第15話 まだ聞こえない教室の音
早川直人は、青葉ヶ丘高校の制服を三度しか着たことがなかった。
一度目は、採寸した制服が届いた日に、自宅の鏡の前で袖を通した。
二度目は、入学式の日。
三度目は、入学式から四日後、病院へ向かう朝だった。
その日は学校へ行くつもりだった。
けれど、玄関で靴を履いたところで息が苦しくなった。
胸の奥が狭くなり、立っていられなくなった。
母親が救急車を呼んだ。
制服のまま病院へ運ばれた。
それから、直人は一度も教室へ入っていない。
制服は病室の衣装棚に掛けられていた。
紺色の上着。
まだ折り目の残ったズボン。
胸元の校章。
着る人を待っている。
直人は毎朝、その制服を見た。
今日は着ない。
明日も着ない。
退院の日が決まれば着る。
そう思いながら、二か月近くが過ぎた。
病室へは学校からプリントが届いた。
時間割。
授業の進度。
体育祭準備のお知らせ。
委員会の名簿。
健康診断の未受診者向け案内。
一年五組の学級通信。
担任の字で、
『焦らなくていい。教室の席はそのままにしてあります』
と書かれていた。
ありがたいと思った。
同時に、その席がどんな場所なのか分からなかった。
窓際なのか。
廊下側なのか。
黒板に近いのか。
隣に誰が座っているのか。
自分の机へ誰かが荷物を置いていないか。
教室が静かなのか、うるさいのか。
プリントからは分からない。
写真を送ってもらったこともある。
教室の前から撮った一枚。
机が並んでいる。
黒板に日直の名前。
窓の外にグラウンド。
けれど写真は音を持っていなかった。
直人は、学校がどんな音をしているのか知らなかった。
◇
五月二十六日。
午前九時。
直人は病室のベッドで数学の問題集を開いていた。
窓の外は晴れている。
病院の中庭では、車椅子の患者が看護師と散歩している。
廊下からワゴンの音が聞こえる。
遠くでナースコール。
隣の病室のテレビ。
病院の音は、もうほとんど聞き分けられた。
朝六時の廊下は静か。
七時を過ぎると看護師の足音が増える。
八時前に朝食のワゴン。
九時から検査へ向かう患者が増える。
十二時前には食事の匂い。
午後三時は面会。
消灯後、誰かの咳が長く聞こえる夜もある。
直人は病院の一日の音を知っていた。
それなのに、自分が通うはずだった学校の一日を知らない。
チャイムはどれくらい大きいのか。
先生の声は廊下まで聞こえるのか。
昼休みの放送は、病室のテレビより小さいのか。
体育館では、ボールの音が何回も重なって聞こえるのか。
音楽室のピアノは、本当に校舎の外まで届くのか。
正門にいるという猫は、どんな声で鳴くのか。
病院へ来たクラス担任が、
「正門に、校長と呼ばれている猫がいる」
と話した。
本物の校長ではない。
茶色と白のまだら模様。
右耳が少し欠けている。
誰かが悩みを話しても、逃げずに聞くらしい。
「鳴きますか」
直人が尋ねた。
「どうだったかな」
担任は考えた。
「見かけるけど、鳴き声はあまり聞かないな」
「猫なのに?」
「必要なときしか喋らないんじゃないか」
「先生みたいですね」
「私は必要なくても喋る」
担任は笑った。
その笑い声も、病室で聞くと学校の音には思えなかった。
学校へ行っている人が病院へ持ってきた音。
直人が欲しいのは、学校の中にいるときの音だった。
だから葉書を書いた。
『学校の音を送ってもらうことはできますか。』
送ったあと、恥ずかしくなった。
そんな頼みをしてどうする。
放送委員は忙しい。
学校の音など録音して、何になる。
聞いたからといって授業へ参加できるわけではない。
体育祭に出られるわけでもない。
退院が早まるわけでもない。
最後に、
『難しければ、返事はいりません』
と書いた。
返事が来なければ、諦められる。
無理な頼みだったと自分へ言える。
その葉書が学校へ届いたのは、昨日のはずだった。
直人は問題集へ目を戻す。
三角形の証明。
条件を整理する。
答えは一つ。
けれど、気持ちは問題集の外へ行く。
返事は来ない。
それでいい。
そう思ったとき、病室の扉がノックされた。
「早川くん」
担任が入ってきた。
手には白い封筒。
「学校から」
「プリントですか」
「放送委員から」
直人は問題集を閉じた。
担任が封筒を渡す。
表には、
『一年五組 早川直人さんへ』
と書かれている。
差出人。
『青葉ヶ丘高校放送委員会』
指先が少し震えた。
「返事、いらないって書いたんですけど」
「いらないと書く人ほど、待ってることがある」
「誰が言ったんですか」
「放送委員の吉岡さん」
「知らない人です」
「その人たちが、葉書を読んだ」
担任は椅子へ座る。
「開けても?」
「先生が?」
「違う。私がここにいてもいいか」
「大丈夫です」
担任が確認するように見る。
「本当に?」
「少し緊張しますけど、大丈夫です」
「分かった」
直人は封を切った。
中には便箋が二枚。
『早川直人さんへ。
葉書は確かに届きました。
学校の音を録音して送ることはできます。
ただ、誰の声を入れてよいか、どの場所を録音してよいか、学校と病院の許可が必要です。
あなたが聞きたい音を、もう少し教えてください。
クラスメイトの声を入れてもよいですか。
名前を呼んでもよいですか。
録音したものを担任の先生から届けてもらう形でよいですか。
急いで返事をしなくても大丈夫です。
まず、葉書が届いたことだけ伝えます。
放送委員会
吉岡麻衣
神谷玲奈
長谷川蒼太』
直人は二度読んだ。
「できます、だって」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「よかったな」
「でも、質問が多い」
「必要な確認らしい」
「細かいですね」
「放送委員に、機械に細かい一年生がいる」
「長谷川くん?」
「知ってるのか」
「手紙に名前があります」
「ああ」
担任が笑う。
「返事、書くか」
「何を聞きたいか」
「うん」
直人は便箋を裏返した。
何を書けばいい。
全部。
学校の全部を聞きたい。
けれど、それでは答えにならない。
「一日の順番で」
直人が言う。
「何が?」
「朝、学校へ入るところから、帰るまで」
「全部録るのは長いぞ」
「短くていいです」
正門。
昇降口。
教室。
チャイム。
授業。
昼休み。
体育館。
音楽室。
図書室。
放課後。
「クラスの声は?」
「入れてほしい」
「名前は?」
「呼んでいいです」
「自分の名前も?」
直人は少し迷った。
教室で名前を呼ばれる。
返事をする人はいない。
それは寂しい。
けれど、名前を呼ばれなければ、自分の席は本当に空いているだけになる。
「呼んでほしい」
直人は答えた。
「返事はできないけど」
「録音へ返事を吹き込むか?」
「今?」
「学校へ送れる」
直人は首を振った。
「それは、まだ」
「分かった」
担任は急かさなかった。
直人は返事を書いた。
『朝、正門から始めてください。
昇降口、教室、チャイム、廊下、体育館、音楽室、図書室、昼休みの放送、放課後が聞きたいです。
クラスの人の声を入れてください。
僕の名前も呼んでください。
猫の声は、鳴いたらで大丈夫です。
録音したものは、先生から届けてもらう形で大丈夫です。
よろしくお願いします。』
最後に名前を書く。
早川直人。
自分の名前を学校へ返した。
◇
放課後。
青葉ヶ丘高校放送室。
麻衣、玲奈、蒼太、山岡先生が机を囲んでいた。
直人の返事。
録音したい場所の一覧。
「全部、一日で録りますか」
蒼太が尋ねる。
「一日で学校を歩く感じにしたい」
麻衣が言う。
「朝から放課後まで」
「録音機材は?」
「学校のハンディレコーダーが一台。古いけど使える」
山岡が棚から黒い機器を出す。
蒼太が受け取る。
「電池式」
「悪いか」
「確認してるだけです」
「予備の電池もある」
「記録媒体は?」
「そこまで古くない」
「先生、触らないでください」
「なぜ」
「設定を確認します」
玲奈が笑う。
「長谷川くん、機械相手だと強い」
「壊れたら困るので」
「人には?」
「最近は確認します」
「成長した」
「何の評価ですか」
麻衣は返事の便箋を読む。
「一番大事なのは、一年五組」
「担任の許可は出た」
山岡が言う。
「クラス全員へも説明する。録音に声を入れたくない生徒は、無理に入れない」
「直人くんの名前を呼ぶ場面」
玲奈が言う。
「出席?」
「本人はそれを想像してるかもしれない」
「先生に呼んでもらう?」
「担任へ相談」
麻衣は考える。
「でも、返事がない出席をそのまま録るのは、少し寂しくない?」
「本人が希望しました」
蒼太が言う。
「名前を呼んでほしいと」
「だから呼ぶ。でも、そのあと何かできないかな」
「クラスから一言ずつ?」
「長くなる」
「全員で返事?」
玲奈が言う。
「先生が『早川直人』って呼んだあと、みんなで『待ってる』とか」
「作った感じが強い」
「本人へ何と言いたいか、クラスに決めてもらう」
山岡が言う。
「放送委員が台詞を決める必要はない」
麻衣は頷く。
「猫は?」
蒼太が尋ねる。
「まだ気にしてるの」
「希望項目にあります」
「鳴かなかったら、風の音だけでいい」
「猫の足音は録れますか」
「小さいよ」
「レコーダーを近づければ」
「逃げるって」
「無理に鳴かせないでね」
「分かってます」
「本当に?」
「たぶん」
◇
五月二十八日。
午前七時二十分。
録音の日。
蒼太は正門前でレコーダーのスイッチを入れた。
「録音開始」
小さな赤いランプ。
麻衣が時間を確認する。
玲奈は原稿を持っていない。
今日は読むためではなく、学校の音を集めるためにいる。
正門。
朝の風。
自転車のブレーキ。
生徒の挨拶。
「おはようございます」
「おはよう」
運動部の足音。
校庭から笛。
鳥の声。
門柱の上には校長。
「早川くんが聞きたいって」
玲奈が猫へ言う。
校長は目を細める。
「鳴いて」
麻衣が言う。
猫は鳴かない。
「命令では鳴きません」
蒼太が小声で言う。
「分かってる」
「録音中です。普通に話してください」
「今のも入ってる?」
「入ってます」
「切って」
「学校の音です」
「私たちの失敗まで送るの?」
「自然な音」
校長が門柱から飛び降りた。
地面へ着地する、小さな音。
首輪はない。
鈴もない。
足音はほとんど聞こえない。
蒼太がレコーダーを下げる。
校長が近づき、機器の匂いを嗅ぐ。
「近い」
玲奈が囁く。
校長の鼻息。
そして。
「にゃ」
一度だけ鳴いた。
三人が同時に息を止める。
「録れた?」
麻衣が尋ねる。
「録れました」
蒼太が真剣に答える。
「もう一回」
校長は背を向けた。
「一回で十分です」
「貴重ですね」
「学校の音として?」
「校長の音として」
猫は正門脇へ歩いていった。
録音は続く。
◇
昇降口。
下駄箱の扉。
上履きへ履き替える音。
誰かが靴を落とす。
「痛っ」
笑い声。
玲奈が小声で案内する。
「正門を入ると、すぐ右側に昇降口があります。早川くんの一年五組の下駄箱は、一番奥から二列目です」
「説明を入れるんですか」
蒼太が聞く。
「音だけだと分からない場所もあるから」
「ナレーション」
「少しだけ」
「本人が音を聞きたいと言ったので、説明は最小限に」
「分かってる」
階段。
上履きが段へ当たる音。
手すりを握る生徒。
廊下を走り、教師に注意される声。
「廊下走るな」
「すみません」
一年五組の前。
扉の向こうから話し声。
担任が待っていた。
「説明は済んでる」
「入ります」
麻衣がノックする。
「どうぞ」
教室の扉が開く。
声の量が一度大きくなり、すぐ小さくなる。
「放送委員の皆さんです」
担任が言う。
「早川直人くんへ、学校の音を届けるために録音します。声を入れたくない人は、無理に話さなくて構いません」
机が動く音。
小さな囁き。
「本当に聞くのかな」
「病院で?」
「何話す?」
担任が出席簿を開く。
「いつも通り出席を取る」
一人ずつ名前。
「青木結衣」
「はい」
「石田拓真」
「はい」
返事。
椅子。
教科書。
順番に名前が呼ばれる。
直人は病室で想像していた。
自分の名前まで、何人いるのか。
録音の中で、担任の声が続く。
「早川直人」
教室が静かになった。
返事はない。
一秒。
二秒。
担任が続ける前に、後方の男子が言った。
「席、あります」
別の女子が、
「プリント入れときます」
と言う。
前方から、
「体育祭の係、帰ってきてから決めよう」
という声。
誰かが笑う。
「遅いだろ」
「秋もあるじゃん」
担任は出席簿を閉じなかった。
「早川直人」
もう一度呼ぶ。
今度は、クラス全体から声が返った。
「待ってます」
少し揃っていない。
早く言った人。
遅れた人。
笑いながら言う人。
真面目に言う人。
完璧ではない。
だから教室の声だった。
麻衣は何も足さなかった。
蒼太も機器へ触れない。
玲奈は目を少し伏せた。
録音の赤いランプだけが点いていた。
◇
一時間目の開始チャイム。
教室のざわめきが止まる。
先生の声。
黒板へチョークが触れる音。
ノートのページ。
鉛筆。
消しゴムを落とす。
蒼太は教室後方で数分だけ録音した。
授業内容そのものは長く入れない。
学校の日常として、音を切り取る。
二時間目。
廊下。
別の教室から英語の発音練習。
「Repeat after me」
生徒の声。
理科室から器具。
家庭科室からミシン。
学校は、一つの音ではなかった。
場所ごとに違う。
時間ごとに変わる。
「次、図書室」
麻衣が言う。
図書室。
扉を開ける。
空気が少し静かになる。
本を戻す音。
ページをめくる音。
白石悠がカウンターで貸し出し処理をする。
「録音?」
「早川くんへ」
「静かな場所なのに、音ある?」
「あるから来た」
蒼太がレコーダーを本棚の近くへ向ける。
台車の車輪。
本が棚へ収まる音。
小さなくしゃみ。
誰かが椅子を引く。
朝霧紬が白石へ小声で尋ねる。
「この本、返却今日?」
「昨日」
「過ぎてる」
「一日なら怒らない」
「二日なら?」
「努力して怒る」
「怒らないでしょう」
「たぶん」
玲奈が笑いそうになり、口を押さえる。
「今の入った?」
「入りました」
「学校らしいから残す」
麻衣が言う。
「勝手に使っていいの?」
「本人たちに確認する」
白石は肩をすくめる。
「別にいい」
紬も頷いた。
「聞く人が、少し笑うなら」
◇
音楽室。
小宮山鈴がピアノの前へ座っていた。
「何を弾きますか」
玲奈が尋ねる。
「早川くんが聞きたい曲、分からない」
「学校でいつも弾いてるもので」
「いつも失敗してる」
「それも学校の音」
鈴は少し困った顔をした。
鍵盤へ指を置く。
『愛の挨拶』。
最初の音。
ゆっくり。
以前より滑らか。
途中で、一音だけ外す。
鈴の手が止まりかける。
けれど、そのまま続ける。
最後まで。
音が消える。
「今、間違えた」
鈴が言う。
「録り直しますか」
蒼太が聞く。
鈴は少し考える。
「このままで」
「いいんですか」
「学校で弾くと、間違えることもあるから」
田所陸が音楽室の入口に立っていた。
「直人って、リレー出る?」
「入院中」
玲奈が答える。
「じゃあ、帰ってきたら何か誘う」
「本人が走りたいか確認して」
「分かってる」
陸はピアノを見る。
「音、病院まで届くんだ」
「録音で」
「それでも」
鈴が鍵盤を一つだけ押す。
短い音。
「じゃあ、もう一個」
「何?」
「学校へ来たとき、続きを聞いてもらう」
その一言も録音へ入った。
◇
体育館。
バスケットボールの弾む音。
靴が床を擦る。
笛。
「走れ!」
「右!」
「ナイス!」
女子バスケ部の高瀬美緒が、録音の説明を聞いて声を張った。
「早川くん、体育館はうるさいです!」
周囲が笑う。
「説明になってない」
ひよりが言う。
「聞けば分かる」
男子側では、榊原湊がベンチから声を出している。
足首はまだ完全ではない。
「戻れ! 今のパス遅い!」
「先輩が一番うるさいです」
「ベンチの仕事」
ボールがリングへ当たる。
外れる。
リバウンド。
もう一度シュート。
今度は網を通る。
蒼太がレベルメーターを見る。
「音が大きすぎる」
「割れてる?」
「調整します」
「もう一回シュートしてもらう?」
「自然な音を録るので、待ちます」
次のボール。
床。
声。
リング。
網。
学校の体育館は、一つの成功音だけではなかった。
外れた音。
転んだ音。
笑う声。
謝る声。
全部が重なっている。
◇
昼休み。
放送室。
玲奈が通常の校内放送を読む。
「皆さん、こんにちは。昼の放送を始めます」
直人が最も聞きたがっていた音。
教室で流れる放送。
蒼太は放送設備から直接音を取る。
同時に、教室側でも小型レコーダーを回す。
スピーカーから聞こえる声と、周囲の食事の音を一緒に残すため。
一年五組。
弁当箱。
紙パックのストロー。
机を寄せる音。
放送へ小さく反応する声。
「今日、神谷さん」
「いつもだろ」
「吉岡先輩の日もある」
玲奈が校内のお知らせを読む。
最後に、予定にはなかった一文を加えた。
「今日、学校へ来られず、別の場所でこの音を聞く人へ。昼休みの教室は、思っているより少しうるさいです」
一年五組で笑いが起こる。
「でも、その中に一人分の声が増えるのを、待っている教室もあります」
麻衣がブースの外で玲奈を見る。
原稿にはない。
けれど止めない。
「以上で、昼の放送を終わります」
放送が切れる。
直人へ直接名前を呼ばなかった。
全校放送だから。
それでも、本人には分かるだろう。
◇
放課後。
雨が降り始めた。
予定にはなかった音。
渡り廊下の屋根。
細い雨。
水たまり。
「録りますか」
蒼太が尋ねる。
「録ろう」
麻衣が答える。
「希望項目にはない」
「学校の音」
雨脚が少し強くなる。
文芸部室の近く。
桐生乃々花と佐伯美月が扉の前に立っている。
「雨の音」
美月が言う。
「小説に使う?」
乃々花が聞く。
「音は書けない」
「書ける」
「どうやって」
「雨が降った、じゃなくて」
乃々花は少し考える。
「渡り廊下の屋根を、誰かがずっと小さく叩いていた」
「長い」
「小説だから」
蒼太が二人へ確認する。
「今の会話、使っていいですか」
「早川くんへ?」
美月が尋ねる。
「はい」
「いい」
乃々花も頷く。
「でも、私の名前はいらない」
「どうして」
「知らない人の会話として聞く方が、学校っぽいから」
麻衣はその意見を採用した。
全部に名前をつけなくてもいい。
学校には、知らない声もある。
誰のものか分からない笑い声。
廊下ですれ違う会話。
いつか知るかもしれない。
知らないまま卒業するかもしれない。
それも学校。
◇
録音の最後。
放送室。
完全下校前。
朝から集めた音を確認する。
全部で二時間以上。
「長すぎます」
蒼太が言う。
「短く編集する」
「何分?」
「三十分くらい」
「一日の学校が三十分」
「全部は送れない」
「どれを残しますか」
三人は音を聞き直した。
正門。
校長の一声。
昇降口。
教室の出席。
授業。
図書室。
ピアノ。
体育館。
昼の放送。
雨。
下校チャイム。
削るものを選ぶ。
どれも学校。
どれも残したい。
「全部送る?」
玲奈が言う。
「本人は短くていいと」
「聞くのが疲れるかもしれない」
「病院の生活に合わせる」
麻衣は考える。
「朝編と、昼・放課後編」
「二つに分ける?」
「一日で全部聞かなくてもいい」
蒼太が頷く。
「データは二つ。各二十五分程度」
「それでも長い?」
「本人が止められる」
「説明書もつける」
「説明書?」
「何分何秒がどの場所か」
「長谷川くんが作りたいだけでしょう」
「必要です」
玲奈が笑う。
「必要な細かさ」
「最近それで許されると思ってません?」
編集が終わったのは、下校時刻の少し前だった。
最後に、三人から短い声を入れる。
麻衣がマイク前へ座る。
「何を言う?」
玲奈が尋ねる。
「学校は待ってる、って」
「クラスがもう言った」
「同じでもいい」
「本人が負担に感じないように」
蒼太が言う。
「待っていると言われると、早く戻らなければと思う可能性があります」
麻衣は止まった。
その通りかもしれない。
励ます言葉は、相手を急かすことがある。
「じゃあ」
玲奈が言う。
「学校の音は、毎日変わります」
「どういう意味?」
「今日聞いた音と、直人くんが来る日の音は違う」
昨日の花と今日の花。
去年の音と今日の音。
「だから、今日の学校を送ります」
玲奈が続ける。
「来た日の学校は、自分で聞いてください」
麻衣は頷いた。
「それがいい」
録音。
麻衣が話す。
「早川直人くんへ。これは、五月二十八日の青葉ヶ丘高校の音です」
玲奈。
「あなたが学校へ来る日の音は、たぶん今日とは違います」
蒼太。
「その日の音は、まだ録音できません」
麻衣が最後に言う。
「だから、急がなくて大丈夫です。来られる日に、自分で続きを聞いてください」
三人で声を揃えなかった。
一人ずつ。
少し間を空けて。
「学校は、今日もここにあります」
録音を止める。
◇
五月三十日。
病室。
直人の前には、小さな音楽プレーヤーとイヤホンが置かれていた。
学校が用意したもの。
担任が届けた。
手紙。
録音の説明。
『無理に一度で聞かなくて構いません』
「先生、聞きました?」
「最初だけ」
「どうでした」
「私が毎日聞いてる学校だった」
「僕には違うかもしれない」
「そうだな」
直人はイヤホンをつけた。
再生。
最初に風。
自転車。
挨拶。
正門。
女子生徒の声。
『早川くんが聞きたいって』
別の声。
『鳴いて』
男子の声。
『命令では鳴きません』
直人は笑った。
その直後。
『にゃ』
一度だけ、猫。
「校長」
直人は呟いた。
音が続く。
昇降口。
階段。
教室。
担任の声。
出席。
一人ずつ名前。
知らない名前。
これから同級生になる人。
そして。
『早川直人』
直人の体が固くなる。
返事はない。
病室で、口を開く。
「はい」
録音へは届かない。
それでも答えた。
教室から声。
『席、あります』
『プリント入れときます』
『体育祭の係、帰ってきてから決めよう』
笑い。
もう一度名前。
『早川直人』
クラス全体の、揃っていない声。
『待ってます』
直人はイヤホンを外しかけた。
胸が苦しい。
病気の苦しさではない。
嬉しい。
怖い。
申し訳ない。
早く戻らなければ。
待たせている。
考えが重なる。
けれど、そのあとすぐ授業の音が始まった。
担任は直人の名前のところで録音を止めなかった。
教室は、そのまま一日を続けた。
直人がいなくても。
直人を待ちながら。
授業をする。
笑う。
忘れ物をする。
学校は、直人のためだけに止まってはいなかった。
だから少し安心した。
自分が戻るまで、全員が悲しい顔で待っているわけではない。
席だけがある。
名前を呼ぶ。
それでいい。
図書室。
知らない二人の会話。
『一日なら怒らない』
『二日なら?』
『努力して怒る』
直人はまた笑った。
ピアノ。
途中で一音外れる。
演奏が止まりかけ、続く。
最後。
『今、間違えた』
『録り直しますか』
『このままで』
直人は目を閉じた。
完璧な演奏ではない。
学校紹介用に作られたきれいな音ではない。
誰かが間違えた学校。
バスケットボール。
床。
笛。
声。
外れたシュート。
入ったシュート。
体育館の広さが、音で分かる気がした。
昼休み。
玲奈の放送。
『昼休みの教室は、思っているより少しうるさいです』
録音の向こうで笑い。
『でも、その中に一人分の声が増えるのを、待っている教室もあります』
直人は再生を止めた。
目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
「疲れたか」
担任が尋ねる。
「少し」
「続きはあとでいい」
「聞きたい」
「無理しなくていい」
「無理じゃないです」
言ってから、直人は言い直した。
「怖いけど、聞きたい」
担任は頷いた。
再生。
雨の渡り廊下。
知らない女子二人の会話。
『音は書けない』
『書ける』
下校チャイム。
遠くなる足音。
最後に放送委員の声。
『これは、五月二十八日の青葉ヶ丘高校の音です』
『あなたが学校へ来る日の音は、たぶん今日とは違います』
『その日の音は、まだ録音できません』
『だから、急がなくて大丈夫です。来られる日に、自分で続きを聞いてください』
『学校は、今日もここにあります』
録音が終わる。
病室の音へ戻る。
ワゴン。
廊下。
隣のテレビ。
直人はイヤホンを外した。
「学校へ行きたい」
初めて、声に出した。
それまでも行きたいと思っていた。
遅れたくない。
勉強についていきたい。
出席日数が不安。
友達を作りたい。
そういう理由。
今は違う。
あの音の中へ入りたい。
教室で返事をしたい。
知らない会話を近くで聞きたい。
ピアノの間違いを、その場で聞きたい。
体育館の音をうるさいと思いたい。
校長に本当に会いたい。
「行ける」
担任が言う。
「すぐではないけど」
「分かってます」
「最初は一時間だけかもしれない」
「はい」
「教室まで行けず、保健室だけで帰る日もあるかもしれない」
「はい」
「それでも学校へ来たことになる」
直人は制服を見る。
まだ折り目が残っている。
「次の診察で、外出許可を相談します」
「一人で決めるなよ」
「先生も相談してください」
「分かった」
◇
六月六日。
午前十時十五分。
青葉ヶ丘高校正門。
直人は、四度目の制服を着ていた。
今日は正式な登校ではない。
病院からの外出。
一時間だけ。
母親と担任が一緒。
体調が悪くなれば、すぐに帰る。
教室へ入れるかは、その場で決める。
正門前で足が止まった。
録音で聞いた場所。
風。
自転車。
挨拶。
今日は授業中なので、生徒は少ない。
録音の日とは違う音。
門柱の上。
茶色と白の猫。
右耳が少し欠けている。
「校長」
直人が呼ぶ。
猫は直人を見る。
逃げない。
直人はしゃがんだ。
息が少し苦しくなる。
緊張。
病気ではない。
たぶん。
「初めまして」
校長は返事をしない。
「録音、聞きました」
猫の目が細くなる。
「一回だけ鳴いてた」
直人は手を出さない。
猫が嫌がるかもしれない。
待つ。
校長が門柱から降りる。
ゆっくり近づく。
直人の靴の匂いを嗅ぐ。
「今日の音は、録音と違いますね」
猫は一度だけ鳴いた。
「にゃ」
録音と似ている。
けれど同じではない。
直人は笑った。
正門をくぐる。
昇降口。
下駄箱。
自分の名前。
『早川直人』
まだ使っていない上履き。
履き替える。
階段。
途中で一度休む。
担任が何も言わず待つ。
二階。
一年五組の教室前。
扉の向こう。
先生の声。
チョーク。
ノート。
録音で聞いた音。
けれど、イヤホンより近い。
扉の前で胸が苦しくなる。
「保健室へ行くか」
担任が尋ねる。
直人は迷う。
「少しだけ」
「教室?」
「扉を開けるだけ」
「分かった」
担任が先に入る。
授業が止まる。
「少し失礼します」
直人は扉の外から教室を見る。
机。
黒板。
窓。
写真と同じ。
音は違う。
教室の全員が振り返る。
一斉に見られ、逃げたくなる。
後方の男子が立ち上がる。
録音で最初に、
『席、あります』
と言った声。
「早川?」
「はい」
今度は教室に届く返事。
「本物だ」
「何それ」
笑いが起きる。
直人も少し笑った。
女子生徒が、空いている机を指さす。
「席、そこ」
机の中からプリントの束が見える。
「多いよ」
「二か月分」
「重い」
「持って帰れないかも」
「先生に送ってもらえば」
皆が一度に話す。
録音よりうるさい。
玲奈の言葉は正しかった。
「今日は一時間だけ」
担任が説明する。
「授業へ参加するかは、本人と相談する」
「座る?」
誰かが聞く。
直人は自分の席を見る。
そこまで歩く。
遠く感じる。
でも、行きたい。
「少しだけ」
教室へ入る。
足音。
自分の上履き。
録音にはなかった音。
直人の一人分。
机へ座る。
椅子が床を擦る。
その音を、誰も録音していない。
今日の学校の音。
「授業、続けるぞ」
担任が言う。
「早川、分からないところは後でいい」
「はい」
直人は教科書を開いた。
隣の生徒がページを教える。
「四十八」
「ありがとう」
チョークが黒板へ触れる。
直人は、その音を自分の耳で聞いた。
◇
同じ日の昼休み。
直人は一時間で帰る予定だった。
けれど、体調は安定していた。
医師と母親へ連絡し、昼休みまで残ることになった。
放送室へ向かう。
階段はゆっくり。
扉をノックする。
「どうぞ」
中には麻衣、玲奈、蒼太。
三人が振り返る。
「早川直人です」
名乗る。
麻衣が最初に笑った。
「知ってる」
「録音、ありがとうございました」
「どうだった?」
「長かった」
蒼太が少し反応する。
「二つに分けました」
「でも長かった」
「不要な部分が?」
「違います」
直人は笑う。
「全部聞きました」
「一度で?」
玲奈が心配そうに聞く。
「途中で休みました」
「ならよかった」
「校長の声、本当に録れてた」
「貴重です」
蒼太が言う。
「今日も鳴きました」
「録音しましたか」
「してません」
「もったいない」
「自分で聞いたので」
蒼太は一瞬黙り、頷いた。
「それでいいと思います」
「教室へ行った?」
麻衣が尋ねる。
「行きました」
「音、同じだった?」
「違いました」
「どこが」
「僕の椅子の音が増えた」
三人が黙る。
直人は少し恥ずかしくなった。
「変ですか」
「少し小説っぽい」
麻衣が言う。
「文芸部の人みたい」
「入りません」
「まだ誘ってない」
玲奈が笑う。
「録音へ、返事を入れてもいいですか」
直人が尋ねる。
「返事?」
「学校から音を送ってもらったから、僕の音を返したい」
蒼太がマイクを準備する。
「録ります」
「今?」
「本人が希望しています」
「確認、早いね」
麻衣が言う。
「何を話すか決めてない」
「決まってからでいい」
直人はマイクの前へ座る。
放送ではない。
録音だけ。
赤いランプ。
「早川直人です」
自分の声が、機械へ入る。
「学校の音を送ってくれて、ありがとうございました」
一度、息を吸う。
「録音の中で名前を呼ばれたとき、病室で『はい』と返事をしました。でも届きませんでした」
三人は黙って聞く。
「今日は、教室で返事をしました」
直人は自分の制服を見る。
「録音と同じ音もありました。違う音もありました」
何を言えばいい。
完璧な言葉はない。
「僕の席へ座った音は、録音にありませんでした」
少し笑う。
「今日、初めて鳴りました」
それでいいと思った。
「まだ毎日は来られません。次にいつ来るかも決まっていません」
待っていると言われると、少し怖い。
でも、急がなくていいとも言われた。
「だから、学校に待っていてくださいとは言いません」
麻衣が少し目を見開く。
「学校は、僕がいなくても続いていてください」
授業。
部活。
放送。
失敗。
笑い。
「僕が来られる日に、その日の続きへ入ります」
直人はマイクを見る。
「今日は、僕の声を置いて帰ります」
録音を止める。
「どうですか」
蒼太が尋ねる。
「音量?」
「内容です」
「長かった?」
麻衣が聞く。
「少し」
玲奈が答える。
「でも必要だったと思います」
以前、麻衣へ言ったのと同じ言葉。
三人で笑った。
◇
直人が帰ったあと。
放送室前の相談箱に、新しい封筒が入っていた。
白い封筒。
差出人の名前はない。
表には一行だけ。
『恋の相談です。放送では読まないでください。』
麻衣が封筒を持ち上げる。
「次は恋愛」
玲奈が少し身構える。
「読まないでって書いてある」
「三人で読む許可は?」
「それも書いてない」
蒼太が封筒を見る。
「まず確認が必要です」
「どうやって?」
「差出人が分からない」
三人は相談箱を見た。
すぐには開けない。
誰かが、話したいけれど放送されたくない言葉を置いた。
直人の葉書と同じように。
まず、届いたことだけを伝える。
麻衣は封筒を机へ置いた。
「次の放送で」
「恋の相談が届いたって言う?」
「内容は読まない。開けてもいない」
玲奈が頷く。
「差出人へ、どうしてほしいか聞く」
「返事、来ますかね」
蒼太が言う。
「来るかもしれない」
「来ないかもしれない」
「それでも」
麻衣は、直人が座っていたマイクを見る。
そこには、もう誰もいない。
けれど録音には声が残っている。
『今日は、僕の声を置いて帰ります』
学校へ置かれた一人分の音。
次に来る日まで、放送室に残る。
「届いたことは伝えられる」
麻衣が言った。
窓の外。
一年五組の教室から、昼休みの笑い声が聞こえる。
その中には、今日だけ一人分増えた声が混ざっていた。




