第19話 帰る場所が二つある人にも、選べない夜はある
放課後の放送室には、写真が一枚増えていた。
校門から伸びる坂道を、三人の少女が並んで歩いている。
撮ったのは使い捨てカメラ。三人のうち、一人はもうこの町にいない。残った二人が、最後の一枚をようやく撮り終えたあと、現像した写真の一枚を放送室に置いていった。
写真の隅には、名前のない付箋が貼られていた。
『この道は、どこへ続いていますか。』
朝霧紬は、その文を何度も読んだ。
質問の意味がわからなかったわけではない。
むしろ、わかりすぎた。
だから、口に出した。
「帰る場所が、二つある人もいるんでしょうか」
放送室にいた誰も、すぐには返事をしなかった。
それが紬にはありがたかった。
驚かれるのも、かわいそうと言われるのも、少し違う気がしたからだ。
吉岡麻衣は机の上の写真を見たまま、「いると思う」とだけ言った。
神谷玲奈は、何かを尋ねかけてやめた。
長谷川蒼太は録音機の電源を切った。今日の打ち合わせは、もう終わりなのだと誰に言うでもなく示すように。
紬は写真から目を離した。
「すみません。変なこと言いました」
「変じゃないよ」
麻衣が答えた。
「ただ、答えにくい質問だっただけ」
紬は小さく笑った。
それはたぶん、今まで聞いた中で一番正しい返事だった。
朝霧紬には、帰る場所が二つある。
母の家と、父の家。
両親が離婚したのは、紬が小学四年生の秋だった。
大声で喧嘩をしていたわけではない。皿が割れたことも、どちらかが家を飛び出したこともない。
だから紬は、しばらく気づかなかった。
食卓で交わされる言葉が少なくなったことにも、父の帰宅時間が少しずつ遅くなったことにも、母が洗濯物を畳みながら長い間手を止めるようになったことにも。
ある日、二人は紬をリビングに座らせた。
どちらも困ったような顔をしていた。
そして、何度も「紬のせいじゃない」と言った。
紬はその言葉を聞くまで、自分のせいかもしれないとは考えていなかった。
けれど繰り返されるうちに、逆にそうなのではないかと思い始めた。
その夜、眠れなかった。
翌朝、父の使っていた青いマグカップが食器棚から消えていた。
それから紬の生活は二つになった。
平日は母の家。
隔週の金曜日から日曜日までは父の家。
母の家は学校から近い。白い壁の二階建てで、玄関に母の好きな小さな観葉植物が並んでいる。
父の家は駅の向こうのマンションで、窓から電車が見える。夕方になると、線路の音が少しだけ部屋に響く。
どちらの家にも紬の部屋があった。
どちらの家にもベッドがあった。
どちらの家にも「おかえり」と言ってくれる人がいた。
それでも、どちらかへ帰る日は、もう一方へ帰らない日だった。
金曜日の朝。
紬は母の家の玄関で、いつもより大きな鞄を持ち上げた。
「充電器、入れた?」
母が言った。
「向こうにもあるよ」
「歯ブラシは?」
「ある」
「英語の教科書」
「向こうに置いてる」
「じゃあ、これは?」
母が差し出したのは、小さなタッパーだった。
蓋の中に、昨日の夕食で残った煮込みハンバーグが入っている。
「お父さんに渡して。温めれば食べられるから」
「……うん」
父と母は、ほとんど連絡を取らない。
けれど母は、父が料理をしないことを知っている。
父は、母が朝はコーヒーだけで済ませがちなことを知っている。
誕生日にはそれぞれ別々にプレゼントをくれるが、同じ物にならないよう、どこかで確認しているらしい。
嫌い合っているのか、今でも大切に思っているのか、紬にはわからなかった。
わからないまま、間に立っていた。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい。日曜の夕飯、何がいい?」
「なんでもいい」
「なんでもいいが一番困るのよ」
母はいつものように笑った。
紬も笑って、ドアを閉めた。
その瞬間、笑顔が少しだけ重くなった。
今から父の家へ行くことを、母は寂しく思わないのだろうか。
そう考え始めると、玄関を出たこと自体が申し訳なくなる。
けれど父の家へ行かなければ、今度は父が寂しい。
両方を大切にしようとするほど、どちらにも少しずつ罪悪感を覚えた。
学校の下駄箱で上履きに履き替えていると、白石悠が横から覗き込んだ。
「今日、荷物多いね」
「今週は父の家だから」
「ああ、そっか」
白石だけは、紬の事情を知っている。
中学二年の宿泊研修で、緊急連絡先を二つ書いているところを見られたのがきっかけだった。
白石はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、紬が父の家へ行く週だけは、教科書や体操服の忘れ物をよく確認してくれるようになった。
「数学の課題は?」
「入れた」
「図書室の鍵」
「今日は当番じゃない」
「お父さんへのハンバーグ」
紬は足を止めた。
「なんで知ってるの」
「鞄からちょっと匂いする」
「嘘」
「嘘」
白石が笑う。
「でも、タッパーっぽい形が見えてる」
紬は鞄の口を閉じ直した。
「見ないで」
「はいはい」
白石は先に階段を上がっていった。
紬はその背中を追いながら、少しだけ肩の力を抜いた。
白石は慰めない。
かわいそうとも言わない。
たぶん、それがありがたかった。
昼休み、母からメッセージが届いた。
『お父さんに、タッパーは返さなくていいって言っておいて。いっぱいあるから』
続けて父からも届いた。
『今日は駅まで迎えに行く。晩飯、外で食べよう』
どちらも嬉しい。
どちらにも、すぐに返事ができなかった。
父と外食をすると伝えれば、母のハンバーグを食べないことになる。
母の料理があると伝えれば、父が楽しみにしている外食を断ることになる。
たったそれだけのことなのに、紬には選べなかった。
画面を見つめていると、白石が前の席から振り返った。
「どうしたの」
「別に」
「その顔で別には無理がある」
紬は二つのメッセージを見せた。
白石は数秒考えた。
「ハンバーグを明日の朝食べれば?」
「朝から?」
「じゃあ明日の昼」
「お父さん、明日の昼は仕事」
「紬が食べればいいじゃん」
「……私が?」
「お母さん、紬が食べても怒らないでしょ」
当たり前のことだった。
母は父のために渡したのかもしれない。けれど、絶対に父が食べなければならないわけではない。
それなのに紬は、二人の気持ちを一つも取りこぼしてはいけないと思っていた。
「外食して、明日ハンバーグ食べるって送ればいい」
「簡単に言うね」
「簡単だから」
白石はそう言って、自分のパンの袋を開けた。
紬は母に、『今日はお父さんと外で食べる。ハンバーグは明日私が食べるね』と送った。
すぐに返事が来た。
『了解。たくさん食べてきなさい』
拍子抜けするほど普通だった。
父にも、『駅で待ってる』と返した。
昼休みが終わる少し前、紬は放送室へ向かった。
昨日の写真がまだ気になっていた。
扉を開けると、麻衣が一人で原稿を整理していた。
「あれ、朝霧さん」
「昨日の写真、まだありますか」
「あるよ」
写真は机の端に立てかけられていた。
三人が歩いている。
誰かの家へ向かっているのか、ただ寄り道をしているのかはわからない。
「この写真の三人は、どこへ帰ったんでしょう」
紬が尋ねると、麻衣は少し考えた。
「たぶん、それぞれの家じゃないかな」
「やっぱり、そうですよね」
「でも、その前までは同じ道を歩けた」
麻衣は写真の坂道を指でなぞった。
「帰る場所が違っても、途中までは一緒に帰れる。そういう写真なんじゃないかな」
紬は黙った。
麻衣の言葉は、昨日より少しだけ胸に入ってきた。
「私、二つ家があるんです」
自分から話したのは、白石以外では初めてだった。
「両親が離婚してて。平日は母の家、隔週の週末は父の家です」
麻衣は頷いた。
「そっか」
「どっちも嫌いじゃないんです。どっちも好きです」
「うん」
「だから困るんです」
口にした瞬間、目の奥が熱くなった。
嫌だから困るのではない。
好きだから困る。
父の家で笑えば、母を置いてきた気がする。
母と過ごせば、父を一人にした気がする。
どちらかを選ぶたびに、もう一方を選ばなかった自分が残る。
「帰る場所が二つあるって、いいことみたいに言われることがあるんです」
紬は机の木目を見た。
「二つも家があるなんて羨ましいとか。誕生日が二回来るみたいでいいねとか。でも、帰る場所が二つあると、帰らない場所も毎回一つできるんです」
麻衣はすぐに答えなかった。
放送室の時計の秒針が、静かに進んだ。
「それ、昨日の質問への答えかもしれないね」
「答え?」
「帰る場所が二つある人もいる。でも、その人が二倍幸せとは限らない」
麻衣はそう言ってから、少しだけ笑った。
「もちろん、二倍不幸とも限らないけど」
紬もかすかに笑った。
「ずるい答えですね」
「答えにくい質問だから」
昨日と同じ言葉だった。
けれど今日は、それが逃げではないとわかった。
答えが一つでないことを認めるための言葉なのだ。
放課後、紬は駅へ向かった。
正門の脇では、野良猫の校長が植え込みの影で丸くなっていた。
夏が近づき、日なたはもう暑いらしい。
紬は足を止めた。
「校長は、どこに帰るの」
猫は目を開けなかった。
「学校が家なのかな」
返事はない。
「でも、夜はどこか別のところに行くのかもしれないね」
校長の耳が一度だけ動いた。
「帰る場所が二つあっても、いいのかな」
今度も返事はなかった。
「何してるの」
背後から声がして、紬は振り返った。
白石が立っていた。
「校長に相談」
「校長、相談料高いよ」
「何を取るの」
「ちくわ」
「猫にちくわあげたらだめじゃない?」
「じゃあ、無添加の高いやつ」
「もっとだめな気がする」
白石は紬の隣にしゃがんだ。
校長は一度だけ目を開け、面倒そうに二人を見てから再び閉じた。
「相談、解決した?」
「してない」
「じゃあ俺が聞く」
「白石に?」
「校長よりは日本語わかるよ」
紬は少し迷った。
そして、放送室で話したことを繰り返した。
帰る場所が二つあること。
どちらも好きなこと。
どちらかへ帰るたびに、もう一方へ帰らない自分がいること。
白石は黙って聞いた。
紬が話し終えると、校長が大きなあくびをした。
「二つとも家でいいんじゃない」
白石は言った。
「そんな簡単な話じゃない」
「難しくしてるの、紬じゃない?」
「どういう意味」
「お父さんの家で笑ったら、お母さんが傷つく。お母さんの料理を食べたら、お父さんが寂しい。そう思ってるんでしょ」
紬は答えなかった。
「でも、それって二人がそう言ったの?」
「言ってないけど」
「じゃあ紬が、二人の分まで寂しがってるだけかもしれない」
風が吹いて、校長のひげが揺れた。
「そんなこと……」
ない、と言い切れなかった。
父も母も、紬に楽しそうにしてほしいと言う。
紬が週末を楽しんだことを責められたことは、一度もない。
それでも紬は、どちらかが寂しいはずだと決めつけていた。
「帰る場所が二つあるならさ」
白石は立ち上がった。
「二回『ただいま』って言えるじゃん」
紬は顔を上げた。
「……何それ」
「そのまま」
「子どもみたい」
「でも間違ってないでしょ」
白石は鞄を肩にかけ直した。
「帰らない方の家のことを考えるより、帰った方の家でちゃんと『ただいま』って言えばいいんじゃない」
紬はすぐには返事をしなかった。
校長が立ち上がり、二人の間を通り抜けた。
そして校舎の裏手へ歩いていく。
「校長も帰るみたい」
白石が言った。
「どこに?」
「さあ」
二人は正門を出た。
駅へ向かう坂道の途中で、白石は別の道へ曲がった。
「じゃあ、また月曜」
「うん」
紬は一人になった。
けれど、放送室の写真を思い出した。
帰る場所が違っても、途中までは一緒に歩ける。
父は駅の改札前で待っていた。
紬を見つけると、少し大げさに手を振った。
「久しぶり」
「二週間ぶり」
「父親にとって二週間は久しぶりなんだ」
「そうなんだ」
父は紬の鞄を持とうとしたが、紬は断った。
「重いだろ」
「平気」
「そう言うと思った」
二人は駅前の洋食屋へ入った。
父はいつものオムライスを頼み、紬はハンバーグを頼んだ。
注文してから、鞄の中にもハンバーグがあることを思い出し、少し笑った。
「どうした?」
「なんでもない」
「学校、楽しい?」
父は会うたびに同じことを聞く。
紬はいつも「普通」と答える。
けれど今日は、少し考えてから言った。
「放送室に写真があって」
「写真?」
「最後の一枚を撮れなかった人のカメラ。いろいろあって、最後は友達と撮って、現像した写真を一枚、放送室に置いたの」
父はうなずきながら聞いていた。
「そこに、帰る場所が二つある人もいるのかなって言った」
父の手が、コップの横で止まった。
「紬」
「別に、責めてないよ」
父は困ったように笑った。
小学生の頃、リビングで見たのと同じ顔だった。
「父さんは、紬に無理をさせてるかな」
その言葉を聞いた瞬間、紬は胸が苦しくなった。
やはり言わなければよかったと思った。
父を傷つけた。
けれど、そこで黙れば、また以前と同じになる気がした。
「わからない」
紬は正直に答えた。
「無理な時もある。でも、来たくないわけじゃない」
父は何度か頷いた。
「そっか」
「お父さんの家も好きだよ」
「うん」
「でも、お母さんの家も好き」
「うん」
「だから、どっちかを選ばせないで」
父の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「選ばせたつもりはなかった」
「わかってる。でも、私が勝手に選んでるみたいになる」
料理が運ばれてきた。
二人はしばらく黙って食べた。
気まずくはあった。
けれど、今までの沈黙とは違った。
言えなかったことを隠すための沈黙ではなく、言ったことを受け止めるための沈黙だった。
店を出る時、父が言った。
「次から、来たくない週は言っていいからな」
「来たくないって言ったら、寂しくない?」
「寂しい」
父は即答した。
「でも、紬が無理して来る方がもっと嫌だ」
紬は父を見た。
父は照れくさそうに目を逸らした。
「大人だから、そのくらい自分で何とかする」
「何とかできるの?」
「たぶん」
「頼りない」
「そこは信じてくれ」
マンションの玄関を開けると、見慣れた匂いがした。
父の使う柔軟剤と、少し古い木の棚の匂い。
「ただいま」
紬は言った。
父が一瞬だけ驚いた顔をした。
普段は何となく「来たよ」と言っていたからだ。
それから、父は笑った。
「おかえり」
たったそれだけだった。
白石の言葉は子どもっぽいと思っていた。
けれど、言ってみると悪くなかった。
翌日の昼、母のハンバーグを温めた。
父は仕事だったので、紬が一人で食べた。
母に写真を送ると、『食べてくれてありがとう』と返事が来た。
『お父さんには?』と続いたので、『一口もあげてない』と返した。
母から笑っている顔のスタンプが届いた。
日曜の夕方。
父は紬を母の家まで送った。
以前は駅で別れていたが、今日は「少し歩きたい」と言った。
家の前まで来ると、母が玄関から出てきた。
父と母は、短く挨拶をした。
「ハンバーグ、紬が全部食べたって」
父が言った。
「聞いた。あなたには作ってないから」
「そうなのか」
「紬に持たせただけ」
父は紬を見た。
紬も母を見た。
三人の間に、少しだけ可笑しな空気が流れた。
「じゃあ、また」
父は手を上げた。
「うん。またね」
紬はそう答えた。
父が帰っていく。
その背中を見送る自分を、母に申し訳ないとは思わなかった。
母と家に入ることを、父に申し訳ないとも思わなかった。
完全に消えたわけではない。
けれど、罪悪感より先に、別の言葉が浮かんだ。
「ただいま」
母が笑った。
「おかえり」
二回目の『ただいま』だった。
どちらも本物だった。
どちらも、嘘ではなかった。
月曜日の昼休み、紬は図書室の返却本を棚に戻していた。
白石がカウンターで貸出票を整理している。
「どうだった?」
「何が」
「二回ただいま」
紬は本を一冊、棚へ差し込んだ。
「まあまあ」
「じゃあ相談料」
「ちくわ?」
「俺は猫じゃない」
「じゃあ何」
「購買のプリン」
「高い」
「校長より安いよ」
紬は笑った。
その時、返却本の間から細長い紙が落ちた。
白石が拾い上げる。
手作りのしおりだった。
薄い青の画用紙に、小さな星が一つ描かれている。
裏には、丁寧な字で一文だけ書かれていた。
『借りた本は返せるのに、借りた勇気はどう返せばいいですか。』
差出人の名前はない。
本の貸出記録を見ると、最後に借りた生徒は三人いた。どの生徒が挟んだのかはわからなかった。
白石はしおりを見つめた。
「借りた勇気って、何だろう」
紬は答えなかった。
今度は自分が、答えにくい質問を受け取る番だった。
窓の外で、昼休みの予鈴が鳴った。
しおりの小さな星が、春の終わりの光を受けて淡く光った。




