第36話 記録にならない足あとにも、行き先はある
松岡亮は、自分の記録を誰にも見せたことがなかった。
正確には、見せる機会がなかった。
中学まではサッカー部だった。
ボールを追いかけることが好きで、うまくはなかったが、下手なりに楽しんでいた。
高校に入って、陸上部を選んだのは、田所陸に誘われたからだった。
「速くなくてもいいから、来いよ」
その一言で始めた競技だった。
けれど、始めて三か月が経った今も、亮の記録はほとんど伸びていない。
百メートル、十四秒台。
陸の記録とは、二秒以上の差がある。
二秒は、陸上ではとても大きな差だった。
*
六月十一日。
朝練のグラウンド。
「田所、今日のタイム見た?」
一年生の別の部員が声を上げる。
「見た。十一秒六か。すごいな」
「まだ伸びるかもな」
陸のタイムが出るたびに、周りが集まる。
亮のタイムが出ても、誰も集まらない。
当然だった。
自己ベストを更新しても、十四秒台と十四秒台の違いでしかない。
「松岡、今日は?」
顧問の新田が聞く。
「十四秒二です」
「前回より?」
「〇コンマ三、速くなりました」
「悪くないな」
それだけだった。
悪くない、で終わる記録だった。
*
朝練が終わったあと、亮は一人でグラウンドの端に座っていた。
陸が水を飲みながら近づいてくる。
「松岡、今日も自己ベストだろ」
「うん」
「なのに、何でそんな顔してるんだよ」
「別に、そんな顔してない」
「してるって」
亮はため息をついた。
「誰も気づかないんだよ、俺のタイム」
「気づいてるよ、俺は」
「田所が気づいても、みんなは気づかない」
「みんなに気づかれたいのか?」
「分からない」
亮は膝を抱えた。
「毎日同じ練習してる。少しずつ速くなってる。でも、誰も見てない気がする」
陸は少し考えた。
「それ、この前三上が言ってたことと似てるな」
「三上?」
「音楽部の一年。毎日練習してるのに気づかれないって」
「同じだ」
「あいつ、図書室の質問箱に書いたら、答え見つかったって言ってた」
「質問箱?」
「答えのない質問を入れる箱。誰かが返事をくれる」
亮は初めて聞いた。
*
昼休み、亮は一人で図書室へ向かった。
入口の木箱を見つける。
『答えのない質問を入れてください』
掲示板には、いくつもの問いと付箋が貼られていた。
『毎日同じことを続けているのに、周りが気づいてくれません。気づいてほしいと思うことは、努力を汚すことになりますか』
三上ひなたが書いたものだろう。
その下に、いくつかの返事が増えている。
『気づかれるための努力ではなく、続けたい気持ちが本当なら、汚れないと思います』
『記録として残らないものにも、変化はあると思います』
亮は最後の一枚を読んだ。
記録として残らないものにも、変化はある。
自分の場合、記録として残っている。
十四秒台という数字が、確かにある。
それでも、誰にも見えていない気がした。
「気になりますか」
カウンターから声がした。
白石悠という、二年生の図書委員だった。
「これ、俺も似た悩みで」
亮は自分の状況を話した。
少しずつ速くなっている。
でも、誰も注目しない。
田所陸のような、劇的な記録更新はない。
悠は最後まで聞いた。
「松岡さんは、注目されるために走っているんですか」
「違う、と思う」
「では、何のためですか」
「速くなりたいから」
「それは、続いていますか」
「続いてる。〇コンマ三秒ずつだけど」
「〇コンマ三秒は、小さいですか」
亮は考えた。
「陸上では小さい。でも、自分にとっては大きい気がする」
「なら、誰かの基準ではなく、自分の基準で見てもいいのではないでしょうか」
亮は少し驚いた。
「白石さんも、走ったことあるの?」
「ありません。本ばかり読んでいます」
「じゃあ、何で分かるの」
「分かりません。だから、松岡さんの話を聞いています」
その言い方に、亮は少し笑った。
*
放課後、亮は再び図書室へ寄った。
紙を一枚取る。
『毎日〇コンマ何秒かずつ速くなっています。でも、誰も気づきません。田所のような大きな記録更新がないと、努力してないみたいに見える気がします』
書いて、質問箱へ入れる。
「入れましたね」
「うん」
「気持ちは軽くなりましたか」
「まだ分からない」
「分からないままでも、大丈夫です」
悠はそう言って、本を棚へ戻しに行った。
*
正門で、校長が門柱の上に座っていた。
「校長」
亮は近づいた。
猫は目を開けた。
「俺のタイム、誰も見てないと思ってた」
尻尾が動く。
「でも、田所は見てたって」
猫はあくびをした。
「あんたは、俺のこと見てた?」
校長は答えない。
「まあ、いいや。話聞いてくれてありがとう」
亮は少し笑って、正門を出た。
*
翌朝の朝練。
「松岡」
顧問の新田が呼んだ。
「はい」
「今日、リレーの練習に入れ」
「え?」
「バトンパスの練習。人数が必要だ」
亮は驚いた。
リレーには、記録の良い選手が選ばれると思っていた。
「俺でいいんですか」
「悪いのか」
「いえ」
「田所とバトンつなげ」
亮は位置についた。
陸が前を走る。
声をかけるタイミング。
手を伸ばす角度。
スピードを合わせる呼吸。
何度も失敗した。
落とした。
タイミングがずれた。
声が遅れた。
「もう一回」
新田の声が飛ぶ。
亮は何度も走った。
自分のタイムのためではない。
バトンをつなぐためだった。
「松岡、今の良かったぞ」
陸が言う。
「本当?」
「バトンの受け方、安定してきた」
それは、百メートルの記録には表れない変化だった。
*
昼休み、亮は陸と一緒に食べながら話した。
「バトン、うまくなったって言われた」
「うん、見てて分かった」
「これも、誰にも気づかれないと思ってた」
「俺は気づいてたって言ってるだろ」
「田所だけじゃなくて、新田先生も」
「じゃあ、二人は気づいてる」
「二人か」
亮は少し笑った。
「全員に気づかれなくてもいいのかもな」
「どういう意味?」
「気づいてほしい人に、気づいてもらえてればいいのかもって」
陸は頷いた。
「三上も、そんなこと言ってたな。小宮山と一緒に弾いたら、気持ちが軽くなったって」
「同じチームにいる人が気づいてくれれば、それでいいのかも」
亮は自分の記録ノートを開いた。
十四秒二。
小さな数字が並んでいる。
誰かに見せるためのものではない。
でも、見せてもいいと思った。
「田所、これ見る?」
ノートを差し出す。
「おお、ちゃんとつけてるんだな」
陸はページをめくった。
「〇コンマ一秒ずつでも、ちゃんと縮んでる」
「うん」
「これ、続けてけば夏には十三秒台狙えるんじゃないか」
「本当に?」
「知らないけど」
陸は笑った。
「でも、続けてる方が可能性あるだろ」
亮はノートを閉じた。
誰かに認められるために走っているわけではない。
それでも、気づいてくれる人がいることは、確かに力になった。
*
放課後、亮は図書室へもう一度寄った。
自分の質問の下に、返事が二枚増えていた。
『大きな記録更新だけが努力の証拠ではないと思います』
『気づいてほしい相手を、全員にしなくてもいいと思います。近くにいる誰かで十分なこともあります』
亮は最後の一枚を読み、頷いた。
「答え、見つかりましたか」
悠が尋ねる。
「今日、リレーの練習でバトンを褒められた」
「よかったですね」
「記録には出ないことだった」
「記録に出ないものにも、価値はありますか」
「あると思う」
亮は新しい付箋を取った。
『今日、記録には出ない部分を褒められました。全員に気づいてもらう必要はなくて、近くにいる人が気づいてくれれば、それで十分な気がしてきました』
書いて、質問の下へ貼る。
「これで終わりですか」
悠が聞く。
「たぶん、また悩むと思う」
「そうですか」
「でも、そのたびにここに来ればいいんだよね」
「はい」
「便利な場所だな」
「便利だと思う人ほど、よく戻ってきます」
亮は少し笑った。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『チームの中で、自分だけが足を引っ張っている気がします。頑張っているのに、周りに合わせられません。辞めた方が、みんなのためになりますか』
亮はその紙を、長く見つめた。
自分にも、そう思った瞬間が何度もあった。
バトンを落としたとき。
記録が伸びなかったとき。
辞めた方がいい、と思わなかったわけではない。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
亮は少し考えた。
「今すぐは書けない」
「なぜですか」
「辞めたいと思ったことがある人にしか、分からないことだから」
「松岡さんは、思ったことがありますよね」
「うん。だから、ちゃんと考えてから書きたい」
悠は頷いた。
亮は掲示板の前を離れ、正門へ向かった。
校長が、今日も誰かを待つように座っていた。
この問いを書いたのが誰なのか、亮には分からない。
けれど、同じグラウンドのどこかで、足を引っ張っていると感じながら走っている誰かがいることだけは、確かだった。




