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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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第24話 仕事で差し出した手にも、温度は残っている

 高橋紗良は、「ありがとう」と言われるのが少し苦手だった。


 嫌いではない。


 助かった、と言われればうれしい。

 頼りになる、と言われれば、悪い気はしない。


 ただ、その言葉をまっすぐ受け取ろうとすると、胸のどこかが落ち着かなくなる。


 だから紗良は、いつも同じように返す。


「実行委員だから」

「当番だから」

「仕事だから」


 そう言えば、自分がしたことを特別なものにしなくて済む。


 文化祭の準備中、一年生が階段で大きなパネルを落としかけたときもそうだった。


 後ろから支えて、下まで一緒に運んだ。

 それだけだ。


 けれど数日後、その一年生はわざわざ紗良を呼び止めた。


「この前は、ありがとうございました」


 佐藤結衣という名前だった。


 紗良はいつものように言った。


「実行委員だから、困ってる人を助けるのも仕事」


 それでも結衣は、


「仕事でも、助かりました」


 と笑った。


 その言葉だけが、文化祭が終わってからも紗良の中に残った。


     *


 文化祭翌日の放課後。


 二年五組の教室には、まだ祭りの残骸が残っていた。


 窓際に立てかけられた看板。

 机の下に転がった輪ゴム。

 壁に残った両面テープの跡。


 教室の生徒たちは、昨日までの騒がしさが嘘のように、疲れた顔で片づけている。


「高橋、これどこに持ってけばいい?」


 クラス委員の男子が、折りたたんだ模造紙を持ってきた。


「美術準備室。再利用するって先生が言ってた」

「了解」


「あと、段ボールは紐でまとめて。燃えるごみに混ぜないで」

「はいはい、実行委員様」


「様はいらない」


 紗良は笑って、廊下へ出た。


 文化祭実行委員としての仕事は、当日が終わっても続く。

 備品の返却。

 忘れ物の確認。

 反省用紙の回収。

 校内掲示の撤去。

 先生への報告。


 仕事が残っている方が、紗良は楽だった。


 やることが決まっている。

 誰かが困っていれば助ける。

 終わったら次へ進む。


 それだけでいい。


「高橋さん」


 階段の前で、同じ実行委員の宮下蓮が呼び止めた。


 腕には、外したばかりの腕章が巻かれている。


「体育館の鍵、返した?」

「まだ。最後に倉庫を見る」

「俺、行こうか」

「大丈夫」

「でも一人じゃ」


「大丈夫だって」


 少し強く言うと、蓮は肩をすくめた。


「そうやって全部一人でやるから、終わらないんだよ」

「終わらせるからいいの」

「昨日も最後まで残ってたでしょ」

「実行委員なんだから当然」


 また、その言葉を使った。


 蓮は何か言いたそうな顔をしたが、結局「じゃあ先に職員室行く」とだけ言って去った。


 紗良はその背中を見送った。


 手伝うと言われたのに、断った。

 自分でも、少し面倒な性格だと思う。


 でも、頼んでしまったら、相手に借りができる。


 借りを返せるうちはいい。

 返せないものが残るのは、嫌だった。


     *


 紗良がそう考えるようになったのは、中学二年の冬からだった。


 父が入院した。


 大きな病気ではなかった。

 二週間ほどで退院できる手術だった。


 けれど、その二週間、家の中の役割はすべて紗良と母に降りかかった。


 朝食の準備。

 洗濯物。

 弟の忘れ物確認。

 病院への着替えの持ち込み。

 学校への連絡。


 母は仕事を休めなかった。


「紗良、悪いけど今日も悠斗のことお願い」


 母は何度もそう言った。


「大丈夫」


 紗良も何度も答えた。


 大丈夫ではなかった日もあった。


 部活に遅れた。

 宿題を忘れた。

 家に帰ると、弟が給食袋を学校に置いてきたと泣いていた。


 それでも、誰かに相談するという考えはなかった。


 友達に話せば、きっと心配される。

 先生に言えば、気を遣われる。

 親戚に頼れば、母が申し訳なさそうな顔をする。


 だから紗良は、自分でやった。


 父が退院した日、母は言った。


「紗良がいてくれて助かった」


 父も言った。


「頼りになるな」


 弟は何も言わなかったが、紗良の袖をつかんで眠った。


 うれしかった。


 同時に、もう弱音を吐けないと思った。


 頼りになる人は、助けてもらう側にはなれない。


 そう決めたのは、誰でもなく紗良自身だった。


     *


 文化祭の片づけが終わって一週間。


 実行委員会では最後の反省会が開かれた。


 会議室の長机に、二年と三年の委員が並ぶ。


 担当教師がプリントを配った。


「今年は大きな事故もなく終わりました。皆さん、本当にお疲れさまでした」


 拍手が起きた。


 紗良も手を叩いた。


「ただし、反省点もあります。特に準備期間の後半、一部の委員に仕事が集中しました」


 担当教師の視線が、紗良の方へ向いた気がした。


「来年度は、担当を明確にし、早めに周囲へ助けを求めること。責任感があるのは良いことですが、一人で抱えることとは違います」


 紗良はプリントを見た。


 余白に、小さく『共有』と書かれている。


 蓮が隣から小声で言った。


「ほら」

「何が」

「先生も言ってる」

「別に私だけの話じゃないでしょ」

「半分くらい高橋の話」


「うるさい」


 反省会の最後に、来年度へ向けた意見を書くことになった。


 紗良はすぐに書き始めた。


『備品担当の人数を増やす』

『各クラスとの連絡手段を統一する』

『閉会後の撤去手順を事前に配布する』


 三行書いたところで、ペンが止まった。


『困ったときは、早めに助けを求める』


 書こうとして、やめた。


 それは制度ではない。

 自分自身の問題だ。


     *


 反省会の帰り、紗良は図書室へ寄った。


 返却期限を過ぎた本が鞄に入っていたからだ。


 貸出カウンターには、白石悠がいた。


「返却です」

「ありがとうございます」


 悠は本のバーコードを読み取った。


「文化祭、お疲れさまでした」

「そっちも」

「図書室は展示だけだったので、実行委員よりは楽でした」


「楽じゃないでしょ。質問箱、文化祭中も人多かったし」


 悠は少し笑った。


「見てたんですか」

「校内回ってたから」


 カウンターの横には、例の木箱が置かれている。


『答えのない質問を入れてください』


 紗良は以前から知っていた。

 けれど、自分が使うものだとは思ったことがなかった。


 掲示板には、見覚えのある質問が貼られている。


『名前を知らなくても、ありがとうと言っていいですか』


 その下に、青い付箋。


『言っていいと思います。名前より先に、気持ちが届くこともあります』


 紗良は、階段で助けた一年生を思い出した。


 佐藤結衣。


 あの子も、この箱を使ったのだろうか。


「その質問、文化祭の前に入ったんですか」

「はい」

「誰が書いたかは言えないよね」

「匿名なので、私も確実には分かりません」


「確実には?」

「字や話した内容で、なんとなく分かることはあります。でも、分からないことにしています」


 悠は本を書架へ戻す準備をしながら尋ねた。


「高橋さんも、何か入れますか?」

「ないよ、質問なんて」

「そうですか」


 悠はそれ以上勧めなかった。


 そのことが、なぜか紗良には引っかかった。


 大丈夫ですか、と聞かれれば、大丈夫と答える。

 手伝いますか、と言われれば、断る。


 なのに、何も聞かれなければ、少しさみしい。


 勝手な話だと思った。


     *


 十一月の最初の月曜日。


 紗良は朝から頭が重かった。


 熱はなかった。

 咳もない。

 ただ、身体が鉛のように重い。


 前日の夜、弟の悠斗が高熱を出した。


 母は夜勤だった。

 父は出張中。


 紗良は一晩中、弟の様子を見ていた。


 水を替え、冷却シートを貼り、何度も体温を測った。

 朝方には熱が少し下がった。


 母が帰宅し、「学校休んでもいいよ」と言った。


「大丈夫」


 いつものように答えた。


 学校では、一時間目から数学の小テストがあった。


 問題文を読んでも、数字が頭に入らない。

 途中で一度、ペンを落とした。


 隣の蓮が拾おうとしたが、紗良の手が先に伸びた。


「平気?」

「平気」


 三時間目、保健体育の授業で立ちくらみがした。


 壁に手をついたところを、教師に見つかった。


「高橋、顔色悪いぞ」

「寝不足だけです」

「保健室行け」

「授業出られます」


「行きなさい」


 強い口調で言われ、紗良はしぶしぶ体育館を出た。


 廊下を歩きながら、腹が立った。


 自分は倒れていない。

 熱もない。

 少し眠いだけだ。


 保健室に着く前、階段の踊り場で足が止まった。


 視界の端が暗くなった。


 手すりへ伸ばした手が、うまく届かない。


「高橋!」


 後ろから声がした。


 次の瞬間、肩を支えられた。


 蓮だった。


「何で来たの」

「先生に付き添えって言われた」

「一人で行ける」

「行けてないじゃん」


 言い返そうとしたが、声が出なかった。


 蓮は紗良の腕を自分の肩へ回した。


「重かったら言って」

「その台詞、逆じゃない?」

「しゃべれるなら大丈夫そうだな」


 悔しかった。


 でも、腕を離すことはできなかった。


     *


 保健室のベッドで目を覚ますと、時計は昼休みを指していた。


 カーテンの向こうで、養護教諭が誰かと話している。


「寝不足でしょう。熱はないけど、今日は無理しない方がいい」

「家に連絡しました?」

「お母さんにつながりました。弟さんのことも聞きました」


 紗良はカーテンを開けた。


「言ったんですか」

「必要なことだから」


「母は仕事明けで寝てるんです。呼ばなくていいです」

「迎えはお母さんではなく、おばあさまが来てくれるそうよ」


「祖母にまで」


 声が強くなった。


 養護教諭は静かに言った。


「高橋さん。助けてもらうことは、迷惑をかけることと同じではないよ」


「でも、みんな予定があるのに」

「あなたにも予定があったでしょう。それでも弟さんを看病した」


「家族だからです」

「おばあさまにとって、あなたも家族でしょう」


 紗良は黙った。


 カーテンの外には、蓮がいた。


 壁際の椅子に座り、紗良の鞄を膝に置いている。


「まだいたの?」

「鞄届けたら帰ろうと思ったけど、先生に起きるまで待ってって」


「昼休み終わるよ」

「だから何」

「授業」

「午後の最初、自習」


「そういう問題じゃない」


 蓮はため息をついた。


「高橋ってさ、助けるときは勝手に助けるのに、自分が助けられると怒るよね」

「怒ってない」

「怒ってる」


「頼んでないから」

「頼まれてなくても、倒れそうなら支えるでしょ」


 その言葉に、紗良は返事ができなかった。


 自分も、階段で結衣を支えた。

 頼まれていない。

 仕事だから、と言った。


 けれど、本当に仕事だけだっただろうか。


 目の前で誰かが落ちそうになったから、身体が動いた。


 蓮も同じだったのかもしれない。


     *


 祖母の車で帰る途中、紗良は助手席で窓の外を見ていた。


「ごめんね、急に」

「何が?」


 祖母は笑った。


「迎えに来てもらって」

「孫を迎えに来るのに、謝られる筋合いはないよ」


「でも、買い物の途中だったでしょ」

「買い物は明日でもできる」


 信号が赤になった。


 祖母は紗良の顔を見た。


「紗良は昔から、何でも自分でやろうとするね」

「そんなことない」

「小さい頃、靴ひも結べなくても誰にも頼まなかった」


「覚えてない」

「泣きながら一時間かけて結んでたよ」


 紗良は少し笑った。


「それ、頑固なだけじゃん」

「そうとも言う」


 祖母は青信号で車を進めた。


「でもね、助けてもらったら、同じだけ返さなくてもいいんだよ」

「借りっぱなしになる」

「人間同士なんて、たいてい借りっぱなしだよ」


「それでいいの?」

「いいんじゃない。私だって、昔助けてもらった人全員には返せてない」


「じゃあ、どうするの」

「別のときに、別の誰かを助ける」


 紗良は窓の外を見た。


 街路樹の葉が、少しずつ黄色くなっている。


 別の誰かに返す。


 図書室の質問箱に、似た答えがあった気がした。


 借りた勇気は、同じ相手へ返さなくてもいい。

 返せなかったものには、新しい行き先がある。

 名前を知らない優しさも、次の誰かへ届く。


 紗良はそれらを、他人の話として読んでいた。


     *


 翌日、紗良は学校を休んだ。


 昼前まで眠った。


 目を覚ますと、スマートフォンに何件かメッセージが入っていた。


 クラスのグループ。

 委員会の連絡。

 蓮からの個別メッセージ。


『数学の小テスト、追試だって』

『プリント机に入れといた』

『返信いらない』


 最後の一文を見て、紗良は少し笑った。


 返信はいらないと言われると、返信したくなる。


『昨日はありがとう』


 打って、消した。


『助かった』


 それも消した。


 結局、


『プリントありがとう。明日は行く』


 と送った。


 すぐに既読がついた。


『無理なら来るな』


 短い返事。


 紗良はスマートフォンを伏せた。


 ありがとう、と書けなかった。


 助けてもらったことを認めるのが、まだ少し怖かった。


     *


 学校へ戻った日、紗良は放課後に図書室へ行った。


 木箱の前に立つ。


 白い紙を一枚取る。


 何を書けばいいか、すぐには決まらなかった。


『助けてもらったら、同じだけ返さなければいけませんか』


 書いてみた。


 違う気がした。


『頼んでいない親切にも、お礼を言うべきですか』


 それも違う。


 紗良は一度、紙を裏返した。


 自分が本当に聞きたいことは何だろう。


 返せないことが怖い。

 弱いと思われるのが嫌。

 頼りにならないと思われたくない。


 けれど、一番怖いのは。


 助けてもらった瞬間、自分が誰かに必要とされる側ではなくなることだった。


 紗良は新しい紙へ書いた。


『助けてもらったら、頼りになる人ではなくなりますか』


 文字にすると、幼い質問に見えた。


 けれど、これが一番近かった。


 紗良は紙を折り、箱へ入れた。


「珍しいですね」


 悠がカウンターから言った。


「何が」

「高橋さんが質問を入れるの」

「見てたの?」

「箱の前に十分くらいいたので」


「そんなに?」

「はい」


 紗良は少し恥ずかしくなった。


「答え、つくかな」

「つくと思います」

「正しい答えはないんでしょ」

「ないです。でも、高橋さんが嫌いな答えは分かるかもしれません」


「それ、前にも誰かに言った?」

「似たことは」


 悠は笑った。


     *


 三日後。


 紗良の質問は掲示板に貼られた。


『助けてもらったら、頼りになる人ではなくなりますか』


 下には六枚の付箋。


『なりません。頼りになる人も、疲れます』


『助けてもらえる人の方が、私は信頼できます』


『ずっと一人で頑張る人には、頼る場所がなくなります』


『助けられた経験がある人の方が、人を助けるとき優しくなれると思います』


『頼りになる人は、何でもできる人ではなく、できないときに言える人です』


『あなたが助けた人は、あなたを弱いと思いましたか』


 最後の付箋で、紗良の目が止まった。


 あなたが助けた人は、あなたを弱いと思いましたか。


 結衣は、階段で助けられたあと、紗良へ礼を言いに来た。


 弱い人だと思ったからではない。


 助かったから、ありがとうと言った。


 自分も、蓮に支えられた。

 祖母に迎えに来てもらった。

 養護教諭に休ませてもらった。


 それで、自分は頼りにならない人になったのだろうか。


 少なくとも、今も実行委員の残務について、先生から連絡が来ている。

 クラスメイトは、次の行事でも紗良に相談してくる。


 何も失っていなかった。


「一枚、付箋書いてもいいですか」


 紗良は悠へ尋ねた。


「もちろん」


 紗良は新しい付箋を取り、少し考えて書いた。


『助けてもらった人は、次に誰かが助けを必要としていることに気づけると思います』


 自分の質問の下へ貼った。


 答えになっているかは分からない。


 でも、自分が助けてもらったことで、初めて気づいたことだった。


     *


 翌週、校内マラソン大会の準備が始まった。


 紗良は体育委員ではない。

 実行委員の仕事も終わっている。


 それでも、放課後の廊下で、体育委員が大量のコーンを運んでいるのを見つけた。


 一人は、同じクラスの小柄な女子だった。


 箱を二つ重ね、前が見えなくなっている。


 以前なら、紗良はすぐに手を出していた。


「一個持つよ」


 女子はほっとした顔をした。


「ありがとう。正直、助かった」


 紗良は上の箱を受け取った。


 そのとき、後ろから蓮が来た。


「俺も持つ」

「大丈夫」

「高橋に聞いてない。その子に聞いてる」


 女子は笑った。


「じゃあ、こっちお願い」


 蓮が残りの箱を持った。


 三人で体育倉庫へ向かう。


 紗良は少しだけ変な気分だった。


 自分が全部持つこともできた。

 女子の分だけでなく、蓮の分まで。


 でも、三人で持てば軽い。


 誰も頼りにならなくなっていない。

 誰も借りを背負っていない。


 ただ、箱が運ばれている。


     *


 倉庫から戻る途中、蓮が言った。


「昨日の図書室の質問、高橋でしょ」

「何で分かるの」

「字」

「匿名の意味ないじゃん」


「分からないことにしてた方がいい?」

「いや、別に」


 少し歩いてから、紗良は言った。


「この前、保健室まで連れてってくれてありがとう」


 蓮は前を向いたまま答えた。


「どういたしまして」

「祖母にも迎えに来てもらった」

「うん」

「先生にも休ませてもらった」

「うん」


「返せてない」

「返さなくていいって」


「でも、何か」

「じゃあ、今度俺が困ったら助けて」

「今度っていつ」

「知らない」


 蓮は笑った。


「困る予定立ててる人いないでしょ」


 紗良も笑った。


「じゃあ、気づいたら助ける」

「それでいい」


 校舎の窓から、夕方の光が差し込んでいた。


 床に、二人分の影が並ぶ。


 紗良は思った。


 助けてもらうことは、借りを作ることではないのかもしれない。


 誰かが自分へ差し出した手の温度を覚えておくこと。


 そして、別の日に、別の誰かが困っていることへ気づくこと。


 返す相手も、返す時期も、同じでなくていい。


     *


 数日後、紗良は一年三組の前を通った。


 教室の中では、佐藤結衣が友達と話していた。


 机から消しゴムが落ちた。

 結衣はすぐに拾い、持ち主へ渡した。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 そのやり取りは、驚くほど自然だった。


 結衣が紗良に気づき、廊下へ出てきた。


「高橋先輩」

「こんにちは」

「この前、図書室の掲示板に質問ありましたよね」


 紗良は一瞬、どの質問か分からないふりをしようとした。


 けれど、やめた。


「あったね」

「私、付箋を書きました」

「どれ?」

「『助けてもらえる人の方が、私は信頼できます』って」


 紗良は驚いた。


「どうして?」

「高橋先輩、助けてくれたあと、私がありがとうって言っても、仕事だからって言ったから」


「それと関係ある?」

「少し」


 結衣は言葉を探すように続けた。


「何でも一人でできる人より、助けてって言ってくれる人の方が、私も何かできる気がするから」


 紗良はすぐに返事ができなかった。


 助けを求めることは、相手へ負担を渡すことだと思っていた。


 けれど結衣は、それを「自分にも何かできる」と言った。


「ありがとう」

「付箋にですか?」

「それも。今の言葉にも」


 結衣は笑った。


「どういたしまして」


 今度は、その言葉を素直に受け取れた。


     *


 その日の放課後、紗良は図書室へ寄った。


 自分の質問は、まだ掲示板に残っていた。


『助けてもらったら、頼りになる人ではなくなりますか』


 付箋は、前より二枚増えている。


『頼られたときだけ助ける人より、助けられたことを覚えている人の方が頼りになると思います』


『誰かの手を取れる人は、自分の手も差し出せる人です』


 紗良はしばらく眺めた。


「外しますか?」


 悠が尋ねた。


「もう答えが出た質問は、希望があれば保管に回します」

「ううん、もう少し貼っておいて」

「分かりました」


「同じことで悩む人、いるかもしれないから」


 紗良は新しい付箋を一枚取った。


 自分の質問の一番下へ貼る。


『助けてもらっても、頼りになる人ではなくなりませんでした。むしろ、前より人の手が見えるようになりました』


 書き終えると、少しだけ照れくさかった。


「答え、見つかったんですね」

「たぶん」


「たぶん?」

「また一人で抱え込むかもしれないから」


 悠は笑った。


「そのときは、また質問してください」

「質問する前に、誰かに頼めるようにする」


「それが一番いいかもしれません」


     *


 帰り際、図書室の入口で段ボール箱を抱えた一年生とぶつかりそうになった。


「あ、すみません」


 箱の中には、返却する本が何十冊も入っている。


「重い?」

「ちょっとだけ」


「半分持つよ」


 紗良が箱へ手を伸ばすと、一年生は慌てて言った。


「大丈夫です」

「大丈夫じゃなさそう」

「でも、先輩に悪いです」


 少し前の自分と同じ言葉だった。


 紗良は笑った。


「じゃあ、悪いと思うなら、次に誰かが困ってたら手伝って」


 一年生はきょとんとしたあと、箱の半分を紗良へ渡した。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 二人でカウンターまで運ぶ。


 箱は一人で持てないほど重くはなかった。


 でも、二人で持つと、ずっと楽だった。


 仕事ではない。

 当番でもない。

 頼まれたわけでもない。


 それでも、手を差し出した。


 差し出した手には、以前自分を支えてくれた手の温度が残っている。


 蓮の手。

 祖母の手。

 先生の手。

 名前を知らない付箋を書いた人たちの言葉。


 人から受け取ったものは、借りではない。


 返さなければ消えないものでもない。


 自分の中に残り、次に手を伸ばすときの温度になる。


 紗良は箱をカウンターへ置いた。


 一年生がもう一度、頭を下げた。


「本当に助かりました」


 紗良はもう、「仕事だから」とは言わなかった。


「私も前に、助けてもらったから」


 それだけ言った。


 その方が、ずっと本当のことに近かった。


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