第32話 預けた心配にも、返さなくていい答えがある
藤井菜月は、話したあとに後悔する。
話している最中は、少しだけ楽になる。
胸の奥に溜まっていたものを言葉にして、誰かが頷いてくれると、自分一人で抱えなくてもいいのだと思える。
けれど家に帰り、一人になると、別の考えが浮かぶ。
あんなことを話してよかったのだろうか。
相手は困っていなかっただろうか。
帰ったあとも、自分のことを心配しているのではないか。
それなら、最初から何も言わなければよかった。
菜月はいつも、そこまで考えてから、話したことをなかったことにしたくなる。
*
月曜日の朝。
菜月は教室へ入るなり、窓際の席に座る篠原真琴を見た。
「おはよう」
「おはよう」
真琴はいつも通りだった。
机の上には英語の単語帳が開かれている。
前日の夜、菜月は真琴へ電話をした。
理由は、自分でもうまく説明できない。
父と母が言い争っていた。
珍しいことではない。
怒鳴り声が聞こえるほど激しくもなかった。
ただ、二人とも声を抑えているからこそ、余計に家の中が息苦しく感じた。
菜月は自室に入り、イヤホンをつけた。
それでも廊下を歩く音や、扉が閉まる音が聞こえるたびに、何かが決定的に壊れるような気がした。
気づいたら、真琴へ電話をかけていた。
「どうしたの」
電話に出た真琴へ、菜月は最初、何でもないと言った。
それから少しずつ話した。
両親の仲が最近悪いこと。
父が帰宅しない日が増えたこと。
母が夕食を作らなくなった日があること。
自分のせいではないと分かっていても、二人が口論を始めるたびに、自分が何かしたのではないかと思うこと。
真琴は途中で遮らずに聞いてくれた。
「今日は一人でいられそう?」
「うん」
「寝られそう?」
「たぶん」
「明日、学校で話そうか」
「ううん。もう大丈夫」
本当は大丈夫ではなかった。
でも、それ以上真琴へ預けるのが怖くなった。
電話を切ったあと、菜月はすぐにメッセージを送った。
『さっきの話、気にしないで。本当に大したことじゃないから』
真琴からは、
『分かった。明日ね』
とだけ返ってきた。
その返事が優しかった分、菜月は余計に申し訳なくなった。
*
朝の教室で、真琴は何も聞いてこなかった。
昨日の電話など存在しなかったように、単語帳をめくっている。
菜月は安心した。
同時に、少しだけ寂しかった。
自分から気にしないでと言ったのだから、真琴が何も聞かないのは当然だ。
それでも、本当に気にしなくなったのだろうかと思った。
「昨日、ありがとう」
菜月は小声で言った。
「うん」
「でも、忘れていいから」
真琴の指が止まった。
「忘れた方がいい?」
「だって、心配するでしょ」
「心配はするよ」
菜月の胸が縮む。
やはり話さない方がよかった。
「ごめん」
「何で謝るの」
「だって、心配かけたから」
「菜月が話したから心配したんじゃないよ」
「でも、知らなかったら心配しなかったでしょ」
真琴は少し考えた。
「知らなかったら、心配していないように見えただけだと思う」
「同じじゃない?」
「違うと思う」
菜月には、その違いが分からなかった。
*
昼休み。
菜月は真琴を避けるように、一人で購買へ行った。
自分から話しておいて、避けるのはおかしい。
分かっている。
けれど真琴の顔を見ると、昨日の話を思い出す。
自分の家のことを、友達の頭の中へ置いてしまった。
真琴が授業中に思い出していたらどうしよう。
夜、眠れなかったらどうしよう。
自分の悩みで、相手の時間を奪ったような気がした。
購買でパンを買い、階段の踊り場で食べる。
窓から見える校庭では、運動部が昼休みの練習をしている。
誰かと話したい。
でも、話せばまた心配をかける。
菜月はスマートフォンを開き、真琴との履歴を見た。
『さっきの話、気にしないで』
自分の送った言葉が、逃げ道を塞いでいるように見えた。
*
放課後。
菜月は図書室へ向かった。
目的は本ではない。
掲示板に、最近いくつもの質問が貼られていると聞いたからだ。
中へ入ると、数人の生徒が机で勉強していた。
掲示板の前には誰もいない。
菜月は一枚ずつ問いを読む。
『友達が理由を話してくれないとき、信じて待つだけでいいのでしょうか』
『断る理由を聞かれると、責められている気がします』
『助けてもらったあと、前と同じ関係ではいられない気がします』
そして、その隣に新しい問いがあった。
『話を聞いてもらったあと、その人に心配をかけたことが申し訳なくなります。もう話さない方がいいのでしょうか』
菜月は息を止めた。
自分が書いたのではない。
けれど、まるで昨夜の自分が残したような言葉だった。
返事は三枚あった。
『心配させたくない気持ちは分かります。でも、話さないことで一人になる必要はないと思います』
『相手が聞くと決めたなら、その時間は相手が自分で差し出したものです』
『心配と迷惑は同じではありません』
最後の付箋を、菜月は何度も読んだ。
心配と迷惑は同じではない。
では、何が違うのだろう。
「気になりますか」
声をかけられ、菜月は振り向いた。
図書委員の白石悠が、返却された本を抱えて立っていた。
「これ、誰が書いたの」
「分からないことにしています」
「みんな、それ言うんだね」
「必要な決まりなので」
「返事を書いた人も分からない?」
「分かりません」
「本当は知ってる?」
「知っていても答えません」
菜月は少し笑った。
そのやり取りだけで、張り詰めていたものがわずかに緩んだ。
「心配と迷惑って、違うの?」
菜月が聞くと、悠は本をカウンターへ置いた。
「菜月さんは同じだと思いますか」
「心配をかけたら、その人はずっと考えるでしょ。時間を使わせるし、気持ちも重くする。迷惑じゃない?」
「心配した人が、迷惑だったと言いましたか」
「言わないよ。普通」
「では、迷惑だったと菜月さんが決めたのですか」
言い方は静かだった。
責められているわけではない。
それでも、菜月は答えに詰まった。
「相手が優しいから言わないだけかもしれない」
「その可能性はあります」
「ほら」
「でも、心配してもいいと相手が思っている可能性もあります」
「そんな人いる?」
「いると思います」
「何で」
「大切な人が困っていると知ったら、心配することを自分で選ぶ人もいるからです」
心配することを選ぶ。
菜月は、その考え方をしたことがなかった。
心配は、相手へ勝手に背負わせるものだと思っていた。
*
翌日、真琴は普通に菜月へ声をかけた。
「数学の課題、どこまで?」
「三ページ目」
「早い」
「昨日、家でやることなかったから」
言ってから、菜月は後悔した。
家でやることがなかった。
両親はどうだったのかと聞かれるかもしれない。
真琴はノートを開いただけだった。
「ここ分からない」
「どこ?」
昨日の話題には触れない。
菜月は少し安心する。
けれど問題を教えている間も、真琴が気を遣っているように感じた。
以前なら気にしなかった沈黙まで、昨日の話と結びつけてしまう。
「真琴」
「何?」
「昨日のこと、本当に気にしなくていいから」
「またそれ?」
「だって、今も気を遣ってるでしょ」
「数学聞いただけだけど」
「そういう普通の話をして、私を安心させようとしてない?」
真琴は困った顔をした。
「普通に話してもだめなの?」
「だめじゃないけど」
「じゃあ、どうしたらいい?」
菜月は答えられなかった。
心配しないでほしい。
でも、忘れられるのも寂しい。
普通にしてほしい。
でも、普通にされると無理をしているように見える。
自分でも、何を望んでいるのか分からない。
「ごめん」
また謝った。
真琴は鉛筆を置いた。
「菜月、私が困ってるかどうか、ずっと菜月が決めてない?」
「え」
「電話に出たのも、聞くって決めたのも私だよ」
「でも」
「心配してるのも本当。でも、それを菜月に返して、責任取ってって言うつもりはない」
「返す?」
「私が心配した気持ちを、菜月が何とかしなくていいってこと」
菜月は黙った。
それは考えたことがなかった。
誰かへ悩みを話したら、その人が抱いた気持ちまで自分が引き受けなければならないと思っていた。
*
その日の夜。
父は帰ってこなかった。
母は食卓に二人分の夕食を置いた。
「お父さんは?」
「今日は遅いって」
「泊まり?」
「知らない」
母の声が硬い。
菜月はそれ以上聞かなかった。
食事中、テレビだけが話している。
母はほとんど箸を動かさない。
「お母さん、大丈夫?」
菜月が聞くと、母は笑った。
「大丈夫よ」
その笑い方が、自分と似ていると思った。
大丈夫ではないのに、相手を心配させないために言う大丈夫。
「本当に?」
「子どもが心配することじゃないから」
菜月は胸が痛くなった。
母も、自分に心配をかけたくないのだ。
でも、何も分からないままにされると、もっと不安になる。
「何も教えてくれない方が心配する」
思わず言った。
母は驚いた顔をした。
「菜月には関係ないことだから」
「同じ家にいるのに?」
「あなたが背負う必要はないの」
「背負わせてって言ってない」
声が大きくなる。
「ただ、何もないみたいにされると、自分の考えてることが全部間違ってるみたいで嫌なの」
母は何も言わなかった。
菜月は自室へ戻った。
扉を閉めたあと、自分が真琴にしていたことと同じだと気づいた。
相手が心配する前に、大したことではないと言う。
何も聞かせないことで守ろうとする。
けれど、守られた側は、何も感じなくなるわけではない。
*
菜月は真琴へ電話をかけようとして、やめた。
また心配をかける。
その考えが浮かぶ。
しかし今度は、その次に別の言葉も浮かんだ。
電話に出るかどうかは、真琴が決める。
菜月はメッセージを送った。
『今、少し話せる? 無理なら大丈夫』
すぐに既読がついた。
『十分くらいなら大丈夫』
菜月は電話をかけた。
「何かあった?」
「母と話した」
「うん」
「昨日より悪くなったわけじゃない。でも、何も教えてくれない方が不安だって言った」
「言えたんだ」
「言ったあと、部屋に逃げた」
「それでも言ったでしょ」
「うん」
菜月は一度息を吐いた。
「真琴、今、心配してる?」
「してる」
「迷惑?」
電話の向こうで、真琴が少し黙った。
「その聞き方、ずるい」
「何で」
「迷惑じゃないって言うしかないみたいになるから」
「ごめん」
「でも迷惑じゃないよ」
菜月は混乱した。
「じゃあ何がずるいの」
「私の答えを信じない前提で聞いてること」
「信じてないわけじゃ」
「私が迷惑じゃないって言っても、優しいから言ってるだけって思うでしょ」
図星だった。
「……思う」
「じゃあ、何て答えても同じだよ」
「どうしたら信じられる?」
「今は信じられなくてもいいんじゃない」
「でも」
「菜月が私を心配させたくないのと同じで、私も菜月の話を聞きたい。どっちかだけが正しいわけじゃないでしょ」
真琴の言葉は、すぐには理解できなかった。
「心配してるなら、私が何か返さないといけない気がする」
「返さなくていい」
「でも」
「私が話したときは、菜月が聞いてくれる。それで十分」
「それって、返してることにならない?」
「結果的にはなるかもしれない。でも交換条件じゃない」
菜月はベッドへ座った。
交換条件ではない。
話を聞いてもらったから、同じ量だけ聞き返さなければならないわけではない。
心配をかけたから、すぐに元気になって安心させなければならないわけでもない。
「十分たった?」
「まだ七分」
「数えてたの?」
「菜月が気にすると思ったから」
「気を遣ってるじゃん」
「これは私がしたくてしてる」
真琴が笑った。
菜月も少し笑った。
*
翌朝。
母はいつもより早く起きていた。
食卓にはパンとスープが並んでいる。
「昨日はごめんね」
母が言った。
「何が」
「何も言わない方がいいと思ってた」
菜月は椅子へ座った。
「お父さんと、離婚するの?」
ずっと聞けなかった言葉だった。
母はすぐには答えなかった。
「まだ決めてない」
「そっか」
「お父さんが仕事を辞めようとしてるの。私は反対してて、それで話がうまくいってない」
「仕事?」
「それだけじゃない。でも、今決まってるのはそこまで」
すべてを教えてくれたわけではない。
けれど、何もないことにされるよりはよかった。
「私が聞いても、何もできないけど」
「何かしてほしくて話したんじゃないよ」
「心配するよ」
「うん。すると思う」
母は少し困ったように笑った。
「でも、菜月が心配した気持ちを、私が全部消すことはできないから」
真琴と同じことを言っているように聞こえた。
「じゃあ、どうするの」
「心配させてごめんねとは思う。でも、心配しないでとは言わないようにする」
菜月はスープを一口飲んだ。
すぐに安心できたわけではない。
父が帰らない理由も、両親がこれからどうなるのかも分からない。
それでも、分からないことがあると一緒に認めてもらえたことで、昨日までの孤独は少し薄くなった。
*
学校へ行くと、真琴が教室の入口で待っていた。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日、ちゃんと寝た?」
「それ、聞いていい質問?」
「聞かれたくなかった?」
「ううん。寝た」
「ならよかった」
真琴はそれ以上聞かなかった。
菜月は鞄を置いたあと、自分から話した。
「母が少し教えてくれた」
「うん」
「父が仕事辞めるかもしれないんだって」
「そっか」
「まだ、それ以上は分からない」
「分かった」
「心配?」
「するよ」
真琴は迷わず答えた。
菜月は今度、その言葉を訂正させようとしなかった。
*
昼休み、二人で図書室へ行った。
「ここ?」
真琴が掲示板を見る。
「うん」
例の問いには、返事が増えていた。
『話してくれた人を心配するのは、迷惑だからではなく、大切だからかもしれません』
『聞いた側の心配は、聞いた側の感情です。話した人が全部片づけなくてもいいと思います』
『心配させてしまったと思ったら、「聞いてくれてありがとう」と伝えるだけでも十分です』
『話さない方がいいかどうかではなく、どこまでなら話したいかを考えてもいい』
『相手に余裕があるかを最初に確認する方法もあります』
菜月は最後の付箋を見た。
昨夜、自分は「今、少し話せる?」と聞いた。
真琴は「十分くらいなら」と答えた。
相手の時間を奪うのではなく、相手が差し出せる範囲を選んでもらう。
そうすれば、話したあとにすべてを自分の責任だと思わずに済むのかもしれない。
「これ、菜月のこと?」
真琴が質問を指す。
「私が書いたんじゃないよ」
「でも気になった?」
「うん」
「返事書く?」
菜月は付箋を一枚取った。
『相手に今話せるかを聞いてから、話しました。相手が心配した気持ちまで、自分が全部なくさなくてもいいと言われました。まだ申し訳ない気持ちはありますが、もう話さない方がいいとは思わなくなりました』
書き終えて、問いの下へ貼る。
「長い」
真琴が言う。
「入ったからいいでしょ」
「字、小さくなってる」
「読める」
二人で付箋を見た。
答えは綺麗ではなかった。
申し訳なさが完全に消えたわけでもない。
それでも、もう話さないという結論だけは違うと思えた。
*
その週の金曜日、真琴の方から菜月へ声をかけた。
「今日、少しだけ聞いてほしいことがある」
菜月は一瞬、身構えた。
自分の家のことで真琴を心配させた分、今度は自分がきちんと聞かなければならない。
どれだけ長くても、重くても、途中で困った顔をしてはいけない。
そう思った。
「何時間でも大丈夫」
「そんなにかからないよ」
真琴は苦笑した。
二人は放課後の渡り廊下へ移動した。
真琴が話したのは、来週の委員会発表のことだった。
人前で発表する役を任され、うまくできるか不安だという。
菜月が想像していたより、ずっと小さな悩みに聞こえた。
その瞬間、安心した自分が嫌になった。
「ごめん」
「何が?」
「もっと大変な話だと思ってた」
「大変じゃなかった?」
「真琴にとっては大変だよね」
「うん。私にはね」
真琴は怒らなかった。
「菜月、私が話したら、昨日の分を返さないといけないと思った?」
「少し」
「聞いてもらった分と同じ重さの話をしないと、釣り合わない?」
「そういうわけじゃないけど」
「私は発表が怖い。菜月は家のことが不安。それを比べなくていいでしょ」
菜月は頷いた。
悩みは、重さを量って交換するものではない。
昨日一時間聞いてもらったから、今日は一時間聞かなければならないわけでもない。
相手の悩みが自分より軽く見えたからといって、軽く扱ってよいわけでもない。
「今、何をしてほしい?」
菜月は真琴に尋ねた。
「発表の練習を一回だけ聞いてほしい」
「それだけでいい?」
「うん。それ以上は頼んでない」
真琴は原稿を取り出した。
菜月は最後まで聞き、早口になっていた部分だけを伝えた。
「ありがとう。少し安心した」
「私、ちゃんと聞けた?」
「それ、採点が必要?」
「必要ない?」
「聞いてくれた。それで終わり」
菜月は、肩の力を抜いた。
聞く側になったからといって、完璧な答えを返す必要はない。
話した側も、聞いた側も、相手の気持ちを全部片づけなくていい。
*
数日後。
父が帰ってきた。
夜遅く、玄関の音がした。
菜月は自室から出なかった。
リビングで両親が話す声が聞こえる。
以前なら、イヤホンをつけながら、聞こえない音まで想像していた。
今夜も不安は消えない。
けれど、菜月は真琴へすぐ電話をしなかった。
話さずに耐えようとしたからではない。
今の自分が、話したいのか、ただ不安から逃げたいのかを少し考えたかった。
十分ほどして、メッセージを送る。
『家で話し合いしてる。今夜は大丈夫そう。明日、少し聞いてほしい』
真琴から返事が来る。
『分かった。明日の昼休みでいい?』
『うん』
菜月はスマートフォンを伏せた。
今すぐ心配を消してもらわなくてもいい。
明日、話せる場所がある。
それだけで、今夜を過ごせる気がした。
*
翌日の昼休み。
菜月と真琴は中庭のベンチに座った。
菜月は、父が仕事を辞めたい理由を話した。
職場で部署が変わり、体調を崩していたこと。
母は収入が不安で反対していること。
両親が離婚を決めたわけではないこと。
「昨日、父から聞いた」
「うん」
「心配はまだある。でも、前よりは何を心配してるか分かる」
「分からない心配よりは、少し楽?」
「少しだけ」
「そっか」
真琴はそれ以上、解決策を言わなかった。
父はこうした方がいい。
母は理解するべきだ。
菜月はこう支えればいい。
どれも言わなかった。
「聞いてくれてありがとう」
菜月が言う。
「どういたしまして」
「心配させてごめん、は言わない」
「言いたいなら言ってもいいけど」
「言ったら、真琴が大丈夫って返さないといけなくなるから」
「分かってきたね」
「上から言わないで」
二人で笑った。
*
その日の放課後。
菜月は図書室の掲示板をもう一度見た。
自分の付箋の下に、新しい返事が貼られている。
『心配をなくせなくても、一緒に持つことはできます』
菜月は、その言葉を見つめた。
以前の自分なら、一緒に持つという表現も嫌だったかもしれない。
相手に荷物を持たせることになるからだ。
でも、一人で全部抱えて倒れるより、持てる人が少し手を添える方がいいこともある。
そして、手を添えた人の腕が疲れたら、その人は離していい。
誰かに話すことは、相手へ永遠に背負わせる契約ではない。
「答えは見つかりましたか」
悠が尋ねた。
「少し」
「少しですか」
「また話したあとに後悔すると思う」
「それでも話しますか」
「話したいときは」
「では、十分ではありませんか」
菜月は頷いた。
*
掲示板の端に、新しい問いが貼られていた。
『友達の話を聞いているうちに、自分まで苦しくなりました。それでも途中で「もう聞けない」と言うのは、相手を見捨てることになりますか』
菜月は足を止めた。
今まで、自分は話す側のことばかり考えていた。
相手に余裕があるかを確認すればいい。
相手が自分で聞くと決めたなら、その気持ちを信じればいい。
けれど、聞き始めたあとで、想像していたより重い話だと分かることもある。
一度差し出した手を、途中で離したくなることもある。
そのとき、聞く側はどうすればいいのだろう。
離れることは、自分を守ることなのか。
それとも、相手を一人に戻すことなのか。
「今度は、聞く側の質問ですね」
悠が言う。
「うん」
「答えられそうですか」
菜月はすぐには頷かなかった。
真琴がもし、もう聞けないと言ったら。
自分は傷つくと思う。
見捨てられたと感じるかもしれない。
でも、真琴にも苦しくなる権利がある。
その二つを、どちらか一方だけ正しいことにはできない。
「まだ分からない」
菜月は答えた。
「でも、聞いてくれた人が苦しくなったとき、その人まで黙らせたくない」
預けた心配に、すぐ安心という答えを返さなくてもいい。
けれど、預けられた側がもう持てないと言ったとき、その声をどう受け取るのか。
次は、話を聞くことで苦しくなった人の物語だった。




