第14話 渡せなかった花にも、行き先は残っている
吉岡麻衣は、白いカーネーションが嫌いだった。
花そのものが嫌いなわけではない。
細く重なった花びら。
少し青みを帯びた白。
花瓶へ挿すと、周囲の光まで静かになるような姿。
きれいだと思う。
姉も好きだった。
だから嫌いになった。
正確には、見るたびに思い出すことがあるから、できれば見たくなかった。
去年の五月。
病院の一階にある売店で、麻衣は白いカーネーションを一輪買った。
小さな透明の包装。
薄緑のリボン。
レジの店員は、
「お見舞いですか」
と尋ねた。
「はい」
麻衣は答えた。
姉の吉岡真由は、その病院の六階に入院していた。
入院したばかりの頃は、数週間で退院できると思っていた。
医師も、はっきり悪いとは言わなかった。
検査をする。
薬を変える。
経過を見る。
それらしい説明が続いた。
麻衣は、説明の中から都合のいい言葉だけを拾った。
若い。
体力がある。
治療の選択肢がある。
状態は安定している。
その言葉がある限り、姉は戻ってくると思った。
高校を卒業してからも、姉は青葉ヶ丘高校の話をよくした。
旧放送室。
校内ラジオ番組『青葉の声』。
山岡誠。
途中で止まった、最後の放送。
麻衣が青葉ヶ丘高校へ進学すると決めたとき、真由は少し困った顔をした。
「私がいた学校だから?」
「近いから」
「本当に?」
「制服がかわいい」
「嘘」
「部活が多い」
「放送委員になる?」
「ならない」
「そう」
麻衣は入学後、放送委員になった。
自分から立候補したわけではない。
クラスで誰も手を上げなかった。
担任に、
「吉岡、お姉さんが放送委員だったらしいな」
と言われた。
断る理由が見つからなかった。
姉の真似をしたかったわけではない。
そう思いながら、放送室に初めて入った日、麻衣は少し嬉しかった。
姉がいた場所とは違う。
現在の放送室は新しく、旧放送室とは場所も機械も違う。
それでもマイクの前に立つと、姉の声がどこかに残っている気がした。
麻衣は、そのことを真由へ話さなかった。
話せば喜ぶと思った。
同時に、姉が昔のことを思い出すとも思った。
だから言わなかった。
言わないまま、時間が過ぎた。
そして去年の五月。
麻衣は白いカーネーションを持って、病室へ向かった。
六階。
エレベーター。
消毒液の匂い。
静かな廊下。
窓から見える曇り空。
姉の病室まで、あと数歩。
そこで看護師と医師が、慌ただしく部屋へ入っていった。
扉が閉まる。
麻衣は廊下で止められた。
「少し待ってください」
理由は教えてもらえなかった。
椅子へ座る。
白いカーネーションを膝に置く。
十分。
二十分。
もっと長かったかもしれない。
姉の部屋から、人が出入りした。
やがて母親が走ってきた。
父親も遅れて来た。
麻衣だけが、何も分からないまま座っていた。
その日の夕方。
姉は別の部屋へ移った。
白いカーネーションは、渡せなかった。
翌日も。
その次の日も。
花は少しずつ傷んだ。
病院の待合室に置いておくこともできず、麻衣は自宅へ持ち帰った。
水へ挿した。
花びらの端が茶色くなった。
茎が柔らかくなった。
最後には、捨てた。
姉は、その二週間後に亡くなった。
だから麻衣は、白いカーネーションを見ると、渡せなかった一輪を思い出す。
渡せなかった花。
言えなかった言葉。
話さなかった学校のこと。
全部、同じ場所に残っている。
◇
五月二十五日。
午前七時四十五分。
青葉ヶ丘高校放送室。
窓際に、白いカーネーションが置かれていた。
小さな透明の花瓶。
添えられた紙。
『昨日、落とし物の放送をしてくれたお礼です。
放送室は機械ばかりなので、一日だけ置いてください。
水城花音』
前日。
二階廊下で拾われた黄色いガーベラについて、放送委員が落とし物の案内をした。
持ち主は無事に見つかった。
その礼として、保健室の教師から水城花音へ白いカーネーションが渡された。
花音は、その花を一日だけ放送室へ貸した。
麻衣は窓際に立ち、花を見ていた。
「白いカーネーション」
自分でも気づかないうちに、声へ出していた。
「どうしたんですか」
神谷玲奈が尋ねる。
長谷川蒼太も、スマートフォンで花の種類を調べる手を止めた。
「姉が好きだった花」
麻衣は答えた。
ここで終わればよかった。
それ以上話すつもりはなかった。
けれど、白い花を見ていると、去年の病院の廊下が浮かんだ。
「去年の今頃」
麻衣は続けた。
「病室へ持っていこうとして、持っていけなかったんだ」
玲奈は何も聞かなかった。
蒼太も質問しなかった。
少し前までの蒼太なら、
「どうして持っていけなかったんですか」
と尋ねただろう。
今は待つことを覚えたらしい。
麻衣は花へ触れなかった。
「始めようか」
放送原稿を持ち上げる。
朝の連絡。
委員会からのお知らせ。
体育祭の準備。
図書室の開館時間。
いつも通りの内容。
玲奈がマイク前へ立つ。
蒼太が機械を操作する。
麻衣は原稿の予備を持ち、横で聞く。
放送開始を知らせるランプが点灯した。
「皆さん、おはようございます」
玲奈の声。
白いカーネーションの横で、新しい朝の放送が始まる。
麻衣は、姉の声を思い出した。
『皆さん、こんにちは。青葉の声です』
旧放送室で再生したカセットテープ。
十五年前の声。
亡くなった人の声が、機械の中に残っていた。
笑い方。
息を吸う音。
原稿をめくる音。
途中で止まった言葉。
麻衣は、それを聞くまで姉の声を忘れていないと思っていた。
けれど、再生された瞬間、記憶の中の声が本物とは少し違っていたことに気づいた。
記憶の姉は、いつも穏やかだった。
録音の中の姉は、思っていたより早口で、少し強く、山岡へ怒っていた。
人は、亡くなった相手を勝手にきれいにする。
優しかった。
明るかった。
自分を大切にしてくれた。
悪いところを少しずつ削り、思い出しやすい形へ変える。
麻衣の中の真由も、そうなりかけていた。
だが録音の姉は、間違えた。
怒った。
誰かを救おうとして、別の誰かを傷つける可能性を見落とした。
それでも誰かの声を読もうとした。
生きていた。
麻衣は、その姉をもっと知りたいと思った。
同時に、もう聞けないことが苦しかった。
◇
朝の放送が終わった。
玲奈がマイクを切る。
「終わりました」
「ありがとう」
麻衣は原稿を受け取る。
蒼太が、窓際の花瓶を見る。
「水、少なくないですか」
「カーネーションなら、これくらいでいいんじゃない?」
玲奈が言う。
「根拠は?」
「花音さんが入れた量だから」
「専門家ではないでしょう」
「長谷川くんより詳しい」
「それはそうです」
「水城さんに聞く?」
「一日だけなら大丈夫だと思う」
麻衣が口を挟んだ。
二人が麻衣を見る。
「姉が、カーネーション好きだったから」
「育ててたんですか」
蒼太が尋ねる。
「花屋で働いてたことがある」
「そうなんですか」
「大学に入ってすぐ、半年くらい」
麻衣は、放送室の時計を見る。
ホームルームまで少し時間がある。
「花屋、辞めたあとも、よく花を買ってきた。高い花束じゃなくて、一輪とか二輪だけ」
「何のために?」
玲奈が尋ねる。
「理由はなかったと思う」
「自分のため?」
「部屋に置くため」
「それが自分のためでは?」
「そうかも」
姉は、机の上に花を置いた。
赤。
黄色。
白。
小さな花瓶をいくつか持っていた。
麻衣は、姉が花を替える姿を何度も見た。
「白いカーネーションが一番好きだった?」
玲奈が聞く。
「たぶん」
「聞いたことは?」
「ある」
「何て?」
麻衣は思い出す。
『どうして白ばっかり買うの』
中学生の頃、姉へ尋ねた。
真由は答えた。
『白は、何色にも染められそうに見えるから』
『染めるの?』
『染めない』
『じゃあ意味ないじゃん』
『染められそうなのに、白いままなのがいいの』
意味が分からなかった。
今も完全には分からない。
「白いままなのがいいって言ってた」
麻衣は答えた。
「白い花だから?」
蒼太が聞く。
「そう」
「そのままですね」
「姉は、そういう人だった」
「どういう人?」
「意味ありそうなことを言って、聞いたら大した意味がない」
玲奈が少し笑う。
「でも覚えてる」
「変なことほどね」
麻衣も笑った。
姉を思い出して笑った。
白いカーネーションを前にして、初めてかもしれない。
◇
二年三組。
一時間目。
麻衣は授業を聞きながら、ノートの端へ花を描いていた。
絵は得意ではない。
丸い花びらを重ねる。
カーネーションには見えない。
「何描いてるの?」
隣の席の女子、森川莉子が覗き込む。
「花」
「キャベツかと思った」
「ひどい」
「カーネーション?」
「分かるの?」
「机の端に名前書いてる」
麻衣は、自分が小さく、
『白いカーネーション』
と書いていたことに気づく。
「何で描いてるの?」
「放送室にあるから」
「誰かに貰った?」
「違う」
「また落とし物?」
「昨日の放送のお礼」
「へえ」
莉子はノートの絵を見る。
「麻衣、花好きだっけ」
「姉が好きだった」
「お姉さん」
莉子の声が少し慎重になる。
クラスの何人かは、麻衣の姉が去年亡くなったことを知っている。
担任が必要な範囲で説明した。
麻衣が学校を休む理由。
忌引き。
その後、誰も姉の話をしなくなった。
触れてはいけないと思われたのだろう。
「ごめん」
莉子が言う。
「何が」
「聞いちゃったから」
「私が言ったんだけど」
「そうだけど」
「謝らなくていい」
「話しても大丈夫?」
最近、この学校では『大丈夫』を確認される。
「少しなら」
「どんな人だったの?」
簡単なようで難しい質問。
どんな人。
優しかった。
明るかった。
放送委員だった。
病気で亡くなった。
どれも本当。
どれも足りない。
「よく喋る人」
麻衣は答えた。
「麻衣も喋るじゃん」
「私より」
「相当だね」
「あと、言ったことを忘れる」
「悪口?」
「本当のこと」
「仲よかった?」
麻衣はノートの花を見る。
「普通」
「その普通は、本当?」
「喧嘩もした」
「何で?」
「姉が私のプリン食べた」
「小さい」
「二回目だったから」
「二回なら怒る」
「でしょう?」
二人で笑う。
麻衣は、姉の話をした。
亡くなったことではなく。
病気でもなく。
プリンを勝手に食べた話。
白い花を買う話。
意味ありそうなことを言って、説明すると大した意味がない話。
姉は、死んだ人である前に、麻衣のプリンを二回食べた人だった。
そのことを話せるのが、少し嬉しかった。
「もっと聞いていい?」
莉子が尋ねる。
「授業中」
「あとで」
「長くなるよ」
「昼休み暇だから」
「嫌になったら言って」
「分かった」
莉子は前を向いた。
麻衣も教科書へ戻る。
ノートの端には、キャベツのような花が残った。
◇
昼休み。
麻衣は莉子と一緒に弁当を食べた。
姉の話をする。
最初は、楽しいことだけ。
高校時代の放送委員。
大学。
花屋のアルバイト。
家でのこと。
やがて莉子が尋ねた。
「放送委員になったの、お姉さんの影響?」
「違う」
「本当に?」
「半分くらい」
「影響あるじゃん」
「最初は断りたかった」
「どうして」
「真似みたいだから」
「別にいいんじゃない?」
「姉の代わりみたいで嫌だった」
「代わりにはならないでしょう」
簡単に言う。
でも、その通りだった。
麻衣は真由ではない。
声も違う。
話し方も違う。
失敗の仕方も。
放送委員になった理由も違う。
「今は?」
莉子が尋ねる。
「放送委員、嫌?」
「嫌じゃない」
「好き?」
「普通」
「本当の普通?」
「少し好き」
「じゃあ、そう言えばいいのに」
「恥ずかしい」
「誰に?」
「姉に」
答えてから、麻衣は黙った。
姉はもういない。
恥ずかしがる相手もいない。
それでも麻衣は、放送委員が好きだと姉へ言えなかった。
入院中。
真由は何度か尋ねた。
『放送委員、どう?』
『普通』
『楽しい?』
『別に』
『辞めたい?』
『そこまでじゃない』
いつも曖昧に答えた。
姉が喜ぶのが嫌だった。
自分が姉の後を追っていると認めるようで。
放送委員になったことを、姉の物語の続きにされたくなかった。
だから言わなかった。
本当は、初めて放送した日から楽しかった。
緊張した。
間違えた。
それでも、自分の声が校内へ届くことが嬉しかった。
「言えばよかった」
麻衣が呟く。
「何を?」
「放送委員、好きだって」
莉子はすぐに励まさなかった。
「言えなかったんだ」
「うん」
「何で?」
「姉が喜ぶと思ったから」
「喜ばせたくなかった?」
「そうじゃなくて」
説明が難しい。
「姉が放送委員だったから私もなった、って思われたくなかった」
「違うの?」
「少しはそう。でも、それだけじゃない」
「なら、それも言えばよかったのに」
「今なら言える」
「そのときは?」
「言えなかった」
「じゃあ仕方ない」
莉子は卵焼きを食べる。
「仕方ないで終わる?」
「だって今の麻衣が、そのときの麻衣へ戻って言わせることはできないでしょう」
「できない」
「今言いたいなら、今言えば」
「誰に」
「お姉さん」
「いないのに?」
「聞くかどうかは別」
莉子は、あまり深刻な顔をしなかった。
「手紙とか」
「手紙」
「墓参りとか行くんでしょう?」
「命日は来月」
「じゃあそのとき」
「遅くない?」
「一年言えなかったなら、一か月くらい同じじゃない?」
「雑」
「嫌なら今日」
「今日?」
「花あるんでしょう」
白いカーネーション。
「持っていけないよ」
「何で」
「花音さんから放送室へ、一日だけって」
「一日終わったら?」
麻衣は答えられない。
花は水城花音へ返す。
それが自然。
借りたもの。
姉のためではない。
麻衣のためでもない。
「同じ花じゃなくてもいいじゃん」
莉子が言う。
「買えば」
去年。
病院の売店。
白いカーネーション。
「買いたくない」
「嫌い?」
「嫌いじゃない」
「怖い?」
麻衣は莉子を見る。
「少し」
「じゃあ、白じゃなくても」
「姉が好きだった」
「なら白がいい?」
「分からない」
「分からないなら、花屋で考えれば」
簡単に言う。
でも、花屋へ行くことすら考えていなかった。
白いカーネーションを避けていた。
見なければ、去年の花を思い出さずに済む。
けれど今日、放送室に置かれた。
見た。
話した。
姉のことで笑った。
「放課後」
麻衣は言った。
「花屋、行ってみる」
「一人で?」
「うん」
「来てほしかったら言って」
「大丈夫」
莉子が確認するように見る。
「本当に、一人で行きたい」
「分かった」
◇
放課後。
麻衣は、放送室の白いカーネーションを水城花音へ返しに行った。
二年三組。
花音は、窓際の鉢を確認していた。
「花音さん」
「はい」
「花、ありがとう」
花瓶ごと渡す。
「放送室、どうだった?」
「機械ばかりの部屋に合ってた」
「水、替えた?」
「蒼太くんが心配してた」
「替えてない?」
「朝はそのまま。昼に少し」
「なら大丈夫」
花音は花びらを見る。
「少し開いた」
「分かるの?」
「朝より」
「私には同じに見える」
「見てたら分かる」
麻衣は、白い花を見つめる。
「姉が好きだった」
「カーネーション?」
「白いの」
「そう」
花音は、余計なことを言わない。
「去年」
麻衣から話す。
「病院へ持っていこうとして、渡せなかった」
「亡くなったの?」
「うん」
花音は花を見る。
「この花、持っていく?」
「でも、花音さんの」
「昨日、貰った」
「花音さんのために」
「一日、放送室に貸すって書いた」
「だから返しに来た」
「今、返してもらった」
花音は花瓶を受け取る。
そしてすぐ、カーネーションを一本抜いた。
「はい」
「何で」
「返してもらったから、今度は私が渡す」
「でも」
「私のための花だった。だから、誰に渡すかは私が決める」
麻衣は受け取れない。
「姉のために貰うの、違わない?」
「麻衣先輩のため」
「私?」
「持っていくかどうか考えるための花」
「持っていかなかったら?」
「部屋に飾ればいい」
「枯れたら?」
「花は枯れる」
花音は、当然のように言った。
「でも、水を替えた時間は残る」
前日の自分の話と同じなのだろう。
誰のためではない花。
借りた花。
自分のためだと思った一日。
「受け取って」
花音が言う。
「嫌なら、嫌って言って」
麻衣は白い花を見る。
去年とは違う一輪。
病院の売店で買った花ではない。
渡せなかった花でもない。
水城花音が保健室の教師から受け取り、放送室へ貸し、麻衣へ渡そうとしている花。
「貰う」
麻衣は手を伸ばした。
「ありがとう」
「水は少なめで」
「分かった」
「茎の下が傷んだら、少し切って」
「分かった」
「水へ葉が入らないように」
「説明、長い」
言ってから、麻衣は笑った。
花音も少し笑う。
「大事だから」
「ちゃんとする」
◇
学校近くの花屋。
麻衣は、白いカーネーションを一輪持ったまま店へ入った。
同じ花を買う必要はない。
すでに手元にある。
だが、何か足したかった。
店内には色が多い。
赤いバラ。
黄色いガーベラ。
薄紫のトルコキキョウ。
ピンクのカーネーション。
白い小花。
「お探しですか」
店員が声をかける。
「姉に」
「贈り物ですか」
「亡くなってます」
店員の表情が少し変わる。
「失礼しました」
「大丈夫です」
本当に大丈夫。
少し胸が痛む。
でも話せる。
「白いカーネーションが好きだったので」
「お持ちの一輪に合わせますか」
「はい」
「どのような雰囲気に」
どのような。
仏花。
墓前。
供養。
静か。
落ち着いた。
麻衣は考える。
姉は、静かな人ではなかった。
白い花は好きだった。
けれど、それだけで全部を白くするのは違う。
「明るく」
麻衣は言った。
「白い花が中心だけど、明るくしてください」
「かしこまりました」
店員は、白いカーネーションの横へ黄色い小花を添えた。
薄い緑。
小さな青。
「青も入れていいですか」
「はい」
青葉ヶ丘。
放送室。
姉がいた学校。
「包装は?」
「簡単でいいです」
小さな花束ができる。
去年の花とは違う。
一輪ではない。
白だけでもない。
「ありがとうございます」
麻衣は花束を受け取った。
店を出る。
すぐに墓地へ向かうつもりだった。
けれど足が止まる。
墓石の前で何を言う。
放送委員が好きだった。
姉の真似だけではなかった。
旧放送室を開けた。
カセットテープを聞いた。
『青葉の声』を再開した。
話すことが多すぎる。
「長くなるな」
麻衣は呟いた。
姉なら、
『別にいいでしょう』
と言う気がした。
◇
吉岡家の墓は、学校から電車で三駅離れた寺にあった。
夕方。
境内には誰もいない。
麻衣は墓石の前へ立つ。
掃除道具は持ってきていない。
命日でもない。
予定した墓参りではない。
「急でごめん」
返事はない。
花立てには、少し古い花が残っていた。
母親が数日前に来たのかもしれない。
麻衣は傷んだ花を抜く。
水を替える。
白いカーネーションを中心にした小さな花束を挿す。
「去年のと違うから」
最初に言った。
「去年の花は、捨てた」
言わなくてもいいこと。
でも言う。
「病院へ持っていったけど、渡せなかった。二週間くらい水に挿して、最後は捨てた」
墓石は何も答えない。
「ごめん」
何に謝っているのか分からない。
花を捨てたこと。
渡せなかったこと。
姉が亡くなると思わなかったこと。
思わないようにしたこと。
「放送委員」
麻衣は続ける。
「好きだった」
過去形ではない。
「今も好き」
言い直す。
「最初は、お姉ちゃんの真似だと思われるのが嫌だった。お姉ちゃんにも、そう思われたくなかった」
風が吹く。
木の葉が鳴る。
「でも、少しは真似だった」
姉が楽しそうに話していた。
放送室。
マイク。
自分の声が学校へ届くこと。
それを知りたかった。
「放送室、楽しいよ」
言えた。
「緊張するし、失敗するし、相談の手紙とか来るし。昔の放送も聞いた」
旧放送室のこと。
「お姉ちゃんのカセット、聞いた」
声が少し震えた。
「思ったより怒ってた」
麻衣は笑う。
「山岡先生に、すごい言ってた」
笑いながら、涙が出た。
「怖かったよ」
カセットを再生すること。
姉の手紙を山岡へ渡すこと。
姉が本当にいなくなったと認めること。
「でも、聞いてよかった」
記憶の中できれいになりすぎた姉ではない。
間違え、怒り、泣き、迷った真由。
「お姉ちゃん、間違ってたよ」
言える。
「山岡先生も間違ってた。二人とも正しかったし、二人とも間に合わなかった」
姉の手紙に書かれていた言葉。
「今、『青葉の声』をまたやってる」
麻衣は墓石を見る。
「私たちが」
姉の続きではない。
自分たちの番組。
玲奈。
蒼太。
山岡。
届いた手紙。
返事。
「お姉ちゃんが終わらせられなかったから始めたけど、今は私たちの放送だから」
姉が聞けば、少し寂しがるだろうか。
喜ぶだろうか。
分からない。
「勝手に喜ばないでね」
麻衣は言った。
「私が好きでやってるから」
姉の真似でもある。
自分の選択でもある。
どちらか一つに決めなくていい。
「あと」
麻衣は花を見る。
「白いカーネーション、嫌いになってた」
花に罪はない。
「見ると、去年のこと思い出すから」
今日も思い出した。
病院の廊下。
渡せなかった一輪。
「でも、今日一輪貰った」
水城花音から。
「持っていくか考えるための花だって」
変な言い方。
でも、その通りだった。
「持ってきた」
白い花が風で少し揺れる。
「これは、ちゃんと渡せたことにする」
墓前へ供えた。
姉は受け取らない。
花は墓石の前にある。
それでも麻衣が届けた。
去年の花とは違う。
「去年の花の代わりじゃないよ」
代わりにはならない。
「今日の花」
麻衣は手を合わせた。
長くは祈らなかった。
何を祈るか分からない。
ただ、来たこと。
話したこと。
花を置いたこと。
それでよかった。
◇
帰宅後。
母親が玄関で麻衣を見た。
「遅かったね」
「お墓行ってた」
「今日?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
母親は少し驚いた。
「何かあった?」
「花を貰った」
「花?」
「白いカーネーション」
母親の表情が変わる。
やはり思い出すのだろう。
「持っていったの?」
「ほかの花も買って」
「そう」
母親は靴箱の上を見る。
そこには姉の写真がある。
家の中にも、小さな場所が作られている。
「お母さん」
「何?」
「真由姉ちゃん、白いカーネーションが一番好きだった?」
「さあ」
「知らない?」
「白い花はよく買ってたけど」
母親は少し考える。
「一番好きなのは、黄色いガーベラじゃなかったかな」
「嘘」
「大学の卒業式で、大きいの貰って喜んでた」
「白って言ってた」
「麻衣には、そう言ったの?」
「白いままなのがいいって」
「また格好つけたんでしょう」
母親が笑った。
「真由、花屋で働いてから、花言葉とか意味ありそうに話すの好きだったから」
「やっぱり大した意味ないんじゃん」
「でも、白も好きだったと思うよ」
「一番じゃない?」
「一番を決めてなかったんじゃない?」
麻衣は、少し力が抜けた。
姉が一番好きだった花。
そう思い込んでいた。
違うかもしれない。
亡くなった人の好みを、残された側が一つへ決める。
白いカーネーション。
姉の象徴。
渡せなかった花。
全部、麻衣が作った意味だった。
「黄色いガーベラも買えばよかった」
「次でいいでしょう」
「次?」
「また行くんでしょう?」
命日だけではなく。
今日のように。
「たぶん」
「花はなくてもいいよ」
「分かってる」
渡したいときに渡す。
話したいときに話す。
決まった日でなくてもいい。
◇
翌朝。
五月二十六日。
放送室。
窓際に花はなかった。
白いカーネーションは墓地。
花瓶は水城花音へ返した。
機械ばかりの部屋へ戻った。
「少し寂しいですね」
玲奈が言う。
「花がないから?」
「昨日あったから」
「機械は同じです」
蒼太が答える。
「そういう話じゃない」
「何か置きますか」
「何を」
「観葉植物」
「水こぼすの心配するでしょう」
「土だけのものなら」
「植物は水がいるよ」
「造花」
「花音さんに怒られそう」
麻衣は二人の会話を聞きながら、放送原稿を整える。
「昨日」
玲奈が麻衣を見る。
「お姉さんのところへ行ったんですか」
質問ではなく、確認するような声。
「行った」
「花、持って?」
「うん」
「どうでした」
麻衣は考える。
「長く喋った」
「返事は?」
「ない」
「そうですよね」
「でも、聞いてもらったことにした」
「校長みたい」
玲奈が言う。
「姉を猫と一緒にしないで」
「返事しないところ」
「姉は、いたら絶対返事する」
「どんな」
「話が長いって」
玲奈が笑う。
蒼太も少し笑った。
「放送委員が好きって言った」
麻衣は続ける。
二人が麻衣を見る。
「姉に?」
「うん」
「今まで言ってなかったんですか」
蒼太が尋ねる。
「言いたくなかった」
「どうして」
麻衣は説明する。
「姉の真似だけでやってると思われたくなかったから」
「実際は?」
「少しは真似」
「それで嫌だった?」
「前は」
「今は?」
「別に」
真似から始まってもいい。
途中で自分のものになる。
姉がいたから放送室へ来た。
今、続けているのは麻衣が好きだから。
「今日の『青葉の声』」
麻衣は机の上の封筒を見る。
新しい相談。
文化祭の案内図へ載せる文章。
放送部ではない。
放送委員。
月に一度の番組。
少しずつ、手紙が増えている。
「私が読みたい」
麻衣が言う。
「麻衣先輩が?」
玲奈が驚く。
「駄目?」
「駄目じゃないです」
「いつも玲奈さんが読むから」
「代わります」
「緊張するかも」
「代わる準備します」
「一人で読めないなら放送委員の意味がない、とは言わない?」
「前の私なら言ったかもしれません」
玲奈は笑う。
「今は、三人で放送するので」
蒼太が操作席へ座る。
「音量、合わせます」
「声、低くないよ」
「玲奈さんと違うから調整します」
「細かい」
「必要です」
麻衣はマイクの前へ立つ。
原稿を置く。
手が少し冷たい。
放送委員になってから何度も読んでいる。
それでも今日は、最初のように緊張する。
「始めます」
蒼太が言う。
ランプが点灯する。
麻衣は息を吸う。
「皆さん、おはようございます」
自分の声が校内へ広がる。
姉とは違う声。
姉の代わりではない。
それでも、姉から少し受け取った声。
麻衣は原稿を読む。
昨日、文芸部へ届いた詩が、作者本人の許可を得て次号の部誌へ掲載されること。
文化祭案内図へ載せる思い出の募集。
放送室前の相談箱。
そして、今日の最後のお知らせ。
「『青葉の声』では、返事を急がない手紙も受け付けています」
昨日の夜、自分で加えた文章。
「すぐに放送してほしい内容だけではなく、誰かに読んでもらいたいだけの言葉でも構いません」
墓前で話した言葉。
返事はなかった。
でも、話したかった。
「ただし、私たちができるのは、読むことと、必要な場所へつなぐことです。全てに答えを出せるわけではありません」
姉の最後の放送。
答えを急ぎ、止まった。
「放送を希望しない場合は、そのことを書いてください」
麻衣は一度、息を吸う。
「言葉には、すぐに返事が来ないこともあります。それでも、話した時間や、書いた時間がなくなるわけではありません」
少し長い。
でも、最後まで言う。
「皆さんからの声を、お待ちしています」
放送を終える。
蒼太がスイッチを切る。
ランプが消える。
「どうだった?」
麻衣が尋ねる。
「よかったです」
玲奈が答える。
「どこが」
「最後」
「長くなかった?」
「少し」
正直。
「でも、必要だったと思います」
「蒼太くんは?」
「音量は安定してました」
「内容」
「俺に聞きます?」
「一応」
蒼太は少し考える。
「返事がないことと、届いていないことは同じではないと思います」
「それ、前にも言ったね」
「必要なので」
麻衣は笑った。
◇
昼休み。
放送室前の相談箱に、一枚の葉書が入っていた。
封筒ではない。
表には、青葉ヶ丘高校放送委員会宛て。
裏面。
『学校の音を送ってもらうことはできますか。』
麻衣は葉書を読む。
玲奈と蒼太も横から見る。
『私は青葉ヶ丘高校の一年生です。
入学式のあとから入院していて、まだ一度も教室で授業を受けていません。
クラスの人の顔も、ほとんど分かりません。
学校から届くプリントは読んでいます。
でも、学校がどんな音をしているのか分かりません。
昼休みの放送。
チャイム。
体育館の音。
音楽室のピアノ。
正門にいる猫の声。
録音して送ってもらうことはできますか。
難しければ、返事はいりません。』
最後に名前。
『一年五組 早川直人』
麻衣は葉書を最後まで読んだ。
「一年生」
玲奈が言う。
「入学式のあとから入院」
「猫の声」
蒼太が反応する。
「録音できますかね」
「そこ?」
「学校の音を集めるなら、機材が必要です」
「できる?」
「校内放送設備から取れる音と、持ち歩いて録る音は別です」
「先生へ確認しないと」
麻衣は葉書を見る。
返事はいりません。
そう書いている。
だが本当に返事がいらないわけではないのだろう。
難しいなら、断ってもいい。
迷惑をかけたくない。
そんな意味。
「まず、届いたって伝えよう」
麻衣が言う。
「どうやって?」
玲奈が尋ねる。
「病院宛ての住所がない」
葉書の消印。
市内の病院内郵便局。
学校へ問い合わせれば、担任を通して連絡できるかもしれない。
「一年五組の担任へ」
「それで本人に届くか確認する」
蒼太が言う。
「録音するかどうかは、そのあと」
「うん」
すぐに全部へ答えない。
まず、届いたことを伝える。
姉の最後の放送から、麻衣たちが学んだこと。
葉書の文字を、もう一度読む。
『学校がどんな音をしているのか分かりません。』
麻衣は放送室の外へ耳を向けた。
昼休みの廊下。
笑い声。
足音。
教室の扉。
遠くの体育館から聞こえるボール。
音楽室のピアノ。
校庭の笛。
窓の外。
正門の校長は、今は鳴いていない。
毎日聞いている音。
当たり前だと思っていた音。
誰かにとっては、まだ一度も聞けていない学校。
「麻衣先輩」
玲奈が尋ねる。
「録音、やりますか」
麻衣は葉書を持つ。
「本人の希望を、もう少し確認してから」
「何を録ってほしいか?」
「どこまで学校のことを知ってるか。クラスの声を入れていいか。名前を出していいか」
「確認が多いですね」
蒼太が言う。
「必要だから」
麻衣と蒼太の声が重なる。
玲奈が笑った。
「似てきましたね」
「誰と」
「長谷川くん」
「嫌だ」
「何でですか」
「細かいから」
「麻衣先輩も今、細かかったです」
「必要な細かさ」
「俺もいつもそうです」
三人の声が放送室に響く。
葉書を書いた早川直人には、まだ届かない音。
けれど、これから届けるかもしれない音。
麻衣は葉書を机の中央へ置いた。
白いカーネーションは、もうない。
姉へ渡した。
言えなかった言葉も、昨日までとは違う場所へ置いた。
渡せなかった花は、同じ形では戻ってこなかった。
けれど別の花が、麻衣を墓前まで連れていった。
行き先を失ったと思っていた言葉にも、遅れてたどり着ける場所があった。
今度は麻衣たちが、まだ学校へ来られない誰かへ、学校の音を届ける。
そのために、まず返事をする。
「山岡先生、探そう」
麻衣が言った。
「昼休み終わりますよ」
玲奈が時計を見る。
「放課後」
「今日は放送委員会があります」
「その議題にする」
「機材、確認します」
蒼太が葉書を見ながら言う。
「猫の声、録れるかな」
「校長、鳴かないよ」
「音を出す方法は」
「無理に鳴かせないで」
「分かってます」
「本当に?」
「たぶん」
麻衣は笑った。
返事のない相手。
届かなかった花。
言えなかった言葉。
それらは、消えたのではない。
すぐには渡せなかっただけ。
時間が経ち。
別の人と出会い。
別の花に導かれ。
ようやくたどり着く場所もある。
放送室の窓の外。
昼休み終了の予鈴が鳴った。
早川直人がまだ聞いたことのない、青葉ヶ丘高校の音だった。




