第21話 約束って、守れなかったら終わりですか。
図書室の窓に、細い雨が何本も貼りついていた。
放課後になってから降り始めた雨は、校庭の白線を少しずつ薄くし、遠くの部活動の声まで濡らしているようだった。
小川凪は、返却台の脇に置かれた小さな木箱の前で、三分ほど動けずにいた。
箱の正面には、白い紙が貼られている。
――答えがなくても、置いていける問い。
少し前から図書室に置かれるようになった箱だった。悩み相談というほど大げさではなく、誰かに答えてもらうことを約束するものでもない。ただ、言葉にできない問いを紙に書き、置いていくための場所。
凪は、四つ折りにした紙を制服のポケットから出した。
開いて、また折った。
書いたのは、たった一行だ。
守れなかった約束は、もう約束じゃないんですか。
紙を箱へ落とす直前、背後で本を閉じる音がした。
「入れないんですか」
静かな声だった。
振り返ると、カウンターの内側に白石悠がいた。開館中の札を裏返すところだったらしい。凪と目が合うと、悠は手を止めた。
「見てた?」
「見ようとはしてません」
「でも見えた?」
「紙を持っていることだけ」
悠はそれ以上、何を書いたのかとは聞かなかった。
凪はそのことに少しだけ救われて、同時に少しだけ困った。聞かれれば、答えない理由にできたのに。
「これって、誰かが答えてくれるの」
「たぶん、答えが書ける人はいません」
「じゃあ、何のためにあるの」
悠は木箱を見た。
「同じことを考えている人が、ほかにもいるかもしれないと分かるためです」
「それだけ?」
「それだけでも、少し違うことがあります」
言い切るまでに、悠は一度息を継いだ。
説教ではなく、自分でも確かめながら話している声だった。
凪は紙を箱の投入口へ差し込んだ。しかし指を離す寸前で、また引き戻した。
「やっぱり、持っていく」
「はい」
「変だと思わない?」
「入れるか持って帰るかは、その人が決めることなので」
悠は返却台に積まれた本の一冊を取り上げた。青い手作りのしおりが、ページの間から少しだけ覗いている。
「答えを置くより、持っていった方がいい問いもあると思います」
凪は紙をポケットへ戻した。
外では、雨が少し強くなった。
校門へ続く坂道が、図書室の窓から灰色に見えた。
あそこへ行かなければならない。
そう思ってから、もう十七日が過ぎていた。
*
凪と柚木真帆が約束したのは、五月の終わりだった。
町に一つだけ残っていた小さな映画館が閉館することになり、最後の日曜日に、昔二人で見た映画をもう一度上映するという話を真帆が見つけてきた。
「これ、行こう」
昼休み、真帆はスマートフォンの画面を凪の机へ押しつけるように見せた。
「懐かしくない? 小六の夏休みに見たやつ」
「ああ、途中で真帆が泣いてたやつ」
「凪も泣いてたでしょ」
「私は目にごみが入っただけ」
「映画館の中で?」
「暗いところって、ごみが入りやすいから」
「初めて聞いた」
真帆は笑った。
その笑い方があまりにいつも通りだったから、凪も深く考えずにうなずいた。
「行く。約束」
「絶対だよ」
「絶対」
待ち合わせは、日曜日の午後一時。青葉ヶ丘高校の校門前。
二人の家の中間にあり、そこから駅まで一緒に歩けるからだった。
上映開始は二時十分。早く着けば、閉館記念で売られる昔のパンフレットも見られる。
真帆はその映画館が好きだった。
映画そのものより、ロビーの古い絨毯や、少し焦げた匂いのするポップコーンや、上映後に外へ出たときだけ町の色が違って見える感じが好きだと言っていた。
凪は、そこまで好きだったわけではない。
でも、真帆と一緒に行くなら楽しめると思っていた。
当日の十二時四十分までは、本当に行くつもりだった。
制服ではなく、薄い青色のシャツを着て、借りていた真帆の文庫本を鞄へ入れた。駅前で返そうと思っていた。
玄関で靴を履いていると、家の固定電話が鳴った。
母からだった。
『ごめん、凪。蒼太が家の鍵なくしたみたいで、近所の公園にいるって』
「え、私もう出るんだけど」
『お母さん、今すぐ戻れないの。迎えに行って、家に入れてやってくれない?』
弟の蒼太は小学三年生だった。
友達と遊びに出たあと、首から下げていた鍵をどこかで落としたらしい。母は仕事先から抜けられず、父は県外にいた。
凪は真帆へ連絡しようとした。
けれど、スマートフォンの画面は黒いままだった。前の晩、充電器に差したつもりで差さずに寝てしまっていた。
家の固定電話から真帆の番号へかけようとして、番号を覚えていないことに気づいた。
学校の連絡網は、母の机の引き出しにあるはずだった。探したが、見つからない。
公園までは自転車で十五分。
弟を迎えに行き、鍵を探し、見つからなければ管理会社へ連絡しなければならない。
一時には間に合わない。
でも、映画の開始には間に合うかもしれない。
凪は、そう考えた。
校門で待つ真帆なら、少しぐらい待ってくれる。あとで理由を言えば分かってくれる。
その「少しぐらい」が、何分になるのかを考えなかった。
公園に着くと、蒼太はベンチの下を覗き込んで泣いていた。
鍵はすぐには見つからなかった。
遊んだ道を二人で戻り、砂場を探し、コンビニへ聞き、交番にも寄った。ようやく鍵が見つかったのは一時四十分を過ぎたころだった。
ブランコの支柱の陰に落ちていた。
蒼太を家へ連れて帰り、充電器につないだスマートフォンが起動したとき、二時十二分だった。
真帆からは、七件のメッセージが届いていた。
着いたよ。
雨降りそうだけど大丈夫?
今どこ?
電話出ないけど、何かあった?
先に駅へ行った方がいい?
もう上映、間に合わないかも。
帰るね。
最後の一文のあとには、何もなかった。
凪はすぐに電話をかけることができなかった。
理由を説明する文章を何度も打った。
弟が鍵をなくして、母が帰れなくて、充電が切れていて。
全部、本当だった。
それでも送信する直前になると、どの文章も言い訳に見えた。
明日、学校で直接話そう。
そう決めた。
月曜日の朝、真帆は凪より先に教室へ来ていた。
窓際の席で、教科書を机の中へ入れていた。
「真帆」
声をかけると、真帆は振り向いた。
怒っている顔ではなかった。
それが余計に怖かった。
「昨日、ごめん」
「うん」
「ちょっと家でいろいろあって」
「そうなんだ」
「連絡もできなくて」
「うん」
真帆は待っていた。
凪が続きを話すのを。
けれど、教室には少しずつクラスメイトが入ってきていた。机を引く音、部活動の朝練から戻った生徒の声、誰かが黒板の日付を書き直す音。
凪は、その場所で事情を一から説明することが急に恥ずかしくなった。
「まあ、映画ぐらい、また別の見ればいいし」
口が勝手に動いた。
「そこまで大事な約束だと思ってなかったっていうか」
真帆は、何も言わなかった。
ただ、凪の鞄を一度見た。
その中には、返すつもりだった文庫本が入ったままだった。
「そっか」
真帆はそれだけ言い、前を向いた。
閉館した映画館は、もう二度と開かなかった。
*
それから十七日間、凪と真帆は必要なことだけを話した。
同じクラスだから、完全に避けることはできない。
プリントを後ろへ回すとき。
体育のグループを決めるとき。
日直の仕事を分担するとき。
「これ、お願い」
「分かった」
「先生、呼んでた」
「ありがとう」
言葉は壊れていないように見えた。
でも、二人の間に以前あったものは、どの言葉にも入っていなかった。
凪は何度も、真帆へ本を返そうとした。
休み時間に鞄から出して、また戻した。
放課後、真帆の机へ近づいて、別の友達が来ると引き返した。
返せば、借りたままにしていた時間まで終わってしまう気がした。
返さなければ、まだ話す理由が残る気がした。
どちらも卑怯だと分かっていた。
図書室の箱に問いを書いたのは、真帆と話す勇気が欲しかったからではない。
誰かに「仕方なかった」と言ってほしかったからだ。
弟を迎えに行ったことは間違っていない。
連絡できなかったのも事故だった。
だから約束を守れなかったことは、凪のせいではない。
そういう答えが欲しかった。
しかし白石悠は、答えを書かなかった。
紙を持っていくかどうかさえ、凪に決めさせた。
図書室を出ると、廊下の窓に雨粒が流れていた。
校門前の坂へ向かうには、昇降口を出て右へ曲がる。
真帆は今日、傘を持っていただろうか。
凪は下駄箱で靴を履き替えた。
鞄の底にある文庫本の角が、指に当たった。
外へ出ると、雨の匂いがした。
校門までの道は、普段より長く見えた。
傘を打つ雨音の向こうに、運動部が片づけをする声が聞こえる。水たまりを避けるたび、凪の足は少しずつ遅くなった。
校門の手前で、真帆が立っていた。
透明な傘を差し、坂の下を見ている。
誰かを待っているように見えた。
凪の足が止まった。
十七日前も、真帆はここにいた。
同じ場所で、凪が来る方を見ていた。
今日はたまたまバスを待っているだけかもしれない。誰か別の友達と待ち合わせているのかもしれない。
今、声をかけなくてもいい理由はいくつも思いついた。
ポケットの中で、四つ折りの紙が指に触れた。
守れなかった約束は、もう約束じゃないんですか。
問いが間違っていたのかもしれない。
約束が終わったかどうかを決めたいのではない。
自分が悪くないことにしたかっただけなのかもしれない。
「真帆」
声は、雨に消えそうなほど小さかった。
それでも真帆は振り返った。
「何」
「少し、話せる?」
「ここで?」
「うん」
真帆は坂の下を一度見てから、凪へ向き直った。
「バス、あと十分だから。それまでなら」
十分。
凪が十七日間避け続けた話をするには短い。
けれど、短いからこそ逃げられない気もした。
凪は鞄から文庫本を出した。
「これ、ずっと返せなくて」
「……うん」
「ごめん」
真帆は本を受け取らなかった。
凪の手の中に置かれたまま、表紙を見た。
「本のこと?」
「本も。映画も」
「映画は、もう終わったよ」
「分かってる」
「映画館も閉まった」
「分かってる」
「じゃあ、何を謝ってるの」
凪は、用意していた説明を頭の中で並べた。
弟が鍵をなくした。
母が帰れなかった。
スマートフォンの充電が切れていた。
どれも本当だ。
凪は一つずつ話した。
真帆は途中で口を挟まなかった。
雨が傘を打つ音だけが、話の隙間へ入り込んだ。
「だから、行けなかった」
説明を終えると、凪は少し息を吐いた。
これで分かってもらえる。
事情を知れば、真帆はきっと――
「それ、あの日に聞きたかった」
真帆は言った。
声は静かだった。
「次の日でもよかった。教室じゃ話しにくかったなら、昼休みでも、放課後でもよかった」
「話そうとは思ってた」
「でも、話さなかった」
「だって、言い訳みたいになると思って」
「今も、ちょっと言い訳みたいに聞こえる」
胸の奥が固くなった。
「じゃあ、どうすればよかったの」
思ったより強い声が出た。
「弟を置いて行けばよかった? 充電が切れたのも、わざとじゃない。私だって困ってた」
「そんなこと言ってない」
「でも、怒ってるじゃん」
「怒ってるよ」
真帆は初めて、はっきりそう言った。
「来なかったことだけじゃない」
透明な傘の縁から落ちた雨水が、二人の間のアスファルトへ線を引いた。
「私、一時から二時近くまでここにいた。電話しても出ないし、事故に遭ったのかと思った。凪の家まで行こうか迷った。駅へ先に行けば会えるかもしれないって思って、でも入れ違ったら困るから動けなかった」
凪は何も言えなかった。
「雨も降ってきた。傘、一本しか持ってなかったから、凪が来たら一緒に入ろうと思ってた」
真帆は笑わなかった。
「次の日、理由があるなら聞こうと思ってた。だけど凪は、映画ぐらいって言った。大事な約束じゃなかったって」
「あれは……」
「私には大事だった」
その一言は、怒鳴られるより痛かった。
「映画がすごく見たかったからじゃない。最後の上映だったからでもない。凪と行くって決めたから、大事だった」
凪は手の中の本を見た。
表紙の端が少し曲がっている。借りたときにはなかった折れ目だった。
「ごめん」
同じ言葉しか出なかった。
「許してほしいから言ってる?」
真帆に聞かれ、凪はすぐに答えられなかった。
許してもらいたかった。
以前のように話して、笑って、帰り道を一緒に歩きたかった。
でも、それを今ここで求めることは、真帆が待った一時間も、十七日間の沈黙も、全部早く片づけたいということなのかもしれない。
「たぶん、最初はそうだった」
凪は言った。
「仕方なかったって言ってほしかった。私だけが悪いんじゃないって」
真帆は黙っていた。
「弟を迎えに行ったことは、今でも間違ってないと思う。でも、次の日にちゃんと話さなかったのは、私が逃げた。映画ぐらいって言ったのも、本当は自分が悪くないことにしたかったから」
雨音が少し弱くなった。
「待ってたとき、どんな気持ちだった?」
凪は尋ねた。
真帆はすぐには答えなかった。
坂の下から、バスのエンジン音が聞こえた。けれど、それは別の道へ曲がっていった。
「最初は、遅いなって思った」
真帆はゆっくり話し始めた。
「そのあと、何かあったのかなって。事故だったらどうしようって。最後は、私だけ楽しみにしてたのかなって思った」
「うん」
「帰ってからも、何度もスマホ見た。メッセージ来てないか確認した」
「うん」
「次の日、凪が軽く言ったから、心配してた自分がばかみたいだった」
凪は返事を急がなかった。
白石悠の言葉を思い出したわけではない。
ただ、ここで「そんなことない」と否定すれば、また自分の言いたいことを先に置く気がした。
「待たせて、ごめん」
凪は言った。
「心配させて、そのあと、その心配まで軽くして、ごめん」
真帆は傘の柄を握り直した。
「今すぐ、前みたいには無理かも」
「うん」
「まだ、ちょっと腹立ってる」
「うん」
「本も、今日受け取ったら、ほんとに終わりみたいで嫌だった」
凪は顔を上げた。
真帆も、そう思っていたのだ。
返せば終わる。
返さなければ、話す理由が残る。
二人とも同じ本の両側で、違う怖さを抱えていた。
「じゃあ、どうする?」
「それを私に決めさせるの?」
「ごめん」
真帆がほんの少しだけ息を吐いた。
笑ったわけではない。でも、張りつめていた表情がわずかに緩んだ。
「明日の昼休み」
「え?」
「図書室の前。五分だけ」
「五分でいいの?」
「今日の十分より短いけど」
「そういう意味じゃなくて」
「長く約束すると、また守れなかったとき困るから」
その言葉には、まだ棘があった。
凪は痛いと思った。
でも、その痛みを消してほしいとは言わなかった。
「分かった。明日の昼休み、図書室の前。五分」
「遅れたら?」
「遅れる前に言う」
「どうやって」
「今日はちゃんと充電する。番号も紙に書く。学校にいるなら、誰かに伝えてもらう」
「そこまでしなくてもいいけど」
「する」
真帆はようやく本を受け取った。
その拍子に、ページの間から小さな紙片が落ちた。
凪が拾う。
古い映画の半券だった。
二人が小学生のときに見た、あの映画の題名が印刷されている。真帆がしおり代わりに挟んでいたものだ。
「これ、まだ持ってたんだ」
「忘れてた」
「嘘。真帆、そういうの忘れないでしょ」
「今は、その話しない」
「はい」
本を受け取った真帆が、ページを軽く振った。
もう一枚、別の紙が落ちた。
今度は半券ではなかった。
小さく折られ、端が黄ばんでいる。
真帆が開く。
青いインクで、短い文が書かれていた。
六月十二日。雨だったら、図書室の窓際で。
借りた傘を返します。
最後には、アルファベットのSだけがあった。
「これ、真帆の?」
「違う」
「本に最初から入ってた?」
「中古で買った本だから、前の持ち主かも」
凪は紙を見た。
約束の日付は、明日だった。
何年前の六月十二日なのかは分からない。
傘は返されたのか。
約束は守られたのか。
書いた人は、今も覚えているのか。
真帆が紙を本へ戻そうとしたが、少し考えて手を止めた。
「明日、図書室へ持っていこうか」
「五分の約束のときに?」
「ついでじゃないから」
「うん」
「これを誰かに見せる五分と、私たちが話す五分は別」
「じゃあ十分?」
「最初から十分って言うと長く感じる」
「分かった。五分を二回」
坂の下に、今度こそ真帆の乗るバスが見えた。
「行かなきゃ」
「うん」
真帆は二歩進み、振り返った。
「凪」
「何?」
「明日、来なかったら、今度は待たないから」
「来る」
反射的に答えてから、凪は言い直した。
「来る。もし行けなくなったら、行けないって先に伝える」
真帆は小さくうなずいた。
仲直りしたわけではなかった。
許されたわけでもなかった。
真帆は一人でバス停へ走り、凪は一人で校門に残った。
それでも、十七日前と同じ場所は、もうまったく同じ場所ではなかった。
凪はポケットから四つ折りの紙を出した。
守れなかった約束は、もう約束じゃないんですか。
雨で濡れないように傘の内側で開き、その下へ一行だけ書き足した。
終わったかどうかは、話してから決める。
紙を折り直し、鞄へ入れる。
明日の昼休みまで、あと二十時間ほどある。
凪はスマートフォンを取り出し、充電残量を確認した。
八十二パーセント。
そして、真帆の名前を開き、短いメッセージを送った。
明日、昼休み。図書室の前で五分。
数秒後、既読がついた。
返事は来なかった。
けれど凪は、返事がないことを、約束が消えたことにはしなかった。
雨の坂道を、一人で下り始めた。




