第37話 足を引っ張る自分にも、外せない場所はある
二階堂ひかるは、バトンを落とすたびに、自分がチームにいる意味を疑った。
落としたのは、いつも同じ場面ではない。
受け取るとき。
渡すとき。
焦って手を伸ばしすぎたとき。
理由はそのたびに違う。
けれど、落とすという結果だけは、いつも同じだった。
*
六月十二日。
朝練のグラウンド。
「二階堂、今の見えてなかったろ」
新田先生の声が飛ぶ。
「すみません」
「見て、それから伸ばせ。見ないで伸ばすから間に合わない」
「はい」
ひかるはバトンを拾いに走った。
少し離れた場所で、松岡亮と田所陸が水を飲んでいる。
「二階堂、大丈夫かな」
亮が言う。
「今日、四回目だぞ、落としたの」
「昨日も三回だった」
「調子悪いのかな」
陸は少し考えた。
「調子っていうより、ここ最近、ずっとあんな感じだ」
ひかるには、その会話は聞こえていなかった。
けれど、周りの視線が自分に向いていることは、感じていた。
*
朝練が終わったあと、新田がひかるを呼んだ。
「二階堂、少しいいか」
「はい」
「最近、落とすことが多いな」
「すみません」
「謝罪はいらない。原因を知りたいだけだ」
ひかるは黙った。
原因は分かっていた。
でも、言葉にするのが怖かった。
「もし合わないなら、走順を変えることもできる」
新田の言葉は、責めるようには聞こえなかった。
それでも、ひかるには「外される」と同じ意味に聞こえた。
「自分から辞めます」
口から出た。
「何を、だ」
「リレー」
新田は少し驚いた顔をした。
「まだ、走順を変えるかどうかの話しかしていない」
「でも、私がいるとチームが遅くなります」
「今のタイムを、誰かのせいだけにする必要はない」
「でも、私が落とすから」
「落とすのは、渡す側にも原因がある。お前だけの責任じゃない」
ひかるは、それでも納得できなかった。
*
昼休み。
ひかるは一人で教室にいた。
弁当を開ける気になれず、机に伏せていた。
「二階堂さん」
声をかけてきたのは、同じクラスの女子だった。
「大丈夫?」
「大丈夫」
いつもの返事だった。
相手はそれ以上聞かず、離れていった。
ひかるは、その反応にほっとすると同時に、少し寂しかった。
*
放課後、練習が始まる前。
ひかるは図書室へ向かった。
目的があったわけではない。
ただ、グラウンドへ行く足が重かった。
図書室の入口には、いつもの木箱があった。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、いくつもの問いが貼られている。
その中に、見覚えのある文字があった。
『チームの中で、自分だけが足を引っ張っている気がします。頑張っているのに、周りに合わせられません。辞めた方が、みんなのためになりますか』
ひかるは、その紙をじっと見た。
自分が書いたわけではない。
でも、まるで自分の心を読まれたようだった。
「これ、誰が書いたんですか」
カウンターにいた白石悠へ、思わず聞いた。
「分からないことにしています」
「便利な決まりですね」
「必要な決まりです」
ひかるは少し笑った。
真剣に返されると、逆に力が抜けた。
「私も、これと同じことを思ってます」
「詳しく聞いてもいいですか」
ひかるは、陸上部のことを話した。
バトンを何度も落とすこと。
新田先生から走順を変えると言われたこと。
自分から辞めると言ったこと。
悠は最後まで聞いた。
「二階堂さんは、辞めたいんですか」
「分からない」
「走ること自体は、好きですか」
ひかるは少し考えた。
「好き。でも、迷惑をかけてまで続けるものじゃない気がする」
「迷惑だと、誰かに言われましたか」
「言われてない。でも、みんなそう思ってると思う」
「思っていると、二階堂さんが決めたのですか」
その言葉は、以前にも誰かが聞いたような言い回しだった。
「決めつけてるのかな、私」
「かもしれません」
「でも、実際に落としてるのは事実だから」
「事実と、迷惑だと思われているという想像は、別のものです」
ひかるは黙った。
*
悠はカウンターの奥から、一枚のメモを出した。
「これ、少し前に別の人が書いた返事です」
『大きな記録更新だけが努力の証拠ではないと思います』
『気づいてほしい相手を、全員にしなくてもいいと思います』
「これ、松岡くんの話ですか」
「知っていますか」
「同じ陸上部です」
「では、近い立場の人が、近い答えを見つけていたことになります」
ひかるは掲示板の文字を、もう一度読んだ。
辞めた方が、みんなのためになりますか。
「私、これに答えを書きたい」
「書いてください」
ひかるは紙を取った。
『辞めた方がいいかどうか、周りに聞いていませんでした。私が勝手に決めていました』
書いて、質問の下へ貼る。
「決めつけていたと、気づいたんですね」
「気づいただけで、答えにはなってない」
「今日は、そこまでで十分だと思います」
*
正門の脇で、校長が丸くなっていた。
「校長」
ひかるが近づく。
猫は片目を開けた。
「私、辞めるって言っちゃった」
尻尾が動く。
「新田先生は、まだ辞めろって言ってないのに」
猫は伸びをした。
「勝手に決めるの、よくないよね」
校長は答えない。
ひかるは少ししゃがみ込んだ。
「もう一回、先生と話してみる」
猫は歩き出し、植え込みの奥へ消えていった。
*
その日の練習で、ひかるは新田のもとへ向かった。
「先生」
「何だ」
「さっき、勝手に辞めるって言いました。すみません」
「謝らなくていい。理由を聞いてもいいか」
「私がチームの足を引っ張ってると思ってました」
「それは、今もか」
「今も、少しはそう思ってます」
「でも?」
「でも、それを迷惑だと思ってるかどうか、みんなに聞いたことなかったです」
新田は少し頷いた。
「聞いてみるか」
「今からですか」
「今からだ」
新田はチーム全員を集めた。
「二階堂が、自分がチームの負担になっていると感じている。正直な意見が欲しい」
部員たちは顔を見合わせた。
田所陸が先に口を開いた。
「負担とは思ってない」
「でも、私、よく落とすし」
「落とすのは、俺の渡し方が悪いときもある」
松岡亮も続けた。
「俺なんて、記録自体が誰にも注目されてない。二階堂の方が、まだ悔しがってもらえる分マシだと思ってた」
「そんなこと」
「本当だって」
別の一年生部員も言った。
「二階堂、最近フォーム変わっただろ。落とす回数は減ってきてるよ」
ひかるは、それを知らなかった。
自分の失敗ばかり数えていて、変化には気づいていなかった。
「本当に?」
「本当」
新田が言う。
「チームというのは、全員が完璧にできる集まりじゃない。それぞれの苦手を、それぞれが補い合う場所だ」
「補い合うって」
「お前が落とす分、渡し方を工夫する練習が増えた。それは、チーム全体の技術になってる」
ひかるは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
けれど、少しずつ胸の奥が軽くなっていった。
*
放課後、練習が終わったあと。
ひかるはもう一度、松岡亮と話した。
「さっきの、記録が注目されないって話」
「うん」
「本当にそう思ってたの?」
「思ってた。でも、この前、質問箱で少し楽になった」
「私も、さっき書いてきた」
「同じ質問?」
「たぶん」
二人で笑った。
「田所も、三上も、みんな同じようなこと考えてたんだな」
亮が言う。
「チームにいると、比べちゃうのかな」
「比べるのは、たぶん悪いことじゃないと思う」
「そうなの?」
「比べた結果、辞めるって決めつけなければ」
ひかるは、その言葉を頭の中で繰り返した。
*
夕方、ひかるはもう一度図書室へ寄った。
自分の付箋の下に、新しい返事が増えていた。
『チームは、全員が同じようにできる場所ではなく、それぞれの苦手を補い合う場所だと思います』
『辞める前に、周りへ実際に聞いてみると、想像と違う答えが返ってくることがあります』
「聞いてよかったです」
ひかるが言う。
「聞くのは、怖かったですか」
「怖かった。迷惑だって言われたらどうしようって」
「言われましたか」
「言われなかった」
「では、今の気持ちは?」
ひかるは少し考えた。
「まだ、落とすのが怖くないわけじゃない。でも、辞める理由にはならないと思った」
「それで十分だと思います」
ひかるは新しい付箋を取った。
『実際にチームへ聞いてみたら、迷惑だとは思われていませんでした。落とすことへの怖さは残っていますが、それを理由に辞める必要はないと分かりました』
書いて、質問の下へ貼る。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『チームの誰かをかばって、自分が代わりに怒られました。かばったことを後悔していませんが、次からも同じようにしていいのか分かりません』
ひかるはその紙を見て、少し考えた。
自分をかばってくれる人がいたら、どう思うだろう。
ありがたいと思う。
同時に、申し訳なくも思うかもしれない。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「今は、まだ」
「なぜですか」
「かばわれたことはあるけど、かばったことはないから」
「いつか、書けそうですか」
「分からない。でも、いつかそういう場面が来たら、思い出すと思う」
ひかるは図書室を出た。
グラウンドの方から、まだ誰かが練習している足音が聞こえていた。
誰が誰をかばい、誰が誰に助けられているのか、外からは分からない。
それでも、この学校のどこかで、今日もそういう小さなやり取りが積み重なっていた。




