第16話 言えなかった好きにも、置いていける場所はある
高野千夏は、恋愛相談が嫌いだった。
正確には、恋愛相談をされることが嫌いなのではない。
友達の好きな人の話を聞くのは楽しい。
誰と目が合った。
メッセージの返信が早かった。
部活帰りに偶然二人になった。
そんな小さな出来事を、まるで重大事件のように話す友達を見るのも好きだった。
問題は、自分が相談する側になることだった。
「千夏は好きな人いないの?」
そう聞かれるたび、千夏は決まって答えた。
「いないよ」
嘘だった。
けれど、完全な嘘でもなかった。
好きだと認めてしまえば、今までと同じではいられなくなる。
だから、まだ好きな人はいないことにしていた。
気になるだけ。
話すと少し嬉しいだけ。
姿を探してしまうだけ。
誰かと笑っていると、少しだけ胸がざわつくだけ。
その程度なら、恋ではない。
そう思っていれば安全だった。
◇
六月六日。
昼休み。
一年六組。
早川直人が初めて教室へ来た日のことだった。
直人は昼前に帰る予定だったが、体調が安定していたため、昼休みまで教室に残った。
クラスの全員が、直人へ何を話せばいいか迷っていた。
入院生活について聞いていいのか。
病気のことを避ける方が不自然なのか。
明るく接するべきか。
静かにするべきか。
そんな迷いを気にせず、千夏は直人へ聞いた。
「給食じゃなくて弁当だけど、病院のご飯よりおいしそう?」
直人は少し驚いたあと、笑った。
「たぶん」
「食べたことないのに?」
「匂いで」
「じゃあ、卵焼き一個あげる」
「いいの?」
「甘いやつだけど」
「病院のよりおいしいと思う」
「病院の卵焼き、どんな味?」
「卵の味」
「普通じゃん」
周囲から笑いが起きた。
直人も笑った。
そのとき、教室後方から男子の声がした。
「高野、先生に見つかったら怒られるぞ」
佐々木悠真。
一年六組。
男子バレーボール部。
千夏が、好きな人はいないことにしている相手。
「何で?」
「入院してるやつに勝手に食べ物あげるなって」
「アレルギーある?」
千夏が直人へ聞く。
「卵は大丈夫」
「じゃあいいじゃん」
「先生に確認してから」
「佐々木、細かい」
「何かあったら困るだろ」
「長谷川くんみたいになってきたね」
玲奈が横から言う。
「誰?」
「放送委員の機械に細かい人」
「知らない人に例えるなよ」
悠真が笑う。
千夏も笑った。
好きだと思う瞬間は、こういうときだった。
特別な言葉を言われたわけではない。
優しくされたわけでもない。
いつもの調子で注意され、いつものように言い返した。
それだけなのに、悠真が自分へ話しかけたことが嬉しい。
笑った顔を、自分が笑わせたような気がする。
けれど、悠真は誰にでも同じように話す。
男子にも。
女子にも。
直人にも。
玲奈にも。
千夏だけが特別ではない。
だから、好きではないことにしておく方がよかった。
◇
その日の放課後。
千夏は体育館で女子バレーボール部の仮入部に参加していた。
六月に入り、仮入部期間はもう終わっている。
正式には、入部届も提出している。
けれど千夏は、まだ自分の中で仮入部が続いているような気がしていた。
中学時代もバレーボール部だった。
レギュラーではなかった。
試合へ出たのは、三年間で数えるほど。
だから高校では別のことを始めてもよかった。
それでも体育館の音を聞くと、またボールへ触れたくなった。
男子バレーボール部は、女子部の隣のコートで練習している。
悠真は、男子部の一年生の中では上手い方だった。
ジャンプ。
スパイク。
床へ落ちるボール。
千夏は、見ないようにしていた。
「高野、今の」
先輩の声。
「はい!」
レシーブ。
ボールが腕へ当たり、斜め後ろへ飛ぶ。
「ごめんなさい!」
「謝る前に追って!」
「はい!」
走る。
間に合わない。
ボールは男子コートとの境に転がった。
悠真が拾う。
「高野」
「投げて」
「ちゃんと見ろ」
「見てる」
悠真が軽くボールを投げる。
千夏は受け取る。
「ありがとう」
「今日、雑じゃない?」
「何が」
「レシーブ」
「見てたの?」
聞いた瞬間、胸が跳ねる。
悠真は、特別な意味もなく答えた。
「隣だから見えるだろ」
「そっか」
期待した自分が恥ずかしい。
「集中しろよ」
「佐々木に言われなくても」
「怒るなって」
「怒ってない」
本当は少し怒っていた。
悠真にではない。
勝手に期待した自分に。
千夏は女子コートへ戻った。
◇
練習後。
体育館の外は雨だった。
朝は晴れていた。
傘を持っていない生徒が、昇降口で空を見上げている。
「最悪」
千夏も呟いた。
母親へ迎えを頼めば来てくれるかもしれない。
けれど仕事中。
学校から駅までは、走れば十分。
制服ではない。
体操服。
少しくらい濡れてもいい。
「走るか」
千夏が鞄を頭へ載せようとしたとき、隣から傘が開いた。
「入る?」
悠真だった。
黒い大きな傘。
「駅まで?」
「俺も駅」
「男子の友達は?」
「自転車組」
「佐々木も自転車じゃなかった?」
「今日は朝、送ってもらった」
「何で」
「寝坊」
「格好悪い」
「入らないなら閉じるぞ」
「入る」
千夏は傘の下へ入った。
二人で歩く。
肩が近い。
鞄が時々当たる。
話したいことが、急になくなる。
教室なら、いくらでも言い返せる。
体育館でも普通に話せる。
けれど相合傘という形になった瞬間、全部が恋愛の場面のように思えてしまう。
「今日」
悠真が言う。
「何」
「早川、来てよかったな」
「うん」
「高野、普通に話してたから、助かったんじゃない」
「何が?」
「みんな、気を遣いすぎてた」
「私は気を遣ってないみたいじゃん」
「いい意味で」
「いい意味なら何言ってもいいと思ってる?」
「また怒った」
「怒ってない」
雨が傘へ当たる。
録音の日に、渡り廊下で聞いたのと似た音。
千夏は、直人がこの雨を学校の音として聞いたのだろうかと思った。
「佐々木」
「ん?」
「好きな人いる?」
口から出た。
自分でも驚いた。
悠真の歩幅が少し乱れる。
「何、急に」
「恋愛相談」
「誰の」
「友達」
「高野の友達、多いな」
「何それ」
「前も神谷に、友達の恋愛相談って言ってなかった?」
「聞いてたの?」
「近くにいた」
「みんな少し聞いてるね」
「学校だから」
悠真は前を向いたまま答えた。
「いない」
千夏の胸が少し軽くなる。
同時に、また勝手に期待する。
「本当に?」
「何で疑う」
「モテそうだから」
「高野に言われても」
「どういう意味?」
「高野もモテそう」
足が止まりそうになった。
「適当に返した?」
「適当じゃない」
「誰にでも言ってる?」
「そんなこと言わない」
では、自分だけなのか。
聞きたい。
でも、聞けない。
駅が近づく。
二人で歩ける時間が終わる。
好きだと言えばいい。
今なら、誰もいない。
雨音で、声が少し震えても分からない。
「佐々木」
「何?」
「傘、ありがとう」
言えたのは、それだけだった。
「どういたしまして」
改札前。
悠真は傘を閉じる。
「また明日」
「うん。また明日」
千夏は反対方向のホームへ向かった。
電車へ乗ったあと、何度も考えた。
あのとき言えばよかった。
いや、言わなくてよかった。
もし断られたら、明日から教室で話しにくくなる。
部活でも隣のコート。
毎日顔を合わせる。
今の関係を失いたくない。
だから、言わなくてよかった。
そう決めたはずなのに、胸の奥に言えなかった言葉が残った。
◇
翌朝。
放送室前の相談箱。
千夏は誰もいないことを確認した。
白い封筒。
表には、前日の夜に書いた一行。
『恋の相談です。放送では読まないでください。』
中には、便箋が一枚。
『好きな人がいます。
今は普通に話せます。
同じクラスで、部活も近くて、毎日会います。
告白して断られたら、今までみたいに話せなくなると思います。
でも、誰かを好きになったことを、ずっと誰にも言えないのも苦しいです。
告白したいのか、自分でも分かりません。
ただ、誰かに知ってほしかったです。
放送では読まないでください。
開けてもいいかどうかも、まだ分かりません。』
最後に名前は書かなかった。
何のために入れるのか、自分でも分からない。
開けてほしいのか。
開けてほしくないのか。
返事が欲しいのか。
ただ置いておきたいのか。
だから、曖昧なまま入れた。
相談箱の蓋を閉じる。
少しだけ楽になった。
好きな気持ちを、学校のどこかへ置いた。
誰にも読まれていない。
それでも、自分の中だけではなくなった気がした。
◇
昼休み。
放送室。
麻衣、玲奈、蒼太は白い封筒を机の中央へ置いていた。
「開けていいとは書いてない」
玲奈が言う。
「放送では読まないで、とは書いてある」
麻衣が表を確認する。
「放送しなければ、三人で開けてもいいという意味では?」
蒼太が言う。
「決めつけない」
「分かっています」
「じゃあ、まず届いたことだけ」
麻衣が短い原稿を作る。
昼の放送。
玲奈が読む。
「放送室前の相談箱へ、『恋の相談です。放送では読まないでください』と書かれた封筒を入れた方へ」
一年六組。
千夏の手が止まる。
弁当の箸を持ったまま、スピーカーを見る。
「私たちは、まだ封筒を開けていません」
教室の何人かが反応する。
「恋の相談だって」
「誰?」
「放送で読まないなら分からないだろ」
悠真もスピーカーを見ている。
千夏は顔を上げられない。
「三人で読んでもよい場合は、『開けてください』と書いた紙を、もう一度相談箱へ入れてください」
玲奈の声は、いつも通り落ち着いている。
「今は、誰にも読まれず、そこに置いておきたいだけなら、そのままで構いません」
千夏の胸が熱くなる。
そのままでいい。
開けなくてもいい。
「封筒は放送室で預かります。返してほしい場合は、受け取り方を書いてください」
放送が終わる。
教室では、差出人を予想する話が始まった。
「二年生じゃない?」
「三年かも」
「先生だったりして」
「先生は相談箱使わないだろ」
千夏は笑うふりをした。
「千夏、誰だと思う?」
友達に聞かれる。
「分かんない」
「恋愛相談とかしそうな人」
「みんなするでしょう」
「千夏は?」
「しない」
また嘘をついた。
悠真が会話へ入る。
「放送で読まないって言ってるのに、探すなよ」
「佐々木、真面目」
「嫌だろ。自分だったら」
千夏は悠真を見る。
「佐々木も恋愛相談するの?」
「しない」
「何で」
「自分で決める」
「何を?」
「告白するかとか」
千夏の胸が痛む。
悠真は、自分で決められる人。
自分は決められない。
「でも」
悠真が続ける。
「誰かに言うだけで楽になることはあるんじゃない」
「相談しないのに?」
「サッカー部の友達が言ってた」
「佐々木、バレー部でしょう」
「中学の友達」
「また友達の話」
千夏は笑った。
自分と同じ。
自分のことを、友達の話として言う。
けれど悠真の話は、本当に友達のことかもしれない。
分からない。
◇
放課後。
千夏は相談箱の前に立った。
新しい紙を持っている。
『開けてください。三人だけで読んでください。』
名前は書かない。
入れようとして、手が止まる。
読まれたら、誰の相談か分かるだろうか。
同じクラス。
部活が近い。
毎日会う。
それだけでは特定できない。
でも玲奈は同じクラス。
千夏が以前、恋愛相談を送ると言ったことも知っている。
気づくかもしれない。
それでも、読んでほしいと思った。
正しい答えが欲しいわけではない。
告白しろと言われたいわけでもない。
諦めろと言われたいわけでもない。
ただ、自分の好きが存在していることを、誰かに知ってほしい。
紙を入れる。
◇
翌朝。
放送室。
玲奈たちは許可の紙を確認し、封筒を開けた。
便箋を読む。
麻衣。
玲奈。
蒼太。
三人とも、すぐには話さない。
「誰か、分かりますか」
蒼太が玲奈へ尋ねる。
「考えない」
「同じクラスの可能性があります」
「それでも探さない」
「分かりました」
玲奈は便箋をもう一度読む。
『告白したいのか、自分でも分かりません。』
「答えを求めてないのかもしれない」
玲奈が言う。
「誰かに知ってほしかった、と書いてある」
麻衣が頷く。
「なら、まず知ったことを返す」
「どうやって?」
「放送では読まないでと書いてある」
「個別の返事を相談箱へ入れる?」
蒼太が提案する。
「誰かに取られる可能性があります」
「時間を決める」
「前と同じですね」
「差出人が同じ方法を知っているとは限らない」
「放送で知らせる」
玲奈が言う。
「内容は言わない。返事を書いたことだけ」
三人で返事を考える。
告白すべきか。
しないべきか。
書かない。
恋が成就する方法。
書かない。
相手の気持ちを確かめる方法。
書かない。
この相談の中心は、告白の成功ではない。
好きと言えないこと。
誰にも知られないまま抱えること。
玲奈が便箋へ書き始める。
◇
『恋の相談をくださった方へ。
三人で読ませてもらいました。
誰が書いたのかは探しません。
最初に書きます。
告白した方がいいか、しない方がいいか、私たちには決められません。
告白して関係が変わることもあります。
告白しなくても、気持ちが変わることがあります。
どちらを選んでも、絶対に後悔しない方法はないと思います。
ただ、あなたが誰かを好きになったことを、私たちは知りました。
相手の方は、まだ知らないかもしれません。
ほかの友達も知らないかもしれません。
でも、今は三人が知っています。
放送では読みません。
誰かへ話すこともありません。
告白するかどうかを決めるまで、ここへ気持ちを置いておいて構いません。
決めなくても構いません。
好きな気持ちは、相手へ伝えなければ意味がないものではないと思います。
その人と話して嬉しかった時間。
声を聞いて安心したこと。
誰かに優しくしたくなったこと。
それらは、告白の結果が出る前から、すでにあなたの時間です。
いつか相手へ伝えたくなったら、自分の言葉で伝えてください。
今は伝えたくないなら、それもあなたが決めていいことです。
手紙は確かに届きました。
吉岡麻衣
神谷玲奈
長谷川蒼太』
返事は、放課後四時四十分から五時まで、相談箱へ置くことにした。
放送で時間だけを伝える。
差出人が取りに来るところを見ない。
同じ方法。
けれど、別の人のための返事。
◇
放課後四時四十七分。
千夏は相談箱から封筒を取り出した。
誰もいない。
放送委員は先に帰った。
教室へ戻り、一人で読む。
告白しろとは書いていない。
諦めろとも書いていない。
正しい答えはない。
それでも、読み終えたとき、胸の中の言葉が少し軽くなっていた。
『好きな気持ちは、相手へ伝えなければ意味がないものではないと思います。』
千夏は、その一文を何度も読む。
告白しなければ、何も始まらない。
恋愛の話では、よく言われる。
勇気を出さなければ後悔する。
伝えなければ相手には分からない。
それも本当だと思う。
けれど、伝えなかった時間が全部無駄になるわけではない。
悠真と話した。
笑った。
傘へ入れてもらった。
体育館でボールを拾ってもらった。
直人へ声をかけた自分を、いい意味で気を遣っていないと言われた。
告白の結果がなくても、それらはあった。
千夏の時間だった。
「高野」
教室の扉から声がした。
千夏は封筒を机の下へ隠す。
悠真が立っている。
「まだいたの?」
「忘れ物」
「何?」
「サポーター」
悠真は自分の机を探る。
千夏は立ち上がれない。
返事の手紙が鞄へ入っていない。
見られたら。
「高野は?」
「ちょっと」
「恋の相談?」
心臓が止まりそうになる。
「何で」
「今日、放送で返事があるって言ってたから」
「だからって、私じゃない」
「分かってる」
悠真はサポーターを見つける。
「顔、赤いけど」
「暑い」
「窓開いてる」
「練習後だから」
「まだ練習前」
「うるさい」
悠真は笑った。
「やっぱ怒ってる」
「怒ってない」
「昨日から変だぞ」
千夏は悠真を見る。
今、言う。
好きだと。
相談の返事には、どちらでもいいと書いてあった。
伝えたくなったら、自分の言葉で。
千夏は口を開く。
「佐々木」
「何?」
「昨日、傘入れてくれたでしょう」
「うん」
「嬉しかった」
悠真が少し驚く。
「どういたしまして」
「あと、早川くんと普通に話してたの、助かったって言ってくれたのも」
「うん」
「嬉しかった」
「どうした、急に」
好きとは言えない。
でも、嬉しかったことは言える。
「言わないと、分からないから」
「何が?」
「私が嬉しかったこと」
悠真は、しばらく千夏を見る。
「じゃあ俺も言う」
「何を」
「高野と帰れて、俺も嬉しかった」
千夏の胸が大きく鳴る。
「それ、誰にでも言ってる?」
「言わない」
「適当に返した?」
「返してない」
「友達として?」
聞いた。
告白ではない。
逃げ道のある質問。
それでも、昨日より一歩近い。
悠真は少し困った顔をした。
「今、それ決めないと駄目?」
千夏は驚いた。
断られたのか。
そうではないのか。
「分からない」
正直に答える。
「俺も分からない」
悠真が言う。
「高野と話すのは好き。でも、それが友達としてか、ほかの意味か、まだ分からない」
「そんな答えある?」
「あるだろ」
「恋愛相談なら、一番困る答え」
「相談してたの?」
「違う」
「今の流れで?」
「友達の話」
「また?」
二人で笑った。
完全な答えは出なかった。
告白もしていない。
付き合うことにもならない。
けれど千夏は、昨日より少しだけ自分の気持ちを外へ出した。
悠真も、分からないと言った。
分からないまま、同じ場所に立っている。
「部活、遅れる」
悠真が言う。
「誰のせい?」
「高野が長く話すから」
「佐々木も話したでしょう」
「続き、帰りに話す?」
千夏は固まる。
「雨降ってないよ」
「傘なくても帰れる」
「そうじゃなくて」
「駅まで」
「うん」
答えた。
「帰る」
◇
部活後。
二人は並んで駅へ歩いた。
雨はない。
傘もない。
昨日より距離が少し遠い。
それでも会話は続いた。
「相談箱の恋愛相談」
悠真が言う。
「誰だろうな」
「探さない方がいいって自分で言ってたでしょう」
「そうだった」
「忘れた?」
「努力して忘れる」
「それ、最近流行ってるね」
「高野も使う?」
「たぶん」
「それも流行ってる」
二人で笑う。
千夏は、相談の差出人だとは言わなかった。
今はまだ。
言わなくてもいい。
手紙を読んだ三人は、誰にも話さない。
相談箱には、好きな気持ちを一度置いた。
そのあと、必要な分だけ持ち帰った。
全部を一度に伝えなくてもいい。
嬉しかったことを一つ。
また一緒に帰りたいことを一つ。
少しずつなら言える。
「佐々木」
「何?」
「明日も一緒に帰る?」
今度は千夏から聞いた。
「部活終わる時間、同じなら」
「同じでしょう」
「女子部が長引くかも」
「待って」
悠真が笑う。
「分かった」
好きとは、まだ言わなかった。
けれど、待ってほしいとは言えた。
◇
翌朝。
放送室前の相談箱に、小さな紙が入っていた。
『返事をありがとうございました。
告白はしていません。
でも、嬉しかったことを一つ伝えました。
返事は、まだ分からないそうです。
私もまだ分かりません。
それでも、今日も一緒に帰る約束をしました。
手紙は返さなくて大丈夫です。
好きな気持ちを、少しだけ持って帰れました。』
麻衣が読む。
玲奈が小さく笑う。
蒼太は紙を見る。
「解決したんですか」
「完全には」
玲奈が答える。
「でも、一話分は進んだ感じ」
「一話?」
「何でもない」
麻衣は紙を封筒と一緒に保管した。
「返さなくて大丈夫って」
「本当に?」
蒼太が尋ねる。
「今回は、そのままにしよう」
麻衣が言う。
「届いたことは、もう伝わってる」
窓の外。
正門へ向かう生徒の声。
教室へ続く足音。
誰かが誰かを好きになる音は聞こえない。
けれど、その気持ちのために少し変わった声や、足取りや、約束は学校の中に残る。
放送室では、それを勝手に読まない。
ただ、置いておける場所であり続ける。
◇
同じ日の昼休み。
校長は正門の門柱で眠っていた。
その下に、一人の女子生徒が立っている。
二年一組。
桐生乃々花。
手には、破らずに残した恋愛小説の原稿。
「恋愛相談、か」
乃々花は猫へ言う。
「書くのと、本当に好きになるのは、どっちが難しいと思う?」
校長は目を開けない。
「返事しないなら、好きに書くけど」
乃々花は原稿を開く。
物語の中で、主人公は告白する直前まで来ていた。
けれど、相手の名前だけが空欄になっている。
乃々花は、その空欄を見つめた。
モデルはいない。
そう思って書き始めた。
けれど最近、ある人の声で台詞を考えてしまう。
その人は、まだ乃々花が自分のことを書いているとは知らない。
校長が一度だけ尻尾を動かす。
「分からないなら、分からないって書けばいい?」
乃々花は、空欄のまま原稿を閉じた。
今度は破らなかった。




