第22話 返せなかったものにも、受け取る人はいる
返せなかったものは、いつから自分のものになるのだろう。
借りた消しゴムなら、たぶん一日。
教科書なら、次の授業まで。
傘なら、雨がやんだ翌日。
それを越えたら、借り物は忘れ物になり、忘れ物はいつの間にか、自分の机の引き出しに居場所を作る。
でも、黒田奈央の筆箱に入っている一本のシャープペンシルは、二年たっても自分のものにはならなかった。
薄い青色の軸。
先端近くに、小さな傷。
クリップには、白い油性ペンで書かれた「S」の文字。
高校二年の春。奈央はそれを、数学の小テストが始まる三分前に借りた。
「芯、なくなった?」
隣の席だった坂本澄香が、そう言って差し出した。
「うん。あとで返す」
「別に急がなくていいよ。替え、何本かあるから」
それが、澄香と交わした最後のまともな会話になった。
翌日、澄香は学校を休んだ。
その次の日も、その次の週も来なかった。
一か月後、担任から「家庭の事情で転校しました」とだけ告げられた。
住所は知らない。
連絡先も知らない。
クラスのグループには入っていたはずなのに、アカウントは消えていた。
奈央の手元には、返す相手を失ったシャープペンシルだけが残った。
*
青葉ヶ丘高校の図書室には、今年から小さな木箱が置かれている。
貸出カウンターの端。
白い紙が貼られ、丸い字でこう書かれていた。
『答えのない質問を入れてください』
誰が始めたのかは、奈央も知らない。
ただ、ときどき図書委員が中の紙を一枚取り出し、窓際の掲示板に貼る。
答えを書きたい人は、その下に付箋を貼ることができる。
最初は、ふざけた質問ばかりだった。
『購買の焼きそばパンは、どうして三限後には消えるんですか』
『好きな人と目が合ったとき、何秒までなら偶然ですか』
『夏休みの宿題は、夏休みに入ってから配るべきではないですか』
けれど、いつからか、笑えない質問も混じるようになった。
『謝るのが遅すぎたら、謝らない方がいいですか』
『帰る場所が二つあるのは、ぜいたくですか』
『約束って、守れなかったら終わりですか』
最後の質問は、先週から掲示板に貼られていた。
その下には、十枚以上の付箋がついている。
『終わりじゃない。守れなかった理由を話すところから、次が始まる』
『約束は守るためにあるけど、人間は約束を守るためだけに生きてるわけじゃない』
『相手が待っているかもしれないなら、遅れても行った方がいい』
奈央はその前を通るたび、筆箱の中の青いシャープペンシルを思い出した。
自分は約束を破ったわけではない。
返すと言った翌日に、相手がいなくなっただけだ。
仕方がなかった。
どうしようもなかった。
だから、自分は悪くない。
そう考えるたび、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
悪くないことと、何もしなくていいことは、同じではない気がした。
*
「黒田さん、それ、ずっと使ってるよね」
放課後の教室で、前の席の橘美緒が言った。
奈央は反射的に手元を隠した。
「何が?」
「そのシャーペン。中学のときから?」
「違う。借り物」
口に出してから、奈央は少し後悔した。
美緒は驚いた顔をしたが、笑わなかった。
「返せてないの?」
「相手が転校したから」
「連絡先は?」
「知らない」
「先生に聞いた?」
「個人情報だから教えてくれないでしょ」
答えが少し強くなった。
美緒は「そっか」とだけ言って、自分の鞄を閉じた。
帰るのかと思ったが、教室の後ろまで歩いて行き、掲示物の余った画鋲を集め始めた。
「何してるの」
「今日、係だから」
それからしばらく、画鋲が小さな缶に落ちる音だけが続いた。
奈央はシャープペンシルを筆箱に戻した。
「……返したいわけじゃないんだ」
美緒の手が止まった。
「返さなきゃって思ってるだけ。別に高いものでもないし、向こうだって忘れてると思う。でも、見るたび思い出すから」
「坂本さんのこと?」
「知ってるの?」
「一年のとき同じクラスだったから。あんまり話したことはないけど」
奈央は顔を上げた。
「転校した理由、知ってる?」
「知らない。急だったよね」
美緒は缶の蓋を閉め、奈央の机の前に立った。
「返したいわけじゃないなら、何をしたいの?」
「だから、返さなきゃって」
「それは、したいことじゃなくて、しなきゃいけないことじゃない?」
奈央は答えられなかった。
美緒は困ったように笑った。
「私も最近、似たようなことを言われたから」
「誰に?」
「秘密」
美緒は鞄を肩に掛けた。
「図書室の箱に入れてみたら?」
「何を」
「質問」
「返せない物を、どうすればいいですか、とか?」
「うん。答えが返ってくるかもしれない」
「返ってきても、坂本さんには届かない」
「でも、黒田さんには届くよ」
そう言って、美緒は先に教室を出た。
*
奈央は質問を書かなかった。
少なくとも、その日は。
翌日も、翌々日も、図書室の箱の前を通っただけだった。
質問を書くほど困っているわけではない。
たった一本のシャープペンシルだ。
自分で買えば百円か二百円。
二年間も悩む方がおかしい。
そう思いながら、奈央はそのシャープペンシルを使い続けた。
使わないでしまっておけばよかったのかもしれない。
けれど、最初の一か月は、いつ返せるか分からなかったから筆箱に入れていた。
三か月目には、少しだけ書きやすさに慣れていた。
半年後には、意識せず手に取るようになった。
使えば使うほど、自分の手に馴染んだ。
馴染むほど、返せなくなった。
傷も増えた。
消しゴムのキャップも一度なくした。
中の部品を外して掃除したこともある。
もう、借りたときと同じものではない。
だから、もし澄香に会えたとしても、こんなに使い古したものを返すのは失礼ではないかと思った。
新しいものを買って返す。
それでは、この二年間をなかったことにするようで嫌だった。
古いものと新しいものを両方渡す。
そんな大げさなことをしたら、澄香はきっと困る。
考えるたび、正解は遠ざかった。
*
金曜日の昼休み、青いシャープペンシルが壊れた。
英語のノートを書いている途中、芯が出なくなった。
何度ノックしても、乾いた音がするだけだった。
奈央は分解した。
詰まった芯を取り除こうとしたが、細い金属管の奥で折れているらしく、うまく取れない。
「貸そうか?」
隣の席の男子が、黒いシャープペンシルを差し出した。
「大丈夫」
奈央はそう答えて、予備の鉛筆を使った。
授業が終わるとすぐ、壊れたシャープペンシルを持って図書室へ向かった。
どうして図書室なのか、自分でも分からなかった。
修理道具があるわけでも、澄香の住所が分かるわけでもない。
ただ、質問箱の前に行かなければならない気がした。
昼休みの図書室は、思ったより混んでいた。
窓際の席では三年生が参考書を開き、書架の間では一年生が小声で本を探している。
貸出カウンターには、白石悠がいた。
奈央は名前だけ知っていた。
図書委員で、質問箱を管理している人。
「どうしました?」
悠に声をかけられ、奈央は手の中のシャープペンシルを見た。
「これ、直せますか」
「シャーペンですか?」
悠は受け取らず、カウンターの上に置くよう手で示した。
「芯詰まりなら、掃除用の細い針があるかもしれません。図書室の備品じゃないですけど、私の筆箱に」
悠は自分の筆箱から小さな金属棒を取り出した。
シャープペンシルの先端を外し、慎重に押し込む。
「大事なものですか?」
「借り物です」
「今日借りたんですか」
「二年前」
悠の手が止まった。
「二年前?」
「返す相手が転校して、それからずっと」
「使っていたんですね」
「返すつもりだったんです。でも、返せなくて」
悠は作業を続けながら言った。
「質問箱に、似た質問が入っていました」
「私じゃないです」
「まだ掲示していません。『返せなかったものは、捨ててもいいですか』って」
奈央は息を止めた。
「誰が書いたんですか」
「匿名なので分かりません」
「答えは?」
「まだ考えています」
悠は金属棒を抜き、シャープペンシルを軽く振った。
折れた芯が、小さな黒い粒になってカウンターへ落ちた。
「直りました」
奈央は受け取ってノックした。
芯がまっすぐ出てきた。
「ありがとうございます」
「黒田さんは、捨てたいですか?」
「まさか」
すぐに答えた自分に、奈央は驚いた。
悠は少し笑った。
「じゃあ、その質問を書いた人とは、答えが違いますね」
「でも、返せないのは同じです」
「同じ質問でも、欲しい答えは違うことがあります」
悠はカウンターの端にある質問箱を見た。
「質問を書いたら、正解がもらえると思っていました。でも、最近は違うのかもしれないと思っています」
「どう違うんですか」
「自分が何を聞きたいのか、書いて初めて分かることがあるんです」
昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴った。
奈央はシャープペンシルを握ったまま、箱の横に置かれた紙を一枚取った。
しかし、何も書けなかった。
*
その日の放課後、奈央は一年生のときの担任を訪ねた。
職員室の前で十分近く立ったあと、ようやく中へ入った。
「坂本澄香さんのことで、聞きたいことがあります」
担任だった佐々木は、少し驚いた顔をした。
「坂本さん?」
「連絡先を教えてほしいわけじゃないです。教えられないのは分かっています」
「じゃあ、何を?」
「私が連絡を取りたがっているって、伝えてもらえませんか」
佐々木はすぐには答えなかった。
「学校から個人的な連絡をするのは難しいかな」
「そうですよね」
分かっていた。
奈央は頭を下げて帰ろうとした。
「ただ」
佐々木が呼び止めた。
「転校手続きのとき、ご家族から、学校宛てなら郵便を転送できるかもしれないと言われた記憶がある。今も可能かは分からないけど」
「手紙なら、届くかもしれないんですか」
「確実とは言えないよ。住所も教えられない。でも、学校に預けてもらえれば、こちらから確認はできる」
奈央は鞄の中の筆箱を押さえた。
「物も送れますか」
「大きな物や貴重品は難しいけど……何を返したいの?」
奈央は青いシャープペンシルを取り出した。
佐々木は目を細めた。
「それ、坂本さんの?」
「二年前に借りました」
「ずっと持ってたの」
「ずっと使ってました」
声にすると、急に恥ずかしくなった。
「返したいんですけど、こんなに古くしてしまって。壊して、さっき直してもらって。新しいのを買うべきか、このまま返すべきかも分からなくて」
佐々木はしばらくシャープペンシルを見た。
「それは、坂本さんに決めてもらえばいいんじゃないかな」
「え?」
「返されたくないかもしれない。懐かしいと思うかもしれない。もう要らないと言うかもしれない。あなたが決められないなら、相手に聞けばいい」
「でも、迷惑じゃ」
「迷惑かどうかも、相手が決めることだよ」
奈央は、何も言えなくなった。
二年間、自分は澄香の代わりに考えていた。
もう忘れている。
困るに決まっている。
今さら連絡されたくない。
こんな物を返されても迷惑だ。
そのどれも、澄香が言った言葉ではなかった。
*
週末、奈央は便箋を三枚失敗した。
一枚目は、言い訳が長すぎた。
『急に転校したから返せなかった』
『連絡先を知らなかった』
『先生に聞いても無理だと思った』
読み返すと、返せなかった理由ではなく、返そうとしなかった理由ばかり並んでいた。
二枚目は、謝りすぎた。
『本当にごめんなさい』を四回書いた。
シャープペンシル一本に対して重すぎる気がして破った。
三枚目は、短すぎた。
『借りていたシャープペンシルを返します。遅くなってごめんなさい』
事務的で、二年間の時間が何も伝わらない。
日曜日の夜、奈央は新しい便箋を前にして、質問箱でもらった小さな紙を取り出した。
まだ白紙だった。
奈央はまず、そこに質問を書いた。
『返せなかったものは、今からでも返していいですか』
書いた瞬間、少し違うと思った。
線を引いて消し、その下に書き直した。
『返したら困るかもしれないものを、それでも返していいですか』
これも違った。
奈央が怖いのは、澄香が困ることだけではない。
返したあと、自分の手元から何もなくなることだった。
二年間、澄香との最後の会話をつないでいたもの。
自分が忘れていないことを証明するもの。
いつか返すという理由で、もう一度会えるかもしれないと思わせてくれたもの。
それを返したら、本当に終わってしまう気がした。
奈央は三度目の質問を書いた。
『返せなかったものを返したら、その人とのつながりまでなくなりますか』
今度は、消さなかった。
そして便箋に、最初から書き直した。
『坂本さんへ。
二年前、数学の小テストの前に借りたシャープペンシルを、ずっと返せずにいました。
返すのが遅くなってごめんなさい。
本当は、連絡先が分からなかったから返せなかっただけではありません。時間がたつほど、今さら返したら変だと思って、何もしませんでした。
それなのに、私はこのシャープペンシルをずっと使っていました。傷も増えました。一度壊して、直してもらいました。借りたときと同じ状態ではありません。
新しいものを買って返すことも考えました。でも、それだけだと、この二年間ずっと持っていたことまで隠すみたいで嫌でした。
だから、古いものと、新しいものを一本ずつ入れます。
古い方は、もう要らなければ捨ててください。
新しい方も、要らなければ誰かにあげてください。
返事は、無理にしなくて大丈夫です。
ただ、あのとき貸してくれてありがとう。
小テストは、たしか七十六点でした。
黒田奈央』
最後の一文を書いたとき、奈央は初めて笑った。
七十六点。
澄香なら、たぶん「微妙」と言う。
そういう顔まで思い出した。
*
月曜日、奈央は手紙と二本のシャープペンシルを小さな封筒に入れ、佐々木へ預けた。
青い古いシャープペンシル。
同じ型を探して買った、新しいシャープペンシル。
封筒を渡したあと、筆箱が妙に軽く感じた。
授業中、何度も青い軸を探してしまった。
そのたびに、代わりに買った白いシャープペンシルを手に取った。
書き心地は悪くなかった。
でも、まだ自分の手には馴染まなかった。
放課後、奈央は図書室へ向かった。
白石悠が質問箱を開けていた。
「これ、入れてもいいですか」
奈央は日曜日に書いた紙を差し出した。
悠は読まずに受け取り、箱へ入れた。
「答え、欲しいですか?」
「前は欲しかったです。でも、今は掲示しなくてもいいかもしれません」
「どうして?」
「返してきたから」
「返せたんですか」
「届くかはまだ分かりません。でも、返そうとはしました」
悠はうなずいた。
「じゃあ、答えはもう出ていますか?」
「半分だけ」
「半分?」
「返したら、つながりがなくなるかどうかは、まだ分からないから」
悠は質問箱の蓋を閉めた。
「つながりって、物が持っているものなんでしょうか」
「違うんですか」
「分かりません。ただ、物を返しても、返そうと思った二年間はなくならないと思います」
奈央は空になった筆箱の一角を思い浮かべた。
そこには何もない。
けれど、澄香との最後の会話を忘れたわけではなかった。
「その質問、掲示してもいいですか?」
「はい」
「きっと、同じことを考えている人がいます」
「返せないものがある人?」
「返したあとが怖い人」
奈央は少し考えてから、うなずいた。
*
手紙を預けてから二週間、返事はなかった。
奈央は毎日、担任の佐々木が廊下を通るたびに顔を上げた。
けれど、呼び止められることはなかった。
届かなかったのかもしれない。
届いたけれど、返事をしないことを選んだのかもしれない。
どちらでもいい、と手紙には書いた。
だから、待たない方がいい。
そう思っても、待ってしまった。
三週目の水曜日。
放課後のホームルームが終わったあと、佐々木が教室に来た。
「黒田さん」
奈央の心臓が跳ねた。
佐々木は一枚の封筒を差し出した。
差出人の欄には、坂本澄香と書かれていた。
「転送できたみたい」
「ありがとうございます」
手が震えた。
教室では開けられず、奈央は図書室へ向かった。
窓際の一番奥。人の少ない席に座る。
封筒の中には、短い手紙と、小さな写真が入っていた。
『黒田さんへ。
シャーペン、届きました。
正直、貸したことを忘れていました。
でも、見たら思い出しました。
あの日、黒田さんが小テストの前なのに、芯がないって言いながら全然焦ってなかったこと。
七十六点だったことは知りませんでした。微妙だと思います。
古い方は、もらっておきます。
傷が増えていて、ちょっと面白かったです。
新しい方は、今の学校で隣の席の子に貸しました。
返してくれてありがとう。
私も、急にいなくなってごめんなさい。
あのときは誰にもちゃんと話せませんでした。
返事をくれたらうれしいです。
坂本澄香』
写真には、新しい青いシャープペンシルを持つ、知らない制服の女子の手が写っていた。
その隣に、古い方のシャープペンシル。
増えた傷も、「S」の文字も、そのままだった。
奈央は何度も手紙を読み返した。
古い方は澄香のところへ戻った。
新しい方は、別の誰かへ渡った。
返したものは、元の場所に戻るだけではないらしい。
受け取った人が、次の行き先を決める。
奈央は筆箱から、まだ手に馴染まない白いシャープペンシルを取り出した。
返事を書こうとして、便箋を持っていないことに気づいた。
「これ、使いますか?」
向かいの席に座っていた一年生が、レポート用紙を一枚差し出した。
奈央は一瞬ためらい、それから受け取った。
「ありがとう。あとで返すね」
言ったあと、二人で少し笑った。
「紙は返さなくていいですよ」
「じゃあ、今度、別のを渡す」
奈央は白いシャープペンシルをノックした。
最初の一行を書く。
『坂本さんへ。返事をありがとう。』
窓際の掲示板には、奈央の質問が貼られていた。
『返せなかったものを返したら、その人とのつながりまでなくなりますか』
その下に、一枚の青い付箋が増えていた。
『なくならないと思います。返したことで、初めて続きが始まることもあります。』
誰が書いたのかは分からない。
けれど奈央には、その答えで十分だった。
返せなかったものは、自分のものにはならない。
返したからといって、何もかも終わるわけでもない。
ただ、手を離したものには、新しい行き先ができる。
そして空いた手には、次に受け取るものが残されている。
奈央は返事を書き続けた。
今度は、遅くならないうちに。




