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青葉ヶ丘青春リレー  作者: 芦名 雅


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17/45

第17話 空欄の名前にも、呼びたい人はいる

 桐生乃々花は、登場人物に名前をつけるのが得意だった。


 明るい少女なら、口にしたときに音が跳ねる名前。


 物静かな少年なら、呼んだあとに少し余韻が残る名前。


 親から大切に育てられた人。


 名字だけで呼ばれてきた人。


 自分の名前が好きな人。


 名前を呼ばれるたびに、過去を思い出す人。


 物語の中で誰かを生きさせるなら、名前は最初に決めるものだった。


 名前が決まれば、その人物の歩き方が分かる。


 どんな声で返事をするのか。


 苦手な相手へ、どれくらい離れて立つのか。


 好きな人の名前を、呼べるのか。


 呼べないのか。


 乃々花は、それらを考えることが好きだった。


 だから、原稿用紙の中央に残った空欄が気に入らなかった。


『私は、____のことが好きなのだと思う。』


 書きかけの恋愛小説。


 主人公の名前は、三枝葉月。


 高校二年生。


 文芸部。


 書くことは得意だが、自分の気持ちへ名前をつけることが苦手。


 そこまでは決まっている。


 問題は、葉月が好きになる相手だった。


 男子なのか。


 女子なのか。


 同級生なのか。


 先輩なのか。


 それさえ、最初は決めていなかった。


 恋愛小説を書こうと思ったのに、好きになる相手を用意していなかった。


 普通なら、そこで話は始まらない。


 けれど乃々花は、葉月の相手がどんな人なのかを知っていた。


 花の水を替える人。


 曖昧な励ましを言わない人。


 誰かが亡くなったと聞いても、安易に「元気を出して」とは言わない人。


 好きなものについて話すと長くなる人。


 文章を読んで、分からないものを分かったふりで褒めない人。


 乃々花が書いた台詞を、頭の中ではいつも同じ声が読んでいた。


 水城花音の声だった。


 だから、名前を書けなかった。


     ◇


 六月七日。


 昼休み。


 青葉ヶ丘高校正門。


 校長は、門柱の上で眠っていた。


 乃々花はその下に立ち、原稿用紙を開いた。


「恋愛相談、か」


 前日の放送室へ届いた相談は、放送では読まれなかった。


 差出人が許可した三人だけが読み、返事を書いたらしい。


 相談した人が誰なのか、乃々花は知らない。


 知らなくていい。


 ただ、放送で伝えられた一言だけが残っていた。


『今は、誰にも読まれず、そこに置いておきたいだけなら、そのままで構いません』


 恋心を、誰かへ渡さずに置いておく。


 その考え方が、乃々花には少し羨ましかった。


 小説なら、書けば紙の上へ置ける。


 自分の気持ちではないと言える。


 登場人物が勝手に好きになったのだと逃げられる。


 だが今回の原稿は、逃げるために書けば書くほど、水城花音へ近づいていった。


「書くのと、本当に好きになるのは、どっちが難しいと思う?」


 校長へ尋ねる。


 猫は目を開けない。


「返事しないなら、好きに書くけど」


 乃々花は、空欄の一文を見た。


『私は、____のことが好きなのだと思う。』


 花音の名前を入れれば、これは小説ではなくなる気がした。


 別の名前を入れれば、登場人物に嘘をつかせることになる。


 乃々花は、登場人物が本当なら言わない台詞を見つけると、そのページを破る。


 早く完成させるために、人物を作者の都合で動かしたくない。


 だから今まで、何枚も破ってきた。


 けれど、この原稿だけは破れなかった。


 破れば、花音の声まで捨てるような気がした。


 校長の尻尾が、一度だけ動く。


「分からないなら、分からないって書けばいい?」


 猫は答えない。


 乃々花は原稿を閉じた。


 今日は破らなかった。


     ◇


 文芸部室へ戻ると、佐伯美月が机へ向かっていた。


 窓際には、水城花音から借りた小さな花瓶がある。


 今は空だった。


 以前は黄色いガーベラ。


 次の日には白いカーネーション。


 花がなくなっても、花瓶だけはしばらく文芸部室に置かれていた。


「遅かった」


 美月が言う。


「昼休みは、まだ十分ある」


「藤崎先生、来たよ」


「何て?」


「部誌の締切」


「聞きたくない」


「来週の金曜日」


「聞こえなかった」


「部長の原稿が一番遅いって」


「部長は最後に全体を確認するから」


「自分の原稿は、全体に入らない?」


「入る」


「じゃあ遅い」


 美月は容赦がない。


 文芸部へ正式に入部したわけではない。


 まだ見学中だと言い張っている。


 それなのに、部員より部員らしく部室へ通っていた。


「美月の原稿は?」


「出した」


「いつ?」


「昨日」


「聞いてない」


「言ってない」


「部長へ報告して」


「見学だから」


「都合のいいときだけ見学になるね」


 美月は少し笑う。


「乃々花の恋愛小説は?」


「どうして知ってるの」


「机に表紙があった」


「見た?」


「題名だけ」


 仮題。


『名前を呼ぶまで』


 乃々花は原稿を鞄へしまう。


「まだ読ませない」


「完成してない?」


「最後まで書いてある」


「なら完成」


「名前がない」


「作者名?」


「相手役」


 美月が手を止めた。


「最初から最後まで?」


「会話では、名字も名前も呼ばれないように書いた」


「不自然じゃない?」


「不自然」


「なら呼べば」


「呼べないから困ってる」


 美月は少し考えた。


「モデルがいる?」


「いない」


 即答した。


 美月が乃々花を見る。


「今の、早かった」


「いない」


「二回言った」


「小説の人物にモデルはいらない」


「いてもいいでしょう」


「いたら面倒」


「何が?」


「本人へ見せられない」


 言ってから、乃々花は口を閉じた。


 美月の視線が少し変わる。


「いるんだ」


「いない」


「言葉が、本人の声になる?」


 乃々花は答えなかった。


 美月は、自分の『透明な席』を玲奈へ読ませた。


 自分の気持ちに近い主人公を、他人へ見せた。


 だから分かるのかもしれない。


「勝手に書いたなら、聞けばいい」


 美月が言う。


「何を」


「読んでいいか」


「小説は、誰かの許可を取って書くものじゃない」


「でも、本人の言葉を使った?」


「そのままは使ってない」


「本人だと分かるくらい似てる?」


「分からない」


「本人に読んでもらえば分かる」


「それができないから困ってる」


「どうして」


「恋愛小説だから」


 美月は、ようやく意味を理解した顔をした。


「好きなの?」


「登場人物が」


「乃々花は?」


「書いてる人」


「答えてない」


「美月、最近遠慮がなくなったね」


「友達になったから」


「いつ決まったの」


「今」


「勝手」


「嫌?」


 乃々花は少し考える。


「嫌じゃない」


「じゃあ友達」


 美月はノートへ戻った。


「友達として言うけど、名前を書けないまま出したら、読む人は意図だと思う」


「意図ではある」


「逃げた意図?」


「言い方」


「違う?」


 違わない。


 乃々花は答えず、原稿用紙を机へ置いた。


     ◇


 五時間目。


 二年一組。


 乃々花は窓の外を見ていた。


 中庭の花壇で、水城花音が土へ触れている。


 授業中ではない。


 花音のクラスは体育らしく、体操服姿だった。


 授業開始前に花壇を確認しているのだろう。


 少し離れた場所から、体育教師が呼ぶ。


「水城、始めるぞ」


「はい」


 花音は立ち上がり、手についた土を払う。


 返事の声は、教室の窓を閉めているため聞こえない。


 それでも乃々花の頭の中では、はっきり再生された。


 短い声。


 必要な分だけ。


 乃々花の小説で、葉月の相手は同じように返事をする。


『分かった』


『それは違う』


『嫌なら嫌と言って』


『枯れるものは、枯れる』


 花音が実際に言った言葉と、言いそうな言葉が混ざっている。


 どこからが花音で、どこからが乃々花の人物なのか分からない。


「桐生」


 教師に呼ばれる。


「はい」


「今、どこを読んでいた」


「窓の外です」


 教室に笑いが起こる。


「正直でよろしい。教科書は?」


「百二十二ページ」


「分かってるなら前を向け」


「はい」


 乃々花は教科書を開く。


 隣の席の男子が、小声で言った。


「花壇に何かいた?」


「人」


「誰」


「水城さん」


「二年三組の?」


「知ってるの」


「花の人だろ」


 花の人。


 それだけで通じる。


「仲いいの?」


「文芸部に来る」


「入ったの?」


「入ってない」


「じゃあ何しに」


「詩を書きに」


「それは文芸部じゃん」


「本人へ言って」


 教師が黒板へチョークを置く。


「桐生、まだ話すなら前で授業するか」


「終わりました」


 教室がまた笑う。


 乃々花は前を向いた。


 花壇にいた花音も、教室の誰かが知っている花音も、乃々花が書いた花音も少しずつ違う。


 なら、小説の人物は花音そのものではない。


 そう言い訳できる。


 けれど、言い訳したい時点で、何かが本当だった。


     ◇


 放課後。


 文芸部室。


 藤崎先生が原稿の束を確認していた。


「美月は二本」


「一本は練習です」


「どちらも部誌候補にしていい?」


「名前を出さないなら」


「分かった」


「水城の詩は二編」


「本人の名前を出していいそうです」


 乃々花が答える。


「桐生は?」


「推敲中」


「いつから?」


「一週間前」


「珍しいね」


「何がですか」


「いつもなら、迷った原稿は破る」


 藤崎は、部室のごみ箱を見る。


 今日は丸められた紙が一枚もない。


「破るほど悪くないので」


「いいことじゃない」


「良すぎて困ってます」


「自信があるの?」


「違います」


 乃々花は原稿を隠すように手を置いた。


「登場人物が、私の知らない人へ近づいてる」


「作者が知らない人物は書けないよ」


「でも、私ではない人です」


「知っている誰か?」


「たぶん」


 藤崎は、詳しく聞かなかった。


「モデルがいる作品を書くこと自体は悪くない」


「分かってます」


「ただ、現実の人をそのまま作品へ閉じ込めないこと」


「そのままではないです」


「本人がどう感じるかは、作者には決められない」


 乃々花は黙る。


「見せる予定は?」


「ありません」


「では、なぜ困るの」


「見せたくなってるから」


 自分で言って、ようやく分かった。


 完成させたいだけではない。


 花音に読んでほしい。


 感想を聞きたい。


 この人物は自分に似ているか。


 勝手に使われたと思うか。


 そして、乃々花がどうして花音の声で書いたのか、気づくのか。


 気づいてほしいのか。


 気づいてほしくないのか。


「なら、見せればいい」


 藤崎が言う。


「恋愛小説です」


「知ってる」


「読んだんですか」


「表紙だけ」


「みんな表紙を見る」


「題名は見えるように置いてあるから」


「相手役が、その人に似てます」


「似せた?」


「最初は違いました」


「書いているうちに似た」


「はい」


「それなら、あなたがその人から受け取ったものが、人物に入ったんでしょう」


「勝手に?」


「小説は、かなり勝手なものだよ」


「顧問が言っていいんですか」


「勝手だからこそ、見せるときは相手の選択を残す」


「読まない選択?」


「そう」


 藤崎は原稿を乃々花の前へ戻す。


「読んでほしいと頼むことと、読ませることは違う」


 相談箱の手紙と同じだった。


 開けていいか確認する。


 読んでいいか確認する。


 相手が何を望むかを、作者が勝手に決めない。


「締切、延ばしませんから」


「最後にそれを言います?」


「部長なので」


     ◇


 藤崎が部室を出たあと、水城花音が入ってきた。


 乃々花は、考える時間を失った。


「来た」


 美月が言う。


「見れば分かる」


 花音の手には、白い封筒がある。


「詩の修正」


「直したの?」


「一文字だけ」


「どこ」


「『咲いてもらった』を、『咲いていた』にした」


 花音は原稿を乃々花へ渡す。


 以前の一文。


『だから今日だけ、私が拾った理由で咲いてもらった。』


 修正後。


『だから今日だけ、私が拾った理由のそばで咲いていた。』


「どうして変えたの」


「花に咲いてもらったわけじゃないから」


「前の方が強い」


「勝手すぎると思った」


「詩なんだから、勝手でもいい」


「乃々花が言う?」


「何が」


「勝手に書く人でしょう」


 乃々花の胸が跳ねる。


 花音は、恋愛小説のことを知らない。


 一般的な話。


「私は、勝手に書いたあと考える」


「何を」


「見せていいか」


「誰に?」


 花音が尋ねる。


 乃々花は答えられない。


 美月が机から立ち上がった。


「図書室に行く」


「急に?」


「本を返す」


「さっき、まだ読んでるって」


「読み終わった」


 美月は鞄を持つ。


 乃々花を見る。


「友達だから、気を遣う」


「今、その言葉を使う?」


「使う」


 部室を出ていった。


 花音が扉を見る。


「何?」


「知らない」


「乃々花が何か隠してる?」


「どうして」


「美月が、分かりやすく二人にしたから」


「気づかないふりをして」


「嫌」


 花音は空いた椅子へ座る。


「何を書いたの」


「小説」


「いつも書いてる」


「恋愛小説」


「前も書いてたでしょう」


「今度のは」


 乃々花は原稿を持つ。


 重くはない。


 紙の束。


 それなのに、花音へ差し出す腕が動かない。


「読んでほしい」


 言えた。


 花音は手を出さなかった。


「どうして私?」


「相手役が、花音に似た」


 部室が静かになる。


 窓の外から、運動部の声。


 紙を持つ乃々花の指へ、少し汗がにじむ。


「私をモデルにした?」


「最初は違った」


「途中から?」


「台詞を考えると、花音の声になった」


「そのまま言った言葉が入ってる?」


「少し似たものはある。でも、そのままはほとんどない」


「ほとんど」


「一つだけ」


「何」


「『花は枯れる』」


「言った」


「そのあとは変えた」


「どう変えた?」


「読んだら分かる」


 花音は原稿を見る。


「恋愛の相手?」


「小説では」


「乃々花は?」


 美月と同じ質問。


 今度は逃げられない。


「分からない」


 乃々花は答えた。


「花音のことを考えて書いた」


「うん」


「花音が来ると、話したいことが増える」


「うん」


「来ない日は、何を書いたのか気になる」


「それは文芸部員として?」


「まだ部員じゃない」


「そこ?」


「そういうところを、好きなのかもしれない」


 言った。


 告白ではない。


 かもしれない。


 逃げ道のある言葉。


 それでも乃々花にとっては、原稿へ名前を書くより難しかった。


 花音は、すぐには答えなかった。


「読まない方がいい?」


 乃々花が尋ねる。


「今は」


 胸が痛む。


 だが、花音は続けた。


「乃々花が私を好きかどうかの答えを探すために読むなら、嫌」


「どうして」


「私が、作品の中から答えを出すことになるから」


「そんなつもりは」


「少しあるでしょう」


 否定できない。


「でも、小説として読んでほしい」


「なら、先に一つ聞く」


「何」


「私が似てないと言っても、その人物を消さない?」


 乃々花は原稿を見る。


 花音に似ているから大事なのか。


 その人物が物語の中で生きているから大事なのか。


「消さない」


「私が嫌だと言ったところは変える?」


「勝手に使った言葉なら変える」


「人物の性格は?」


「話として必要なら、話し合う」


「私と違っても?」


「違っていい」


「なら読む」


 花音が手を出した。


 乃々花は原稿を渡した。


「今?」


「今」


「目の前で?」


「嫌?」


「かなり」


「じゃあ、廊下で待つ?」


「それも嫌」


「どうしたいの」


「ここにいる」


「分かった」


 花音は読み始めた。


     ◇


 紙をめくる音が、いつもより大きく聞こえた。


 乃々花は机の反対側へ座った。


 花音の表情を見ないように、空の花瓶を見る。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 花音は読むのが速くない。


 一文ずつ止まる。


 戻ることもある。


 乃々花は、何度も原稿を取り返したくなった。


 ここは説明が長い。


 この台詞は、花音に似せすぎた。


 あの場面は削ればよかった。


 今さら全部が悪く見える。


「破らないで」


 花音が原稿から目を上げずに言う。


「触ってない」


「顔が、破りたい顔」


「どんな顔」


「私の詩を読んだときもしてた」


「してない」


「してた」


 花音は読み続ける。


 物語の葉月は、相手と一緒に校内の花壇を歩く。


 花の名前を聞く。


 相手は、全部に答える。


 だが、一つだけ知らない花がある。


『分からない』


 相手は言う。


『あなたにも、分からないものがあるんだ』


『あるよ』


『何でも知ってると思ってた』


『知ってることしか話してないから』


 その会話は、実際にはなかった。


 けれど、花音なら言う気がした。


 物語の最後。


 葉月は、自分の気持ちへ名前をつけようとする。


『私は、____のことが好きなのだと思う。』


 相手の名前だけが空欄。


 花音の手が止まった。


「ここ」


「うん」


「印刷でも空欄にする?」


「そのつもりだった」


「どうして」


「名前をつけると、花音になるから」


「私の名前を入れる?」


「入れない」


「別の名前は?」


「嘘になると思った」


 花音は最後のページをもう一度読む。


「この人、私じゃない」


 乃々花の胸が沈む。


「似てない?」


「似てるところもある」


「どこ」


「話が長い人を、長いって言うところ」


「それだけ?」


「花を放っておけないところ」


「ほかは?」


「私より優しい」


「花音も優しい」


「そういうことを言わない人でしょう、乃々花」


「小説を書いたあとだから」


「ずるい」


 花音は少し笑った。


「でも、この人は私じゃない」


「嫌?」


「違う」


 花音は原稿の空欄を指す。


「だから、この人には名前をあげて」


「花音じゃない名前?」


「乃々花がつける名前」


「でも、声は」


「私から聞いた声で作った人でしょう」


「勝手に借りた」


「借りた言葉は、使ったら同じ言葉じゃなくなるって、前に言った」


 花音が覚えていた。


「ただし」


「何」


「『花は枯れる』は、私もいろんな人から聞いた」


「花音だけの言葉じゃない?」


「うん」


「じゃあ使う」


「でも、そのあとの台詞は乃々花の言葉」


 物語の中。


『花は枯れる』


『それでも、咲いていた時間を見た人は残る』


 花音はそこを指した。


「私は、こんなこと言わない」


「言わない?」


「長い」


「小説だから」


「でも、好き」


 乃々花は花音を見る。


「どこが」


「私が言わないことを、私に似た人が言ってるところ」


 分かりにくい感想。


 けれど、花音らしかった。


「名前」


 花音が言う。


「今つける?」


「一緒に?」


「私が決めたら、また私になる」


「じゃあ見てて」


 乃々花は新しい紙を出した。


 候補を書く。


 春野澄。


 小森灯。


 花村凪。


「花ばっかり」


「引っ張られてる」


「この人、花を育てるだけの人じゃないでしょう」


「そう」


 葉月が好きになる人物。


 知っていることしか話さない。


 分からないことを分からないと言える。


 少し不器用。


 優しいと言われると否定する。


 花音に似ている。


 花音ではない。


「遠野真白」


 乃々花が書く。


「白?」


「何色にも染められそうで、白いままの人」


「誰の話?」


「麻衣先輩のお姉さん」


「この人と関係ない」


「名前は、いろんな場所から来る」


 花音は候補を見る。


「真白でいいと思う」


「本当に?」


「私ではない感じがする」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


 乃々花は空欄へ書いた。


『私は、真白のことが好きなのだと思う。』


 名前が入る。


 文章が、ようやく物語の中へ戻った。


     ◇


「乃々花は?」


 花音が尋ねた。


「何が」


「小説の話は終わった」


「終わってない。推敲がある」


「私のこと」


 逃げようとしたが、花音は待っている。


「好きかもしれないって言った」


「うん」


「今も、かもしれない」


「うん」


「答えは?」


「私が?」


「嫌じゃない?」


 花音は少し考えた。


「小説に勝手に書かれたのは、少し困った」


「ごめん」


「でも、見せる前に聞いた」


「うん」


「私じゃない人物にした」


「うん」


「乃々花に好きかもしれないと言われたのは」


 花音が止まる。


 乃々花は待つ。


「嫌じゃない」


 それだけで胸が少し軽くなる。


「好き?」


「分からない」


「そう」


「がっかりした?」


「少し」


「正直」


「でも、分からないって言う人が好きかもしれないから」


「それ、私のこと?」


「今のは、花音」


 二人とも笑った。


「すぐに答えなくていい」


 乃々花が言う。


「放送委員みたい」


「最近、学校中がそうなってる」


「置いておく?」


「何を」


「乃々花の好きかもしれない気持ち」


「相談箱に?」


「文芸部室」


「どこへ」


 花音は空の花瓶を指した。


「ここ」


「水を入れる?」


「入れない。紙だから」


「花音、冗談言うようになったね」


「乃々花と話すと、少し」


 乃々花は原稿の表紙を一枚外した。


 小さく切る。


『好きかもしれない。答えは急がなくていい。』


 そう書いて、空の花瓶へ入れた。


「本当に入れるの?」


「置いておく場所」


「誰かに見られる」


「美月には、たぶん分かる」


「藤崎先生にも」


「じゃあ、折る」


 紙を小さく折る。


 文字は見えなくなる。


「いつまで置く?」


「花音が返事したくなるまで」


「返事しなかったら?」


「部誌が出るまで」


「短い」


「締切があるから」


「恋にも?」


「原稿だけ」


 花音は花瓶の中の紙を見る。


「明日も来る」


「文芸部に?」


「うん」


「正式入部?」


「見学」


「まだ?」


「返事を急がないで」


 乃々花は笑った。


「分かった」


     ◇


 翌朝。


 乃々花は文芸部室へ一番に入った。


 空の花瓶には、昨日の紙が残っている。


 返事はない。


 当然だった。


 一晩で答える必要はない。


 乃々花は完成した原稿を机へ置く。


 仮題を消す。


『名前を呼ぶまで』


 そのままでもよかった。


 けれど、最後の一文を書き換える。


『葉月は、真白の名前を呼んだ。


 それは告白ではなかった。


 けれど、誰でもない人として見ていると伝える、最初の声だった。』


 完結。


 今度は本当に。


 乃々花はページを揃える。


 破らない。


 藤崎先生の提出箱へ入れる。


 部室へ戻ると、美月が入ってきた。


 花瓶の中の紙を見る。


「何これ」


「見ないで」


「折ってある」


「なら見えないでしょう」


「返事待ち?」


「どうして分かるの」


「昨日、気を遣ったから」


「気を遣うなら聞かないで」


「友達だから」


「便利な言葉になってない?」


「少し」


 美月は自分の席へ座る。


「原稿、出した?」


「出した」


「名前は?」


「つけた」


「誰」


「遠野真白」


「水城花音じゃないんだ」


「聞いてた?」


「廊下にいた」


「図書室へ行ったんじゃないの」


「途中で本を忘れたことに気づいた」


「戻ってきた?」


「扉の前まで」


「全部?」


「名前をつけるところだけ」


「みんな少し見て、少し聞く」


「学校だから」


 美月は笑う。


「よかったね」


「何が」


「破らなくて」


 乃々花は、完成原稿のなくなった机を見る。


「うん」


 今回は破らなかった。


 小説も。


 自分の分からない気持ちも。


     ◇


 昼休み。


 花音が部室へ来た。


 手には小さな黄色い花が一輪。


「それ、何」


「マリーゴールド」


「花壇から取った?」


「折れてた」


「また落とし物?」


「違う。風」


 花音は空の花瓶へ水を少し入れ、花を挿す。


 折った紙は、水に濡れないよう、乃々花が先に取り出した。


「紙、どうする?」


 花音が尋ねる。


「まだ置いておく」


「どこへ」


「原稿の箱」


「混ざる」


「じゃあ、私が持つ」


 乃々花は紙を制服の胸ポケットへ入れた。


 花音が黄色い花を整える。


「返事」


「今?」


「一つだけ」


 乃々花の胸が鳴る。


「明日、花壇の水やりを手伝って」


「それが返事?」


「乃々花のことを、文芸部室以外でも知りたい」


「好きってこと?」


「分からない」


「やっぱり」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「なら、明日」


「何時?」


「朝七時半」


「早い」


「花は待たない」


「恋は待つのに?」


「恋か分からないから」


 乃々花は笑った。


「分かった」


 答えはまだない。


 それでも、次に会う時間が決まった。


 空欄へ無理に答えを書くより、ずっとよかった。


     ◇


 その日の放課後。


 乃々花と花音が文芸部室を出ると、渡り廊下のベンチに一台の小さなカメラが置かれていた。


 使い捨てカメラ。


 透明な袋に入り、雨には濡れていない。


 表面へ、白いテープが貼られている。


『あと一枚』


 花音が拾い上げる。


「落とし物」


「今度はカメラ」


「職員室?」


「中を見ないで届ける」


「当たり前」


 乃々花は、カメラの横に挟まれた小さな紙へ気づいた。


『最後の一枚だけ、何を撮ればいいか決められません。


 見つけた人が、代わりに撮ってください。』


 名前はない。


 花音が乃々花を見る。


「撮る?」


 乃々花は首を振った。


「勝手に決めない」


「じゃあ?」


「まず、誰が置いたか探す」


「相談箱みたい」


「最近、学校中がそうなってる」


 二人はカメラを持ち、放送室へ向かった。


 フィルムに残った最後の一枚が、誰のために空いているのか。


 まだ、何も写っていなかった。


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