第35話 消えない比べる気持ちにも、歩き方はある
三上ひなたは、努力を「見えないもの」だと思っていた。
毎朝六時に起きて、学校へ行く前の三十分だけ鍵盤に触れる。
休み時間は音楽室へ行かず、自分の席で指の練習をする。
部活のあとも、誰もいなくなった音楽室で三十分だけ残る。
誰かに褒められるためにやっているわけではない。
けれど、褒められないまま続けていると、時々、自分のやっていることが本当に意味を持っているのか分からなくなる。
だから三上ひなたは、一年三組の同じ音楽部員、小宮山鈴のことが少し苦手だった。
苦手というのは、嫌いという意味ではない。
鈴は、コンクールで一度止まった経験を持っている。
それを乗り越えて、また鍵盤に触れられるようになった。
その物語は、誰が聞いても心を動かされる。
ひなたには、そういう物語がなかった。
止まったこともない。
舞台で泣いたこともない。
ただ、毎日同じ時間に同じ場所へ行き、同じ練習を積み重ねているだけだった。
*
六月十日。
放課後の音楽室。
鈴が窓際のアップライトピアノで『愛の挨拶』の続きを弾いていた。
部員たちが、その音を聞きながら小さく拍手をする。
「小宮山さん、また上手くなったね」
三年生の女子部員が言った。
「まだ、たまに間違えます」
「間違えても最後まで弾けるようになったのがすごいんだよ」
鈴は少し照れたように俯いた。
ひなたは、部室の隅で自分のパート譜を見ていた。
誰も、ひなたの方は見ていない。
当然だ。
自分は、間違えたことも、止まったこともない。
だから、乗り越えた話もできない。
「三上さん」
顧問の音楽部部長、西園寺真琴(三年)が声をかけた。
「今日の分、弾いてみる?」
「あ、はい」
ひなたはグランドピアノの前へ座った。
課題曲を最初から最後まで、一度も止まらずに弾く。
指のミスもほとんどない。
「うまいね」
真琴が言った。
それだけだった。
拍手はなかった。
当たり前に弾けることには、拍手はつかない。
*
部活が終わったあと、ひなたは一人で楽器庫の鍵を返しに行った。
廊下で、鈴と会った。
「三上さん、今日も残ってたよね」
「うん」
「毎日すごいね」
「小宮山さんほどじゃないよ」
「私?」
「うまく弾けなかった時期があるでしょ。それでも続けてるの、すごいと思う」
鈴は少し困った顔をした。
「うまく弾けなかったのは、いいことじゃなかったよ」
「でも、みんな応援してるじゃん」
「それは」
鈴は言葉を探した。
「たぶん、止まった経験がある人の方が、応援しやすいだけだと思う」
ひなたは足を止めた。
「どういう意味?」
「ずっとうまい人を応援するのは、難しいから」
鈴はそう言って、少し申し訳なさそうな顔をした。
「三上さんは、ずっとうまいから、応援されにくいのかもしれない」
それは、ひなたが薄々感じていたことだった。
でも、本人の口から言われると、思っていたより重かった。
*
その夜、ひなたは自室で鍵盤に触れないまま、しばらく机に座っていた。
誰かに褒められたくてやっているわけではない。
そう思っていた。
けれど、鈴の言葉を聞いてから、自分の中にある感情の名前が分からなくなった。
悔しい。
寂しい。
どちらも少し違う気がした。
自分より下手な人が応援される。
自分より苦労していない人が応援される。
そう思っている自分が、嫌だった。
鈴が悪いわけではない。
鈴は何も悪くない。
それでも、比べる気持ちが止まらなかった。
*
翌朝。
ひなたは学校へ行く前の三十分の練習を、初めてやめた。
理由は自分でも分からなかった。
ただ、鍵盤に触れる気になれなかった。
教室へ入ると、田所陸が声をかけてきた。
「三上、今日は早くないな」
「うん」
「珍しいな。いつも一番だろ」
「今日はいい」
陸はそれ以上聞かなかった。
けれど、席へ座ってからも、ひなたのことを気にしているのが分かった。
昼休み、陸が話しかけてきた。
「今日、練習しなかったの?」
「よく見てるね」
「毎朝、音楽室の前通るから」
「今日は、ちょっと気分じゃなくて」
「珍しいな」
「毎日やってると思ってた?」
「うん」
「毎日やってても、誰も気づかない」
言った瞬間、少し恥ずかしくなった。
陸に言うことではない。
でも、口から出てしまった。
「俺は気づいてたけど」
陸は簡単に言った。
「毎朝、同じ時間に音楽室にいるの、知ってた」
「言わなかったじゃん」
「言う必要ある?」
「別にないけど」
「じゃあ、言わなくても気づいてたってことにしといて」
ひなたは、その言い方に少し笑った。
「田所くんって、意外と見てるんだね」
「走ることしか考えてないと思われがちだけどな」
「思ってた」
「失礼だな」
二人で笑った。
*
放課後、ひなたは図書室へ寄った。
掲示板の前に立つ。
昨日まではなかった問いが貼られている。
『特別でなくてもいいと分かっても、比べる気持ちが消えません。同じくらい頼りにされている人を見ると、まだ苦しくなります。これは、いつか消えるものですか』
ひなたはその文字を、何度も読んだ。
頼りにされている、ではない。
自分の場合は、応援されている、だ。
それでも、似たような苦しさだと思った。
「気になりますか」
カウンターから白石悠が声をかけた。
「これ、私のことみたい」
「詳しく聞いてもいいですか」
ひなたは、鈴とのやり取りを話した。
止まった経験がある人の方が、応援されやすい。
ずっとうまい人は、応援されにくい。
悠は最後まで聞いた。
「三上さんは、応援されたくて練習しているんですか」
「違うと思う」
「では、何のためにしていますか」
「弾けるようになりたいから」
「それは、今も続いていますか」
ひなたは考えた。
「続いてる。でも、比べる気持ちが邪魔してくる」
「邪魔だと思いますか」
「うん。練習する意味まで分からなくなる」
「返事、書きますか」
ひなたは紙を一枚取った。
『自分より苦労していない人が羨ましいわけじゃなくて、自分の苦労が見えないことが苦しいんだと気づきました。それでも、誰かに見えるようにするために練習しているわけじゃないので、どうすればいいか分かりません』
書いて、質問の下へ貼る。
「答えになってますか」
「答えというより、整理ですね」
「それでいいの?」
「今はそれで十分だと思います」
*
正門で、校長が門柱の上にいた。
「校長」
ひなたは近づいた。
猫は目を開けた。
「私、毎日練習してるの、誰にも見えてないと思ってた」
猫は答えない。
「でも、田所くんは知ってた」
尻尾が動く。
「見えてないんじゃなくて、言われてないだけだったのかもしれない」
校長は伸びをして、門柱から降りた。
ひなたの足元まで来て、靴の匂いを嗅ぐ。
「あなたも、毎日ここにいるけど、誰も褒めないよね」
猫は前足を舐め始めた。
「それでも、いるんだ」
ひなたは少し笑った。
*
翌日の朝。
ひなたはいつも通り、三十分早く音楽室へ来た。
鍵盤に触れる前に、鈴が入ってきた。
「三上さん、今日は来た」
「うん」
「昨日、変なこと言ってごめん」
「変なことじゃなかったよ」
「でも、傷つけたよね」
ひなたは少し考えた。
「傷ついた。でも、本当のことだったと思う」
「本当のことだったら、言っていいわけじゃないよ」
「それは、そうかも」
二人は少しの間、黙った。
「小宮山さんの話、応援されやすいって話」
ひなたが続ける。
「私、それを聞いて、応援されたかったんだって初めて気づいた」
「うん」
「でも、応援されるために弾いてるわけじゃない」
「分かってるよ」
「じゃあ、この気持ちはどうすればいいんだろう」
鈴は少し考えた。
「消さなくていいんじゃない」
「消えないと思う」
「消えなくても、弾くのをやめなければいいと思う」
ひなたは鍵盤へ視線を落とした。
「小宮山さんも、今、比べられたい気持ちある?」
「私?」
「私と」
「三上さんの方がずっと上手いよ」
「でも、私は小宮山さんの方が注目されてる」
「それ、私も気にしてなかったわけじゃない」
鈴は正直に言った。
「三上さんが淡々と弾いてるの見て、私はいつまでも間違えた話をされる方が恥ずかしいって、少し思ってた」
ひなたは驚いた。
「そうなの?」
「うん。だから、お互い様かも」
比べる気持ちは、片方だけのものではなかった。
「じゃあ、私たち、ずっと比べ合うの?」
「かもしれない」
「それでいいの?」
「消えないものを、消えないまま持ってていいんじゃない」
鈴の言い方は、白石悠に少し似ていた。
「小宮山さん、最近考え方変わったよね」
「そう?」
「前はもっと自分を責めてた気がする」
「三上さんと話したから」
「私?」
「あと、いろんな人と話したから」
鈴は鍵盤を軽く押した。
一音だけ、静かに響く。
「弾いてみる?」
「今、二人で?」
「連弾したことないでしょ」
「したことない」
「じゃあ、今日」
ひなたは少し迷ってから、鈴の隣へ座った。
*
二人で弾く『愛の挨拶』は、どちらか一人で弾くよりも音が厚かった。
鈴の間違えるところを、ひなたが支える。
ひなたの淡々とした音を、鈴の揺れる音が彩る。
途中で鈴がまた一音外した。
「あ」
「大丈夫。続けて」
ひなたが言う。
鈴は続けた。
最後まで弾き終えたとき、部室の入口に何人かの部員が立っていた。
「二人でやってたんだ」
「知らなかった」
「いいじゃん、続き聞かせてよ」
拍手が起きた。
ひなた一人が弾いたときには来なかった拍手だった。
嬉しいと同時に、少しだけ複雑だった。
でも、鈴と一緒だったからかもしれない、とは思わなかった。
二人で作った音だから、二人への拍手だと思えた。
*
放課後、ひなたはもう一度図書室へ寄った。
自分の質問の下に、新しい付箋が増えていた。
『比べる気持ちは、一人で消そうとしなくてもいいと思います。同じように感じている人と話すと、少し軽くなることがあります』
『消えない気持ちを持ったまま、隣に並んで歩くこともできます』
ひなたは最後の付箋を読んで、鈴とのことを思い出した。
「今日、答えの続きが見つかった気がする」
「聞いてもいいですか」
「比べる相手と、一緒に何かをやってみた」
「どうでしたか」
「気持ちは消えなかった。でも、一人で比べてたときより苦しくなかった」
悠は頷いた。
「消すことより、抱えながら並ぶ方法を見つけたんですね」
「それ、いい言い方だね」
「三上さんの答えです。私は整理しただけです」
ひなたは新しい付箋を取った。
『比べる相手と一緒に弾いてみました。気持ちは消えませんでしたが、一人で比べているときより苦しくなくなりました。同じ気持ちを持つ人と並ぶことはできると分かりました』
質問の下へ貼る。
*
その隣に、また新しい問いが貼られていた。
『毎日同じことを続けているのに、周りが気づいてくれません。気づいてほしいと思うことは、努力を汚すことになりますか』
ひなたはその紙を見て、少し笑った。
昨日までの自分そのままの問いだった。
でも、今の自分なら少しだけ違う返事ができる気がした。
「これ、書きますか」
悠が尋ねる。
「うん」
ひなたは付箋を取った。
『気づいてほしいと思うことは、汚すことじゃないと思います。私も同じことを思っていました。ただ、気づいてもらうために続けるのと、続けた結果として気づいてもらうのは、少し違う気がします』
貼り終えて、ひなたは掲示板全体を見渡した。
いくつもの問い。
いくつもの返事。
同じ学校の、まだ会ったことのない誰かたちが、それぞれの言葉を置いていっている。
「田所くんにも、これ教えようかな」
ひなたが言う。
「陸上部にも似た悩みがありそうですか」
「毎日同じ練習してる人、たくさんいそうだから」
「教えてあげてください」
ひなたは図書室を出た。
正門では、校長が今日も誰かの話を聞いていた。
誰の話かは、ひなたには分からなかった。
それでも、自分と同じように、毎日同じ場所へ通っている誰かがいることだけは、確かだった。




