第20話 借りた勇気にも、返し方はきっとある
図書室には、返さなければならないものが集まってくる。
読み終えた本。期限を過ぎた本。借りたことさえ忘れられていた本。
白石悠は、返却台に積まれた本を一冊ずつ手に取りながら、背表紙の番号と返却票を確かめていた。
放課後の図書室は静かだった。
窓の向こうでは運動部の掛け声が遠く響き、ページをめくる音と、カウンターの古い時計が針を進める音だけが近くにある。
悠はこの時間が好きだった。
静かな場所が好きというより、何かを急いで話さなくてもいい場所が好きだった。
返す人も、借りる人も、本を探す人も、みんな必要なときだけ口を開く。
言葉が少なくても、誰も不機嫌にはならない。
「白石くん、こっちは終わったよ」
書架の奥から朝霧紬が戻ってきた。
腕には、分類番号の違う本が三冊抱えられている。
「ありがとう。そっちは俺が戻す」
「大丈夫。場所わかるから」
紬はそう言いながら、一冊の本をカウンターに置いた。
昨日、返却棚の隙間から見つかった文庫本だった。
表紙は少し日に焼け、角が丸くなっている。
何度も借りられてきた本なのだろう。
「これ、間に何か挟まってた」
紬がページを開く。
落ちたのは、淡い青色のしおりだった。
厚紙を細く切っただけの簡単なもので、片面には小さな星が一つ描かれている。
もう片面には、黒いペンで一文だけ書かれていた。
借りた本は返せるのに、借りた勇気はどう返せばいいですか。
悠はその文字をしばらく見つめた。
丁寧に書こうとした跡があった。
けれど最後の「か」だけが少し震えている。
「昨日の写真の付箋と、ちょっと似てるね」
紬が言った。
放送室に置かれた帰り道の写真。
そこに貼られていた、名前のない問い。
この道は、どこへ続いていますか。
問いだけを残していく人が、この学校には時々いる。
答えが欲しいのか。
ただ誰かに見つけてほしいのか。
悠にはわからなかった。
「落とし物として置いておく?」
「うん。でも、この本を借りた人ならわかるかもしれない」
悠は返却記録を開いた。
図書委員なら貸出履歴を確認できる。
ただし、それは本を返していない人を探したり、予約の連絡をしたりするためのものだ。
挟まっていた紙の持ち主を突き止めるためではない。
「調べないの?」
紬が尋ねる。
悠は少し考えてから、しおりを透明な落とし物ケースに入れた。
「本人が見つけてほしいなら、名前を書くと思う」
「じゃあ、見つけてほしくない?」
「そこまではわからない。でも、勝手に答えを探しに行くのは違う気がする」
紬は小さくうなずいた。
少し前までなら、彼女は「正しい方」をすぐに知りたがったかもしれない。
けれど今は、二つある帰る場所のどちらかだけを正しいと決めなくていいことを知っている。
「それじゃあ、待つんだ」
「図書室は、だいたいそういう場所だから」
悠が言うと、紬は少し笑った。
「白石くんらしい」
その日の閉館まで、しおりを探しに来る生徒はいなかった。
翌日も。
その次の日も。
しおりは落とし物ケースの中で、青い面を上にしたまま眠っていた。
けれど、悠は誰も見ていないときに、その一文を何度も読み返した。
借りた勇気は、どう返せばいいのか。
答えを考えるたび、昔の声を思い出した。
中学二年の冬。
悠は一週間、学校を休んだことがある。
理由は、今振り返れば大したことではない。
国語の授業で発表するはずだった読書感想文を、教室の前で読めなくなった。
手が震えた。
文字がにじんだ。
後ろの席で誰かが笑った気がした。
実際に笑われたのかどうかは覚えていない。
けれど、一度そう思ってしまうと、次の日から教室の扉がひどく重くなった。
母には腹痛だと言った。
三日目には病院にも行った。
体に異常はなかった。
五日目の夕方、担任の小田先生が家に来た。
先生は教室へ来いとは言わなかった。
どうして休んでいるのかも聞かなかった。
ただ、悠が借りたままになっていた学校図書館の本を一冊持ってきた。
「返却期限、今日までだったぞ」
冗談のように言って、先生は本を差し出した。
悠は謝った。
すると先生は玄関先で笑った。
「本は遅れても返せる。発表だって、できなかったなら別の日にすればいい」
悠は何も答えなかった。
「一回できなかったことを、ずっとできないことにしなくていい」
先生はそれだけ言った。
最後に帰りかけて、振り返った。
「まあ、白石なら大丈夫だろ」
根拠のない言葉だった。
成績が飛び抜けてよかったわけでもない。
人前で話すのが得意だったわけでもない。
先生が悠の何を見て大丈夫だと思ったのか、今でもわからない。
それでも翌朝、悠は制服に着替えた。
学校へ着き、教室の前で五分立ち止まり、図書室へ逃げた。
小田先生はそこで悠を見つけた。
何も言わず、貸出カウンターの中に入れてくれた。
悠はその日、図書委員でもないのに返却本の整理をした。
次の日も図書室へ行った。
三日目に、ようやく教室へ戻った。
卒業式の日、小田先生へ礼を言おうと思っていた。
だが先生はその少し前に体調を崩して休職し、そのまま別の学校へ異動した。
悠は、借りた言葉を返せなかった。
大丈夫だと言ってもらったこと。
一度できなかったことを、ずっとできないことにしなくていいと教えてもらったこと。
あれを勇気と呼ぶなら、自分は今も借りたままだ。
「白石先輩」
声に呼ばれ、悠は顔を上げた。
カウンターの前に一年生の女子が立っていた。
胸元の名札には、森野日和とある。
この数日、毎日のように図書室へ来ている生徒だった。
いつも入口に近い棚を見て、何も借りずに帰っていく。
「どうしたの」
「……本を探していて」
「題名は?」
日和は口を開きかけ、閉じた。
視線が、落とし物ケースへ動いた。
青いしおりを見た瞬間、彼女の肩がわずかに揺れた。
悠は気づいたが、何も言わなかった。
「どんな本?」
「友達と、仲直りできる本です」
悠は少し困った。
「それは難しいな」
「図書室なら、何でもあると思ってました」
「大体の本はあるけど、仲直りそのものは置いてない」
日和はうつむいた。
悠はカウンターを出て、入口近くの棚へ向かった。
彼女が毎日眺めていた場所だ。
そこは児童文学と、読みやすい短編集が並ぶ棚だった。
「このあたりを見てたよね」
「はい」
「誰かが仲直りする話を探してた?」
「……探していたのは、言い方です」
日和は一冊の背表紙に指を触れた。
「謝りたいんです。でも、何て言えばいいかわからなくて」
「ごめん、じゃ駄目なの」
「私が悪いのかも、よくわからないんです」
その言葉に、悠は少しだけ安心した。
自分だけが悪いと決めつけているわけではない。
相手だけが悪いと言いたいわけでもない。
わからないから困っているのだ。
日和は、同じクラスの友達と一週間口を利いていないのだと話した。
昼休みに三人で弁当を食べていた。
そのうち一人が、日和の好きな人のことを、別の子へ話してしまった。
日和は怒った。
「もう友達じゃない」と言った。
相手も怒り、「私だって言いたくて言ったわけじゃない」と言った。
それから席が近いのに、互いを見ないようにしている。
「秘密を話した方が悪いんじゃない?」
日和は自分でそう言い、すぐに首を振った。
「でも、その子が私のことを嫌いだったら、もっと前に言えたと思うんです。ずっと黙っててくれたのに、たまたま口を滑らせただけで」
「それでも傷ついたんだよね」
「はい」
「じゃあ、怒ったことまで間違いにはしなくていいと思う」
日和は顔を上げた。
「でも、もう友達じゃないって言いました」
「それは本当にそう思った?」
「……思ってません」
「なら、そこだけ訂正したらいい」
悠は棚から一冊の短編集を抜いた。
仲違いした二人の少女が、手紙を通して少しずつ言葉を戻していく話が入っている。
「これを読めば仲直りできる、とは言わないけど」
日和は本を受け取った。
「言い方が書いてありますか」
「多分、答えは書いてない。でも、自分の言葉を考える時間にはなる」
彼女は貸出カウンターまで本を持ってきた。
手続きが終わっても、すぐには帰らなかった。
落とし物ケースを見ている。
悠はケースから青いしおりを取り出した。
「これ、君の?」
日和の顔が赤くなった。
少し迷い、うなずく。
「本に挟んだまま返したの?」
「わざとです」
「誰かに答えてほしかった?」
「……わかりません」
日和は両手で本を抱えた。
「前に、その子が助けてくれたんです」
一年生になったばかりの頃、日和は教室でほとんど話せなかった。
中学から一緒の友達もいない。
昼休みも机で一人、本を読んでいた。
そんな彼女へ、今喧嘩している友達が最初に声をかけた。
一緒に食べよう。
たったそれだけだった。
日和は、その一言がなければ、今もクラスで一人だったかもしれないと思っている。
「だから、勇気を借りたんです」
日和は言った。
「私に声をかけてくれた勇気を。なのに、私はその子を傷つけました。返さないまま、終わりそうで」
悠は青いしおりを見た。
借りた勇気はどう返せばいいですか。
この問いを書いたのは、自分とよく似た人だった。
もらったものを、同じ形で返さなければならないと思っている。
けれど、言葉は本ではない。
貸出期限もなければ、同じ人へ同じ状態で戻せるものでもない。
「返さなくていいんじゃないかな」
日和は目を見開いた。
「でも、借りたのに」
「それは本当に、貸してもらったの?」
悠は自分で問いながら、小田先生の顔を思い出した。
先生は、いつか返せと言っただろうか。
大丈夫という言葉の代わりに、何かを求めただろうか。
何も求めていなかった。
ただ渡した。
「その子は、君から返してもらうために声をかけたわけじゃないと思う」
「じゃあ、どうすれば」
悠は答えようとして、言葉に詰まった。
ずっと自分にもわからなかったことだ。
先生にもらった勇気をどう返すか。
今さら連絡先を探して礼を言えば、それで返したことになるのか。
多分、違う。
礼は伝えたい。
だが、勇気そのものは返せない。
ならば。
「次に、誰かが一人でいるのを見つけたとき」
悠はゆっくり言った。
「君が声をかければいいんじゃないかな」
日和は黙っている。
「君の友達がくれた勇気を、そのまま返すんじゃなくて、次へ渡す。そうすれば、なくならない」
「それで、返したことになりますか」
「返したことにはならないかもしれない」
悠は正直に答えた。
「でも、返すより大事なことかもしれない」
日和は青いしおりを受け取った。
それを借りた本の最初のページへ挟む。
「先輩は、誰かに勇気を借りたことありますか」
「あるよ」
「返せましたか」
悠は窓の外を見た。
校庭の端を、正門の方へ歩く猫が見えた。
生徒たちが校長と呼ぶ野良猫。
あの猫は誰の家にも帰らないように見えて、毎日必ずこの学校へ戻ってくる。
「今日、少しだけ」
悠が答えると、日和は不思議そうな顔をした。
翌日の昼休み。
日和は図書室へ来なかった。
放課後になっても姿を見せない。
借りた本を読むにはまだ早いだろう。
悠は気にしないように返却作業を続けた。
だが閉館十分前、入口から走る足音が聞こえた。
日和が息を切らしながら入ってきた。
その隣には、同じ一年生の女子がいる。
二人とも気まずそうに少し離れて立っていた。
「走らない」
悠が注意すると、日和は「すみません」と頭を下げた。
隣の女子もつられて頭を下げる。
「本、返しに来ました」
「昨日借りたばかりだけど」
「全部読みました」
日和は本を差し出した。
青いしおりは挟まっていない。
「仲直りできた?」
尋ねると、二人は顔を見合わせた。
「多分」
日和が答える。
隣の女子が不満そうに言った。
「多分って何」
「だって、まだ全部許したわけじゃないから」
「私も、全部納得したわけじゃないし」
二人はまた互いを見て、それから同時に笑った。
完全に元通りではない。
けれど、話すことはできたのだろう。
それで十分だった。
「しおりは?」
悠が尋ねると、日和は鞄から青いしおりを出した。
裏返す。
最初の一文の下に、新しい文字が増えていた。
借りた勇気は、次の人へ貸します。
「返さないことにしました」
日和が言う。
「勝手に借りたことにしただけかもしれないから」
隣の女子がしおりをのぞき込む。
「何それ」
「まだ秘密」
「また秘密にするの?」
「これは話していい秘密か、考えてからにする」
「ちゃんと考えてよ」
そんな言葉を交わしながら、二人は図書室を出ていった。
悠は返却された本を開いた。
最後のページに、小さな付箋が貼られている。
白石先輩へ。
勇気を貸してくれてありがとうございました。
悠は苦笑した。
返さなくていいと説明したばかりなのに、日和はもう借りたことにしている。
けれど、今度は嫌ではなかった。
借りたままでいいものがある。
誰かに渡すことで、むしろ増えていくものがある。
閉館後、悠は司書室のパソコンを借りた。
小田先生の名前を検索した。
異動先を調べるためではない。
昔の中学校のホームページを開き、過去のお知らせをたどった。
数年前の記事に、先生の名前が残っていた。
今もその学校にいるかはわからない。
連絡を取れるかもわからない。
それでも悠は便箋を一枚取り出した。
小田先生へ。
中学二年の冬、先生が家まで返却本を持ってきてくれたことを覚えています。
あのとき先生は、一回できなかったことを、ずっとできないことにしなくていいと言ってくれました。
それから、白石なら大丈夫だとも言ってくれました。
あの言葉のおかげで、次の日、学校へ行けました。
悠はそこで手を止めた。
礼だけを書けばいいのか。
今まで返せなくて申し訳なかったと書くべきか。
少し考え、続きを書いた。
今日、その言葉を別の生徒へ渡しました。
先生から借りた勇気を、返すことはできないかもしれません。
だから、次の人へ貸すことにしました。
ありがとうございました。
書き終えた手紙を封筒に入れた。
届く保証はない。
それでもいい。
言えなかった言葉を、言えないままにしないこと。
一度できなかったことを、ずっとできないことにしないこと。
それを教えてもらったのだから。
翌朝、悠は学校へ向かう途中で郵便ポストへ封筒を入れた。
正門の前では、校長が座っていた。
「おはよう」
声をかけると、猫は一度だけ悠を見た。
鳴きもせず、校内へ歩いていく。
返事はない。
けれど、言葉はいつも返ってくるとは限らない。
届いたかどうか、すぐにはわからないこともある。
それでも、渡すことには意味がある。
図書室へ着くと、返却台に一冊の本が置かれていた。
開館前なので、本来なら誰も入れないはずだった。
紬が先に来ていたのだろうか。
悠が本を持ち上げると、間から白いしおりが落ちた。
昨日の青いしおりとは違う。
細長い紙に、鉛筆で一文が書かれていた。
約束って、守れなかったら終わりですか。
悠はしおりを拾い、しばらく考えた。
やがて落とし物ケースを開く。
だが、中へは入れなかった。
代わりに、カウンターの上へ小さな箱を置いた。
箱の正面に紙を貼る。
返事を急がない質問箱。
紬が図書室へ入ってきて、その文字を読んだ。
「これ、放送室みたい」
「真似した」
「勝手に?」
「後で許可を取る」
「順番が逆だよ」
「一回間違えたことを、ずっと間違いにしなければいいから」
悠が言うと、紬は首をかしげた。
「何それ」
「借りた言葉」
白いしおりを箱の中へ入れる。
約束って、守れなかったら終わりですか。
その問いを書いた誰かは、まだ名前を持たない。
けれど、いつかこの箱を見に来る。
もしかすると、返事を読むためではなく、自分と同じように問いを抱えた誰かがいると知るために。
図書室の窓から朝の光が差し込み、箱の端を照らした。
校庭では始業前の生徒たちが行き交っている。
走ってくる者。
立ち止まる者。
誰かを待つ者。
一度交わした約束の場所へ、今も向かおうとしている者。
悠は開館札を表へ返した。
今日も、返すものと借りるものが図書室へ集まってくる。
そしてその中には、返さなくてもいいものがある。
誰かから受け取った勇気は、次の誰かへ渡せばいい。
そうして物語は、また一人分、先へ進んでいく。




