第34話 頼ってほしい気持ちにも、名前をつけていい
森下莉奈は、自分のことを「頼りになる方」だと思っていた。
誰かが困っていれば気づく。 誰かが黙っていれば、理由を聞かないまま隣にいる。 誰かが泣きそうな顔をしていれば、先にハンカチを出す。
頼られる側でいることは、莉奈にとって自然なことだった。
だから、藤井菜月が去年の秋、文化祭の後片づけを一人で抱えていたときも、莉奈は迷わず手を伸ばした。
「手伝おうか」
菜月は最初、大丈夫と答えた。 けれど莉奈が一度教室を出てから戻ってきたとき、菜月は写真の山を前に困った顔をしていた。
それから二人は、前より少しずつ近くなった。
菜月が「途中から頼んでもいい?」と聞けるようになったのは、莉奈がいたからだと思っていた。 少なくとも莉奈は、そう思って安心していた。
*
三月に近い二月の放課後。
青葉ヶ丘高校二年五組の教室には、まだ数人が残っていた。
「莉奈、今日も図書室行くの?」
菜月が机の中から筆箱を出しながら聞いた。
「うん」
「最近、よく行くね」
「借りたい本があって」
莉奈はそう言って、鞄を持ち上げた。
嘘ではない。 でも、全部でもなかった。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
教室を出る莉奈の背中を、菜月は少しの間見ていた。
*
図書室の入口には、相変わらず小さな木箱が置かれている。
『答えのない質問を入れてください』
莉奈は、その箱の前に立つのが好きだった。
誰が書いたか分からない問い。 誰が書いたか分からない返事。
自分の名前を出さずに、心の中にあるものを一度だけ外へ出せる場所。
莉奈は、まだ一度も紙を入れたことがなかった。
いつも、他の人が書いたものを読むだけだった。
掲示板には、以前貼られていた質問がまだ残っている。
『相談を別の人にもしたら、最初に聞いてくれた友達を裏切ることになりますか。自分だけを頼ってほしいと思うのは、友達としておかしいですか』
莉奈はその文字を、何度も読んでいた。
自分だけを頼ってほしい。
その言葉が、自分の中にある何かへ、まっすぐ触れてくる気がした。
「今日も、それ見てるんですね」
カウンターから白石悠が声をかけた。
「うん」
「答え、書きますか」
「まだ」
莉奈はカウンターへ近づいた。
「これ、誰が書いたの」
「分からないことにしています」
「毎回それだ」
「必要な決まりなので」
莉奈は小さく笑った。
「私、この質問、少し分かる気がする」
「そうですか」
「頼ってほしいって思う気持ち、変なのかな」
悠はすぐには答えなかった。
「莉奈さんは、どうしてそう思うんですか」
莉奈は言葉を探した。
簡単には言えない。
「今度でいい」
「はい」
莉奈は本を一冊も借りずに、図書室を出た。
*
正門の脇では、校長が植え込みの陰で丸くなっていた。
二月の風は冷たく、猫の毛が少し膨らんでいる。
「校長」
莉奈は近づいた。
猫は片目だけ開けた。
「聞いてもいい?」
返事はない。
「私、菜月が誰かに相談してるの見ると、ちょっと嫌なんだよね」
尻尾が一度だけ動いた。
「変だよね。自分が全部聞いてあげたいわけじゃないのに、菜月が私以外に話すと、置いていかれた気がする」
校長は前足を舐め始めた。
「聞いてる?」
猫は答えない。
「まあ、いいけど」
莉奈はしゃがみ込み、猫の頭のあたりへ視線を合わせた。
「私、菜月の力になりたいだけだと思ってた」
そこまで言って、莉奈は自分の言葉に少し驚いた。
だと思ってた。
過去形で言った。
*
その夜、莉奈のスマートフォンに、菜月からメッセージが届いた。
『今日、図書室で本借りた?』
『借りなかった』
『何しに行ったの』
『別に』
素っ気ない返事になった。
自分でも、なぜこんな言い方をしたのか分からなかった。
少しして、続きが届く。
『実は、私も最近、篠原さんとよく話してる』
莉奈の指が止まった。
篠原真琴。
二年五組の同じクラス。
去年、家庭のことで大きく揺れていた菜月を、電話で長く聞いていた人だ。
『家のこと、また少し不安になってて。真琴が聞いてくれてる』
『そっか』
打った文字は、それだけだった。
『莉奈にも言おうか迷ったんだけど』
『別に、迷わなくていいよ』
『ほんと?』
『うん。真琴のほうが詳しいでしょ、そういう話』
送信したあと、莉奈は自分の言葉を読み返した。
冷たい。
自分でもそう思う。
でも、消して書き直す気になれなかった。
*
翌朝。
莉奈はいつもより早く教室へ来た。
窓際の席で、まだ誰もいない教室のホワイトボードを見る。
「森下、早いね」
声をかけてきたのは、佐々木湊人だった。
クラス委員として、いつも一番か二番に来ている。
「今日は目が覚めた」
「珍しいな」
湊人は自分の机へ向かいながら、莉奈をちらりと見た。
「何かあった?」
「別に」
「森下がそう言うときは、大体何かある」
「よく分かるね」
「クラス委員だから」
言い方が、少し前の自分に似ていると莉奈は思った。
頼られたい理由を、仕事のせいにする言い方。
湊人自身が、去年その悩みを一つ超えたことを、莉奈は覚えていた。
「湊人は、誰かに頼られたいって思うことある?」
「今もある」
「今も?」
「前より減ったけど、ゼロにはならない」
湊人は椅子を引いた。
「でも、頼られない時間も一緒に過ごせるようになった」
「一緒に過ごすって?」
「別に何もしてなくても、そこにいていいって思えるようになった、みたいな」
莉奈は、その言葉を頭の中で繰り返した。
*
昼休み。
莉奈は菜月と弁当を広げながら、いつも通りの話をしようとした。
けれど、途中で話が続かなくなった。
「昨日の続きだけど」
菜月が箸を置いた。
「昨日?」
「真琴に相談してること」
「別に、続きの話なんてないよ」
「莉奈、変な感じだった」
「そう?」
「うん。返事が短かった」
莉奈は箸を持ったまま、菜月を見た。
「莉奈が最初に聞いてくれたのは覚えてる。でも、真琴は経験があるから、もっと踏み込んで聞いてくれるの」
「別に、それでいいじゃん」
「よくないみたいな言い方だった」
図星だった。
「莉奈が、私のこと全部聞かなきゃって思ってるなら、それは違うよ」
「思ってない」
「でも」
「思ってないってば」
声が少し強くなった。
菜月は口を閉じた。
教室のざわめきが、二人の間だけ静かなことを際立たせた。
*
放課後、莉奈は一人で図書室へ向かった。
掲示板の前に立つ。
あの質問は、まだ貼られたままだった。
『相談を別の人にもしたら、最初に聞いてくれた友達を裏切ることになりますか。自分だけを頼ってほしいと思うのは、友達としておかしいですか』
その下に、いつの間にか付箋が二枚増えていた。
『友達としておかしいとは思いません。でも、その気持ちを相手にぶつけると、相手が選ぶ場所を狭くしてしまいます』
『頼られる側の人ほど、頼られなくなる怖さを知っていると思います』
莉奈は二枚目を読んで、目を伏せた。
頼られなくなる怖さ。
自分がずっと避けてきた言葉が、そこに書かれていた。
「今日は、書きますか」
悠がカウンターから来た。
「うん」
莉奈は、白い紙を一枚取った。
ペンを持つ。
『友達が私以外にも相談するようになって、置いていかれた気がします。応援したいのに、素直に応援できません。これは、その人のためを思っているんじゃなくて、私が必要とされなくなるのが怖いだけですか』
最後まで書いて、少し息を吐いた。
箱へ紙を入れる。
小さな音が中で響いた。
「入れられましたね」
「入れたら、消える気がしてたけど、そんなことなかった」
「何が変わりましたか」
「まだ、モヤモヤしてる」
「それでも、いいと思います」
「白石さんは、いつも答えを急がないよね」
「急いで出した答えは、間違えやすいので」
莉奈は少しだけ笑った。
「私、誰かに聞いてほしかったのかもしれない」
「今、聞いています」
「白石さんに?」
「はい」
莉奈は驚いた。
「これでいいの?」
「何がですか」
「私だけが特別に聞いてもらってるわけじゃないでしょ。白石さん、みんなの話聞いてるし」
「はい」
「それでも、今は私の話を聞いてる」
「はい」
莉奈は、その単純な答えに救われた気がした。
特別でなくても、今この瞬間は、自分のために時間が使われている。
*
帰り道、正門で校長が待っていた。
いつもの場所。
いつもの丸まり方。
「校長、聞いてくれる?」
猫は目を開けた。
「今日、質問箱に入れた」
尻尾が動く。
「頼られなくなるのが怖いだけかもって」
猫は起き上がり、伸びをした。
「答え、まだ出てないんだけど」
校長は莉奈の足元まで歩いてきて、靴の匂いを嗅いだ。
それから、何事もなかったように植え込みの奥へ戻っていく。
「そっか。今日はそれだけか」
莉奈は苦笑した。
答えをくれない相手に話すことの意味を、少しだけ分かった気がした。
*
その夜、莉奈は菜月へメッセージを送った。
『昼、ごめん』
すぐに既読がついた。
『何が?』
『冷たい言い方した』
『莉奈が謝ることじゃないよ』
『ううん。私、菜月が真琴に相談してるの聞いて、少し寂しかった』
送るのに、いつもより長く時間がかかった。
『それだけ』
『寂しいって思うの、変じゃないよ』
『でも、菜月が誰に相談するかは、菜月が決めることだから』
『莉奈、最近よくそういうこと言うね』
『図書室で覚えた』
『何それ』
『今度説明する』
莉奈は少し笑いながら打った。
『莉奈にも、話したいことたくさんあるよ』
『今日みたいに、別々に話してもいい?』
『うん。真琴には真琴の話、莉奈には莉奈の話』
『分ける必要あるの?』
『分けたいわけじゃないけど、莉奈は莉奈にしか話せないことがあるから』
莉奈は画面を見つめた。
自分にしか話せないこと。
それは、菜月の一番の相談相手であることとは、少し違う意味を持っていた。
『分かった』
短く送る。
『でも、これからも寂しくなったら言う』
『言って』
それだけで、十分だった。
*
翌日の昼休み。
莉奈は図書室へ寄った。
自分の質問の下に、新しい返事が二枚貼られていた。
『必要とされたい気持ちと、相手のためを思う気持ちは、両方本当だと思います』
『特別でなくなることを怖がるより、今隣にいられることを大事にする方が、続きやすいと思います』
莉奈は最後まで読み、新しい付箋を取った。
『菜月に、寂しかったと伝えました。菜月は、私にしか話せないことがあると言ってくれました。特別な聞き手でなくても、今そこにいることに意味があると分かりました』
書いて、質問の下へ貼る。
「答えが出ましたね」
悠が言う。
「まだ半分」
「半分ですか」
「頼られたい気持ち自体は、なくならないと思う」
「なくす必要はないと思います」
「そう?」
「気持ちがあることと、それを相手にぶつけることは別だと、莉奈さんが最初に自分で書いていました」
莉奈は自分の書いた文字を見た。
応援したいのに、素直に応援できない。
その気持ちに、名前をつけただけだ。
消したわけではない。
*
放課後、莉奈は帰り支度をしながら、隣の席の高橋紗良に声をかけた。
「紗良、この前、宮下君に助けてもらったって言ってたよね」
「うん」
「頼りになる人だと思われなくなるの、怖かった?」
紗良は少し驚いた顔をした。
「何、急に」
「聞いてみたくて」
「怖かったよ、正直」
「今は?」
「頼りになる人じゃなくても、いていいって分かった」
湊人と似た言葉だった。
「森下も、そういうこと考えてるの?」
「少しね」
「じゃあ、今度図書室のあの箱、見てみたら」
「見てるよ」
「そうなんだ」
紗良は鞄を持ち上げながら笑った。
「みんな見てるんだね、あれ」
「学校中がそうなってるって、誰かが言ってた」
莉奈も笑った。
*
その日の夕方、莉奈は正門で菜月を待っていた。
「一緒に帰ろう」
「今日はいいの?」
「図書室、寄らない日もあるよ」
「珍しい」
二人並んで歩く。
校長が門柱の上で、二人を見送るように座っていた。
「あの猫、いつもいるね」
菜月が言う。
「学校の主みたいな」
「本物の校長より有名らしいよ」
「知ってる」
二人は笑いながら坂を下りた。
莉奈は、鞄の中の小さなノートに触れた。
図書室で借りた本の代わりに、自分用に買ったノートだった。
まだ何も書いていない。
いつか、そこに何かを書く日が来るかもしれない。
誰かに読ませるためではなく、自分の気持ちに名前をつけるために。
*
翌朝、莉奈が教室へ入ると、湊人が黒板の日直欄を書き直していた。
「森下、おはよう」
「おはよう」
「昨日、何かあった?」
「あった。でも、もう平気」
「そっか」
湊人はそれ以上聞かなかった。
莉奈は自分の席へ座り、鞄からノートを取り出した。
最初のページに、一行だけ書いた。
『頼ってほしいと思う気持ちは、悪いことじゃない。ただ、それを理由に誰かを縛らない』
書き終えて、ノートを閉じる。
窓の外では、朝練を終えた運動部の生徒たちが、昇降口へ向かって走っていた。
その中に、まだ莉奈の知らない誰かの一日が、いくつも始まろうとしていた。
*
昼休み、図書室の掲示板には、新しい質問が貼られていた。
『特別でなくてもいいと分かっても、比べる気持ちが消えません。同じくらい頼りにされている人を見ると、まだ苦しくなります。これは、いつか消えるものですか』
莉奈はその紙の前で足を止めた。
自分が書いたのではない。
けれど、昨日までの自分の続きのような問いだった。
「また次の質問ですね」
悠が言う。
「うん」
「答えますか」
莉奈は少し考えた。
「今の私には、消えるとは言えない」
「では」
「でも、消えなくても、一緒に歩けるかもしれないとは言える」
悠は何も言わず、ただ頷いた。
比べる気持ちにも、名前をつけた人がいる。
その名前を消せるかどうかは、まだ誰にも分からない。
次にその答えを探すのは、まだこの学校のどこかで、その問いを抱えたまま歩いている、名前を知らない誰かだった。




