第33話 抱えきれなかった言葉にも、置いていい境界がある
篠原真琴は、人の話を聞くのが得意だと言われる。
相手が話している途中で口を挟まない。
すぐに答えを出そうとしない。
「でも」や「それくらい」で話を小さくしない。
だからなのか、真琴のところには相談が集まった。
進路のこと。
家族のこと。
友達のこと。
部活のこと。
誰にも言えないから、と前置きされることも多かった。
真琴は、それを信頼されている証拠だと思っていた。
自分にできることは少ない。
けれど、聞くことならできる。
誰かに「助けて」と言えなかった自分が、ようやく見つけた役割でもあった。
だから真琴は、どんな話でも最後まで聞こうとした。
たとえ、聞き終えたあとに自分の胸まで苦しくなっても。
*
藤井菜月から連絡が来たのは、土曜日の夜だった。
『起きてる?』
時計を見ると、午後十一時を少し過ぎている。
『起きてるよ』
すぐに返信した。
『電話してもいい?』
真琴は一瞬だけ迷った。
明日は朝から部活がある。
そろそろ寝るつもりだった。
けれど菜月がこの時間に電話をしたいと言うのは珍しい。
『いいよ』
着信音が鳴る。
「もしもし」
『ごめん、遅い時間に』
「大丈夫。どうしたの」
少しの沈黙。
電話の向こうで、菜月が息を吸う音がした。
『父が、また仕事辞めるかもしれない』
真琴はベッドの端へ座り直した。
「そうなんだ」
『今日、母と喧嘩してた。お金のことも言ってた』
「うん」
『私、聞かないふりしてたんだけど、全部聞こえて』
菜月の声は震えていた。
真琴は相槌を打つ。
何も急がせないように。
『前にもあったの。父が仕事続かなくて、そのたびに家の空気が悪くなって』
「うん」
『母も、私には心配しなくていいって言う。でも、心配しないなんて無理じゃん』
「そうだね」
『真琴に前に話したとき、聞いてくれて楽になったから』
その言葉に、真琴の胸が少し温かくなった。
自分は役に立てた。
そう思った。
『だから今日も、少しだけ聞いてほしくて』
「うん。聞くよ」
*
電話は一時間を過ぎた。
菜月は、父親の話から母親の話へ移り、昔の出来事を話した。
小学生のころ、家賃の支払いが遅れたこと。
両親が数日ほとんど口を利かなかったこと。
母が泣いていたのを見たこと。
父が家を出ていくのではないかと怖かったこと。
真琴は一つずつ聞いた。
菜月は話しながら、何度も「ごめん」と言った。
「謝らなくていいよ」
そのたびに真琴は答えた。
『こんな話、重いよね』
「大丈夫」
『眠くない?』
「平気」
本当は、少し眠かった。
明日の朝は七時に家を出る。
でも、それを言えば菜月は電話を切るだろう。
まだ話したそうだった。
『それでね』
菜月の話は続いた。
真琴は時計を見ないようにした。
*
電話が終わったのは、午前一時四十分だった。
『ありがとう。こんな時間まで』
「ううん」
『少し楽になった』
「それならよかった」
『真琴に話すと安心する』
「いつでも話して」
言ってから、少しだけ胸がざわついた。
いつでも。
自分から口にした言葉だった。
菜月が悪いわけではない。
真琴も、嘘を言ったつもりはなかった。
けれど電話を切ったあと、枕へ頭を置いても眠れなかった。
菜月の父親の低い怒鳴り声を、実際に聞いたわけでもないのに想像した。
泣いている母親。
幼い菜月。
暗い部屋。
払えない家賃。
自分の家ではない。
自分の記憶でもない。
それなのに、目を閉じるたびに場面が浮かんだ。
*
翌朝、真琴は寝坊した。
母に起こされ、慌てて制服へ着替える。
「顔色悪いけど大丈夫?」
「寝るの遅くなっただけ」
「何してたの」
「友達と電話」
「ほどほどにしなさいよ」
「分かってる」
分かっている。
でも途中で切れなかった。
部活では何度もあくびをした。
「篠原、昨日夜更かし?」
同じ文芸部の佐藤結衣が尋ねる。
「ちょっとね」
「珍しい」
「友達の相談聞いてた」
「何時まで?」
「一時半くらい」
結衣は目を丸くした。
「それ、相談っていう時間?」
「困ってたから」
「真琴も今日困ってるじゃん」
冗談のような言い方だった。
真琴も笑った。
「今日だけだから」
でも、本当に今日だけなのかは分からなかった。
*
月曜日。
菜月は普段通り学校へ来た。
「この前はありがとう」
廊下で会うなり言った。
「うん。大丈夫だった?」
「うち?」
「うん」
「父、まだ何も決めてないみたい」
「そっか」
「昨日も少し揉めてたけど」
菜月の表情が曇る。
真琴は、その続きを聞く準備をした。
「また聞いてもらっていい?」
頼まれた瞬間、胸の奥が縮んだ。
また夜遅くまで話すのだろうか。
また眠れなくなるのだろうか。
けれど、菜月は不安そうに真琴を見ている。
「いいよ」
「今日の夜、電話する」
「うん」
*
その日の授業中、真琴は菜月の電話のことを考えていた。
聞きたい。
聞きたくないわけではない。
菜月を一人にしたくない。
でも、また同じ時間まで続いたらどうしよう。
今日は課題もある。
小テストの勉強もしたい。
昨日までの寝不足も残っている。
何時までなら大丈夫なのか。
最初に伝えればいい。
十時半までなら聞ける。
今日は三十分だけなら。
そう言えばいいだけだった。
けれど、話す前から時間を区切るのは冷たい気がした。
菜月の苦しさを時計で測るように思えた。
*
午後十時。
菜月から電話が来た。
「もしもし」
『今、大丈夫?』
「うん」
言ってしまった。
本当は、完全に大丈夫ではなかった。
『父、今日会社に退職届出したって』
「そうなんだ」
『母が怒って、今度こそ離婚するって言ってる』
真琴の胸が沈んだ。
時間を区切る話など、できなくなった。
『私、どっちについていけばいいんだろう』
「まだ、離婚が決まったわけじゃないんだよね」
『でも母は本気だと思う』
「うん」
『父を一人にしたら、何するか分からないし』
「何するか分からないって?」
『前に、いなくなりたいって言ってたことがある』
真琴の背中が冷たくなった。
「それ、菜月だけで抱えない方がいいよ」
『誰に言えばいいの』
「学校の先生とか、親戚とか」
『先生に家庭のこと言うの?』
「うん。危ないかもしれないなら」
『でも父が本気だったか分からない』
「それでも」
『真琴、私の話聞いてくれるだけでいい』
菜月の声が強くなった。
『誰かに言えって言わないで』
真琴は黙った。
聞くだけ。
菜月が望んでいるのは、それだけだ。
けれど今聞いたことを、ただ胸にしまっていいのか分からなかった。
*
電話はまた長くなった。
菜月は、両親のどちらも嫌いではないと言った。
母を助けたい。
父も見捨てたくない。
でも自分には何もできない。
真琴は聞いた。
時計の針が十一時を過ぎる。
十二時を過ぎる。
真琴の頭は重くなった。
菜月の言葉が、胸の中へ一つずつ積み上がる。
『もし父がいなくなったら、私のせいかな』
「菜月のせいじゃない」
『でも、私がもっと父に優しくしてたら』
「違うよ」
『母が出ていったらどうしよう』
「まだ決まったわけじゃないから」
『でも、もし』
もし。
もし。
もし。
答えのない未来が、何度も繰り返される。
真琴は同じ言葉を返し続けた。
大丈夫。
菜月のせいではない。
一人で決めなくていい。
けれど自分でも、その言葉を信じられなくなっていた。
*
電話を切ったあと、真琴は泣いた。
理由は分からなかった。
菜月がかわいそうだからなのか。
何もできない自分が嫌だからなのか。
もう聞きたくないと思ってしまったからなのか。
涙を拭きながら、真琴は自分を責めた。
菜月はもっと苦しい。
家で実際に両親が争っている。
それに比べれば、自分は話を聞いただけだ。
聞いただけで苦しいと言うのは、わがままだ。
*
次の日、真琴は学校を休んだ。
熱はない。
頭痛と吐き気がすると母へ伝えた。
「病院行く?」
「寝たら治ると思う」
布団へ入る。
スマートフォンが震えた。
菜月からだった。
『昨日ごめん。学校来てないけど大丈夫?』
真琴は画面を見たまま返せなかった。
心配させてはいけない。
菜月のせいではないと伝えたい。
『大丈夫。ちょっと寝不足なだけ』
送った。
すぐに返事が来る。
『私の電話のせい?』
『違うよ』
迷わず送った。
完全な嘘ではない。
寝不足の原因は電話だが、菜月を責めたいわけではなかった。
『今日も少し電話できる?』
真琴の指が止まった。
できない。
今日は無理だ。
その一言が書けなかった。
断れば、菜月は自分を責める。
もう話してはいけないと思う。
そして一人で抱える。
『今日は早く寝るから、少しだけなら』
送信したあと、胸が苦しくなった。
*
昼過ぎ、佐藤結衣から連絡が来た。
『体調どう? プリント預かってる』
『ありがとう。明日行けると思う』
『無理すんな』
短いやり取りだった。
真琴は思い切って尋ねた。
『結衣って、人の相談聞いてしんどくなることある?』
返事はすぐに来た。
『あるよ』
あまりにも簡単だった。
『そういうときどうする?』
『今は聞けないって言う』
真琴は画面を見つめた。
『冷たくない?』
『無理して聞いて後で嫌いになる方が嫌じゃない?』
胸に刺さった。
菜月を嫌いになりたくない。
今はまだ嫌いではない。
心配している。
でも、着信音を怖いと思い始めている。
『途中で聞けないって言われたら、相手困るでしょ』
『困るかも。でも真琴一人しか相談相手いない状態の方が危ない』
結衣の言葉はまっすぐだった。
『先生とか大人に繋いだ方がいい話もあるし』
昨日の電話を思い出す。
父親が「いなくなりたい」と言ったこと。
真琴は聞いた。
知ってしまった。
自分一人で持っていていい話ではない。
*
夕方、真琴は図書室の掲示板へ向かった。
学校を休んでいるのに外へ出ることを、母は不思議そうに見た。
「少しだけ学校に用事ある」
「本当に大丈夫?」
「うん」
放課後の図書室には、数人の生徒しかいなかった。
掲示板の前に立つ。
昨日までなかった問いが貼られている。
『友達の話を聞いているうちに、自分まで苦しくなりました。それでも途中で「もう聞けない」と言うのは、相手を見捨てることになりますか』
真琴は息を止めた。
自分が書いたのではない。
でも、自分の問いだった。
返事はまだ三枚だけ。
『聞く側にも限界があります』
『「今日はここまで」と言うことは、見捨てることではありません』
『一人で抱えられない話は、信頼できる大人につないでいい』
真琴は付箋へ手を伸ばした。
書きたい。
でも何を書けばいいか分からない。
「篠原さん」
白石悠がカウンターから声をかけた。
「今日は休みではなかったですか」
「休んだ。でも、これ見たくて」
「誰かから聞きましたか」
「ううん。たぶんある気がした」
悠はそれ以上聞かなかった。
真琴は質問を指した。
「聞けないって言うのは、見捨てること?」
「私は、そうは思いません」
「でも、相手が一人だったら?」
「篠原さんが聞けなくなった瞬間、その人は本当に一人になりますか」
「他に誰もいなかったら」
「では、他の人へつなぐ必要があります」
「本人が嫌がっても?」
「内容によります」
「家族が、いなくなりたいって言ってたら」
口に出した瞬間、約束を破った気がした。
菜月の名前は言っていない。
でも秘密を漏らした。
悠の表情が少し変わった。
「それは、篠原さん一人で抱えない方がいい話です」
「でも、本人は誰にも言わないでほしいって」
「友達の安全や、家族の命に関わる可能性がある話は、秘密より安全を優先していいと思います」
「私が大げさにして、何もなかったら?」
「何もなければ、それが一番です」
真琴は俯いた。
「私は、聞くしかできないと思ってた」
「聞くことも大切です」
「でも、聞いたら最後まで持たないといけない気がする」
「荷物を受け取ることと、一人で運び続けることは同じではありません」
その言葉に、真琴は顔を上げた。
*
悠は図書室の奥にいる顧問へ声をかけた。
真琴は名前を出さずに相談するつもりだった。
けれど話しているうちに、それでは必要な助けにつながらないと分かった。
「藤井菜月さんのことです」
名前を言った。
胸が痛んだ。
「お父さんが仕事を辞めるかもしれなくて、両親が離婚するかもしれないって。前にお父さんが、いなくなりたいと言ったことがあるそうです」
顧問は静かに聞いた。
「今すぐ危険だと感じる発言はありましたか」
「分かりません。菜月も昔の話かもしれないって」
「分かった。教えてくれてありがとう」
「菜月に、私が言ったって伝わりますか」
「必要な確認はします。ただ、できる限り篠原さんが責められない形を考えます」
「でも、裏切ったと思われる」
「そう思われる可能性はあります」
否定してほしかった。
絶対大丈夫だと言ってほしかった。
でも顧問は言わなかった。
「それでも、知らせてくれたことは間違いではありません」
正しいことをしても、嫌われることはある。
その現実が怖かった。
*
その夜。
予定していた時間に菜月から電話が来た。
真琴は深呼吸して出た。
「もしもし」
『体調どう?』
「少しよくなった」
『よかった。昨日の続きなんだけど』
「菜月、その前に話したいことがある」
声が震える。
『何?』
「今日、先生に相談した」
電話の向こうが静かになった。
『何を』
「菜月のお父さんのこと」
『何で?』
「いなくなりたいって言ったことがあるって聞いて、私一人では持てないと思ったから」
『誰にも言わないでって言ったよね』
「うん」
『言ったよね?』
「言った」
『何で勝手なことするの』
菜月の声が大きくなる。
「ごめん」
『先生に何て言ったの』
「聞いたことを、そのまま」
『最悪』
その一言で、真琴の胸が潰れそうになった。
『母に連絡されたらどうするの。父が知ったらどうするの』
「危ないかもしれないと思ったから」
『危なくないって言ったじゃん。昔の話かもしれないって』
「でも、私は怖かった」
『真琴が怖かっただけでしょ』
その通りだった。
菜月のためだけではない。
自分が抱えきれなかった。
『もう真琴には何も話さない』
電話が切れた。
*
真琴はスマートフォンを握ったまま動けなかった。
見捨てた。
裏切った。
菜月が一番恐れていたことをした。
先生へ話した。
秘密を守らなかった。
これで菜月が誰にも相談しなくなったら、自分のせいだ。
涙が出た。
母が部屋へ入ってくる。
「どうしたの」
「何でもない」
「何でもない顔じゃないよ」
真琴は首を振った。
また一人で抱えようとしていることに気づいた。
「友達に、嫌われたかもしれない」
それだけ言うと、母は隣へ座った。
「何したの」
「秘密を先生に言った」
「どういう秘密?」
「命に関わるかもしれない話」
母は少し考えた。
「じゃあ、言わない方がよかったとは言えないね」
「でも、嫌われた」
「嫌われたかどうかはまだ分からないでしょう」
「もう話さないって」
「今は怒ってるんじゃない」
「ずっとかもしれない」
「それでも、真琴が一人で背負って倒れるよりはいい」
大人は簡単に言う。
関係が終わる痛みを引き受けるのは自分なのに。
真琴はそう思った。
でも、母が隣にいることで少しだけ呼吸が楽になった。
*
翌日、菜月は学校へ来ていた。
真琴と目が合うと、すぐに逸らした。
声をかける勇気はなかった。
昼休み、菜月は担任に呼ばれた。
教室へ戻ってきたとき、目が赤かった。
真琴は席を立ちかけた。
でも菜月は別の友達のところへ行った。
近づいてはいけない。
今は。
*
放課後、佐藤結衣が真琴を図書室へ連れていった。
「顔、ずっと死んでる」
「大丈夫」
「その言葉、禁止」
結衣は掲示板の前で止まる。
「これ、真琴でしょ」
例の質問を指す。
「書いてない」
「でも真琴の話」
「うん」
「聞けないって言えた?」
「言えなかった。先生に言った」
「そっちか」
「菜月に嫌われた」
「怒られた?」
「もう話さないって」
「そりゃ今は怒るかもね」
結衣は軽く言った。
「怒るの当然だよ。秘密だったんだから」
「じゃあ私が悪い」
「秘密を破ったことに怒るのと、先生に言った判断が間違いかは別じゃない?」
以前、美羽が知ったことと同じだ。
嘘をついたことと、理由を話さないことは別。
今回も。
菜月が怒ること。
真琴が助けを求めたこと。
両方が同時に存在する。
「私は、もう聞けないって言うだけでよかったのかな」
「それだけじゃ済まない話だったんでしょ」
「でも、電話を切りたかったのは私がつらかったから」
「それの何が悪いの」
「菜月の方がつらい」
「つらさの大きさで、真琴が休んじゃいけない理由にはならない」
結衣は付箋を一枚取った。
『聞く側が苦しくなったら、休んでいい。休むことと、相手の苦しみを否定することは別です』
質問の下へ貼る。
「これ、私の答え」
真琴は読んだ。
休むこと。
そんな簡単なことが、なぜできなかったのだろう。
*
数日間、菜月とは話さなかった。
担任から詳しいことは聞かされなかった。
ただ、菜月の家庭については学校の大人が対応しているとだけ教えられた。
真琴は何度もメッセージを書いた。
『ごめん』
『勝手なことしてごめん』
『もう二度としない』
『でも心配だった』
どれも送れなかった。
「もう二度としない」は約束できない。
同じことがあれば、また大人へ話すかもしれない。
謝ることで、判断そのものまで間違いだったことにしたくなかった。
*
金曜日の放課後。
菜月が真琴の机の前へ来た。
「少し話せる?」
「うん」
二人で人の少ない中庭へ行った。
ベンチには座らず、花壇の前に立った。
「先生から母に連絡がいった」
「うん」
「母、最初はすごく驚いてた」
「うん」
「父とも話したって」
菜月の声は落ち着いていた。
「父、前に言ったこと覚えてた。今はそんなつもりないって」
「そっか」
「でも、カウンセリング受けることになった」
「うん」
「離婚の話は、すぐには決めないって」
真琴は少し息を吐いた。
何も解決したわけではない。
でも、菜月一人の中にあった話が、大人のところへ移った。
「私、まだ怒ってる」
「うん」
「先生に言ったこと」
「ごめん」
「でも、言ってくれてよかったって母は言った」
菜月は俯いた。
「私は、まだそう思えない」
「思わなくていいよ」
「真琴のこと嫌いになったわけじゃない」
胸の奥がほどけた。
「でも、前みたいに何でも話せるかは分からない」
「うん」
「それでもいい?」
「いい」
本当は寂しい。
前のように頼ってほしい。
でも、それを求める権利はない。
「私も、前みたいに全部聞けるか分からない」
真琴は初めて言った。
菜月が顔を上げる。
「つらかった?」
「うん」
「私の話が?」
「菜月が悪いって意味じゃない。でも、私も眠れなくなって、学校休んだ」
「知らなかった」
「言ったら菜月が自分を責めると思って、隠した」
「私と同じじゃん」
「たぶん」
二人は少しだけ笑った。
笑っていい話ではない気もした。
でも、同じ失敗をしていたことが可笑しかった。
*
「これから、どうすればいいんだろう」
菜月が尋ねた。
「話さない?」
「それは嫌」
「私も」
「でも、真琴がつらくなるのも嫌」
真琴は考えた。
「最初に、今日は何分くらいなら聞けるって言う」
「時間で切るの?」
「切る。冷たく見えても」
「途中だったら?」
「続きは次の日。それか、先生やカウンセラーにも話す」
「真琴だけじゃなくて?」
「私だけじゃなくて」
菜月は少し不満そうだった。
「真琴にしか言いたくないこともある」
「それは聞く。でも、私だけでは持てないこともある」
「どんなこと?」
「命に関わること。今すぐ危ないこと。私がどうしていいか分からないこと」
「そのときは先生に言う?」
「できれば先に菜月に言う。一緒に相談しようって」
「勝手には?」
「危ないと思ったら、するかもしれない」
菜月は黙った。
嫌われたくないから、絶対しないとは言えない。
正直に伝えるしかなかった。
「分かった」
菜月は完全には納得していない顔だった。
それでも頷いた。
*
その夜、菜月からメッセージが来た。
『少し話せる?』
真琴は時計を見る。
午後九時半。
明日は休みだが、今日は疲れている。
『電話なら二十分だけ。続きは明日でもいい?』
送信する。
菜月から返事が来るまでの数秒が長かった。
『分かった。二十分でいい』
電話が鳴る。
「もしもし」
『母と話した』
「うん」
菜月は今日あったことを話す。
母が謝ったこと。
大人の問題を背負わせていたと言ったこと。
父も学校の紹介した相談先へ行く予定だということ。
真琴は聞く。
十九分が過ぎた。
『それで、もう一つ』
真琴は時計を見る。
「菜月、もうすぐ二十分」
『あ、うん』
「もう一つは、明日でもいい?」
沈黙。
胸が痛む。
でも、待つ。
『いいよ』
「ごめん」
『謝らなくていい。最初に言ってたから』
「明日の昼なら聞ける」
『じゃあ、十二時くらい』
「うん」
電話を切る。
真琴は罪悪感が来るのを待った。
少しだけ来た。
でも以前ほど大きくなかった。
約束した時間まで聞いた。
続きを拒絶したのではない。
明日へ置いた。
*
翌日の昼。
菜月から電話が来た。
昨日の続きを話す。
真琴は三十分聞いた。
途中で、今すぐ大人へ伝える必要がある内容ではないことを確認した。
菜月も、学校のカウンセラーへ話したことを教えてくれた。
真琴だけではない。
それに安心した。
少し寂しくもあった。
自分だけが特別ではなくなったように感じたからだ。
でも、その寂しさは自分のものだ。
菜月に背負わせる必要はない。
*
月曜日。
真琴は図書室の掲示板へ行った。
質問の下には多くの返事が貼られている。
『「聞けない」ではなく、「今日はここまでなら聞ける」と伝える』
『自分が苦しくなったことを相手の責任にせず、自分の限界として伝える』
『秘密を守れない可能性がある話は、最初に条件を伝える』
『専門家や大人へつなぐことは、押しつけではなく分担です』
『相手を助けたい気持ちと、自分を守ることは両立します』
真琴は最後の付箋を読んだ。
両立する。
どちらかを選ばなければならないと思っていた。
菜月を助けるか。
自分を守るか。
でも本当は、自分を壊さない形でなければ、長く隣にはいられない。
真琴は新しい付箋を取った。
『途中で「今日はここまで」と伝えました。続きの時間を決め、私一人では持てない話は大人にも預けました。聞くのをやめたのではなく、一人で抱えるのをやめました』
質問の下へ貼る。
「答えが見つかりましたか」
悠が尋ねる。
「見つかったというより、決めた」
「何をですか」
「聞けるところまで聞く。持てないものは、誰かと持つ」
「境界ですね」
「境界って、壁みたいで嫌だった」
「今は違いますか」
「壁じゃなくて、扉かもしれない」
開ける時間を決められる。
閉じることもできる。
そして、自分一人では運べないものを外へ渡すこともできる。
*
その隣に、新しい問いが貼られていた。
『相談を別の人にもしたら、最初に聞いてくれた友達を裏切ることになりますか。自分だけを頼ってほしいと思うのは、友達としておかしいですか』
真琴は足を止めた。
菜月がカウンセラーへ話したと聞いたとき、自分は安心した。
同時に、少し寂しかった。
自分だけを頼ってほしい。
そんな気持ちが、確かにあった。
人の話を抱えるのが苦しかったのに。
一人では持てないと分かったのに。
それでも、自分が特別な聞き手でなくなることを寂しいと思った。
「次の問いですね」
悠が言う。
「うん」
「答えられますか」
「今なら、自分だけを頼ってほしいと思う気持ちはあるって書ける」
「それは悪いことですか」
「分からない。でも、その気持ちのために相手を一人にするのは違うと思う」
真琴は付箋へ手を伸ばさなかった。
聞く側の境界を作ったあとには、相談相手を分け合うことへの寂しさが残る。
誰かの一番でいたい気持ちと、誰かを一人で抱えないこと。
次は、その二つの間で揺れる人の物語だった。




