第28話 一度離した手にも、もう一度伸ばしていい
藤井菜月は、一度断ったことを取り消すのが苦手だった。
手伝おうか、と聞かれて、
「大丈夫」
と答えたなら、最後まで一人でやる。
途中で無理だと分かっても、今さら頼るのは格好が悪い。
最初から素直に頼めばよかったのに、と呆れられるかもしれない。
断った相手に、都合がよすぎると思われるかもしれない。
だから菜月は、一度離した手には、もう触れないようにしていた。
*
二年五組では、文化祭後の展示物を片づける作業がまだ残っていた。
教室の後ろには、写真や模造紙、装飾に使った色画用紙が積まれている。
「藤井、このアルバムの整理、今日中にできそう?」
クラス委員の佐々木湊人が尋ねた。
「できるよ」
菜月は即答した。
写真を日付順に並べ、台紙へ貼り、コメントを書いた付箋を添える。
作業量は多いが、一人でも終わると思った。
「俺、残ろうか」
「大丈夫。佐々木君、委員会あるでしょ」
「終わったら戻れるけど」
「本当に大丈夫」
湊人は少しだけ菜月を見た。
以前なら、もう一度強く手伝うと言ったかもしれない。
けれど今日は、
「分かった。必要になったら言って」
とだけ答えた。
「うん」
菜月は笑った。
必要になっても、言わないだろうと思いながら。
*
放課後。
教室から人が減っていく。
菜月は机を二つ並べ、その上に写真を広げた。
文化祭初日の朝。
受付の前で笑う一年生。
体育館の舞台。
準備中に眠そうな顔をしている実行委員。
片づけをしている紗良と湊人。
似た写真が多い。
どれを残すか決めるだけでも時間がかかった。
三十分ほどして、同じクラスの森下莉奈が教室へ戻ってきた。
「まだやってたの?」
「うん」
「手伝おうか」
「大丈夫」
菜月は考える前に答えた。
莉奈は鞄を持ったまま立ち止まる。
「本当に?」
「あと少しだから」
本当は、まだ半分も終わっていない。
「じゃあ、先に帰るね」
「うん。また明日」
莉奈が教室を出る。
扉が閉まったあと、菜月は写真の山を見た。
頼めばよかった。
そう思ったのは、莉奈の足音が廊下から消えてからだった。
*
莉奈とは、中学一年からの友達だった。
同じクラスになったのは、高校では初めてだ。
中学時代の菜月は、莉奈によく頼っていた。
ノートを見せて。
体育のペアになって。
先生に一緒に聞きに行って。
莉奈はいつも、いいよ、と答えた。
けれど中学三年の夏、一度だけ大きく断られたことがある。
進路希望を決められず、菜月は莉奈へ言った。
「莉奈と同じ高校にしようかな」
莉奈は困った顔をした。
「それ、自分で決めた方がいいよ」
「何で?」
「私が別の学校に変えたら、菜月も変えるの?」
「変えないけど」
「なら、私を理由にしない方がいい」
正しい言葉だった。
それでも菜月には、自分ごと拒まれたように聞こえた。
その日から、頼りすぎないようにした。
一人でできることは一人でする。
一度断ったことは、あとから頼まない。
相手を困らせない。
そうしているうちに、莉奈へ頼む回数はほとんどなくなった。
同じ高校へ進学し、また同じクラスになっても、その癖は戻らなかった。
*
窓の外が暗くなり始めた。
菜月は時計を見た。
下校時刻まで、あと四十分。
アルバムはまだ三分の一ほどしか完成していない。
写真の順番を間違え、一度貼ったものを剥がす。
台紙の端が少し破れた。
「ああ……」
声が漏れた。
このままでは終わらない。
明日に回せばいい。
けれど、今日中にできると言った。
佐々木君にも、莉奈にも。
できなかったと知られるのが嫌だった。
スマートフォンを開く。
莉奈とのメッセージ画面。
『さっきのことなんだけど』
そこまで打って、消した。
『やっぱり手伝ってほしい』
書いた。
送れない。
もう家へ向かっているかもしれない。
予定があるかもしれない。
さっき断ったばかりなのに、勝手すぎる。
画面を閉じた。
*
「まだいたんだ」
声に顔を上げる。
湊人が教室の入口に立っていた。
「委員会は?」
「終わった。資料を取りに戻った」
湊人は机の上を見る。
「終わりそう?」
「大丈夫」
また、その言葉が出た。
湊人はすぐには答えなかった。
「必要になったら言って、って言ったけど」
「うん」
「今は必要じゃない?」
菜月は写真へ目を落とした。
必要だった。
けれど、最初に断った。
「一回断ったから」
「それが何?」
「今さら頼むの、都合よくない?」
湊人は少し考えた。
「俺も前なら、断ったなら最後まで自分でやればって思ったかも」
「今は?」
「状況が変わったなら、答えも変わるだろ」
「でも、最初から分かってたはずなのに」
「分からないこともある」
湊人は空いている椅子を引いた。
「手伝ってほしい?」
菜月は唇を結んだ。
この一言を言えばいい。
「……少し」
「分かった」
湊人は座った。
責めなかった。
呆れなかった。
最初から言えばよかったのに、とも言わなかった。
「何すればいい?」
「写真を日付順に分けてほしい」
「了解」
二人で作業を始めた。
*
湊人は写真の裏の日付を確認しながら、迷ったものを別の山へ置いた。
「これは初日?」
「前日準備」
「何で分かるの」
「高橋さんが腕章つけてないから」
「よく見てるな」
「写真係だから」
「仕事だから?」
菜月は顔を上げた。
「何?」
「高橋もよく言ってたから」
湊人は笑った。
「仕事だからって言えば、自分の気持ちを考えなくて済むって」
「私、別にそんなつもりじゃ」
「うん。俺も頼られたい理由、最初は考えてなかった」
湊人は写真を一枚持ち上げた。
そこには、文化祭当日の教室で、菜月と莉奈が並んで写っている。
「仲いいんだ」
「中学から」
「さっき森下がいたよな」
「うん」
「頼まなかったの?」
「断ったから」
「俺には頼んだのに?」
菜月は答えに詰まった。
湊人には、今までの積み重ねがない。
断っても、関係が壊れる気がしなかった。
莉奈には違う。
「莉奈には、頼りすぎたくないから」
「頼りすぎたことあるの?」
「昔」
菜月は中学三年の進路の話をした。
湊人は写真を並べながら聞いていた。
「森下は、頼るなって言ったの?」
「言ってない。でも、自分で決めた方がいいって」
「進路は自分で決めろって話じゃない?」
「分かってる」
「分かってるけど、怖くなった?」
菜月は頷いた。
「また重いって思われそうで」
「本人に聞いた?」
「聞けない」
「俺も人のこと言えないけど」
湊人は少し笑った。
「聞かないで決めると、相手が選ぶ余地なくなるよ」
宮下君みたいなこと言うね、と菜月が言うと、湊人は嫌そうな顔をした。
「最近、あいつにいろいろ言われたから」
*
二人で作業すると、アルバムは下校時刻の少し前に完成した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
湊人は鞄を持つ。
「次に困ったら、最初から頼めそう?」
「分からない」
「じゃあ、途中からでも」
「それなら、できるかも」
湊人は頷いた。
「途中からでも、頼られた方は意外とうれしいから」
教室を出る前、菜月は莉奈とのメッセージ画面を開いた。
『アルバム、終わった』
送る。
すぐに既読がついた。
『よかった。一人でできた?』
菜月は指を止めた。
『途中で佐々木君に手伝ってもらった』
『最初から手伝えばよかったのに』
胸が少し痛んだ。
やっぱり、そう思われる。
続けてメッセージが来た。
『私も戻ろうか迷ってた』
『何で?』
『あと少しって顔じゃなかったから』
『じゃあ戻ってくれればよかったのに』
送ってから、自分の勝手さに気づいた。
『菜月が大丈夫って言ったから』
画面の文字を見つめる。
莉奈も、菜月の答えを受け取っただけだった。
*
翌日。
菜月は朝から、莉奈へ話しかける機会を探していた。
けれど、何と言えばいいのか分からない。
昨日は戻ってきてほしかった。
でも、自分で断った。
今さら責める権利はない。
昼休み、莉奈が一人で教室を出た。
菜月はあとを追った。
「莉奈」
「何?」
「昨日、ごめん」
「何が?」
「手伝おうかって言ってくれたのに断ったこと」
「別に謝らなくていいよ」
「でも、本当は手伝ってほしかった」
莉奈は少し驚いた。
「何で断ったの?」
「一人でできると思ったのと……頼りすぎたくなかったから」
「私に?」
「うん」
菜月は中学三年のことを話した。
莉奈はしばらく黙っていた。
「私、そんなつもりじゃなかった」
「分かってる」
「分かってないから、ずっと頼まなかったんでしょ」
菜月は何も言えなかった。
「進路は、菜月が後悔しないように自分で決めてほしかっただけ」
「うん」
「でも、相談するなとは言ってない」
莉奈の声は怒っているというより、寂しそうだった。
「高校に入ってから、菜月、何でも一人でやるようになった」
「迷惑かけたくなかった」
「私は、頼られなくなって楽になったように見えた?」
「分からない」
「少し寂しかった」
菜月は顔を上げた。
「昨日も、戻ろうと思った。でも、大丈夫って言ったから、戻ったら信用してないみたいで嫌かなって」
「戻ってほしかった」
「言ってよ」
莉奈は困ったように笑った。
「一度断っても、あとから言ってくれていいよ」
「わがままじゃない?」
「予定があったら断る。でも、断るかどうかは私が決める」
湊人と同じだった。
相手が選ぶ余地を残す。
頼むことは、必ず引き受けさせることではない。
「じゃあ、次から言う」
「次から?」
「今も一つある」
「何?」
「昼ごはん、一緒に食べてほしい」
莉奈は笑った。
「それは頼まれなくても一緒に食べるつもりだった」
*
放課後、二人で図書室へ行った。
掲示板には、あの質問が貼られている。
『一度断ったあとで、やっぱり助けてほしいと言うのは、わがままですか』
その下には、いくつもの付箋が増えていた。
『事情が変わることはあります』
『断ったときの気持ちと、今の気持ちが違ってもいい』
『頼まれた側にも、引き受けるか断るかを選ぶ権利があります』
『もう一度言ってくれた方が、うれしい人もいます』
『一度の返事を、一生守らなくてもいいと思います』
菜月は最後の付箋を長く見た。
「これ、私が書いた質問みたい」
「菜月じゃないの?」
「違う」
同じことで悩んでいる人がいた。
白石悠がカウンターから声をかけた。
「答えが書けそうですか」
「はい」
菜月は付箋を一枚取った。
『一度断っても、あとから頼んでいいと言ってもらえました。相手が断るかどうかまで、自分で決めつけないようにしたいです』
書いて貼る。
「誰かに言えたんですね」
「言えました」
「すぐ言えましたか」
「昨日は言えなくて、今日」
「それでも届きましたか」
「はい」
悠は小さく頷いた。
*
図書室を出たあと、莉奈が言った。
「ところで、写真係の報告書も残ってるよね」
菜月は足を止めた。
「何で知ってるの」
「先生が言ってた」
「今日やる」
「手伝おうか」
菜月は反射的に、大丈夫と言いかけた。
言葉を飲み込む。
報告書は一人でも書ける。
でも、写真を選んだ理由について、誰かの意見がほしい。
「最初の半分は一人でやる」
「うん」
「分からなくなったら、途中から頼んでもいい?」
「もちろん」
それでよかった。
最初から全部を頼らなくてもいい。
最後まで一人で抱えなくてもいい。
一度離した手へ、もう一度伸ばしてもいい。
*
数日後。
菜月は図書室の掲示板で、新しい問いを見つけた。
『助けてもらったあと、前と同じ関係ではいられない気がするのは、どうしてですか』
菜月はその紙を読んだ。
頼る前と、頼ったあと。
相手に弱いところを見せたことで、何かが変わってしまうのではないか。
借りができる。
対等ではなくなる。
今まで通り笑えなくなる。
少し前の自分なら、よく分かっただろう。
今も、完全には分からないわけではない。
けれど、この問いを書いた人の事情を、菜月は知らない。
「すぐ答えないんですか」
悠が尋ねた。
「私の答えは書けるけど、この人が怖いものとは違うかもしれないから」
「では、どうしますか」
「少し考えます」
莉奈が隣から掲示板を見た。
「私も考えていい?」
「うん」
二人で同じ問いの前に立つ。
助けてもらったことで変わる関係もある。
でも、変わることは、壊れることと同じではない。
そのことを次に知るのは、まだ名前の分からない誰かだった。




