを、少しだけ想像できるようになっていた。



招集場所へ向かう途中、陸はひかると並んで歩いた。


「怖いか」


「怖いです」


「俺も怖い」


ひかるが陸を見た。


「先輩でも?」


「今朝、いつもより三十分早く起きた」


「私も同じです」


二人は少し笑った。


「予選と同じことをすればいい。ただ、それだけだ」


陸は自分に言い聞かせるように言った。


「先輩、昨日、図書室の質問箱に書くって言ってましたよね」


「書く。決勝が終わったら」


「私も、書こうと思ってます」


「同じ質問に?」


「はい」


二人は、招集所の列に並んだ。



スターティングブロックに、第一走者の木村が構える。


陸は、第四コーナーの外側で、待機の姿勢を取った。


視界の端に、スタンドの色とりどりの応援旗が見える。


その中に、松岡亮の家族が持つ小さな旗も見えた。


新田先生が、コースの脇で静かに見守っている。


ピストルの音が響いた。


木村がスタートする。


最初の直線を、力強く駆け抜ける。


バトンが、松岡へ渡る。


わずかに乱れたが、落とさなかった。


松岡が全力で走る。


カーブを抜け、二階堂へ。


バトンが渡る瞬間、陸は息を止めた。


乱れなかった。


ひかるは、これまでで一番安定した受け渡しを見せた。


そのまま、ひかるが直線を走る。


自分に近づいてくる背中を、陸は見つめた。


残り数十メートル。


陸は、腕を後ろへ伸ばした。


振り返らない。


足音だけを頼りに、タイミングを合わせる。


「はい!」


ひかるの声が飛んだ。


バトンが、陸の手のひらに触れた。


握る。


落とさなかった。


陸は走り出した。



最後の直線。


隣のレーンの選手と、ほとんど並んでいた。


脚が重い。


それでも、止まらなかった。


ゴールライン。


陸は、身体を投げ出すようにテープを切った。



結果は、僅差の二位だった。


優勝は逃したが、県大会への出場権を獲得する順位だった。


チーム全員が、トラック脇で抱き合った。


「やった!」


松岡が叫ぶ。


「二階堂、最後まで安定してた!」


「先輩たちのおかげです」


ひかるは涙をこらえながら言った。


「田所、良いフィニッシュだった」


新田が肩を叩く。


「はい」


陸は、まだ息が整わないまま答えた。



競技場の帰り道、陸とひかるは並んで歩いた。


「先輩」


「何」


「積み重ねてきたこと、意味あったと思いますか」


陸は少し考えた。


「あった」


「本番の一瞬で、全部決まっちゃう気がしてました」


「一瞬で決まったのは、結果だけだと思う」


「結果だけ?」


「バトンを受け取れたのも、お前が渡すタイミングを合わせられたのも、全部、今までの練習の積み重ねだった」


ひかるは、その言葉を噛みしめるように聞いていた。


「本番って、練習の外側にあるものじゃなくて、練習の続きなのかもしれないな」


陸は、自分でも意外な言葉が口から出たことに少し驚いた。


「先輩、今の、いいこと言いましたね」


「柄じゃないけどな」


「メモしていいですか」


「やめろ」


二人は笑った。



その日の夕方、陸は図書室へ向かった。


白石悠が、いつも通りカウンターにいた。


「決勝、どうでしたか」


「二位だった。県大会に行ける」


「おめでとうございます」


「ありがとう」


陸は掲示板の前に立った。


『決勝という大きな舞台の前で、急に怖くなりました。今まで積み重ねてきたものが、本番の一瞬で崩れそうな気がします。積み重ねてきたことは、本当に本番でも意味を持ちますか』


昨日、決勝が終わってから書くと決めていた質問だった。


「今なら、書けそうですか」


「書ける」


陸は紙を取った。


『今日、決勝を走りました。バトンを受け取れたのも、渡すタイミングが合ったのも、全部これまでの練習の積み重ねでした。本番は、練習の外側にあるものじゃなくて、練習の続きなんだと思いました。積み重ねてきたことは、ちゃんと本番でも意味を持ちます』


書いて、質問の下へ貼る。


「良い答えですね」


「他人事みたいに言うなよ」


「私は走っていないので」


「それはそうだけど」


陸は少し笑った。



正門で、校長が門柱の上に座っていた。


「校長」


陸は近づいた。


猫は目を開けた。


「決勝、勝てた。二位だけど」


尻尾が動く。


「あんたには関係ないことだけどな」


猫は伸びをして、陸の足元へ近づいてきた。


珍しく、頭を陸の足へこすりつけた。


「何だよ、今日は機嫌いいな」


校長は、それだけしてまた門柱へ戻っていった。


陸は、少しだけ誇らしい気持ちになった。



その夜、陸は帰宅してすぐ、小野寺航平にメッセージを送った。


『今日、決勝だった。二位だった』


すぐに返事が来る。


『おめでとう』


『お前に聞いた言葉、役に立った』


『どの言葉?』


『失敗しないことを信じるんじゃなくて、失敗しても立て直せることを信じるって話』


『それ、宮原に言われた言葉だから、俺の言葉じゃないけどな』


陸は少し笑った。


誰かの言葉が、別の誰かを通して、また別の誰かへ渡っていく。


この学校では、そういうことがよく起きているらしかった。



翌日、陸は図書室の掲示板をもう一度見た。


自分の付箋の下に、新しい返事が増えていた。


『本番は練習の外側ではなく、続きだという考え方、私も参考にします』


『積み重ねが意味を持つかどうかは、結果ではなく、そのときの自分に聞けば分かるのかもしれません』


陸は最後の一枚を読んで、少し考えた。


「これ、誰が書いたんだろう」


「分からないことにしています」


「毎回それだな」


「必要な決まりなので」


陸は苦笑した。



その隣に、また新しい問いが貼られていた。


『大きな目標に向かって積み重ねてきましたが、その目標が急になくなってしまいました。積み重ねてきたものは、行き先を失うと、意味がなくなりますか』


陸はその紙を、長く見つめた。


目標がなくなる、という経験を、自分はまだしたことがなかった。


「これ、書きますか」


悠が尋ねる。


「今の俺には、まだ分からない」


「そうですか」


「でも、誰かには分かるはずだ」


陸は図書室を出た。


正門の向こうから、夏の匂いのする風が吹いていた。


目標を失った誰かが、今どこかで、その風を受けているのかもしれなかった。



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