第30話 言えなかった理由にも、置いていける場所はある
藤野美羽は、断るときに理由をつける。
「今日は塾があるから」
「母に頼まれているから」
「提出物がまだ終わっていないから」
理由があれば、相手も納得する。
理由がなければ、ただ嫌だから断ったように見える。
だから美羽は、頼まれごとを断るたびに、相手が納得しそうな説明を探した。
本当の理由が言えないときは、別の理由を作った。
それが嘘だということは分かっていた。
けれど、何も言わずに断るよりはましだと思っていた。
*
昼休み。
二年三組では、来月行われる球技大会の係決めが続いていた。
「得点係、あと一人」
黒板の前に立ったクラス委員が言う。
誰も手を挙げない。
得点係は試合に出なくていい代わりに、全試合の記録を取る必要がある。
「藤野、お願いできない?」
隣の席の大村優奈が小声で聞いた。
「私?」
「美羽、字きれいだし。私も得点係だから」
美羽は黒板を見た。
球技大会当日は、できれば係をしたくなかった。
理由は単純だった。
体育館が苦手だからだ。
大勢の声が反響する場所に長くいると、頭が痛くなる。
去年の文化祭でも、体育館のステージ発表を途中で抜けた。
病気ではない。
保健室へ相談したこともない。
ただ、音が重なると息苦しくなる。
そんなことを言えば、気にしすぎだと思われるかもしれない。
「その日、家の用事があるかもしれない」
口から理由が出た。
「球技大会の日に?」
「終わったらすぐ帰らないといけなくて」
「係も大会中だけだよ」
優奈は悪気なく言った。
「それに得点係なら試合に出なくて済むよ。美羽、運動苦手でしょ」
「うん。でも」
「じゃあちょうどいいじゃん」
逃げ道が狭くなる。
「ごめん。ちょっと無理」
「何で?」
その一言が、美羽には責められているように聞こえた。
優奈はただ理由を知りたいだけかもしれない。
でも、美羽はすぐに答えなければならない気がした。
「その日、祖母の家へ行くから」
今度は、はっきりした嘘だった。
「そうなんだ。じゃあ仕方ないね」
優奈はすぐに引いた。
美羽は安心した。
同時に、胸の奥が重くなった。
*
放課後。
美羽は昇降口で優奈と別れた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
優奈は部活へ向かう。
美羽は一人で校門を出た。
今日は塾もない。
母から頼まれたこともない。
祖母の家へ行く予定もない。
家へ帰るだけだった。
断った理由が嘘だと知られたわけではない。
誰にも迷惑はかけていない。
それでも、歩くたびに罪悪感がついてくる。
断りたかった。
ただ、それだけだった。
それだけでは、理由にならないのだろうか。
*
翌朝。
優奈が教室へ入ってくるなり、美羽へ言った。
「昨日の得点係、篠崎さんがやってくれるって」
「そうなんだ」
「おばあちゃんの家、遠いの?」
美羽の指が止まった。
「何で?」
「球技大会の日、帰るの大変なのかなと思って」
「あ、うん。少し遠い」
「どの辺?」
嘘へ新しい嘘を重ねなければならない。
「隣の市」
「電車?」
「車で迎えに来てもらう」
「いいね。うちのおばあちゃん、県外だから全然会えないんだ」
優奈は自分の祖母の話を始めた。
美羽は相槌を打ちながら、何度も思った。
もうやめたい。
本当は違うと言いたい。
でも今さら言えば、係を断るために祖母を使ったことになる。
実際、使ったのだ。
*
昼休み、美羽は図書室へ行った。
本を借りる予定はなかった。
ただ、教室にいると優奈がまた祖母の話をするかもしれなかった。
図書室の掲示板には、いくつもの問いと付箋が貼られている。
その中に、自分の心を読まれたような質問があった。
『断る理由を聞かれると、責められている気がします。でも、理由を言わずに断るのは失礼ですか』
美羽は長くその紙を見た。
自分が書いたわけではない。
けれど、同じことで困っている人がいる。
返事はまだ一枚だけだった。
『理由を言いたくないことも、理由の一つだと思います』
美羽は付箋を読んだ。
理由を言いたくない。
それだけでいい。
そんな断り方を、本当に相手は受け入れるだろうか。
「気になりますか」
カウンターから白石悠が声をかけた。
「これ、誰が書いたか分かる?」
「分からないことにしています」
「本当に分からないの?」
「知っていても答えません」
美羽は少し笑った。
「便利だね」
「よく言われます」
「理由を言わずに断るのって、失礼じゃない?」
「相手によると思います」
「それじゃ答えにならない」
「では、藤野さんはどう思いますか」
「理由がないと、納得してもらえない」
「納得してもらう必要がありますか」
美羽は聞き返した。
「断るんだから、あるでしょ」
「お願いした人が、断られたことを残念に思うことはあります」
「うん」
「でも、断る人が相手を納得させる義務まであるのでしょうか」
美羽は黙った。
義務。
その言葉は少し大げさに聞こえた。
けれど、美羽は毎回、義務のように理由を探していた。
*
数日後。
球技大会の得点係が決まり、クラス委員が担当表を配った。
美羽の名前はない。
優奈と篠崎の名前が並んでいる。
「藤野さん、おばあちゃんの家行くんだって?」
前の席の男子が振り返った。
優奈から聞いたらしい。
「うん」
「球技大会終わってから? 大変だな」
「まあね」
また嘘をついた。
話が広がっている。
自分でついた嘘なのに、勝手に歩き回っているように感じた。
その日の放課後、担任にも声をかけられた。
「藤野、球技大会の日は家の都合があるのか」
「はい」
「帰宅時間に配慮が必要なら言えよ」
「大丈夫です」
先生まで気にしてくれている。
美羽は申し訳なくなった。
「先生」
「何だ?」
訂正しようと思った。
でも教室にはまだ何人か残っている。
本当は体育館が苦手だと言えば、みんなに聞かれるかもしれない。
「何でもないです」
結局、言えなかった。
*
帰宅すると、母が台所で夕食を作っていた。
「球技大会、来月だっけ」
「うん」
「今年は何に出るの?」
「試合には出ないと思う」
「係?」
「係もしない」
「珍しいね」
美羽は冷蔵庫から麦茶を出した。
「体育館、うるさいから」
家では言えた。
母は鍋を混ぜながら、何でもないように答えた。
「去年も途中で出てたもんね」
「気づいてた?」
「帰ってから頭痛いって言ってたでしょう」
「学校では言ってない」
「言ったら?」
「大げさだと思われそう」
「誰に?」
「みんな」
母は火を弱めた。
「みんなが何を思うかは、言ってみないと分からないんじゃない」
「言いたくない」
「じゃあ、言わなくてもいいんじゃない」
「でも、理由を聞かれる」
「詳しくは言いたくない、でいいでしょう」
「それで納得する?」
「納得するかどうかは相手の問題じゃない?」
図書室で悠に言われたことと似ていた。
*
翌日、優奈が美羽の机へ来た。
「美羽、球技大会のあと、駅まで一緒に帰れる?」
「祖母の家に行くから無理」
いつものように嘘を続けようとした。
けれど、言葉が途中で止まった。
「……ごめん」
「何が?」
「祖母の家へ行くっていうの、嘘」
優奈の表情が固まった。
美羽は逃げたくなった。
「何で嘘ついたの?」
「得点係を断りたかったから」
「私、そんなに無理に頼んだ?」
「違う。優奈が悪いんじゃない」
「じゃあ何で」
また理由を求められる。
美羽は唇を結んだ。
ここで本当のことを言えば、嘘をついた理由まで説明できる。
体育館が苦手だから。
音が怖いから。
息苦しくなるから。
でも、それは言いたくなかった。
「詳しくは言いたくない」
初めて、その言葉を使った。
優奈は驚いた顔をした。
「私にも?」
「うん」
「友達なのに?」
胸が痛んだ。
「友達だから、何でも言わないといけない?」
「そういうことじゃないけど」
「ごめん。嘘をついたことは謝る。でも、本当の理由は今は言いたくない」
優奈は黙った。
その沈黙が怖かった。
怒っている。
呆れている。
もう話したくないと思っている。
美羽の頭の中に、悪い想像が次々浮かぶ。
「分かった」
優奈が言った。
「納得した?」
「してない」
正直な答えだった。
「でも、言いたくないなら仕方ない」
美羽は顔を上げた。
「怒ってる?」
「少し。嘘つかれたから」
「ごめん」
「でも、理由を言わないことには怒ってない」
二つは別なのだ。
嘘をついたこと。
理由を話さないこと。
美羽はずっと、同じものだと思っていた。
*
昼休み、図書室へ行く。
掲示板の質問には、返事が増えていた。
『「詳しくは言いたくありません」と言ってもいいと思います』
『断るだけなら、理由は必要ありません』
『理由を聞く人は、責めたいのではなく予定を調整したい場合もあります。必要な範囲だけ答える方法もあります』
『嘘の理由を作るより、「今は説明できない」と言われる方が信じられます』
最後の付箋が胸に刺さった。
美羽は自分がついた嘘を思い出す。
祖母の家。
隣の市。
車で迎えに来る。
本当の理由を守るために、別の人まで使った。
「痛い答えですか」
悠が尋ねた。
「うん」
「どれですか」
「嘘の理由を作るより、説明できないって言われる方が信じられる、ってやつ」
「違いますか」
「違わない」
美羽は付箋を一枚取った。
『理由を言わずに断ってみました。相手は納得していませんでした。でも、理由を話さないことと、嘘をつくことは別だと分かりました』
質問の下へ貼る。
「答えが見つかりましたか」
「まだ怖い」
「何がですか」
「理由を言わないと、嫌われるかもしれないこと」
「嫌われない答えを探していますか」
「たぶん」
「その答えは、ないと思います」
悠は静かに言った。
冷たい言葉ではなかった。
どんなに丁寧に断っても、相手が残念に思うことはある。
怒る人もいる。
離れていく人もいるかもしれない。
でも、その可能性をなくすために、すべてを説明し続けることはできない。
*
放課後。
優奈が得点表の練習をしていた。
線を引き、数字を書く。
「手伝おうか」
美羽は声をかけた。
「球技大会の係は無理なんでしょ」
「当日は無理。でも今ならできる」
「理由は?」
優奈は少し意地悪そうに聞いた。
美羽は一瞬迷い、答えた。
「今日は大丈夫だから」
「それだけ?」
「それだけ」
優奈は少し笑った。
「じゃあお願い」
二人で得点表を確認する。
試合番号。
チーム名。
得点。
勝敗。
美羽は字を書く。
優奈は読み上げる。
しばらくして、優奈が言った。
「本当は、理由知りたいよ」
「うん」
「私が何かしたなら直したいし」
「優奈のせいじゃない」
「それだけは本当?」
「本当」
「じゃあ今はそれでいい」
今は。
いつか話せるかもしれない。
ずっと話さないかもしれない。
どちらでもいいと思えた。
*
球技大会の一週間前。
担任が体育館での全体説明をすると言った。
美羽はその時間だけ参加し、途中で教室へ戻りたいと考えた。
でも、先生へ理由を説明する必要がある。
職員室の前で何度も立ち止まった。
病名があるわけではない。
診断書もない。
ただ苦手だから、では認めてもらえないかもしれない。
それでも、美羽は担任へ声をかけた。
「先生、球技大会の説明について相談があります」
「どうした?」
「体育館に長くいると、体調が悪くなることがあります」
「音?」
美羽は驚いた。
「去年も途中で出ていたからな」
先生も気づいていた。
「詳しい理由は、今はうまく説明できません」
「分かった」
「それでも、途中で教室へ戻っていいですか」
「保健室でもいい。体調が悪くなる前に言え」
「理由、聞かないんですか」
「必要になったら聞く。でも今は、どうすれば参加できるかを決める方が先だろ」
美羽は肩の力が抜けるのを感じた。
*
球技大会当日。
体育館には歓声と笛の音が重なっていた。
美羽はクラスの試合を一本だけ応援した。
優奈が得点係の席で数字を書いている。
目が合うと、優奈は小さく手を振った。
美羽も手を振り返す。
二試合目が始まる前に、耳の奥が痛くなった。
美羽は担任へ近づいた。
「先生、戻ります」
「分かった。落ち着いたら来られそうか」
「まだ分かりません」
「分かった」
理由を追加で求められなかった。
教室へ戻る。
静かな室内で、窓を少し開けた。
遠くから体育館の声が聞こえる。
ここなら大丈夫だった。
*
昼過ぎ、優奈が教室へ来た。
「大丈夫?」
「うん。今は」
「体育館が苦手なの?」
美羽は少し迷った。
「そう」
「それが理由?」
「それ以上は、まだ言いたくない」
「分かった」
優奈は隣の席へ座った。
「得点係、篠崎さんと何とかやってる」
「ごめん」
「謝らなくていい。最初から本当のこと言ってくれたら、別の係探したのにとは思うけど」
「うん」
「でも、言えなかったんだよね」
「うん」
「じゃあ次は、嘘じゃなくて、言えないって言って」
「分かった」
優奈は立ち上がった。
「午後の試合、教室から結果だけ聞く?」
「聞く」
「あとで報告する」
頼まなくても、優奈は言った。
美羽はその言葉を受け取った。
*
大会の翌日。
図書室の掲示板には、美羽の付箋の下へ新しい返事が増えていた。
『理由を言わないことは、相手を信じていないことではありません』
『今は言えない、と伝えるのも説明です』
『必要なのは、相手を納得させる理由ではなく、どこまでなら話せるかを自分で決めることだと思います』
美羽は最後の一枚を読んだ。
どこまでなら話せるか。
体育館が苦手。
長くいると体調が悪くなる。
でも、それ以上は言いたくない。
その線を、自分で決めていい。
美羽は新しい付箋を貼った。
『理由を全部話さなくても、必要なことだけ伝えれば助けてもらえる場合がありました。「今は言えない」も、嘘ではない答えでした』
*
その隣に、新しい問いがあった。
『友達が理由を話してくれないとき、信じて待つだけでいいのでしょうか。それとも、何度でも聞いた方がいいのでしょうか』
美羽は足を止めた。
今度は、話さない側ではない。
話してもらえない側の問いだった。
優奈も、本当は知りたかったと言った。
何か自分が悪かったなら直したいとも言った。
待つことは、放っておくことと同じなのか。
尋ねることは、追い詰めることになるのか。
美羽には、まだ答えが分からなかった。
「次の質問ですね」
悠が言う。
「うん」
「答えますか」
「今の私が書くと、待ってほしいって答えになる」
「それも一つの答えです」
「でも、待つ側の気持ちは分からないから」
美羽は付箋を取らなかった。
言えなかった理由にも、置いていける場所はある。
けれど、その場所の前で待っている人にも、物語がある。
次は、扉を開けてもらえない側が、待つことの意味を考える番だった。




