第31話 閉じた扉の前にも、待てる距離はある
大村優奈は、待つことが苦手だった。
返事が遅ければ、もう一度送る。
声をかけて反応が薄ければ、聞こえなかったのだと思って近づく。
友達が困っていそうなら、「大丈夫?」だけでは終わらせない。
「本当に?」
「何かあった?」
「私にできることない?」
何度も聞くのは、相手を心配しているからだ。
黙って離れる方が、よほど冷たい。
優奈はずっと、そう思っていた。
藤野美羽に、
「今は、それ以上聞かないで」
と言われるまでは。
*
球技大会の翌朝。
美羽はいつも通り教室へ来た。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶も普通だった。
鞄を置き、教科書を机へ入れる。
昨日、体育館から途中で抜けたことなど、何もなかったように見える。
「頭、大丈夫?」
優奈が聞く。
「うん」
「もう痛くない?」
「大丈夫」
「本当に?」
美羽の手が止まった。
「うん。本当に」
少しだけ、声が硬い。
優奈はそれ以上聞かなかった。
少なくとも、その場では。
*
一時間目が終わる。
美羽は廊下へ出た。
優奈は少し迷ったあと、その背中を追った。
「美羽」
「何?」
「昨日のことなんだけど」
美羽の表情が曇る。
「また?」
「だって、ちゃんと聞いてないから」
「体育館が苦手って言った」
「それは聞いた。でも、何で苦手なのかは」
「言いたくない」
「私、何かした?」
「優奈のせいじゃないって言ったでしょ」
「じゃあ、何で言えないの?」
美羽は廊下の窓へ目を向けた。
「今は、それ以上聞かないで」
はっきりした声だった。
優奈は足を止めた。
美羽はそのまま階段の方へ歩いていった。
*
聞かないでと言われた。
だから聞かない。
簡単なことのはずだった。
けれど優奈の中には、いくつもの疑問が残った。
どこまで聞いてはいけないのか。
今日だけなのか。
明日もなのか。
一週間後ならいいのか。
美羽が本当は話したいのに、うまく言えないだけだったらどうする。
待っている間に、もっと苦しくなったら。
優奈は昼休みまで、何度も美羽の方を見た。
美羽はクラスメイトと普通に話している。
笑ってもいる。
自分にだけ、話したくないのかもしれない。
そう考えると、胸の奥がざわついた。
*
昼休み。
「美羽、購買行く?」
「今日はいい」
「じゃあ一緒に食べよう」
「図書室行くから」
「また?」
思わず言うと、美羽は眉を寄せた。
「行ったらだめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあ行ってくる」
美羽は弁当を持って教室を出た。
優奈は追わなかった。
追えば、また聞いてしまいそうだった。
*
放課後、得点係の記録を提出するため、優奈は職員室へ向かった。
途中で図書室の前を通る。
扉は開いていた。
中を見ると、美羽が掲示板の前に立っている。
白石悠と何か話しているようだった。
自分には話せないことを、白石には話しているのか。
優奈は立ち止まった。
その瞬間、美羽がこちらを見た。
目が合う。
優奈は反射的に笑った。
美羽は小さく会釈しただけだった。
それが、ひどく遠く感じた。
*
家に帰ってからも気になった。
優奈は美羽とのメッセージ画面を開く。
『今日はごめん』
書く。
何に対して謝るのか分からない。
聞きすぎたこと。
疑ったこと。
図書室を見てしまったこと。
文章を消す。
『体調どう?』
これも、また聞くことになる。
消す。
『明日の英語の小テスト、範囲どこだっけ』
普通の話なら送ってもいいかもしれない。
でも、普通を装っていると思われそうだった。
優奈は何も送れなかった。
*
翌日。
美羽とは、必要なことだけ話した。
「プリント回して」
「ありがとう」
「次、移動教室だよ」
「うん」
友達なのに、クラスメイトのようだった。
優奈は耐えられなくなった。
昼休み、美羽が席を立つ前に言った。
「ねえ、怒ってる?」
美羽は少し驚いた。
「何が」
「昨日、聞きすぎたから」
「怒ってない」
「じゃあ何で避けるの」
「避けてない」
「図書室ばっかり行くし、話してくれないし」
「話したくないことがあるだけ」
「私には言えないのに、白石さんには言えるんだ」
言った瞬間、後悔した。
美羽の顔から表情が消えた。
「図書室で何を話したかまで、見てたの?」
「たまたま通っただけ」
「でも、そう思ったんでしょ」
「だって」
「白石さんにも、詳しいことは話してない」
「本当に?」
また聞いた。
美羽は鞄を持った。
「もういい」
教室を出ていく。
優奈は追いかけなかった。
追いかけられなかった。
*
その日の放課後。
優奈は一人で図書室へ行った。
掲示板には、見覚えのある問いが貼られていた。
『友達が理由を話してくれないとき、信じて待つだけでいいのでしょうか。それとも、何度でも聞いた方がいいのでしょうか』
美羽が昨日見ていた質問だろう。
返事はまだ少ない。
『聞かないでと言われたら、聞かない』
『何度も聞くと、話す準備ができる前に追い詰めてしまう』
『待つだけではなく、いつでも話していいと伝える』
『連絡をやめるのではなく、普通の話を続ける』
優奈は最後の付箋を見た。
普通の話を続ける。
昨日、英語の小テストの範囲を聞こうとして、やめた。
あれは送ってよかったのかもしれない。
「質問を書いた人ですか」
白石悠が声をかける。
「違う。でも、答えが欲しい人」
「どの答えが気になりますか」
「これ」
優奈は『待つだけではなく、いつでも話していいと伝える』を指した。
「でも、それも何度も言ったら同じじゃない?」
「何度も言う必要はないと思います」
「一回言って、あとは何もしない?」
「何もしないことと、理由を聞かないことは違います」
悠は掲示板を見た。
「友達として、今までしていたことは続けられます」
「でも、普通に話したら、何もなかったことにしてるみたいで」
「何もなかったことにするのではなく、その話題を相手へ返しておくのだと思います」
「返す?」
「話すかどうかを、相手が決められる場所へ戻すということです」
優奈は完全には理解できなかった。
けれど、少なくとも自分は、美羽が話すかどうかを自分で決めようとしていた。
*
翌朝。
優奈は美羽の机へ行った。
「昨日はごめん」
美羽は教科書から顔を上げた。
「何が」
「聞かないでって言われたのに、また聞いたこと。それから、白石さんに話してるって勝手に決めたこと」
「うん」
「理由は、もう聞かない」
美羽は黙っている。
「話したくなったら聞く。でも話さなくても、私は友達でいたい」
言いながら、重い言葉かもしれないと思った。
友達でいたいと言われると、断りにくいかもしれない。
「それも困る?」
優奈が尋ねると、美羽は少しだけ笑った。
「そこまで考えなくていい」
「昨日、いろいろ考えたから」
「分かった」
「今日、購買行く?」
美羽は一瞬迷った。
「行く」
二人で教室を出た。
昨日までと同じ道だった。
けれど優奈は、理由を聞かなかった。
*
購買には長い列ができていた。
「新しいパン出たらしいよ」
「どれ?」
「いちごクリーム」
「甘そう」
「美羽、甘いの好きじゃん」
「朝からは無理」
「今、昼だけど」
「そうだった」
二人で笑う。
普通の会話だった。
優奈は少し安心した。
でも、美羽が体育館を苦手な理由は分からないままだ。
その分からなさは消えていない。
ただ、会話の真ん中から少し脇へ置かれた。
*
数日後。
体育の授業で、次の単元がバスケットボールだと発表された。
体育館で行う授業だ。
美羽の顔が曇ったのを、優奈は見た。
「先生に言う?」
小声で尋ねる。
美羽は首を振る。
「まだ大丈夫」
優奈は、それ以上聞かなかった。
授業が始まる。
ボールの音。
靴が床をこする音。
笛の音。
クラスメイトの声。
美羽は最初こそ普通に動いていたが、途中から顔色が悪くなった。
優奈は声をかけたかった。
大丈夫?
保健室行く?
先生に言おうか?
でも、聞かないと約束した。
何も言わずにいるべきなのか。
迷っているうちに、美羽が壁際へしゃがんだ。
優奈はすぐ近づいた。
「先生呼ぶね」
「待って」
美羽が袖をつかむ。
「でも」
「少し休めば」
「分かった。ここにいる」
理由は聞かなかった。
離れもしなかった。
美羽の隣へ座る。
しばらくして、美羽が小さく言った。
「音が重なると、何がどこから聞こえるか分からなくなる」
優奈は黙って聞いた。
「頭の中まで揺れる感じがして、息ができなくなる」
「うん」
「小さい頃、駅のホームで動けなくなったことがある。それから、人が多くて音が反響する場所が怖い」
初めて聞く話だった。
優奈は質問したくなった。
何歳のとき?
誰といたの?
病院へ行ったの?
今までずっと?
けれど、どれも飲み込んだ。
「話してくれてありがとう」
それだけ言った。
美羽は壁にもたれた。
「聞かないの?」
「聞いてほしい?」
「今は、これだけでいい」
「分かった」
*
保健室へ行くかどうかを尋ねると、美羽は行くと答えた。
優奈が先生へ伝え、二人で体育館を出る。
廊下へ出た途端、美羽の呼吸が少しずつ落ち着いた。
「一人で行ける」
「本当に?」
言ってから、優奈は口を閉じた。
また確認してしまった。
美羽は苦笑した。
「それは聞いていい」
「違いが難しい」
「私も分からない」
「じゃあ、聞いてほしくないときは言って」
「うん」
「一人で行ける?」
「行ける。でも途中まで一緒に来て」
「分かった」
保健室の前まで歩く。
優奈は理由を聞かなかった。
必要なことは聞いた。
一人で行けるか。
何をしてほしいか。
先生へ何と伝えるか。
待つことは、すべての質問をやめることではなかった。
*
放課後、美羽は早退した。
優奈はメッセージを送る。
『ノート、明日持っていくね。返事いらないよ』
数分後、美羽から返事が来た。
『ありがとう。今日は寝る』
『了解。おやすみ』
それで終えた。
体調は?
病院へ行く?
明日は来られる?
聞きたいことはあった。
でも、今必要なのは返事を求めないことだと思った。
*
翌日、美羽は学校を休んだ。
優奈は授業のノートを取り、配られたプリントをまとめた。
放課後、家へ届けようか迷う。
突然行けば迷惑かもしれない。
でも、明日必要になる。
『プリント、家に届けようか。明日でよければ学校で渡すよ』
選べる形で送った。
美羽から返事が来る。
『明日で大丈夫』
『分かった』
それだけだった。
優奈は少し物足りなく感じた。
もっと頼ってほしい。
届けに来てと言ってほしい。
でも、それは自分の希望だ。
美羽が選んだ答えを変えてはいけない。
*
翌日、美羽は登校した。
「プリント」
「ありがとう」
「昨日、暇だった?」
「寝てた」
「それならよかった」
「よかった?」
「無理して返事してたら嫌だなと思って」
「返事いらないって書いてあったから、楽だった」
優奈はうれしくなった。
「また使おう」
「毎回書くの?」
「必要なときだけ」
「それならいい」
二人で笑った。
*
昼休み、優奈は図書室の掲示板へ行った。
例の質問には、返事が増えている。
『「いつでも聞く」と一度伝え、話題を相手に預ける』
『待つことは、連絡を絶つことではない』
『困っている様子があれば、理由ではなく必要な助けを聞く』
『危険があるときは、秘密より安全を優先して大人へ相談する』
『自分が不安だから聞きたいのか、相手のために必要なのかを考える』
優奈は最後の付箋を何度も読んだ。
自分が不安だから聞きたいのか。
美羽が白石と話しているのを見たとき、優奈は不安だった。
自分だけ遠ざけられたように感じた。
だから聞いた。
美羽を助けるためではなく、自分が安心するために。
「痛い答えですか」
悠が尋ねた。
「最近、この図書室でそれ流行ってる?」
「よく必要になる質問なので」
「これが痛い」
優奈は最後の付箋を指した。
「私は、美羽のために聞いてると思ってた。でも自分が知らないのが嫌だっただけかもしれない」
「両方だったのではありませんか」
「両方?」
「心配もしていた。不安でもあった。気持ちは一つとは限りません」
「じゃあ、どっちを信じればいいの」
「気持ちではなく、今する必要があることを考えてはどうでしょう」
体育館で美羽がしゃがんだとき。
理由を聞く必要はなかった。
先生を呼ぶか、そばにいるかを聞けばよかった。
家へプリントを届けるとき。
体調の詳しい説明は必要なかった。
届けるか、翌日渡すかを選んでもらえばよかった。
聞きたいことと、聞く必要があることは違う。
*
優奈は付箋を一枚取った。
『一度だけ「話したくなったら聞く」と伝えて、あとは普通の話を続けました。困っているときは、理由ではなく、今何をしてほしいかを聞きました』
質問の下へ貼る。
悠が読む。
「答えが見つかりましたか」
「待つだけじゃなかった」
「何をしましたか」
「一緒にいた。普通に話した。必要なことは聞いた」
「では、待つとは何ですか」
優奈は少し考えた。
「相手が話す番を取らないこと」
口にして、自分で納得した。
何もしないことではない。
見捨てることでもない。
ただ、話す順番を無理に奪わない。
*
数日後。
美羽と優奈は放課後の教室に残っていた。
美羽が英語の課題をしている。
優奈は得点係の記録を整理していた。
「優奈」
「何?」
「この前の話、もう少ししていい?」
優奈はペンを置いた。
「うん」
質問はしなかった。
美羽が自分から話し始めるのを待った。
「駅で動けなくなったとき、母がすごく困ってた」
「うん」
「それから人が多い場所へ行くたびに、また迷惑かけるんじゃないかって思う」
「うん」
「体育館が嫌なんじゃなくて、動けなくなった自分を見られるのが嫌だったのかもしれない」
「そっか」
「優奈に言ったら、ずっと気を遣われそうで」
優奈は反射的に否定したくなった。
そんなことしない。
気を遣うのは悪くない。
友達だから当然。
でも、まずは最後まで聞いた。
「今も、少し怖い」
「私に話したことが?」
「うん」
「どうしてほしい?」
美羽は考えた。
「体育館で顔色悪かったら、一回だけ声かけて」
「何て?」
「外出る? って」
「分かった」
「それ以上は、そのとき私が言う」
「うん」
「普通にしてて」
「それが一番難しい」
「何で」
「知ったら気になるから」
美羽が笑った。
「正直」
「でも、普通にする」
「お願い」
頼まれた。
優奈はうれしかった。
うれしいからこそ、それ以上を求めないようにした。
*
翌週の体育。
体育館へ入る前に、優奈は美羽を見た。
声はかけない。
授業が始まる。
しばらくして、笛の音が何度も重なった。
美羽の動きが止まる。
優奈は近づき、一度だけ聞いた。
「外出る?」
「うん」
それだけでよかった。
先生へ伝え、美羽は廊下へ出る。
優奈は一緒に行かなかった。
美羽が一人で大丈夫だと言ったからだ。
見送る。
それは放っておくことではない。
戻ってくる場所を残して待つことだった。
*
放課後の図書室。
掲示板には新しい問いが貼られていた。
『話を聞いてもらったあと、その人に心配をかけたことが申し訳なくなります。もう話さない方がいいのでしょうか』
優奈はその問いの前で立ち止まった。
美羽も、自分へ話したことを後悔する日が来るかもしれない。
心配をかけたと思い、また扉を閉めるかもしれない。
そのとき、自分はどうするのだろう。
「答えられそうですか」
悠が聞く。
「聞いた側としてなら、話してくれてよかったって思う」
「それを書きますか」
優奈は付箋へ手を伸ばしかけ、やめた。
「でも、話した側は、相手の心配まで背負うんだよね」
「そう感じる人もいると思います」
「じゃあ、聞いた人が大丈夫って言うだけでいいのかな」
「それを考える質問ですね」
優奈は頷いた。
閉じた扉の前では、ただ立ち尽くす必要はない。
声をかけていい。
隣に座ってもいい。
普通の話をしてもいい。
けれど、扉を開ける番だけは奪わない。
そして扉が開いたあとには、話してくれた相手へ、聞いた側の気持ちをどう返すかという問いが残る。
次は、心配を預けたことを後悔する人の物語だった。




