第38話 かばった代わりにも、正しさは残る
高瀬美緒には、誰にも話したことのない中学時代の記憶がある。
中学二年生の秋。
バスケットボール部の新人戦。
準々決勝、残り一分。
同点のまま、相手チームのフリースローが二本続いた。
美緒は、その原因を作った選手のファウルを、身代わりに引き受けた。
正確には、引き受けたつもりだった。
審判の笛が鳴ったとき、実際にボールへ触れていたのは同級生の選手だった。
けれど美緒は、素早く手を挙げて言った。
「すみません、僕です」
顧問は、その場では何も言わなかった。
試合は負けた。
部室に戻ってから、顧問が美緒だけを呼んだ。
「お前じゃないだろう、あのファウル」
美緒は答えなかった。
「なんで庇った」
「あいつ、大事な試合であんなミス、一生引きずると思ったので」
「お前が代わりに引きずるつもりか」
顧問はそれ以上、責めなかった。
けれど、その日から美緒は、同級生から少しだけ距離を置かれるようになった。
庇われた選手は、美緒に一度も礼を言わなかった。
礼を言えば、自分のミスを認めることになるからだったのかもしれない。
美緒には、その理由が今でも分からない。
ただ、あの日から美緒は決めた。
誰かのミスは、自分が引き受ける。
そうすれば、その人は前を向いたまま、次の練習に来られる。
礼を言われなくてもいい。
距離を置かれてもいい。
自分が盾になっていれば、それでいい。
高校でバスケットボール部の主将になったときも、美緒はその考え方を変えなかった。
変える必要を、感じたことがなかった。
六月に入るまでは。
*
六月十四日。
放課後の体育館。
青葉ヶ丘高校女子バスケットボール部は、来月の地区予選に向けた練習試合を控えていた。
相手は、以前も対戦したことのある南城高校。
美緒はコートの中央に部員を集めた。
「今日は、ゾーンディフェンスの確認をする。特に、サイドからのカットインへの対応」
「はい」
声が揃う。
その中に、一年生の西村ひかりがいた。
入学当初から動きの速さで注目されていた選手だったが、ここ数週間、練習試合になると急に固くなる癖があった。
「西村、今日は特に見ておきたい。頼むぞ」
「はい」
ひかりの返事は、いつもより硬かった。
*
練習試合は、後半に入って接戦になった。
残り三分、一点差。
相手のシューティングガードが、サイドから鋭くカットインしてきた。
本来なら、ひかりがヘルプに入る場面だった。
けれど、ひかりの反応が一瞬遅れた。
シュートは決まり、逆転された。
タイムアウト。
ベンチに戻る途中、ひかりは俯いたまま何も言わなかった。
「大丈夫」
美緒はひかりの肩に触れた。
「今の、私の指示が遅かった」
ベンチの選手たちが、美緒を見た。
顧問の佐伯も、少し眉を寄せた。
「高瀬、今のは」
「私です。ヘルプのタイミング、私が声を出すのが遅れました」
美緒は迷わず言った。
ひかりが顔を上げた。
「先輩」
「いいから、切り替えていこう」
美緒はそう言って、コートへ戻った。
*
試合は、結局二点差で負けた。
部員たちが片づけをしている間、美緒は一人でボールをかごへ戻していた。
体育館の隅、男子バスケットボール部のコートでは、まだ練習が続いている。
その中に、榊原湊の姿があった。
湊は去年、足首の怪我でベンチから声を出す側に回っていた経験を持つ、二年生の選手だった。
「高瀬先輩」
練習の合間、湊が声をかけてきた。
「さっきの、見てました」
「何が」
「西村さんのミス、先輩が被ったやつ」
美緒は少し驚いた。
「見てたの」
「うちのコートからも見えます」
湊はボールを回しながら続けた。
「あれ、西村さんのミスですよね」
「私の指示が遅れたのも本当」
「でも、メインは西村さんの反応でしょう」
美緒は答えなかった。
「先輩、いつもそうやって被るんですか」
「いつもってわけじゃ」
「よく見ますよ、先輩が誰かのミスを引き受けてるとこ」
湊はボールを止めた。
「俺、去年ベンチにいたとき思ったんです。自分がミスしたことを、自分の言葉で説明できないと、次に活かせないって」
美緒は、その言葉が胸に刺さった。
「先輩が全部引き受けたら、西村さんは何も学べないままかもしれません」
「分かってる」
美緒は小さく答えた。
「分かってるけど、あの子、まだ一年生だから」
「一年生だから、余計に自分で言葉にする練習が必要なんじゃないですか」
湊は、それだけ言って自分のコートへ戻っていった。
*
部活が終わったあと、美緒は一人で図書室へ向かった。
目的があったわけではない。
ただ、今日は誰とも話さずに、少し頭を整理したかった。
入口の木箱を見る。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、見覚えのある文字があった。
『チームの誰かをかばって、自分が代わりに怒られました。かばったことを後悔していませんが、次からも同じようにしていいのか分かりません』
美緒はその紙の前で、長く立ち止まった。
「気になりますか」
カウンターにいた白石悠が声をかけた。
「これ、今日の私みたい」
美緒は、試合でのことを話した。
ひかりのミスを自分が被ったこと。
湊に言われた言葉。
そして、中学時代の記憶も、初めて誰かに話した。
審判の笛が鳴った瞬間。
自分が手を挙げたこと。
庇った同級生から、一度も礼を言われなかったこと。
悠は最後まで、口を挟まずに聞いた。
「高瀬さんは、庇うことで何を守ろうとしていますか」
「その人が、前を向いたまま続けられること」
「今も、それは必要だと思いますか」
美緒は少し考えた。
「必要だと思ってた。でも、湊くんに言われて、分からなくなった」
「何が分からなくなりましたか」
「守ることと、その人から説明する機会を奪うことが、同じ形をしてるのかもしれないって」
悠は頷いた。
「以前、別の人も同じ言葉を書いていました」
悠はカウンターの奥から、以前の付箋の控えを見せた。
『守ることと、経験させないことは、時々同じ形をしています』
「高瀬さんの中学時代のことは、どうでしたか」
美緒は少し息を吐いた。
「私は、庇われたことがない。だから、庇われる側がどう思うか、本当は分かってなかったのかもしれない」
「礼を言われなかったことは、今も気になりますか」
「気になる。でも、それとは別に」
美緒は言葉を探した。
「あの子、今もどこかで、私のことを恨んでるのかもしれない」
「恨んでいると、高瀬さんが決めたのですか」
その聞き方に、美緒は苦笑した。
「最近、この学校の生徒はみんな同じこと言うね」
「必要な聞き方なので」
「白石くんも言うんだ」
「私も、必要だと思ったので使っています」
美緒は少し笑った。
*
正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
美緒は近づいた。
猫は目を細めた。
「私、ずっと誰かの盾になってきた」
尻尾が動く。
「でも、それが本当にその人のためだったのか、今日初めて分からなくなった」
猫はゆっくり伸びをした。
「あんたも、誰かを庇ったことある?」
校長は答えない。
「まあ、猫だもんね」
美緒は少し笑って、しゃがみ込んだ。
「西村と、ちゃんと話してみる」
校長は美緒の手の甲に、鼻先を近づけた。
温かい息が触れる。
それだけで、少し肩の力が抜けた気がした。
*
翌朝、美緒は練習前にひかりを呼んだ。
「西村、少しいい?」
「はい」
体育館の隅、二人だけで話す。
「昨日のこと」
「先輩、すみませんでした」
「謝らなくていい。私が聞きたいのは、なんで反応が遅れたか」
ひかりは俯いた。
「分かりません。頭では分かってたのに、体が動かなくて」
「怖かった?」
「怖かったです。ミスしたら、先輩たちに迷惑かけるって思ったら、余計に動けなくなって」
美緒は静かに聞いた。
「私が代わりに謝ったこと、どう思った?」
ひかりは、少し長く黙った。
「正直、ほっとしました。怒られなくて済んだから」
「うん」
「でも、次の日、ずっとモヤモヤしてました」
「なんで」
「先輩が謝ってくれたのに、私、結局何も分かってないままだったから」
その言葉は、湊が言ったことと重なった。
「私、これからは自分で説明する」
ひかりが続けた。
「先輩に庇ってもらうんじゃなくて」
「怖くない?」
「怖いです。でも、ずっと怖いままでいるよりは」
美緒は頷いた。
「分かった。次から、あなたのミスは、あなたが説明して」
「はい」
「でも、本当に危ないときや、一人で抱えきれないときは、私が前に出る」
「本当に危ないときって?」
「怪我とか、心が壊れそうなときとか。技術的なミスは、あなたの言葉で」
ひかりは頷いた。
「先輩」
「何」
「昨日、庇ってくれて、ありがとうございました」
初めて、礼を言われた。
中学のときには、一度も聞けなかった言葉だった。
美緒は、少し驚いた。
「どういたしまして」
それだけ言うのが、精一杯だった。
*
その日の練習試合、再び南城高校との対戦があった。
同じ場面。
サイドからのカットイン。
ひかりのヘルプが、また一瞬遅れた。
シュートは決まらなかったが、ファウルを取られた。
タイムアウトで、佐伯がひかりを見た。
「西村、今のは」
ひかりは深呼吸した。
「私です。相手の動き出しを、逆サイドで見失っていました」
声は震えていたが、はっきりしていた。
「次は、逆サイドの視野をもう少し広く取ります」
佐伯は頷いた。
「分かった。次、修正しろ」
「はい」
美緒は、コートの端からそれを見ていた。
誇らしいような、少し寂しいような気持ちだった。
自分の役目が、少しだけ変わっていく瞬間だった。
*
試合後、湊がまた練習の合間に声をかけてきた。
「今日は、西村さん自分で言ってましたね」
「うん」
「先輩、無理して黙ってました?」
「無理はしてない。ちゃんと、決めて黙ってた」
「それ、無理してるのと似てません?」
美緒は少し笑った。
「湊くんは、細かいね」
「よく言われます」
「昨日、あなたに言われたこと、考えた」
「どうでした?」
「守ることと、経験させないことは、同じ形をしてるって、図書室の白石くんにも言われた」
「あそこの箱、みんな見てるんですね」
「うん。私も初めて使った」
「答え、見つかりました?」
美緒は少し考えた。
「見つかったっていうより、決めた」
「何をですか」
「西村のミスは、西村が説明する。私は、本当に危ないときだけ前に出る」
「それ、良さそうですね」
「湊くんは、去年ベンチにいたとき、何を思ってたの」
湊は少し考えた。
「自分の言葉で説明できないと、次に進めないってことです」
「それだけ?」
「あと、誰かが黙って自分の代わりに謝ってくれると、ほっとするけど、同じくらい悔しかったです」
美緒は、その言葉を静かに受け止めた。
「私も、悔しかったのかな。中学のとき」
「分かりません、それは先輩にしか」
「うん」
美緒は、ずっと胸の中に置いていたものを、少しだけ外へ出せた気がした。
*
放課後、美緒はもう一度図書室へ寄った。
自分の質問の下に、返事が増えていた。
『守ることと、経験させないことは、時々同じ形をしています』
『かばうことをやめるのではなく、かばう範囲を選び直すこともできます』
美緒は最後の一枚を読んで、頷いた。
「今日、後輩に任せてみました」
「どうでしたか」
「ちゃんと、自分の言葉で説明してました」
「高瀬さんは、それを見てどう思いましたか」
「誇らしかった。でも、少し寂しかった」
「両方とも、本当の気持ちですか」
「うん」
「では、両方書いてもいいと思います」
美緒は新しい付箋を取った。
『後輩に任せてみたら、ちゃんと自分の言葉で説明していました。誇らしさと寂しさ、両方ありました。かばうことをやめるのではなく、任せる範囲を少しずつ広げていくことにします』
書いて、質問の下へ貼る。
「答え、見つかりましたか」
「見つかったというより、決めた」
「何をですか」
「後輩の失敗を全部引き受けるんじゃなくて、危ないときだけ前に出る」
「境界ですね」
「最近、この学校で流行ってる言葉なんだってね」
「よくご存じですね」
「後輩に聞いた」
美緒は少し笑った。
*
夜、美緒は自室で、久しぶりに中学時代のことを思い出していた。
庇った同級生の名前は、もう思い出せない。
礼を言われなかったことも、今はそれほど痛くなかった。
あの日、庇うと決めたことが間違いだったとは、今も思わない。
ただ、それをずっと同じやり方で続ける必要はなかったのかもしれない。
美緒はスマートフォンを開き、部活のグループへ短いメッセージを送った。
『明日から、ミスの報告は本人からしてもらう。危ないときは私が出る。みんな、よろしく』
既読がいくつもつく。
ひかりから、スタンプが一つ届いた。
うさぎが敬礼しているスタンプだった。
美緒は、それを見て少し笑った。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『後輩に自分の仕事を任せたら、うまくいきませんでした。任せたことを後悔していませんが、次はどこまで任せていいのか分かりません』
美緒はその紙を見て、少し笑った。
まるで、自分の未来を先取りしたような問いだった。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「今はまだ」
「なぜですか」
「西村が、次にどうなるか、まだ分からないから」
「うまくいかなかったら、どうしますか」
「そのときは、また来る」
美緒は図書室を出た。
体育館の方から、まだ誰かが練習しているボールの音が聞こえていた。
誰が誰を庇い、誰が誰に任せているのか、外からは分からない。
それでも、この学校のどこかで、今日もそういう小さな選び直しが、いくつも積み重なっていた。




