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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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30/45

第30話 言えなかった理由にも、置いていける場所はある

 藤野美羽は、断るときに理由をつける。


「今日は塾があるから」

「母に頼まれているから」

「提出物がまだ終わっていないから」


 理由があれば、相手も納得する。


 理由がなければ、ただ嫌だから断ったように見える。


 だから美羽は、頼まれごとを断るたびに、相手が納得しそうな説明を探した。


 本当の理由が言えないときは、別の理由を作った。


 それが嘘だということは分かっていた。


 けれど、何も言わずに断るよりはましだと思っていた。


     *


 昼休み。


 二年三組では、来月行われる球技大会の係決めが続いていた。


「得点係、あと一人」


 黒板の前に立ったクラス委員が言う。


 誰も手を挙げない。


 得点係は試合に出なくていい代わりに、全試合の記録を取る必要がある。


「藤野、お願いできない?」


 隣の席の大村優奈が小声で聞いた。


「私?」


「美羽、字きれいだし。私も得点係だから」


 美羽は黒板を見た。


 球技大会当日は、できれば係をしたくなかった。


 理由は単純だった。


 体育館が苦手だからだ。


 大勢の声が反響する場所に長くいると、頭が痛くなる。


 去年の文化祭でも、体育館のステージ発表を途中で抜けた。


 病気ではない。

 保健室へ相談したこともない。

 ただ、音が重なると息苦しくなる。


 そんなことを言えば、気にしすぎだと思われるかもしれない。


「その日、家の用事があるかもしれない」


 口から理由が出た。


「球技大会の日に?」


「終わったらすぐ帰らないといけなくて」


「係も大会中だけだよ」


 優奈は悪気なく言った。


「それに得点係なら試合に出なくて済むよ。美羽、運動苦手でしょ」


「うん。でも」


「じゃあちょうどいいじゃん」


 逃げ道が狭くなる。


「ごめん。ちょっと無理」


「何で?」


 その一言が、美羽には責められているように聞こえた。


 優奈はただ理由を知りたいだけかもしれない。


 でも、美羽はすぐに答えなければならない気がした。


「その日、祖母の家へ行くから」


 今度は、はっきりした嘘だった。


「そうなんだ。じゃあ仕方ないね」


 優奈はすぐに引いた。


 美羽は安心した。


 同時に、胸の奥が重くなった。


     *


 放課後。


 美羽は昇降口で優奈と別れた。


「じゃあ、また明日」


「うん」


 優奈は部活へ向かう。


 美羽は一人で校門を出た。


 今日は塾もない。

 母から頼まれたこともない。

 祖母の家へ行く予定もない。


 家へ帰るだけだった。


 断った理由が嘘だと知られたわけではない。


 誰にも迷惑はかけていない。


 それでも、歩くたびに罪悪感がついてくる。


 断りたかった。


 ただ、それだけだった。


 それだけでは、理由にならないのだろうか。


     *


 翌朝。


 優奈が教室へ入ってくるなり、美羽へ言った。


「昨日の得点係、篠崎さんがやってくれるって」


「そうなんだ」


「おばあちゃんの家、遠いの?」


 美羽の指が止まった。


「何で?」


「球技大会の日、帰るの大変なのかなと思って」


「あ、うん。少し遠い」


「どの辺?」


 嘘へ新しい嘘を重ねなければならない。


「隣の市」


「電車?」


「車で迎えに来てもらう」


「いいね。うちのおばあちゃん、県外だから全然会えないんだ」


 優奈は自分の祖母の話を始めた。


 美羽は相槌を打ちながら、何度も思った。


 もうやめたい。


 本当は違うと言いたい。


 でも今さら言えば、係を断るために祖母を使ったことになる。


 実際、使ったのだ。


     *


 昼休み、美羽は図書室へ行った。


 本を借りる予定はなかった。


 ただ、教室にいると優奈がまた祖母の話をするかもしれなかった。


 図書室の掲示板には、いくつもの問いと付箋が貼られている。


 その中に、自分の心を読まれたような質問があった。


『断る理由を聞かれると、責められている気がします。でも、理由を言わずに断るのは失礼ですか』


 美羽は長くその紙を見た。


 自分が書いたわけではない。


 けれど、同じことで困っている人がいる。


 返事はまだ一枚だけだった。


『理由を言いたくないことも、理由の一つだと思います』


 美羽は付箋を読んだ。


 理由を言いたくない。


 それだけでいい。


 そんな断り方を、本当に相手は受け入れるだろうか。


「気になりますか」


 カウンターから白石悠が声をかけた。


「これ、誰が書いたか分かる?」


「分からないことにしています」


「本当に分からないの?」


「知っていても答えません」


 美羽は少し笑った。


「便利だね」


「よく言われます」


「理由を言わずに断るのって、失礼じゃない?」


「相手によると思います」


「それじゃ答えにならない」


「では、藤野さんはどう思いますか」


「理由がないと、納得してもらえない」


「納得してもらう必要がありますか」


 美羽は聞き返した。


「断るんだから、あるでしょ」


「お願いした人が、断られたことを残念に思うことはあります」


「うん」


「でも、断る人が相手を納得させる義務まであるのでしょうか」


 美羽は黙った。


 義務。


 その言葉は少し大げさに聞こえた。


 けれど、美羽は毎回、義務のように理由を探していた。


     *


 数日後。


 球技大会の得点係が決まり、クラス委員が担当表を配った。


 美羽の名前はない。


 優奈と篠崎の名前が並んでいる。


「藤野さん、おばあちゃんの家行くんだって?」


 前の席の男子が振り返った。


 優奈から聞いたらしい。


「うん」


「球技大会終わってから? 大変だな」


「まあね」


 また嘘をついた。


 話が広がっている。


 自分でついた嘘なのに、勝手に歩き回っているように感じた。


 その日の放課後、担任にも声をかけられた。


「藤野、球技大会の日は家の都合があるのか」


「はい」


「帰宅時間に配慮が必要なら言えよ」


「大丈夫です」


 先生まで気にしてくれている。


 美羽は申し訳なくなった。


「先生」


「何だ?」


 訂正しようと思った。


 でも教室にはまだ何人か残っている。


 本当は体育館が苦手だと言えば、みんなに聞かれるかもしれない。


「何でもないです」


 結局、言えなかった。


     *


 帰宅すると、母が台所で夕食を作っていた。


「球技大会、来月だっけ」


「うん」


「今年は何に出るの?」


「試合には出ないと思う」


「係?」


「係もしない」


「珍しいね」


 美羽は冷蔵庫から麦茶を出した。


「体育館、うるさいから」


 家では言えた。


 母は鍋を混ぜながら、何でもないように答えた。


「去年も途中で出てたもんね」


「気づいてた?」


「帰ってから頭痛いって言ってたでしょう」


「学校では言ってない」


「言ったら?」


「大げさだと思われそう」


「誰に?」


「みんな」


 母は火を弱めた。


「みんなが何を思うかは、言ってみないと分からないんじゃない」


「言いたくない」


「じゃあ、言わなくてもいいんじゃない」


「でも、理由を聞かれる」


「詳しくは言いたくない、でいいでしょう」


「それで納得する?」


「納得するかどうかは相手の問題じゃない?」


 図書室で悠に言われたことと似ていた。


     *


 翌日、優奈が美羽の机へ来た。


「美羽、球技大会のあと、駅まで一緒に帰れる?」


「祖母の家に行くから無理」


 いつものように嘘を続けようとした。


 けれど、言葉が途中で止まった。


「……ごめん」


「何が?」


「祖母の家へ行くっていうの、嘘」


 優奈の表情が固まった。


 美羽は逃げたくなった。


「何で嘘ついたの?」


「得点係を断りたかったから」


「私、そんなに無理に頼んだ?」


「違う。優奈が悪いんじゃない」


「じゃあ何で」


 また理由を求められる。


 美羽は唇を結んだ。


 ここで本当のことを言えば、嘘をついた理由まで説明できる。


 体育館が苦手だから。

 音が怖いから。

 息苦しくなるから。


 でも、それは言いたくなかった。


「詳しくは言いたくない」


 初めて、その言葉を使った。


 優奈は驚いた顔をした。


「私にも?」


「うん」


「友達なのに?」


 胸が痛んだ。


「友達だから、何でも言わないといけない?」


「そういうことじゃないけど」


「ごめん。嘘をついたことは謝る。でも、本当の理由は今は言いたくない」


 優奈は黙った。


 その沈黙が怖かった。


 怒っている。

 呆れている。

 もう話したくないと思っている。


 美羽の頭の中に、悪い想像が次々浮かぶ。


「分かった」


 優奈が言った。


「納得した?」


「してない」


 正直な答えだった。


「でも、言いたくないなら仕方ない」


 美羽は顔を上げた。


「怒ってる?」


「少し。嘘つかれたから」


「ごめん」


「でも、理由を言わないことには怒ってない」


 二つは別なのだ。


 嘘をついたこと。

 理由を話さないこと。


 美羽はずっと、同じものだと思っていた。


     *


 昼休み、図書室へ行く。


 掲示板の質問には、返事が増えていた。


『「詳しくは言いたくありません」と言ってもいいと思います』


『断るだけなら、理由は必要ありません』


『理由を聞く人は、責めたいのではなく予定を調整したい場合もあります。必要な範囲だけ答える方法もあります』


『嘘の理由を作るより、「今は説明できない」と言われる方が信じられます』


 最後の付箋が胸に刺さった。


 美羽は自分がついた嘘を思い出す。


 祖母の家。

 隣の市。

 車で迎えに来る。


 本当の理由を守るために、別の人まで使った。


「痛い答えですか」


 悠が尋ねた。


「うん」


「どれですか」


「嘘の理由を作るより、説明できないって言われる方が信じられる、ってやつ」


「違いますか」


「違わない」


 美羽は付箋を一枚取った。


『理由を言わずに断ってみました。相手は納得していませんでした。でも、理由を話さないことと、嘘をつくことは別だと分かりました』


 質問の下へ貼る。


「答えが見つかりましたか」


「まだ怖い」


「何がですか」


「理由を言わないと、嫌われるかもしれないこと」


「嫌われない答えを探していますか」


「たぶん」


「その答えは、ないと思います」


 悠は静かに言った。


 冷たい言葉ではなかった。


 どんなに丁寧に断っても、相手が残念に思うことはある。

 怒る人もいる。

 離れていく人もいるかもしれない。


 でも、その可能性をなくすために、すべてを説明し続けることはできない。


     *


 放課後。


 優奈が得点表の練習をしていた。


 線を引き、数字を書く。


「手伝おうか」


 美羽は声をかけた。


「球技大会の係は無理なんでしょ」


「当日は無理。でも今ならできる」


「理由は?」


 優奈は少し意地悪そうに聞いた。


 美羽は一瞬迷い、答えた。


「今日は大丈夫だから」


「それだけ?」


「それだけ」


 優奈は少し笑った。


「じゃあお願い」


 二人で得点表を確認する。


 試合番号。

 チーム名。

 得点。

 勝敗。


 美羽は字を書く。

 優奈は読み上げる。


 しばらくして、優奈が言った。


「本当は、理由知りたいよ」


「うん」


「私が何かしたなら直したいし」


「優奈のせいじゃない」


「それだけは本当?」


「本当」


「じゃあ今はそれでいい」


 今は。


 いつか話せるかもしれない。

 ずっと話さないかもしれない。


 どちらでもいいと思えた。


     *


 球技大会の一週間前。


 担任が体育館での全体説明をすると言った。


 美羽はその時間だけ参加し、途中で教室へ戻りたいと考えた。


 でも、先生へ理由を説明する必要がある。


 職員室の前で何度も立ち止まった。


 病名があるわけではない。

 診断書もない。

 ただ苦手だから、では認めてもらえないかもしれない。


 それでも、美羽は担任へ声をかけた。


「先生、球技大会の説明について相談があります」


「どうした?」


「体育館に長くいると、体調が悪くなることがあります」


「音?」


 美羽は驚いた。


「去年も途中で出ていたからな」


 先生も気づいていた。


「詳しい理由は、今はうまく説明できません」


「分かった」


「それでも、途中で教室へ戻っていいですか」


「保健室でもいい。体調が悪くなる前に言え」


「理由、聞かないんですか」


「必要になったら聞く。でも今は、どうすれば参加できるかを決める方が先だろ」


 美羽は肩の力が抜けるのを感じた。


     *


 球技大会当日。


 体育館には歓声と笛の音が重なっていた。


 美羽はクラスの試合を一本だけ応援した。


 優奈が得点係の席で数字を書いている。


 目が合うと、優奈は小さく手を振った。


 美羽も手を振り返す。


 二試合目が始まる前に、耳の奥が痛くなった。


 美羽は担任へ近づいた。


「先生、戻ります」


「分かった。落ち着いたら来られそうか」


「まだ分かりません」


「分かった」


 理由を追加で求められなかった。


 教室へ戻る。


 静かな室内で、窓を少し開けた。


 遠くから体育館の声が聞こえる。


 ここなら大丈夫だった。


     *


 昼過ぎ、優奈が教室へ来た。


「大丈夫?」


「うん。今は」


「体育館が苦手なの?」


 美羽は少し迷った。


「そう」


「それが理由?」


「それ以上は、まだ言いたくない」


「分かった」


 優奈は隣の席へ座った。


「得点係、篠崎さんと何とかやってる」


「ごめん」


「謝らなくていい。最初から本当のこと言ってくれたら、別の係探したのにとは思うけど」


「うん」


「でも、言えなかったんだよね」


「うん」


「じゃあ次は、嘘じゃなくて、言えないって言って」


「分かった」


 優奈は立ち上がった。


「午後の試合、教室から結果だけ聞く?」


「聞く」


「あとで報告する」


 頼まなくても、優奈は言った。


 美羽はその言葉を受け取った。


     *


 大会の翌日。


 図書室の掲示板には、美羽の付箋の下へ新しい返事が増えていた。


『理由を言わないことは、相手を信じていないことではありません』


『今は言えない、と伝えるのも説明です』


『必要なのは、相手を納得させる理由ではなく、どこまでなら話せるかを自分で決めることだと思います』


 美羽は最後の一枚を読んだ。


 どこまでなら話せるか。


 体育館が苦手。

 長くいると体調が悪くなる。

 でも、それ以上は言いたくない。


 その線を、自分で決めていい。


 美羽は新しい付箋を貼った。


『理由を全部話さなくても、必要なことだけ伝えれば助けてもらえる場合がありました。「今は言えない」も、嘘ではない答えでした』


     *


 その隣に、新しい問いがあった。


『友達が理由を話してくれないとき、信じて待つだけでいいのでしょうか。それとも、何度でも聞いた方がいいのでしょうか』


 美羽は足を止めた。


 今度は、話さない側ではない。


 話してもらえない側の問いだった。


 優奈も、本当は知りたかったと言った。

 何か自分が悪かったなら直したいとも言った。


 待つことは、放っておくことと同じなのか。

 尋ねることは、追い詰めることになるのか。


 美羽には、まだ答えが分からなかった。


「次の質問ですね」


 悠が言う。


「うん」


「答えますか」


「今の私が書くと、待ってほしいって答えになる」


「それも一つの答えです」


「でも、待つ側の気持ちは分からないから」


 美羽は付箋を取らなかった。


 言えなかった理由にも、置いていける場所はある。


 けれど、その場所の前で待っている人にも、物語がある。


 次は、扉を開けてもらえない側が、待つことの意味を考える番だった。


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