第23話 名前を知らない優しさにも、届く日がある
誰かに親切にされたとき、佐藤結衣はいつも少しだけ困る。
うれしくないわけではない。
むしろ、うれしい。
けれど、そのうれしさを相手の前でうまく形にする方法が分からない。
ありがとうございます、と言えばいい。
頭では分かっている。
ただ、その一言を口にしようとした瞬間、声が小さくなったり、相手がもう歩き出していたり、結局何も言えないまま終わったりする。
そしてあとから、何度も思い返す。
あのとき、ちゃんと言えばよかった。
青葉ヶ丘高校に入学して三か月。
結衣には、すでにそういう後悔がいくつもあった。
昇降口で落とした定期入れを拾ってくれた三年生。
体育館までの道を教えてくれた用務員。
移動教室のとき、窓を閉め忘れた結衣の代わりに閉めてくれた隣のクラスの女子。
顔は覚えているのに、名前は知らない。
名前を知らないから、次に会っても声をかけられない。
声をかけられないから、「ありがとう」はいつまでも結衣の中に残ったままだった。
*
その朝、結衣は自分の机の中に、見覚えのない付箋を見つけた。
『昨日のプリント、廊下に落ちていました。机に入れておきました』
丸みのある字だった。
机の中には、確かに昨日なくしたと思っていた進路希望調査のプリントが入っていた。
結衣は周囲を見回した。
教室にはまだ半分ほどしか生徒が来ていない。
黒板の前では男子が二人、昨日のサッカーの話をしている。
窓際では女子のグループがスマートフォンを囲んで笑っている。
誰も結衣を見ていなかった。
「これ、誰か入れた?」
聞けばいい。
そう思ったのに、声は喉の奥で止まった。
もし誰も知らなかったら。
もし、名乗りたくないから付箋だけ残したのだとしたら。
みんなの前で聞くことで、その人を困らせるかもしれない。
結衣は付箋を筆箱の内側に貼った。
その日の放課後、教室を出る直前にもう一度机の中を見た。
もちろん、何も入っていなかった。
*
二日後。
体育の授業が終わって教室へ戻ると、結衣の机の上に白いタオルが置かれていた。
自分のものだった。
更衣室に忘れたことさえ気づいていなかった。
タオルの上には、また付箋があった。
『更衣室にありました』
同じ字だった。
結衣は慌てて廊下へ出た。
けれど、誰が持ってきたのか分からない。
隣の席の森川千夏が、結衣の様子を見て首をかしげた。
「どうしたの?」
「これ、誰かが持ってきてくれたみたいで」
「タオル?」
「うん。付箋も」
千夏は付箋をのぞき込んだ。
「親切な人だね」
「誰か分かる?」
「分かんない。女子でしょ、多分」
「どうして?」
「字が丸いから」
「それだけ?」
「それだけ」
千夏は笑って、自分の席へ戻った。
結衣は付箋を一枚目の隣に貼った。
二枚並べると、どちらも同じ人が書いたように見えた。
もしかしたら、誰かが結衣を気にかけている。
そう思った瞬間、うれしさより先に不安が浮かんだ。
どうして自分に。
何か失敗を見られているのだろうか。
忘れ物の多い人だと思われているのだろうか。
けれど付箋には、責める言葉は一つもなかった。
*
三枚目の付箋は、英語の発表があった日の午後に入っていた。
『発表、聞きやすかったです』
結衣はそれを見たまま、しばらく動けなかった。
英語の授業では、一人ずつ教壇に立ち、自分の好きな場所について一分間話すことになっていた。
結衣は家の近くの小さな川について話した。
声が震えた。
途中で単語を一つ飛ばした。
最後の文も早口になった。
終わったあと、自分では失敗したと思っていた。
誰も笑わなかった。
先生は「よくできました」と言った。
でも、それは全員に言っていた。
だから、この付箋だけが、結衣の発表を本当に聞いていた人の言葉のように思えた。
結衣は教室の後ろを見た。
発表のとき、誰がこちらを見ていただろう。
千夏。
前の席の田辺。
窓際の男子。
少し離れた席の大人しい女子。
全員だったかもしれないし、誰でもなかったかもしれない。
結衣はその日、三枚目の付箋を筆箱の内側へ貼りながら、初めて思った。
ありがとうと言いたい。
今までのような、あとから思い出して苦しくなる「ありがとう」ではない。
ちゃんと、その人に向かって伝えたい。
*
青葉ヶ丘高校の図書室には、貸出カウンターの端に小さな木箱が置かれている。
『答えのない質問を入れてください』
白い紙にそう書かれた箱。
結衣は昼休み、初めてその前に立った。
箱の隣には、小さく切られた紙と鉛筆が置いてある。
何度か見たことはあった。
けれど、自分には関係のないものだと思っていた。
掲示板には、以前入れられた質問が貼られている。
『返せなかったものを返したら、その人とのつながりまでなくなりますか』
その下には、青い付箋が一枚。
『なくならないと思います。返したことで、初めて続きが始まることもあります』
結衣はしばらくその文章を読んだ。
質問を書いた人は、答えをもらえたのだろうか。
自分も書けば、何か分かるだろうか。
結衣は紙に書いた。
『名前を知らない人にも、お礼は届きますか』
書き終えてから、少し恥ずかしくなった。
こんなことを質問する人がいるだろうか。
普通なら、本人を探して言えばいい。
紙を捨てようとしたとき、カウンターの中から声がした。
「入れないんですか?」
顔を上げると、図書委員らしい二年生の女子がいた。
名札には、白石悠と書かれている。
「ちょっと、変な質問かなと思って」
「変な質問ほど、この箱には向いてます」
悠はそう言って、貸出本のバーコードを読み取った。
「答えが決まっているなら、箱に入れなくてもいいですから」
結衣は紙を折った。
「答え、決まってないです」
「じゃあ、入れてみたらいいと思います」
結衣は木箱の細い隙間へ紙を入れた。
中で、ほかの紙に触れる小さな音がした。
*
三日後、結衣の質問は掲示板に貼られていた。
『名前を知らない人にも、お礼は届きますか』
その下には、すでに四枚の付箋があった。
『届くと思います。親切にした人は、返事を期待していないこともあります』
『同じ人に返せなくても、別の誰かに親切にすればいい』
『名前を知らなくても、覚えているなら十分です』
『私は名乗らない方が勇気を出せます』
結衣は最後の付箋を何度も読んだ。
私は名乗らない方が勇気を出せます。
あの三枚の付箋を書いた人も、そうなのだろうか。
名乗るのが恥ずかしい。
直接言うのは緊張する。
だから、誰もいないときに机へ入れた。
それなら、無理に探さない方がいいのかもしれない。
けれど結衣は、少し納得できなかった。
別の誰かに親切にすることも、覚えていることも大切だと思う。
でも、自分が言いたい「ありがとう」は、あの付箋を書いた人へ向いている。
代わりの誰かに渡して、それで同じことになるのだろうか。
「答え、ありましたか?」
後ろから悠が声をかけた。
「いっぱいありました」
「よかったですね」
「でも、どれも少し違う気がします」
悠は掲示板を見た。
「違っていいと思います」
「え?」
「答えを書いた人は、自分の経験で答えているので。質問した人と同じ経験ではないですから」
「じゃあ、正しい答えはないんですか」
「この箱には、たぶん最初からありません」
悠は少し考えてから続けた。
「でも、他の人の答えを読んで、自分が何を嫌だと思うか、何をうれしいと思うかは分かることがあります」
結衣は四枚の付箋を見た。
覚えているだけで十分。
別の誰かに返せばいい。
相手は返事を期待していない。
どれも間違ってはいない。
ただ、自分はそれだけでは嫌だった。
「私は、その人に言いたいです」
「じゃあ、それが佐藤さんの答えじゃないですか」
悠はそれだけ言って、カウンターへ戻った。
*
結衣は、付箋を書いた人を探し始めた。
といっても、直接「あなたですか」と聞く勇気はなかった。
まず、クラスメイトの字を見比べた。
提出されたプリント。
黒板の係連絡。
文化祭準備の役割表。
丸い字を書く人は何人もいた。
千夏も丸い。
田辺も思ったより丸い。
男子の中にも、丁寧で柔らかい字を書く人がいた。
結衣はすぐに分からなくなった。
次に、誰が教室へ早く来るかを観察した。
付箋はいつも朝、机の中に入っていた。
結衣より早く来る生徒は七人。
そのうち三人は、毎朝ほとんど同じ時間に来る。
けれど、付箋が入っていた日は結衣自身が遅かった。
誰にでも入れる時間はあった。
探せば探すほど、候補は減るどころか増えていった。
そして、四枚目の付箋は来なかった。
一週間。
二週間。
プリントをなくさず、タオルも忘れず、発表もなかったからかもしれない。
あるいは、結衣が探していることに気づいて、相手がやめたのかもしれない。
そう思うと、少しさみしかった。
*
七月の終わり、校内では文化祭の準備が始まった。
一年三組は、教室を使った謎解きゲームをすることになった。
結衣は装飾係に入った。
話し合いで手を挙げたわけではない。
人数が足りず、千夏に「一緒にやろう」と言われたからだった。
放課後、廊下には段ボールや模造紙、発泡スチロールの板が並んだ。
「佐藤さん、それ二枚持ってくれる?」
委員の男子に言われ、結衣は大きな装飾パネルを抱えた。
軽い。
けれど、前が見えない。
「階段、気をつけてね」
「うん」
結衣は一段ずつ慎重に下りた。
二階と一階の間の踊り場へ差しかかったとき、下から誰かが上がってきた。
避けようとして、右足が階段の端にかかった。
パネルが傾いた。
「あっ」
手を離せば、下にいる人へぶつかる。
持ち直そうとしたが、身体ごと前へ引かれた。
その瞬間、後ろから誰かがパネルの上端をつかんだ。
「そのまま、止まって」
落ち着いた声だった。
もう一人が下から支え、パネルはゆっくり水平に戻った。
結衣は手すりをつかんだ。
「大丈夫?」
「はい」
振り向くと、二年生らしい女子がいた。
図書室の白石悠ではない。
短い髪で、腕に文化祭実行委員の腕章をつけている。
「前見えないなら、一人で持たない方がいいよ」
「すみません」
「謝らなくていいって。落ちなくてよかった」
その女子はパネルを一枚持った。
「下まで運ぶんでしょ?」
「はい」
「じゃあ一緒に行こう」
結衣は階段を下りながら、何度も言おうとした。
ありがとうございます。
喉まで出かかった。
けれど一階に着くと、女子はパネルを壁へ立てかけ、「じゃあ、準備頑張って」と手を振った。
結衣はその背中を見た。
また言えなかった。
胸の中に、昔からよく知っている後悔が広がった。
「待ってください!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
女子が振り返った。
「助けてくれて、ありがとうございました」
結衣は頭を下げた。
声は震えていた。
顔も熱かった。
でも、言えた。
女子は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「どういたしまして」
それだけ言って、今度こそ廊下の向こうへ行った。
結衣はしばらく、その場に立っていた。
ありがとうを言ったからといって、何か特別なことが起きたわけではない。
相手の名前も知らないままだった。
それでも、胸の中に残る感じは、これまでとは違った。
*
翌日、結衣は図書室へ行った。
質問の下には、新しい付箋が二枚増えていた。
『相手が分からないなら、見えるところに「ありがとう」と書いておくのはどうでしょう』
『その人が見なくても、誰かが見れば、優しさは無駄じゃなかったと思えるかもしれません』
結衣は二枚目を読んで、少し考えた。
その人に届かなければ意味がないと思っていた。
でも、昨日は名前を知らない二年生へ、直接ありがとうと言えた。
名前を知らないことと、気持ちが届かないことは同じではない。
結衣は新しい紙を取った。
『名前を知らなくても、ありがとうと言っていいですか』
書いてから、前の質問とほとんど同じだと思った。
けれど、違う。
最初は、お礼が届くかどうかを誰かに聞いていた。
今は、自分が言っていいかどうかを確かめようとしている。
結衣は紙を箱へ入れた。
*
文化祭準備は忙しくなった。
放課後の教室では、誰かが絵の具をこぼし、誰かがガムテープを探し、誰かが「間に合わない」と騒いでいた。
結衣は以前より、少しだけ声を出せるようになっていた。
「それ、持つよ」
「ハサミ、ここにある」
「こっちの方がまっすぐ貼れると思う」
どれも短い言葉だった。
でも、何も言わず見ているだけだった頃とは違う。
ある日、廊下で一年生の男子がプリントを落とした。
風で何枚かが階段の方へ飛んだ。
結衣は考える前に走った。
一枚を足で止め、二枚を拾い、最後の一枚は窓際でつかまえた。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
男子は驚いた顔で受け取った。
「これ、クラスの?」
「文化祭の参加申込です。なくしたら怒られるところでした」
「気をつけて」
「はい。本当にありがとうございます」
男子は何度も頭を下げた。
結衣は少し照れながら、教室へ戻った。
その途中で気づいた。
あの男子は、自分の名前を知らない。
結衣も、あの男子の名前を知らない。
それでも、「ありがとう」は確かに届いた。
相手の顔がうれしそうに変わったのを見た。
その瞬間、三枚の付箋を書いた人も、こんな気持ちだったのだろうかと思った。
結衣がプリントを見つけたこと。
タオルを受け取ったこと。
発表の言葉を読んだこと。
相手は、それだけで十分だったのかもしれない。
*
翌朝。
結衣の机の中に、久しぶりに付箋が入っていた。
『昨日、プリントを拾っているところを見ました。やさしいですね』
同じ丸い字だった。
結衣は息を止めた。
相手はまだ、この教室のどこかにいる。
自分を見ていた。
そして、あの三枚を書いたことも忘れていない。
結衣は付箋を握りしめ、教室を見回した。
千夏が窓を開けている。
田辺が眠そうに机へ伏せている。
男子二人が文化祭の飾りを直している。
大人しい女子が一人で本を読んでいる。
誰かは分からない。
けれど今度は、不安より先に、うれしさがきた。
結衣は自分の席に座り、ノートを一枚ちぎった。
『いつも、ありがとうございます』
それだけ書いた。
どこに置けばいいか迷った。
相手の机が分からない。
結衣は黒板の端に貼った。
クラス全員が見る場所。
少し目立ちすぎる。
先生に剥がされるかもしれない。
誰のことか分からず、みんなが首をかしげるかもしれない。
それでもよかった。
朝のホームルームが始まるまで、何人かがその紙を見た。
「これ何?」
「誰に?」
「知らない」
結衣は恥ずかしくなって、机に顔を伏せた。
千夏が黒板の前へ行き、紙を読んだ。
「佐藤さんが書いたの?」
「うん」
「誰に?」
「名前を知らない人」
千夏は一瞬黙り、それから笑った。
「じゃあ、たぶん届くね」
「どうして?」
「その人、自分のことだって分かるでしょ」
結衣は黒板を見た。
教室の誰も、名乗らなかった。
でも、その日の一時間目が終わったとき、黒板の紙の下に、小さな付箋が増えていた。
『どういたしまして』
同じ丸い字だった。
結衣はすぐに周囲を見た。
誰かが笑っているようにも見えた。
誰も見ていないようにも見えた。
結衣は付箋を剥がさなかった。
二枚の紙は、放課後まで黒板に残っていた。
*
その日の帰り、結衣は図書室へ寄った。
掲示板には、二つ目の質問が貼られている。
『名前を知らなくても、ありがとうと言っていいですか』
その下に、青い付箋が一枚だけあった。
『言っていいと思います。名前より先に、気持ちが届くこともあります』
結衣はその答えを見て、笑った。
「答え、見つかりましたか?」
カウンターの中から、悠が尋ねた。
「はい」
「今度は、納得できました?」
「たぶん」
結衣は少し考えた。
「名前を知らないから言えないんじゃなくて、言うのが怖かっただけでした」
「怖くなくなったんですか」
「まだ怖いです」
悠はうなずいた。
「じゃあ、怖いまま言えたんですね」
「はい」
結衣は掲示板を見た。
「名前って、知らなくてもいいんでしょうか」
「知りたいなら、知ろうとしてもいいと思います」
「でも、相手は名乗りたくないかもしれません」
「それなら、今は知らないままでもいいんじゃないですか」
「いつか分かりますか」
「分からないかもしれません」
悠は本を棚へ戻しながら言った。
「でも、名前が分からなくても、してもらったことは消えません」
結衣は筆箱を開いた。
内側には、四枚の付箋が並んでいる。
『昨日のプリント、廊下に落ちていました』
『更衣室にありました』
『発表、聞きやすかったです』
『昨日、プリントを拾っているところを見ました。やさしいですね』
どれも短い。
相手の名前は、どこにも書かれていない。
それでも、結衣が前より少しだけ人に声をかけられるようになった理由は、その四枚の中にあった。
*
文化祭当日。
教室には大勢の客が来た。
結衣は受付を担当した。
「こちらから入ってください」
「制限時間は十五分です」
「荷物は机の下へお願いします」
朝は声が震えた。
昼には、少し慣れた。
午後、見覚えのある二年生が教室の前を通った。
階段でパネルを支えてくれた女子だった。
結衣は受付を千夏に頼み、廊下へ出た。
「あの」
女子が振り返る。
「この前は、ありがとうございました」
「階段のとき?」
「覚えてたんですか」
「そりゃ覚えてるよ。危なかったし」
女子は腕章を見せた。
「実行委員だから、困ってる人を助けるのも仕事」
「仕事でも、助かりました」
「そっか。じゃあ、どういたしまして」
今度は、結衣も笑えた。
「お名前、聞いてもいいですか」
「二年五組の高橋紗良」
「私は一年三組の佐藤結衣です」
「うん。知ってる」
「え?」
「このクラスの受付に書いてあるから」
高橋は入口の名札を指した。
二人で笑った。
名前を知ることは、思っていたより簡単な場合もある。
けれど、簡単ではない相手もいる。
結衣は教室へ戻った。
黒板の隅には、文化祭準備中に貼った『いつも、ありがとうございます』の紙がまだ残っていた。
千夏が捨てずに取っておいたらしい。
その下の『どういたしまして』も一緒だった。
結衣は二枚をそっと剥がし、筆箱へ入れた。
いつか相手が名乗るかもしれない。
最後まで名乗らないかもしれない。
どちらでもいいと思えた。
ありがとうは、もう届いている。
そして、相手からの「どういたしまして」も、結衣は受け取った。
*
文化祭が終わった翌朝。
教室は昨日までの飾りを外され、少し広く見えた。
結衣が机の中を見ると、付箋は入っていなかった。
少しだけ残念だった。
でも、もう待つだけではなかった。
前の席の田辺が、消しゴムを落とした。
結衣は拾って、机の上へ置いた。
「落ちたよ」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
その言葉は、思ったより自然に出た。
千夏が隣で笑った。
「最近、佐藤さん変わったね」
「そうかな」
「前より話すようになった」
結衣は筆箱を開いた。
付箋は全部で六枚になっている。
名前を知らない誰かから四枚。
結衣から一枚。
返事が一枚。
「親切な人がいたから」
「誰?」
「知らない」
千夏は不思議そうな顔をした。
結衣は窓の外を見た。
朝の光が校庭に落ちている。
登校してくる生徒たちの中に、付箋を書いた人がいるのかもしれない。
同じ教室にいるのかもしれない。
もう別の場所にいるのかもしれない。
名前を知らない優しさは、顔も声も分からないまま、結衣の中に残っている。
そして今日、結衣の「どういたしまして」は、田辺へ届いた。
優しさは、名前がなくても消えない。
受け取った人の中で形を変え、次の誰かへ渡っていく。
結衣は筆箱を閉じた。
今度また誰かに助けてもらったら、できるだけ早く言おうと思う。
名前を知っていても、知らなくても。
その人が振り返るうちに。
「ありがとう」と。




