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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第40話 もう一度信じることにも、練習はいる


田所陸は、走ることに関しては、迷わない性格だと自分では思っていた。


スタートラインに立てば、あとは前を見るだけ。


過去の失敗も、次の一本には関係ない。


そう信じてきた。


けれど、六月も終わりに近づいたその日、陸は珍しく、スタートラインの前で足が止まった。



六月二十日。


陸上部の掲示板に、地区大会の出場メンバーが貼り出された。


男子四百メートルリレー。


第一走者、木村。

第二走者、松岡。

第三走者、二階堂。

アンカー、田所。


メンバー表を見た瞬間、陸の胸がざわついた。


二階堂ひかるの名前が、そこにあった。


「先輩」


背後から声がした。


振り返ると、松岡亮が立っていた。


「二階堂、本番でも大丈夫かな」


「新田先生が決めたことだろ」


「うん。でも、最近まだ落とすこと、あるし」


亮の言葉に、陸は答えられなかった。


二階堂ひかるが、六月に入ってから何度もバトンを落としてきたことを、陸はよく知っていた。


図書室の質問箱に相談を書いていたことも、伝え聞いていた。


落とす回数は、確かに減ってきている。


それでも、地区大会という本番で、完全に大丈夫だとは言い切れなかった。



放課後の朝練でも、練習は続いた。


バトンパスの反復練習。


二階堂から陸へのバトンは、これまでで一番安定していた。


「今の、良かったです」


ひかるが少し息を切らしながら言う。


「うん」


陸は短く答えた。


もう一本、練習する。


今度は、受け渡しのタイミングがわずかにずれた。


バトンが、地面すれすれで陸の手に触れる。


「ごめんなさい」


「大丈夫、取れた」


陸はそう言いながら、内心で少し冷や汗をかいていた。


本番では、この一瞬のずれが命取りになる。



その日の夕方、新田先生が部員全員を集めた。


「地区大会まで、あと十日だ。メンバーに変更の希望がある者は、今週中に言え」


部員たちの視線が、一瞬だけ陸とひかるの方へ動いた。


誰も口には出さなかった。


けれど、陸には、その視線の意味が分かった。



練習後、陸は一人でグラウンドに残り、ボールならぬバトンを手にしたまま座り込んでいた。


夕方の光が、トラックを橙色に染めている。


「田所」


新田が近づいてきた。


「はい」


「何か、迷ってるだろう」


「別に」


「顔に出てるぞ」


陸は少し黙ったあと、口を開いた。


「二階堂で、本当に大丈夫ですか」


「お前が決めることじゃない」


「でも、アンカーは俺です。バトンを受け取れなかったら、俺のせいにもなる」


新田は、その言葉を静かに聞いていた。


「田所、お前は去年、宮原颯という中学の友人の話をしたことがあったな」


急に別の名前が出て、陸は少し驚いた。


「小野寺の話、聞いたんですか」


「小野寺から聞いた。パスを出した相手を、最後まで信じられなかった話」


陸は頷いた。


サッカー部の小野寺航平が、中学時代の友人へパスを出したことを、ずっと後悔していた話。


あの話は、陸上部内でも少しだけ知られていた。


「あのとき、田所はどう思った」


「小野寺は、パスを出したことを後悔してないって言ってました。でも、外した相手を一人にしたことを後悔してたって」


「今のお前と、似てないか」


陸は言葉に詰まった。


「二階堂を信じるかどうかじゃなくて、本番で落とされたときに、二階堂を一人にするかどうかの話かもしれないな」


新田はそれだけ言って、グラウンドを離れていった。



その夜、陸は自室でスマートフォンを開いた。


小野寺航平とのメッセージ履歴を探す。


直接話したことは、それほど多くない。


けれど、サッカー部と陸上部は同じグラウンドを使うことがあり、顔見知りではあった。


『急にごめん。少し聞きたいことがある』


送ると、意外にもすぐ返事が来た。


『何?』


『パスを出した相手を、もう一回信じられなかった話、覚えてる?』


『覚えてる』


『どうやって、また信じられるようになった?』


少し間があった。


『信じるっていうか、失敗するかもしれないって分かった上で、渡すことにした』


『それだと、信じてないのと同じじゃないか?』


『違うと思う。失敗しないって信じるんじゃなくて、失敗しても、また立て直せるって信じることにした』


陸は、その言葉を何度も読み返した。


失敗しないと信じることと、失敗しても立て直せると信じること。


自分は、前者ばかりを求めていたのかもしれない。



翌日の放課後、陸は図書室へ向かった。


目的があったわけではなかったが、足が自然にそちらへ向いた。


入口の木箱を見る。


『答えのない質問を入れてください』


掲示板には、見覚えのある文字があった。


『一度失敗した相手に、もう一度大事なことを任せるのは、怖いです。信じたい気持ちと、怖い気持ちが両方あって、どちらを選べばいいか分かりません』


陸は、その紙の前で長く立ち止まった。


「気になりますか」


カウンターにいた白石悠が声をかけた。


「これ、俺のことみたいだ」


陸は、リレーのメンバー表のことを話した。


二階堂ひかるが本番のメンバーに入っていること。

自分がアンカーであること。

本番で落とされたら、という不安が消えないこと。


悠は最後まで聞いた。


「田所さんは、二階堂さんの練習を見てきましたか」


「見てきた。落とす回数は、確かに減ってる」


「では、何が怖いんですか」


「本番で、また落とすかもしれないってことが」


「本番で誰も失敗しない保証は、そもそもありますか」


陸は少し黙った。


「ないと思う」


「では、田所さんが本当に怖いのは、二階堂さんの失敗そのものではないのかもしれません」


「じゃあ、何が怖いんだ」


「失敗したときに、自分がどう対応できるか、分からないことかもしれません」


陸は、その言葉に胸を突かれた。


小野寺の言葉を思い出す。


失敗しても、また立て直せると信じること。


「俺、二階堂が落とすことより、落としたときに自分が何もできないんじゃないかって、怖かったのかもしれない」


「今、それに気づけたのは、大きいと思います」


陸は、少し息を吐いた。



正門で、校長が門柱の上に座っていた。


「校長」


陸は近づいた。


猫は目を開けた。


「俺、二階堂のこと、信じきれてなかった」


尻尾が動く。


「でも、信じられないのは、二階堂のせいじゃなくて、俺が怖がってただけかもしれない」


猫はあくびをした。


「あんたは、誰かにバトン渡したことあるのか」


校長は答えない。


「まあ、猫だしな」


陸は苦笑して、正門を出た。



翌朝の朝練。


陸は、練習前にひかるを呼んだ。


「二階堂」


「はい」


「本番、お前がアンカーに渡す番だ」


「分かってます」


「もし、また落としたら」


ひかるの顔が少し強張った。


「そのときは、俺がすぐ拾って走る。だから、渡すことだけ考えろ」


ひかるは、少し驚いた顔をした。


「先輩、私のこと、信じてないんじゃないんですか」


「信じてないわけじゃない。でも、絶対に落とさないって信じてるわけでもない」


「じゃあ、何を信じてるんですか」


「落としても、俺たちがちゃんと拾えるってことを信じてる」


ひかるは、その言葉を静かに聞いていた。


「怖くないですか、それ」


「怖い。正直、まだ怖い」


陸は正直に言った。


「でも、怖いまま渡すのと、渡さないのは違うだろ」


ひかるは頷いた。


「今日も、練習していいですか」


「もちろん」


二人は、バトンパスの練習を繰り返した。


何度か、受け渡しが乱れた。


それでも、その都度、二人で立て直した。



地区大会まで、残り一週間。


毎日の練習の中で、陸は少しずつ、自分の中の恐れの正体を確かめていった。


落とすかもしれない、という不安は消えなかった。


けれど、落としたときにどうするか、という準備は、少しずつできるようになっていった。


ある日の練習後、松岡亮が声をかけてきた。


「田所、最近、二階堂への態度、変わりましたね」


「そうか?」


「前は、なんか監視してるみたいな感じだったのに、今は普通に見てます」


「監視は言い過ぎだろ」


「でも、少し怖がってましたよね」


陸は苦笑した。


「バレてたか」


「バレバレでしたよ」


亮も笑った。


「俺も、記録が地味だって悩んでたとき、田所が普通に見ててくれたから、少し楽になったんです」


「そうだったか」


「今度は、田所が見てもらう番かもしれないですね」


陸は、その言葉を胸に留めた。



放課後、陸はもう一度図書室へ寄った。


自分の質問への返事が増えていた。


『失敗しないことを信じるのではなく、失敗しても立て直せることを信じる方法もあります』


『怖い気持ちを消してから任せるのではなく、怖いまま任せることもできます』


陸は最後の一枚を読んで、頷いた。


「今日、二階堂にちゃんと言いました」


「何をですか」


「落としても、俺が拾うって」


「二階堂さんは、どう言いましたか」


「怖くないですかって聞かれた。怖いって答えた」


「それでも、任せたんですね」


「うん」


陸は新しい付箋を取った。


『信じられないのは、相手の失敗ではなく、失敗したときの自分の対応が分からないからだと気づきました。失敗しないことを信じるのではなく、失敗しても立て直せることを信じることにしました。まだ怖いですが、怖いまま渡すことにします』


書いて、質問の下へ貼る。


「長くなりましたね」


「いいだろ、それくらい」


「以前も、誰かが同じことを言っていました」


「みんな似てくるんだな、この箱に書いてると」


「それとも、もともと似たことで悩んでいるのかもしれません」


陸は、その言葉に少し考え込んだ。



地区大会当日。


男子四百メートルリレー予選。


第一走者の木村から、第二走者の松岡へ。


松岡から、第三走者の二階堂へ。


バトンは、これまでの練習通り、スムーズに渡った。


二階堂からアンカーの陸へ。


そのときだった。


わずかに、渡すタイミングがずれた。


バトンが、陸の手のひらから少しだけ外れかけた。


けれど、陸はその瞬間、慌てなかった。


落ちる前に、指先で押さえ込む。


握り直す。


走り出す。


ゴールまで、全力で駆け抜けた。



結果は、自己ベストにわずかに及ばなかったものの、決勝進出を決める順位だった。


ゴール後、ひかるが真っ先に駆け寄ってきた。


「先輩、さっき」


「大丈夫。取れた」


「本当にすみません、また少しずれて」


「拾えただろ」


陸は笑った。


「それでいいんだよ」


ひかるの目に、涙が浮かんでいた。


「私、ずっと、みんなに迷惑かけてるって思ってました」


「今日、迷惑かけたか?」


「かけました。ちょっとだけ」


「ちょっとだけなら、いいだろ」


ひかるは、声を出して笑った。


その笑い方は、陸が初めて見るものだった。



大会後、陸は帰り道に図書室へ寄った。


閉館間際の時間だったが、白石悠がまだいた。


「大会、どうでしたか」


「決勝進出できた」


「バトンは?」


「少しずれた。でも、拾えた」


陸は少し誇らしげに言った。


「怖いまま渡して、良かったです」


「怖さは、消えましたか」


「消えてない。でも、消えなくても大丈夫だって分かった」


悠は頷いた。


「良い大会でしたね」


「決勝も、応援に来てくれよ」


「本を読みながらでもいいですか」


「それ、応援になってるのか」


「なっていると思います」


陸は少し笑った。



その隣に、また新しい問いが貼られていた。


『決勝という大きな舞台の前で、急に怖くなりました。今まで積み重ねてきたものが、本番の一瞬で崩れそうな気がします。積み重ねてきたことは、本当に本番でも意味を持ちますか』


陸はその紙を見て、少し立ち止まった。


まだ決勝は先だった。


自分自身も、その問いと無関係ではないと分かっていた。


「これ、書きますか」


悠が尋ねる。


「決勝が終わってから、書く」


「なぜですか」


「今の答えは、まだ本番前の答えだから」


陸は図書室を出た。


グラウンドの方から、まだ誰かが走る足音が聞こえていた。


積み重ねてきたものが、本番の一瞬でどう形になるのか。


それを知っている人間は、この学校のどこにも、まだいなかった。



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