第17話 空欄の名前にも、呼びたい人はいる
桐生乃々花は、登場人物に名前をつけるのが得意だった。
明るい少女なら、口にしたときに音が跳ねる名前。
物静かな少年なら、呼んだあとに少し余韻が残る名前。
親から大切に育てられた人。
名字だけで呼ばれてきた人。
自分の名前が好きな人。
名前を呼ばれるたびに、過去を思い出す人。
物語の中で誰かを生きさせるなら、名前は最初に決めるものだった。
名前が決まれば、その人物の歩き方が分かる。
どんな声で返事をするのか。
苦手な相手へ、どれくらい離れて立つのか。
好きな人の名前を、呼べるのか。
呼べないのか。
乃々花は、それらを考えることが好きだった。
だから、原稿用紙の中央に残った空欄が気に入らなかった。
『私は、____のことが好きなのだと思う。』
書きかけの恋愛小説。
主人公の名前は、三枝葉月。
高校二年生。
文芸部。
書くことは得意だが、自分の気持ちへ名前をつけることが苦手。
そこまでは決まっている。
問題は、葉月が好きになる相手だった。
男子なのか。
女子なのか。
同級生なのか。
先輩なのか。
それさえ、最初は決めていなかった。
恋愛小説を書こうと思ったのに、好きになる相手を用意していなかった。
普通なら、そこで話は始まらない。
けれど乃々花は、葉月の相手がどんな人なのかを知っていた。
花の水を替える人。
曖昧な励ましを言わない人。
誰かが亡くなったと聞いても、安易に「元気を出して」とは言わない人。
好きなものについて話すと長くなる人。
文章を読んで、分からないものを分かったふりで褒めない人。
乃々花が書いた台詞を、頭の中ではいつも同じ声が読んでいた。
水城花音の声だった。
だから、名前を書けなかった。
◇
六月七日。
昼休み。
青葉ヶ丘高校正門。
校長は、門柱の上で眠っていた。
乃々花はその下に立ち、原稿用紙を開いた。
「恋愛相談、か」
前日の放送室へ届いた相談は、放送では読まれなかった。
差出人が許可した三人だけが読み、返事を書いたらしい。
相談した人が誰なのか、乃々花は知らない。
知らなくていい。
ただ、放送で伝えられた一言だけが残っていた。
『今は、誰にも読まれず、そこに置いておきたいだけなら、そのままで構いません』
恋心を、誰かへ渡さずに置いておく。
その考え方が、乃々花には少し羨ましかった。
小説なら、書けば紙の上へ置ける。
自分の気持ちではないと言える。
登場人物が勝手に好きになったのだと逃げられる。
だが今回の原稿は、逃げるために書けば書くほど、水城花音へ近づいていった。
「書くのと、本当に好きになるのは、どっちが難しいと思う?」
校長へ尋ねる。
猫は目を開けない。
「返事しないなら、好きに書くけど」
乃々花は、空欄の一文を見た。
『私は、____のことが好きなのだと思う。』
花音の名前を入れれば、これは小説ではなくなる気がした。
別の名前を入れれば、登場人物に嘘をつかせることになる。
乃々花は、登場人物が本当なら言わない台詞を見つけると、そのページを破る。
早く完成させるために、人物を作者の都合で動かしたくない。
だから今まで、何枚も破ってきた。
けれど、この原稿だけは破れなかった。
破れば、花音の声まで捨てるような気がした。
校長の尻尾が、一度だけ動く。
「分からないなら、分からないって書けばいい?」
猫は答えない。
乃々花は原稿を閉じた。
今日は破らなかった。
◇
文芸部室へ戻ると、佐伯美月が机へ向かっていた。
窓際には、水城花音から借りた小さな花瓶がある。
今は空だった。
以前は黄色いガーベラ。
次の日には白いカーネーション。
花がなくなっても、花瓶だけはしばらく文芸部室に置かれていた。
「遅かった」
美月が言う。
「昼休みは、まだ十分ある」
「藤崎先生、来たよ」
「何て?」
「部誌の締切」
「聞きたくない」
「来週の金曜日」
「聞こえなかった」
「部長の原稿が一番遅いって」
「部長は最後に全体を確認するから」
「自分の原稿は、全体に入らない?」
「入る」
「じゃあ遅い」
美月は容赦がない。
文芸部へ正式に入部したわけではない。
まだ見学中だと言い張っている。
それなのに、部員より部員らしく部室へ通っていた。
「美月の原稿は?」
「出した」
「いつ?」
「昨日」
「聞いてない」
「言ってない」
「部長へ報告して」
「見学だから」
「都合のいいときだけ見学になるね」
美月は少し笑う。
「乃々花の恋愛小説は?」
「どうして知ってるの」
「机に表紙があった」
「見た?」
「題名だけ」
仮題。
『名前を呼ぶまで』
乃々花は原稿を鞄へしまう。
「まだ読ませない」
「完成してない?」
「最後まで書いてある」
「なら完成」
「名前がない」
「作者名?」
「相手役」
美月が手を止めた。
「最初から最後まで?」
「会話では、名字も名前も呼ばれないように書いた」
「不自然じゃない?」
「不自然」
「なら呼べば」
「呼べないから困ってる」
美月は少し考えた。
「モデルがいる?」
「いない」
即答した。
美月が乃々花を見る。
「今の、早かった」
「いない」
「二回言った」
「小説の人物にモデルはいらない」
「いてもいいでしょう」
「いたら面倒」
「何が?」
「本人へ見せられない」
言ってから、乃々花は口を閉じた。
美月の視線が少し変わる。
「いるんだ」
「いない」
「言葉が、本人の声になる?」
乃々花は答えなかった。
美月は、自分の『透明な席』を玲奈へ読ませた。
自分の気持ちに近い主人公を、他人へ見せた。
だから分かるのかもしれない。
「勝手に書いたなら、聞けばいい」
美月が言う。
「何を」
「読んでいいか」
「小説は、誰かの許可を取って書くものじゃない」
「でも、本人の言葉を使った?」
「そのままは使ってない」
「本人だと分かるくらい似てる?」
「分からない」
「本人に読んでもらえば分かる」
「それができないから困ってる」
「どうして」
「恋愛小説だから」
美月は、ようやく意味を理解した顔をした。
「好きなの?」
「登場人物が」
「乃々花は?」
「書いてる人」
「答えてない」
「美月、最近遠慮がなくなったね」
「友達になったから」
「いつ決まったの」
「今」
「勝手」
「嫌?」
乃々花は少し考える。
「嫌じゃない」
「じゃあ友達」
美月はノートへ戻った。
「友達として言うけど、名前を書けないまま出したら、読む人は意図だと思う」
「意図ではある」
「逃げた意図?」
「言い方」
「違う?」
違わない。
乃々花は答えず、原稿用紙を机へ置いた。
◇
五時間目。
二年一組。
乃々花は窓の外を見ていた。
中庭の花壇で、水城花音が土へ触れている。
授業中ではない。
花音のクラスは体育らしく、体操服姿だった。
授業開始前に花壇を確認しているのだろう。
少し離れた場所から、体育教師が呼ぶ。
「水城、始めるぞ」
「はい」
花音は立ち上がり、手についた土を払う。
返事の声は、教室の窓を閉めているため聞こえない。
それでも乃々花の頭の中では、はっきり再生された。
短い声。
必要な分だけ。
乃々花の小説で、葉月の相手は同じように返事をする。
『分かった』
『それは違う』
『嫌なら嫌と言って』
『枯れるものは、枯れる』
花音が実際に言った言葉と、言いそうな言葉が混ざっている。
どこからが花音で、どこからが乃々花の人物なのか分からない。
「桐生」
教師に呼ばれる。
「はい」
「今、どこを読んでいた」
「窓の外です」
教室に笑いが起こる。
「正直でよろしい。教科書は?」
「百二十二ページ」
「分かってるなら前を向け」
「はい」
乃々花は教科書を開く。
隣の席の男子が、小声で言った。
「花壇に何かいた?」
「人」
「誰」
「水城さん」
「二年三組の?」
「知ってるの」
「花の人だろ」
花の人。
それだけで通じる。
「仲いいの?」
「文芸部に来る」
「入ったの?」
「入ってない」
「じゃあ何しに」
「詩を書きに」
「それは文芸部じゃん」
「本人へ言って」
教師が黒板へチョークを置く。
「桐生、まだ話すなら前で授業するか」
「終わりました」
教室がまた笑う。
乃々花は前を向いた。
花壇にいた花音も、教室の誰かが知っている花音も、乃々花が書いた花音も少しずつ違う。
なら、小説の人物は花音そのものではない。
そう言い訳できる。
けれど、言い訳したい時点で、何かが本当だった。
◇
放課後。
文芸部室。
藤崎先生が原稿の束を確認していた。
「美月は二本」
「一本は練習です」
「どちらも部誌候補にしていい?」
「名前を出さないなら」
「分かった」
「水城の詩は二編」
「本人の名前を出していいそうです」
乃々花が答える。
「桐生は?」
「推敲中」
「いつから?」
「一週間前」
「珍しいね」
「何がですか」
「いつもなら、迷った原稿は破る」
藤崎は、部室のごみ箱を見る。
今日は丸められた紙が一枚もない。
「破るほど悪くないので」
「いいことじゃない」
「良すぎて困ってます」
「自信があるの?」
「違います」
乃々花は原稿を隠すように手を置いた。
「登場人物が、私の知らない人へ近づいてる」
「作者が知らない人物は書けないよ」
「でも、私ではない人です」
「知っている誰か?」
「たぶん」
藤崎は、詳しく聞かなかった。
「モデルがいる作品を書くこと自体は悪くない」
「分かってます」
「ただ、現実の人をそのまま作品へ閉じ込めないこと」
「そのままではないです」
「本人がどう感じるかは、作者には決められない」
乃々花は黙る。
「見せる予定は?」
「ありません」
「では、なぜ困るの」
「見せたくなってるから」
自分で言って、ようやく分かった。
完成させたいだけではない。
花音に読んでほしい。
感想を聞きたい。
この人物は自分に似ているか。
勝手に使われたと思うか。
そして、乃々花がどうして花音の声で書いたのか、気づくのか。
気づいてほしいのか。
気づいてほしくないのか。
「なら、見せればいい」
藤崎が言う。
「恋愛小説です」
「知ってる」
「読んだんですか」
「表紙だけ」
「みんな表紙を見る」
「題名は見えるように置いてあるから」
「相手役が、その人に似てます」
「似せた?」
「最初は違いました」
「書いているうちに似た」
「はい」
「それなら、あなたがその人から受け取ったものが、人物に入ったんでしょう」
「勝手に?」
「小説は、かなり勝手なものだよ」
「顧問が言っていいんですか」
「勝手だからこそ、見せるときは相手の選択を残す」
「読まない選択?」
「そう」
藤崎は原稿を乃々花の前へ戻す。
「読んでほしいと頼むことと、読ませることは違う」
相談箱の手紙と同じだった。
開けていいか確認する。
読んでいいか確認する。
相手が何を望むかを、作者が勝手に決めない。
「締切、延ばしませんから」
「最後にそれを言います?」
「部長なので」
◇
藤崎が部室を出たあと、水城花音が入ってきた。
乃々花は、考える時間を失った。
「来た」
美月が言う。
「見れば分かる」
花音の手には、白い封筒がある。
「詩の修正」
「直したの?」
「一文字だけ」
「どこ」
「『咲いてもらった』を、『咲いていた』にした」
花音は原稿を乃々花へ渡す。
以前の一文。
『だから今日だけ、私が拾った理由で咲いてもらった。』
修正後。
『だから今日だけ、私が拾った理由のそばで咲いていた。』
「どうして変えたの」
「花に咲いてもらったわけじゃないから」
「前の方が強い」
「勝手すぎると思った」
「詩なんだから、勝手でもいい」
「乃々花が言う?」
「何が」
「勝手に書く人でしょう」
乃々花の胸が跳ねる。
花音は、恋愛小説のことを知らない。
一般的な話。
「私は、勝手に書いたあと考える」
「何を」
「見せていいか」
「誰に?」
花音が尋ねる。
乃々花は答えられない。
美月が机から立ち上がった。
「図書室に行く」
「急に?」
「本を返す」
「さっき、まだ読んでるって」
「読み終わった」
美月は鞄を持つ。
乃々花を見る。
「友達だから、気を遣う」
「今、その言葉を使う?」
「使う」
部室を出ていった。
花音が扉を見る。
「何?」
「知らない」
「乃々花が何か隠してる?」
「どうして」
「美月が、分かりやすく二人にしたから」
「気づかないふりをして」
「嫌」
花音は空いた椅子へ座る。
「何を書いたの」
「小説」
「いつも書いてる」
「恋愛小説」
「前も書いてたでしょう」
「今度のは」
乃々花は原稿を持つ。
重くはない。
紙の束。
それなのに、花音へ差し出す腕が動かない。
「読んでほしい」
言えた。
花音は手を出さなかった。
「どうして私?」
「相手役が、花音に似た」
部室が静かになる。
窓の外から、運動部の声。
紙を持つ乃々花の指へ、少し汗がにじむ。
「私をモデルにした?」
「最初は違った」
「途中から?」
「台詞を考えると、花音の声になった」
「そのまま言った言葉が入ってる?」
「少し似たものはある。でも、そのままはほとんどない」
「ほとんど」
「一つだけ」
「何」
「『花は枯れる』」
「言った」
「そのあとは変えた」
「どう変えた?」
「読んだら分かる」
花音は原稿を見る。
「恋愛の相手?」
「小説では」
「乃々花は?」
美月と同じ質問。
今度は逃げられない。
「分からない」
乃々花は答えた。
「花音のことを考えて書いた」
「うん」
「花音が来ると、話したいことが増える」
「うん」
「来ない日は、何を書いたのか気になる」
「それは文芸部員として?」
「まだ部員じゃない」
「そこ?」
「そういうところを、好きなのかもしれない」
言った。
告白ではない。
かもしれない。
逃げ道のある言葉。
それでも乃々花にとっては、原稿へ名前を書くより難しかった。
花音は、すぐには答えなかった。
「読まない方がいい?」
乃々花が尋ねる。
「今は」
胸が痛む。
だが、花音は続けた。
「乃々花が私を好きかどうかの答えを探すために読むなら、嫌」
「どうして」
「私が、作品の中から答えを出すことになるから」
「そんなつもりは」
「少しあるでしょう」
否定できない。
「でも、小説として読んでほしい」
「なら、先に一つ聞く」
「何」
「私が似てないと言っても、その人物を消さない?」
乃々花は原稿を見る。
花音に似ているから大事なのか。
その人物が物語の中で生きているから大事なのか。
「消さない」
「私が嫌だと言ったところは変える?」
「勝手に使った言葉なら変える」
「人物の性格は?」
「話として必要なら、話し合う」
「私と違っても?」
「違っていい」
「なら読む」
花音が手を出した。
乃々花は原稿を渡した。
「今?」
「今」
「目の前で?」
「嫌?」
「かなり」
「じゃあ、廊下で待つ?」
「それも嫌」
「どうしたいの」
「ここにいる」
「分かった」
花音は読み始めた。
◇
紙をめくる音が、いつもより大きく聞こえた。
乃々花は机の反対側へ座った。
花音の表情を見ないように、空の花瓶を見る。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
花音は読むのが速くない。
一文ずつ止まる。
戻ることもある。
乃々花は、何度も原稿を取り返したくなった。
ここは説明が長い。
この台詞は、花音に似せすぎた。
あの場面は削ればよかった。
今さら全部が悪く見える。
「破らないで」
花音が原稿から目を上げずに言う。
「触ってない」
「顔が、破りたい顔」
「どんな顔」
「私の詩を読んだときもしてた」
「してない」
「してた」
花音は読み続ける。
物語の葉月は、相手と一緒に校内の花壇を歩く。
花の名前を聞く。
相手は、全部に答える。
だが、一つだけ知らない花がある。
『分からない』
相手は言う。
『あなたにも、分からないものがあるんだ』
『あるよ』
『何でも知ってると思ってた』
『知ってることしか話してないから』
その会話は、実際にはなかった。
けれど、花音なら言う気がした。
物語の最後。
葉月は、自分の気持ちへ名前をつけようとする。
『私は、____のことが好きなのだと思う。』
相手の名前だけが空欄。
花音の手が止まった。
「ここ」
「うん」
「印刷でも空欄にする?」
「そのつもりだった」
「どうして」
「名前をつけると、花音になるから」
「私の名前を入れる?」
「入れない」
「別の名前は?」
「嘘になると思った」
花音は最後のページをもう一度読む。
「この人、私じゃない」
乃々花の胸が沈む。
「似てない?」
「似てるところもある」
「どこ」
「話が長い人を、長いって言うところ」
「それだけ?」
「花を放っておけないところ」
「ほかは?」
「私より優しい」
「花音も優しい」
「そういうことを言わない人でしょう、乃々花」
「小説を書いたあとだから」
「ずるい」
花音は少し笑った。
「でも、この人は私じゃない」
「嫌?」
「違う」
花音は原稿の空欄を指す。
「だから、この人には名前をあげて」
「花音じゃない名前?」
「乃々花がつける名前」
「でも、声は」
「私から聞いた声で作った人でしょう」
「勝手に借りた」
「借りた言葉は、使ったら同じ言葉じゃなくなるって、前に言った」
花音が覚えていた。
「ただし」
「何」
「『花は枯れる』は、私もいろんな人から聞いた」
「花音だけの言葉じゃない?」
「うん」
「じゃあ使う」
「でも、そのあとの台詞は乃々花の言葉」
物語の中。
『花は枯れる』
『それでも、咲いていた時間を見た人は残る』
花音はそこを指した。
「私は、こんなこと言わない」
「言わない?」
「長い」
「小説だから」
「でも、好き」
乃々花は花音を見る。
「どこが」
「私が言わないことを、私に似た人が言ってるところ」
分かりにくい感想。
けれど、花音らしかった。
「名前」
花音が言う。
「今つける?」
「一緒に?」
「私が決めたら、また私になる」
「じゃあ見てて」
乃々花は新しい紙を出した。
候補を書く。
春野澄。
小森灯。
花村凪。
「花ばっかり」
「引っ張られてる」
「この人、花を育てるだけの人じゃないでしょう」
「そう」
葉月が好きになる人物。
知っていることしか話さない。
分からないことを分からないと言える。
少し不器用。
優しいと言われると否定する。
花音に似ている。
花音ではない。
「遠野真白」
乃々花が書く。
「白?」
「何色にも染められそうで、白いままの人」
「誰の話?」
「麻衣先輩のお姉さん」
「この人と関係ない」
「名前は、いろんな場所から来る」
花音は候補を見る。
「真白でいいと思う」
「本当に?」
「私ではない感じがする」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
乃々花は空欄へ書いた。
『私は、真白のことが好きなのだと思う。』
名前が入る。
文章が、ようやく物語の中へ戻った。
◇
「乃々花は?」
花音が尋ねた。
「何が」
「小説の話は終わった」
「終わってない。推敲がある」
「私のこと」
逃げようとしたが、花音は待っている。
「好きかもしれないって言った」
「うん」
「今も、かもしれない」
「うん」
「答えは?」
「私が?」
「嫌じゃない?」
花音は少し考えた。
「小説に勝手に書かれたのは、少し困った」
「ごめん」
「でも、見せる前に聞いた」
「うん」
「私じゃない人物にした」
「うん」
「乃々花に好きかもしれないと言われたのは」
花音が止まる。
乃々花は待つ。
「嫌じゃない」
それだけで胸が少し軽くなる。
「好き?」
「分からない」
「そう」
「がっかりした?」
「少し」
「正直」
「でも、分からないって言う人が好きかもしれないから」
「それ、私のこと?」
「今のは、花音」
二人とも笑った。
「すぐに答えなくていい」
乃々花が言う。
「放送委員みたい」
「最近、学校中がそうなってる」
「置いておく?」
「何を」
「乃々花の好きかもしれない気持ち」
「相談箱に?」
「文芸部室」
「どこへ」
花音は空の花瓶を指した。
「ここ」
「水を入れる?」
「入れない。紙だから」
「花音、冗談言うようになったね」
「乃々花と話すと、少し」
乃々花は原稿の表紙を一枚外した。
小さく切る。
『好きかもしれない。答えは急がなくていい。』
そう書いて、空の花瓶へ入れた。
「本当に入れるの?」
「置いておく場所」
「誰かに見られる」
「美月には、たぶん分かる」
「藤崎先生にも」
「じゃあ、折る」
紙を小さく折る。
文字は見えなくなる。
「いつまで置く?」
「花音が返事したくなるまで」
「返事しなかったら?」
「部誌が出るまで」
「短い」
「締切があるから」
「恋にも?」
「原稿だけ」
花音は花瓶の中の紙を見る。
「明日も来る」
「文芸部に?」
「うん」
「正式入部?」
「見学」
「まだ?」
「返事を急がないで」
乃々花は笑った。
「分かった」
◇
翌朝。
乃々花は文芸部室へ一番に入った。
空の花瓶には、昨日の紙が残っている。
返事はない。
当然だった。
一晩で答える必要はない。
乃々花は完成した原稿を机へ置く。
仮題を消す。
『名前を呼ぶまで』
そのままでもよかった。
けれど、最後の一文を書き換える。
『葉月は、真白の名前を呼んだ。
それは告白ではなかった。
けれど、誰でもない人として見ていると伝える、最初の声だった。』
完結。
今度は本当に。
乃々花はページを揃える。
破らない。
藤崎先生の提出箱へ入れる。
部室へ戻ると、美月が入ってきた。
花瓶の中の紙を見る。
「何これ」
「見ないで」
「折ってある」
「なら見えないでしょう」
「返事待ち?」
「どうして分かるの」
「昨日、気を遣ったから」
「気を遣うなら聞かないで」
「友達だから」
「便利な言葉になってない?」
「少し」
美月は自分の席へ座る。
「原稿、出した?」
「出した」
「名前は?」
「つけた」
「誰」
「遠野真白」
「水城花音じゃないんだ」
「聞いてた?」
「廊下にいた」
「図書室へ行ったんじゃないの」
「途中で本を忘れたことに気づいた」
「戻ってきた?」
「扉の前まで」
「全部?」
「名前をつけるところだけ」
「みんな少し見て、少し聞く」
「学校だから」
美月は笑う。
「よかったね」
「何が」
「破らなくて」
乃々花は、完成原稿のなくなった机を見る。
「うん」
今回は破らなかった。
小説も。
自分の分からない気持ちも。
◇
昼休み。
花音が部室へ来た。
手には小さな黄色い花が一輪。
「それ、何」
「マリーゴールド」
「花壇から取った?」
「折れてた」
「また落とし物?」
「違う。風」
花音は空の花瓶へ水を少し入れ、花を挿す。
折った紙は、水に濡れないよう、乃々花が先に取り出した。
「紙、どうする?」
花音が尋ねる。
「まだ置いておく」
「どこへ」
「原稿の箱」
「混ざる」
「じゃあ、私が持つ」
乃々花は紙を制服の胸ポケットへ入れた。
花音が黄色い花を整える。
「返事」
「今?」
「一つだけ」
乃々花の胸が鳴る。
「明日、花壇の水やりを手伝って」
「それが返事?」
「乃々花のことを、文芸部室以外でも知りたい」
「好きってこと?」
「分からない」
「やっぱり」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「なら、明日」
「何時?」
「朝七時半」
「早い」
「花は待たない」
「恋は待つのに?」
「恋か分からないから」
乃々花は笑った。
「分かった」
答えはまだない。
それでも、次に会う時間が決まった。
空欄へ無理に答えを書くより、ずっとよかった。
◇
その日の放課後。
乃々花と花音が文芸部室を出ると、渡り廊下のベンチに一台の小さなカメラが置かれていた。
使い捨てカメラ。
透明な袋に入り、雨には濡れていない。
表面へ、白いテープが貼られている。
『あと一枚』
花音が拾い上げる。
「落とし物」
「今度はカメラ」
「職員室?」
「中を見ないで届ける」
「当たり前」
乃々花は、カメラの横に挟まれた小さな紙へ気づいた。
『最後の一枚だけ、何を撮ればいいか決められません。
見つけた人が、代わりに撮ってください。』
名前はない。
花音が乃々花を見る。
「撮る?」
乃々花は首を振った。
「勝手に決めない」
「じゃあ?」
「まず、誰が置いたか探す」
「相談箱みたい」
「最近、学校中がそうなってる」
二人はカメラを持ち、放送室へ向かった。
フィルムに残った最後の一枚が、誰のために空いているのか。
まだ、何も写っていなかった。




