第29話 差し出したお願いにも、断れる場所は必要だ
三浦茜は、人に頼むのが得意だった。
「これ、お願いしていい?」
「少しだけ手伝って」
「無理ならいいんだけど」
最後にその一言をつければ、相手へ負担をかけないと思っていた。
無理ならいい。
断ってもいい。
ちゃんと逃げ道を作っている。
だから茜は、自分の頼み方に問題があるとは考えたことがなかった。
小川菜月が、三度目の「大丈夫」を言うまでは。
*
放課後の手芸部室では、来週の校内展示へ向けた最後の仕上げが続いていた。
長机の上には、刺繍枠、色とりどりの糸、裁ちばさみ、ボタンの箱が広がっている。
菜月は展示用の名札を一枚ずつ切っていた。
「小川、それ終わったら、こっちのリボンも長さそろえてくれる?」
茜が声をかける。
「うん」
「今日中じゃなくてもいいよ」
「大丈夫」
「本当に無理なら明日でいいから」
「大丈夫だって」
三度目は、少しだけ強い声だった。
茜はそこで黙った。
菜月の横には、まだ縫い終わっていないポーチが二つ置かれている。
菜月自身の作業だ。
茜が頼んだことを引き受ければ、そちらへ取りかかる時間は遅くなる。
「やっぱり、リボンは私がやる」
「何で」
「小川の分も残ってるし」
「大丈夫」
また同じ言葉だった。
けれど今度は、菜月の手が一瞬だけ止まった。
*
帰り道、茜は思い切って聞いた。
「今日、頼みすぎた?」
「別に」
「名札もリボンもやってもらったし」
「必要だったからやっただけ」
「嫌なら断ってよ」
そう言えば、自分の責任ではなくなるような気がした。
けれど菜月は、足を止めた。
「断っていいって言われても、断りにくいときあるから」
「無理ならいいって言ったよ」
「その言い方、断ったら茜が困るって意味にも聞こえる」
「そんなつもりない」
「分かってる。分かってても、断りにくいの」
菜月は再び歩き始めた。
茜はその隣へ並びながら、何も言えなかった。
*
翌日、顧問から展示当日の受付担当を決めるよう言われた。
「最初の一時間、誰か入れる?」
部員たちは顔を見合わせる。
茜は菜月へ頼みかけて、やめた。
菜月は断りにくいのかもしれない。
頼めば、また無理をさせるかもしれない。
「最初、私入れるよ」
菜月が自分から言った。
「でも英語の補習あるって言ってなかった?」
「少しくらい遅れても大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
茜は思わず強く言った。
菜月の表情が硬くなる。
「何で茜が決めるの」
「だって断れないから引き受けてるんじゃないの?」
「今は自分から言った」
「でも」
「断れない人だって決めつけないで」
菜月の声は冷たかった。
茜は何も言えなくなった。
*
頼むと無理をさせる。
頼まなければ、相手が自分で決める機会を奪う。
断れないと考えて止めれば、相手を勝手に弱い人へしてしまう。
昼休み、茜は図書室へ向かった。
掲示板には、新しい問いが貼られていた。
『断るのが苦手な人に頼むとき、どうすれば無理をさせずに済みますか』
その下には、まだ数枚しか返事がない。
『頼まない』
『断っても関係が悪くならないと伝える』
『すぐに返事を求めない』
『ほかにも頼める人がいると伝える』
茜は最初の付箋を見た。
頼まない。
確かに、それなら無理をさせない。
けれど、菜月が自分から受付へ入ると言ったとき、茜はそれを止めた。
頼まないことが、必ず相手を守るわけではない。
「答えが足りませんか」
白石悠が声をかけた。
茜は昨日からのことを話した。
悠は最後まで聞き、静かに尋ねた。
「小川さんが、いつも断れないと言ったのですか」
「断りにくいときがあるって」
「では三浦さんは、小川さんが断れるようにしたいのですか。それとも、引き受けてほしくないのですか」
似ているようで違う問いだった。
「無理してほしくない」
「それは三浦さんの希望ですね」
「悪い?」
「悪くありません。ただ、小川さんの希望と同じとは限りません」
茜は質問箱の紙を取った。
『相手が断れるようにしたいのに、断るかどうかまで自分で決めてしまいます。どうすればいいですか』
書いて箱へ入れる。
*
放課後、菜月へ謝った。
「受付、無理だって勝手に決めてごめん」
「別に」
「怒ってたでしょ」
「少し」
菜月は針を布へ通した。
「断るの苦手なのは本当。でも、何でも断れないわけじゃない」
「うん」
「昨日のリボンは、本当はやりたくなかった」
茜の胸が痛んだ。
「何で言わなかったの」
「茜が困ってたから」
「でも無理ならいいって」
言いかけて、やめた。
「ごめん。あの言い方、よくなかった」
「私も断ればよかった」
二人とも少し黙った。
どちらか一人だけが悪いわけではない。
頼む側と、頼まれる側。
両方に言葉が必要だった。
「受付、本当に入りたい?」
「誰もいないならやってもいい。でも三十分だけ」
「補習は?」
「先生に遅れるって言う」
「じゃあ、三十分だけお願いしていい?」
「うん」
「途中で無理になったら?」
「言う」
「言えなかったら?」
「一回だけ、続けられそうって聞いて」
「分かった」
*
展示当日。
菜月は最初の三十分、受付席に座った。
三十分が過ぎる少し前、茜は戻ってきた。
「続けられそう?」
約束通り、一度だけ聞いた。
菜月は時計を見る。
「あと十分なら」
「分かった。十分後に代わる」
「今すぐじゃなくていいの?」
「小川があと十分って言ったから」
菜月は少し笑った。
十分後、茜は受付を交代した。
無理をさせなかったかどうか、茜には完全には分からない。
けれど茜は尋ねた。
菜月は答えた。
その答えを、茜は勝手に変えなかった。
*
数日後、茜の質問が掲示板へ貼られた。
『相手が断れるようにしたいのに、断るかどうかまで自分で決めてしまいます。どうすればいいですか』
その下には、いくつもの返事があった。
『頼む前に、都合を聞く』
『何を、どのくらいしてほしいか伝える』
『断ったときに理由を求めない』
『一度断られても態度を変えない』
『相手が引き受けたら、その答えも信じる』
『心配なら、途中で一度だけ確認する』
茜は最後の二枚を何度も読んだ。
「どれが一番近いですか」
悠が尋ねた。
「相手が引き受けたら、その答えも信じる」
「なぜですか」
「断れるようにしたいって考えすぎて、引き受けるって答えまで疑ってたから」
「心配だったんですね」
「うん。でも心配だからって、相手の答えを私が決めていいわけじゃない」
茜は自分の質問の下へ、新しい付箋を貼った。
『頼む内容と期限を伝えて、断っても態度を変えない。引き受けてくれたら、その返事も信じることにします。心配なら途中で一度だけ聞きます』
*
翌日の部活。
菜月が鞄を持って立ち上がった。
「今日、先に帰る」
「何かあるの?」
茜は反射的に聞きかけ、止めた。
「分かった。片づけは私がやる」
「理由、聞かないの?」
「言いたかったら聞く」
菜月は少しだけ驚いたあと、言った。
「妹の誕生日。ケーキ取りに行く」
「そうなんだ。おめでとうって言っといて」
「うん」
菜月は部室を出た。
理由を言った。
でも、それは菜月が自分で選んで話したからだった。
*
放課後の図書室。
掲示板には、新しい問いが貼られていた。
『断る理由を聞かれると、責められている気がします。でも、理由を言わずに断るのは失礼ですか』
茜はその前で立ち止まった。
自分も断られたとき、よく尋ねていた。
「どうして?」
「予定があるの?」
「少しだけでも無理?」
理由が分かれば納得できると思っていた。
けれど、相手にとっては、断るだけでも勇気が必要なのかもしれない。
そこへ説明まで求められれば、断るための試験を受けているように感じることもある。
「答えられそうですか」
悠が尋ねた。
「私なら理由があった方が納得できる」
「はい」
「でも、それが相手に必要なことかは分からない」
茜は付箋を取らなかった。
お願いには、断れる場所が必要だ。
そして断る言葉にも、理由を置かなくていい場所が必要なのかもしれない。
その答えは、次の主人公が見つけることになる。




