第39話 任せて崩れたものにも、次の形はある
篠原澪には、中学三年生の文化祭で、二度と忘れられない失敗がある。
澪は当時、文化祭実行委員の副委員長だった。
クラスの出し物とは別に、実行委員会全体で校門に掲げる大きな看板を作ることになっていた。
澪は、その制作を一年下の後輩に任せた。
絵が得意で、やる気もある後輩だった。
任せることで、その子の力を伸ばしたいという気持ちも、確かにあった。
「頼んだよ」
そう言って、澪はほかの仕事に取りかかった。
完成予定日の前日、看板はまだ半分もできていなかった。
後輩は、色の配分で何度も悩み、途中で全部塗り直していた。
誰にも相談できず、一人で抱え込んでいた。
澪が気づいたときには、もう間に合わなかった。
文化祭当日、校門に掲げられた看板は、下半分が真っ白のままだった。
実行委員長には、澪が謝った。
後輩は、それから文化祭実行委員を辞めた。
澪自身は責められなかった。
けれど、その日から澪は決めた。
大事なことは、自分でやる。
人に任せて失敗が起きるくらいなら、多少無理をしてでも、自分で最後まで見届ける。
高校で生徒会の書記になったときも、澪はその考え方を変えなかった。
六月に入るまでは。
*
六月十五日。
放課後の生徒会室。
青葉ヶ丘高校生徒会は、来月の中間試験期間に配る「学習アドバイス冊子」の準備をしていた。
各教科の先輩からのコメントを集め、印刷して全校生徒に配る、毎年恒例の企画だった。
澪は、今年から新しく入った一年生の庶務、桑田陽菜に、印刷部数の管理を任せることにした。
「桑田さん、これ、お願いできる?」
澪は資料を渡した。
「各学年の人数分プラス予備で、二十部くらい多めに刷ってほしいの」
「分かりました」
桑田は緊張した様子で頷いた。
入学してまだ二か月。
生徒会の仕事にも、少しずつ慣れてきたところだった。
「分からないことがあったら、いつでも聞いて」
「はい」
澱みなく頼んでいる自分に、澪は少しだけ違和感を覚えた。
本当は、印刷の発注くらい、自分でやってしまいたかった。
けれど、生徒会長からも言われていた。
「篠原、そろそろ後輩に仕事を回していかないと、来年困るぞ」
その言葉が、澪の背中を押していた。
*
配布予定日の前日。
澪は職員室へ寄ってから生徒会室に戻ると、桑田が青い顔をして立っていた。
「篠原先輩」
「どうしたの」
「部数、間違えてました」
桑田の声が震えていた。
「各学年の人数分は数えたんですけど、予備の二十部を入れ忘れて」
「それだけ?」
「それだけじゃなくて」
桑田は資料を差し出した。
「先週、二年生の転入生が三人増えたの、反映してませんでした」
澪は資料を確認した。
合計で、二十三部足りない。
配布は明日の朝、全校朝礼の時間。
「印刷会社には、もう連絡した?」
「まだです。どうしよう、間に合わないですよね」
桑田の目に涙が浮かんでいた。
澪の中で、中学時代の記憶が一気によみがえった。
完成しなかった看板。
真っ白な下半分。
謝りに行った実行委員長室。
同じことを、また繰り返させたくない。
澪は反射的にスマートフォンを取り出した。
「私が印刷会社に電話する」
「先輩が?」
「今から言えば、追加分は明日の朝一番でなんとかなるかもしれない」
澪は電話をかけようとした。
その手を、桑田が止めた。
「待ってください」
「何」
「私が電話します」
「でも」
「私のミスなので、私が説明します」
澪は少し驚いて、桑田を見た。
「怒られるかもしれないよ」
「怒られても、いいです」
桑田は電話番号を確認しながら、深呼吸した。
澪は、その手からスマートフォンを引き戻さなかった。
*
桑田の電話は、うまくいかなかった。
印刷会社の担当者は不在で、翌朝までに追加分を刷ることは難しいと言われた。
桑田は電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
「ごめんなさい、先輩」
「謝らなくていい」
澪はそう言いながら、頭の中で対応策を探していた。
学校の印刷機で刷るしかない。
けれど、二十三部となると、それなりの時間がかかる。
「今日中に、学校のコピー機で刷ろう」
「私がやります」
「二人でやった方が早い」
澪は資料のデータを確認した。
「桑田さん、ページの順番、覚えてる?」
「はい、大丈夫です」
二人は放課後の生徒会室で、印刷機の前に並んだ。
紙を差し込み、ページを揃え、ホチキスで留める。
単調な作業を、二人で黙々と続けた。
「先輩」
しばらくして、桑田が口を開いた。
「さっき、私に電話させてくれて、ありがとうございました」
「別に」
「先輩なら、もっと早く解決できたと思います」
「そうかもね」
「それでも、私にやらせてくれたの、嬉しかったです」
澪は手を止めずに答えた。
「本当は、私が全部やりたかった」
「え?」
「後輩に任せて失敗した経験があるから、また同じことになるのが怖かった」
澪は初めて、その話を口にした。
中学の文化祭の看板。
真っ白なまま掲げられたこと。
後輩が実行委員を辞めたこと。
桑田は、印刷機を止めて聞いていた。
「だから、桑田さんが電話を止めてくれたとき、正直、迷った」
「迷惑でしたか」
「ううん」
澪は首を振った。
「迷ったけど、今回は、桑田さんに任せてみようって思えた」
「なんでですか」
「桑田さんが、自分で謝ろうとしてたから」
澪は手元の紙をまとめながら続けた。
「中学の後輩は、失敗したあと、何も言わずに辞めた。私も、何が悪かったのか、あの子に直接聞けなかった」
「聞かなかったんですか」
「聞くのが怖かった。私が任せたせいで、あの子を追い詰めたのかもしれないって」
桑田は少し考えてから言った。
「私、辞めたいとは思ってないです」
「うん」
「ミスしたのは怖かったけど、先輩が電話をやらせてくれたから、次はもっとちゃんとできる気がします」
澪は、その言葉に少し救われた。
*
二人で刷り終えたのは、下校時刻を大きく過ぎたころだった。
完成した冊子を数える。
二十三部、きちんと揃っていた。
「明日の朝、これ持っていけば大丈夫だよね」
澪が確認する。
「はい。転入生の名簿ももう一度確認しました」
「ありがとう」
二人は生徒会室を出た。
昇降口へ向かう途中、澪のスマートフォンが鳴った。
水瀬晴人からのメッセージだった。
『まだ学校? 迎えに行こうか』
澪は少し迷ってから、桑田に声をかけた。
「桑田さん、家、どっち方面?」
「駅の反対側です」
「じゃあ、途中まで一緒に帰る?」
「いいんですか」
「うん」
二人で校門へ向かう。
正門の脇では、校長が門柱の上で丸くなっていた。
「校長」
澪が声をかける。
猫は薄目を開けた。
「今日、後輩に任せて、失敗もあったけど、なんとかなった」
尻尾がゆっくり動く。
「これでよかったのかな」
猫は答えない。
「桑田さん、この子は答えてくれないよ」
澪が笑うと、桑田も少し笑った。
「先輩、この猫と話すんですか」
「たまにね」
「変じゃないですか」
「変だと思うけど、聞いてくれる気がするから」
*
晴人が校門で待っていた。
「お疲れ」
「ごめん、遅くなった」
「後輩?」
「うん、桑田さん」
「篠原先輩には、いつもお世話になってます」
桑田が頭を下げる。
「いや、俺は関係ないけど」
晴人が少し戸惑ったように答えると、澪と桑田が同時に笑った。
三人で歩きながら、澪は今日あったことを晴人に話した。
部数のミス。
桑田が自分で電話をかけたこと。
中学時代の話を、初めて誰かにしたこと。
晴人は黙って聞いていた。
「篠原らしいな、その話」
「らしいって?」
「何でも自分で背負おうとするところ」
「知ってたの」
「一年のとき、文化祭のポスターの件でも、そうだったろ」
澪は少し驚いた。
「一ノ瀬さんの絵の話?」
「あのとき、篠原が生徒会で一人で調整してたの、見てた」
澪は、自分が思っていたより多くの場面で、同じことを繰り返していたのだと気づいた。
「今日は、任せられたんだ」
晴人が言う。
「桑田さんが、止めてくれたから」
「それでいいんじゃないか」
「でも、また失敗するかもしれない」
「そのときは、また一緒にやればいい」
晴人の言葉は、シンプルだった。
でも、澪には、それがちょうどよかった。
*
桑田と別れたあと、澪は一人で図書室へ寄った。
閉館時間ぎりぎりだったが、白石悠がまだカウンターにいた。
「篠原先輩、こんな時間に」
「ちょっとだけ」
澪は掲示板の前に立った。
『後輩に自分の仕事を任せたら、うまくいきませんでした。任せたことを後悔していませんが、次はどこまで任せていいのか分かりません』
見覚えのある文字だった。
「これ、高瀬先輩が書いてたやつだよね」
「知っていますか」
「バスケ部の高瀬さんとは、委員会で少し話したことがあって」
澪は、その質問の下に貼られた返事を読んだ。
『守ることと、経験させないことは、時々同じ形をしています』
『かばうことをやめるのではなく、かばう範囲を選び直すこともできます』
「今日、私も似たことがあった」
澪は白石に、今日のことを話した。
中学時代の失敗。
今日の部数のミス。
桑田が自分で電話をかけたこと。
悠は最後まで聞いた。
「篠原先輩は、今日、任せてよかったと思いますか」
「思う。でも、正直、また同じ場面が来たら、迷うと思う」
「迷うことは、悪いことですか」
「分からない」
「毎回すぐに答えが出ることの方が、少ないと思います」
澪は少し笑った。
「白石くんも、いつも急いで答えを出さないよね」
「急いで出した答えは、間違えやすいので」
「私、それができなかった」
澪は付箋を一枚取った。
『中学のとき、後輩に任せて失敗し、その後輩は辞めてしまいました。それからずっと、大事なことは自分でやると決めていました。今日、後輩が自分で失敗を説明したいと言ってくれて、初めて任せることができました。次にどこまで任せるかは、まだ決められませんが、任せることをやめようとは思わなくなりました』
書いて、質問の下へ貼る。
「長いですね」
「入ったからいいでしょ」
「以前、誰かも同じことを言っていました」
「みんな似てくるのかもね、この箱に書いてると」
悠は少し頷いた。
「篠原先輩、もう一つ聞いてもいいですか」
「何」
「後輩が実行委員を辞めたこと、まだ気になっていますか」
澪は少し考えた。
「気になる。会えるなら、あの日のこと、ちゃんと謝りたい」
「今も連絡は取れますか」
「別の中学だったから、分からない」
「もし、いつか会えたら」
「そのときは、ちゃんと聞く。何が一番つらかったか」
悠は頷いた。
「今日は、それで十分だと思います」
*
翌朝。
澪は桑田と一緒に、学習アドバイス冊子を各クラスへ配って回った。
転入生三人の分も、きちんと数の中に入っていた。
最後の教室を出たところで、桑田が言った。
「先輩」
「何」
「今日、私が配るところ、ちゃんと見ててくれましたよね」
「見てたよ」
「先輩が近くにいてくれると、安心します」
「危ないときは、ちゃんと言って」
「はい」
澪は、桑田の隣を歩きながら、少しだけ肩の力が抜けているのを感じた。
全部を背負わなくても、隣を歩くことはできる。
それは、中学のときには気づけなかったことだった。
*
昼休み、澪は図書室にもう一度寄った。
自分の付箋の下に、新しい返事が増えていた。
『後悔していない失敗は、次の任せ方を教えてくれることがあります』
『任せる範囲は、一度に大きく決めなくても、少しずつ広げていけます』
澪は最後の一枚を読んで、頷いた。
「桑田さんに、また何か任せてみようと思う」
「今度は何をですか」
「まだ決めてない。でも、小さいことから」
「良いと思います」
澪は生徒会室へ戻る途中、正門で校長を見かけた。
「校長」
猫は目を開けた。
「また来るね」
尻尾が一度動いた。
それだけで、返事をもらった気がした。
*
その日の放課後、掲示板には、また新しい問いが貼られていた。
『一度失敗した相手に、もう一度大事なことを任せるのは、怖いです。信じたい気持ちと、怖い気持ちが両方あって、どちらを選べばいいか分かりません』
澪はその紙を見て、少し立ち止まった。
中学の後輩に、もう一度何かを任せる機会があったら、自分はどうするだろう。
信じたい。
でも、怖い。
両方とも、本当の気持ちだった。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「今は、まだ」
「なぜですか」
「怖い気持ちの方を、まだちゃんと言葉にできてないから」
「言葉にできたら、書きますか」
「うん。でも、今日じゃないと思う」
澪は図書室を出た。
生徒会室では、桑田が次の配布物の準備を始めていた。
澪はその隣に座り、一緒に作業を始めた。
信じることと、怖がることは、同じ日の中に、どちらも存在していた。
それでいいのだと、澪は少しずつ思えるようになっていた。




