第40話 もう一度信じることにも、練習はいる
田所陸は、走ることに関しては、迷わない性格だと自分では思っていた。
スタートラインに立てば、あとは前を見るだけ。
過去の失敗も、次の一本には関係ない。
そう信じてきた。
けれど、六月も終わりに近づいたその日、陸は珍しく、スタートラインの前で足が止まった。
*
六月二十日。
陸上部の掲示板に、地区大会の出場メンバーが貼り出された。
男子四百メートルリレー。
第一走者、木村。
第二走者、松岡。
第三走者、二階堂。
アンカー、田所。
メンバー表を見た瞬間、陸の胸がざわついた。
二階堂ひかるの名前が、そこにあった。
「先輩」
背後から声がした。
振り返ると、松岡亮が立っていた。
「二階堂、本番でも大丈夫かな」
「新田先生が決めたことだろ」
「うん。でも、最近まだ落とすこと、あるし」
亮の言葉に、陸は答えられなかった。
二階堂ひかるが、六月に入ってから何度もバトンを落としてきたことを、陸はよく知っていた。
図書室の質問箱に相談を書いていたことも、伝え聞いていた。
落とす回数は、確かに減ってきている。
それでも、地区大会という本番で、完全に大丈夫だとは言い切れなかった。
*
放課後の朝練でも、練習は続いた。
バトンパスの反復練習。
二階堂から陸へのバトンは、これまでで一番安定していた。
「今の、良かったです」
ひかるが少し息を切らしながら言う。
「うん」
陸は短く答えた。
もう一本、練習する。
今度は、受け渡しのタイミングがわずかにずれた。
バトンが、地面すれすれで陸の手に触れる。
「ごめんなさい」
「大丈夫、取れた」
陸はそう言いながら、内心で少し冷や汗をかいていた。
本番では、この一瞬のずれが命取りになる。
*
その日の夕方、新田先生が部員全員を集めた。
「地区大会まで、あと十日だ。メンバーに変更の希望がある者は、今週中に言え」
部員たちの視線が、一瞬だけ陸とひかるの方へ動いた。
誰も口には出さなかった。
けれど、陸には、その視線の意味が分かった。
*
練習後、陸は一人でグラウンドに残り、ボールならぬバトンを手にしたまま座り込んでいた。
夕方の光が、トラックを橙色に染めている。
「田所」
新田が近づいてきた。
「はい」
「何か、迷ってるだろう」
「別に」
「顔に出てるぞ」
陸は少し黙ったあと、口を開いた。
「二階堂で、本当に大丈夫ですか」
「お前が決めることじゃない」
「でも、アンカーは俺です。バトンを受け取れなかったら、俺のせいにもなる」
新田は、その言葉を静かに聞いていた。
「田所、お前は去年、宮原颯という中学の友人の話をしたことがあったな」
急に別の名前が出て、陸は少し驚いた。
「小野寺の話、聞いたんですか」
「小野寺から聞いた。パスを出した相手を、最後まで信じられなかった話」
陸は頷いた。
サッカー部の小野寺航平が、中学時代の友人へパスを出したことを、ずっと後悔していた話。
あの話は、陸上部内でも少しだけ知られていた。
「あのとき、田所はどう思った」
「小野寺は、パスを出したことを後悔してないって言ってました。でも、外した相手を一人にしたことを後悔してたって」
「今のお前と、似てないか」
陸は言葉に詰まった。
「二階堂を信じるかどうかじゃなくて、本番で落とされたときに、二階堂を一人にするかどうかの話かもしれないな」
新田はそれだけ言って、グラウンドを離れていった。
*
その夜、陸は自室でスマートフォンを開いた。
小野寺航平とのメッセージ履歴を探す。
直接話したことは、それほど多くない。
けれど、サッカー部と陸上部は同じグラウンドを使うことがあり、顔見知りではあった。
『急にごめん。少し聞きたいことがある』
送ると、意外にもすぐ返事が来た。
『何?』
『パスを出した相手を、もう一回信じられなかった話、覚えてる?』
『覚えてる』
『どうやって、また信じられるようになった?』
少し間があった。
『信じるっていうか、失敗するかもしれないって分かった上で、渡すことにした』
『それだと、信じてないのと同じじゃないか?』
『違うと思う。失敗しないって信じるんじゃなくて、失敗しても、また立て直せるって信じることにした』
陸は、その言葉を何度も読み返した。
失敗しないと信じることと、失敗しても立て直せると信じること。
自分は、前者ばかりを求めていたのかもしれない。
*
翌日の放課後、陸は図書室へ向かった。
目的があったわけではなかったが、足が自然にそちらへ向いた。
入口の木箱を見る。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、見覚えのある文字があった。
『一度失敗した相手に、もう一度大事なことを任せるのは、怖いです。信じたい気持ちと、怖い気持ちが両方あって、どちらを選べばいいか分かりません』
陸は、その紙の前で長く立ち止まった。
「気になりますか」
カウンターにいた白石悠が声をかけた。
「これ、俺のことみたいだ」
陸は、リレーのメンバー表のことを話した。
二階堂ひかるが本番のメンバーに入っていること。
自分がアンカーであること。
本番で落とされたら、という不安が消えないこと。
悠は最後まで聞いた。
「田所さんは、二階堂さんの練習を見てきましたか」
「見てきた。落とす回数は、確かに減ってる」
「では、何が怖いんですか」
「本番で、また落とすかもしれないってことが」
「本番で誰も失敗しない保証は、そもそもありますか」
陸は少し黙った。
「ないと思う」
「では、田所さんが本当に怖いのは、二階堂さんの失敗そのものではないのかもしれません」
「じゃあ、何が怖いんだ」
「失敗したときに、自分がどう対応できるか、分からないことかもしれません」
陸は、その言葉に胸を突かれた。
小野寺の言葉を思い出す。
失敗しても、また立て直せると信じること。
「俺、二階堂が落とすことより、落としたときに自分が何もできないんじゃないかって、怖かったのかもしれない」
「今、それに気づけたのは、大きいと思います」
陸は、少し息を吐いた。
*
正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
陸は近づいた。
猫は目を開けた。
「俺、二階堂のこと、信じきれてなかった」
尻尾が動く。
「でも、信じられないのは、二階堂のせいじゃなくて、俺が怖がってただけかもしれない」
猫はあくびをした。
「あんたは、誰かにバトン渡したことあるのか」
校長は答えない。
「まあ、猫だしな」
陸は苦笑して、正門を出た。
*
翌朝の朝練。
陸は、練習前にひかるを呼んだ。
「二階堂」
「はい」
「本番、お前がアンカーに渡す番だ」
「分かってます」
「もし、また落としたら」
ひかるの顔が少し強張った。
「そのときは、俺がすぐ拾って走る。だから、渡すことだけ考えろ」
ひかるは、少し驚いた顔をした。
「先輩、私のこと、信じてないんじゃないんですか」
「信じてないわけじゃない。でも、絶対に落とさないって信じてるわけでもない」
「じゃあ、何を信じてるんですか」
「落としても、俺たちがちゃんと拾えるってことを信じてる」
ひかるは、その言葉を静かに聞いていた。
「怖くないですか、それ」
「怖い。正直、まだ怖い」
陸は正直に言った。
「でも、怖いまま渡すのと、渡さないのは違うだろ」
ひかるは頷いた。
「今日も、練習していいですか」
「もちろん」
二人は、バトンパスの練習を繰り返した。
何度か、受け渡しが乱れた。
それでも、その都度、二人で立て直した。
*
地区大会まで、残り一週間。
毎日の練習の中で、陸は少しずつ、自分の中の恐れの正体を確かめていった。
落とすかもしれない、という不安は消えなかった。
けれど、落としたときにどうするか、という準備は、少しずつできるようになっていった。
ある日の練習後、松岡亮が声をかけてきた。
「田所、最近、二階堂への態度、変わりましたね」
「そうか?」
「前は、なんか監視してるみたいな感じだったのに、今は普通に見てます」
「監視は言い過ぎだろ」
「でも、少し怖がってましたよね」
陸は苦笑した。
「バレてたか」
「バレバレでしたよ」
亮も笑った。
「俺も、記録が地味だって悩んでたとき、田所が普通に見ててくれたから、少し楽になったんです」
「そうだったか」
「今度は、田所が見てもらう番かもしれないですね」
陸は、その言葉を胸に留めた。
*
放課後、陸はもう一度図書室へ寄った。
自分の質問への返事が増えていた。
『失敗しないことを信じるのではなく、失敗しても立て直せることを信じる方法もあります』
『怖い気持ちを消してから任せるのではなく、怖いまま任せることもできます』
陸は最後の一枚を読んで、頷いた。
「今日、二階堂にちゃんと言いました」
「何をですか」
「落としても、俺が拾うって」
「二階堂さんは、どう言いましたか」
「怖くないですかって聞かれた。怖いって答えた」
「それでも、任せたんですね」
「うん」
陸は新しい付箋を取った。
『信じられないのは、相手の失敗ではなく、失敗したときの自分の対応が分からないからだと気づきました。失敗しないことを信じるのではなく、失敗しても立て直せることを信じることにしました。まだ怖いですが、怖いまま渡すことにします』
書いて、質問の下へ貼る。
「長くなりましたね」
「いいだろ、それくらい」
「以前も、誰かが同じことを言っていました」
「みんな似てくるんだな、この箱に書いてると」
「それとも、もともと似たことで悩んでいるのかもしれません」
陸は、その言葉に少し考え込んだ。
*
地区大会当日。
男子四百メートルリレー予選。
第一走者の木村から、第二走者の松岡へ。
松岡から、第三走者の二階堂へ。
バトンは、これまでの練習通り、スムーズに渡った。
二階堂からアンカーの陸へ。
そのときだった。
わずかに、渡すタイミングがずれた。
バトンが、陸の手のひらから少しだけ外れかけた。
けれど、陸はその瞬間、慌てなかった。
落ちる前に、指先で押さえ込む。
握り直す。
走り出す。
ゴールまで、全力で駆け抜けた。
*
結果は、自己ベストにわずかに及ばなかったものの、決勝進出を決める順位だった。
ゴール後、ひかるが真っ先に駆け寄ってきた。
「先輩、さっき」
「大丈夫。取れた」
「本当にすみません、また少しずれて」
「拾えただろ」
陸は笑った。
「それでいいんだよ」
ひかるの目に、涙が浮かんでいた。
「私、ずっと、みんなに迷惑かけてるって思ってました」
「今日、迷惑かけたか?」
「かけました。ちょっとだけ」
「ちょっとだけなら、いいだろ」
ひかるは、声を出して笑った。
その笑い方は、陸が初めて見るものだった。
*
大会後、陸は帰り道に図書室へ寄った。
閉館間際の時間だったが、白石悠がまだいた。
「大会、どうでしたか」
「決勝進出できた」
「バトンは?」
「少しずれた。でも、拾えた」
陸は少し誇らしげに言った。
「怖いまま渡して、良かったです」
「怖さは、消えましたか」
「消えてない。でも、消えなくても大丈夫だって分かった」
悠は頷いた。
「良い大会でしたね」
「決勝も、応援に来てくれよ」
「本を読みながらでもいいですか」
「それ、応援になってるのか」
「なっていると思います」
陸は少し笑った。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『決勝という大きな舞台の前で、急に怖くなりました。今まで積み重ねてきたものが、本番の一瞬で崩れそうな気がします。積み重ねてきたことは、本当に本番でも意味を持ちますか』
陸はその紙を見て、少し立ち止まった。
まだ決勝は先だった。
自分自身も、その問いと無関係ではないと分かっていた。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「決勝が終わってから、書く」
「なぜですか」
「今の答えは、まだ本番前の答えだから」
陸は図書室を出た。
グラウンドの方から、まだ誰かが走る足音が聞こえていた。
積み重ねてきたものが、本番の一瞬でどう形になるのか。
それを知っている人間は、この学校のどこにも、まだいなかった。




