第38話 術式祭
八柱暦4103年1月21日、風の日。冬の休みが終わって学院にいつもの授業が戻ってきた。食堂の掲示板には新しい紙が1枚貼られている。
『術式祭 2月12日 3人一組で出ること』
「出るのか?」
ハインツがパンをちぎりながら聞いた。
「出たいけどあと1人足りないんだ」
「俺は?」
「ハインツは入ってくれるの?」
「鍛冶屋の息子に回路は無理だって顔に書いてあるぞ。まあ人数合わせならやる」
「助かるよ」
そこへ紺の腕章をつけた背の高い人が近づいてきた。ユルゲンだった。
「ラングナー。少しいいか」
「はい」
「祭の組を探していると聞いた。私を入れてくれないか」
ハインツがパンを持ったまま固まった。
「3年生は伝統派の組で出るものだと聞いています」
「伝統派の3年は祭に出ない。秘伝の線を人前で刻まないからだ」
ユルゲンは少し笑った。
「だが私は3年の最後の祭に出たい。線を覚えるだけでなく意味を知ってから刻んでみたい。教授にも聞いてきた」
「教授は何と」
「『好きにしなさい。ただし私の輪の線は使うな』だそうだ」
俺はうなずいた。
「ユルゲンさんがいいなら俺は構いません」
「決まりだ」
ユルゲンが席に座ると食堂の向こうから声がした。
「ユルゲン、寝返ったのか」
同じ腕章をつけた3年生が3人、こちらを見ている。ユルゲンは顔を上げなかった。
「寝返ってはいない。刻みたいものを刻みに行くだけだ」
3人は何も言わず離れていった。ハインツがそっと言った。
「先輩いい人だな」
「うん」
食事のあと廊下の掲示板の前に人が集まっていた。出場する組の名前が書き出してある。いちばん上にセシリアの名があった。
『アーデルハイト組 セシリア・フォン・アーデルハイト……』
セシリアの後ろには2年生の名前が2人分書いてあった。
ハインツが首をひねった。
「1年生なのに、伝統派の代表か?」
「3年が出ないから頼まれたんだと思う」
その時後ろから声がした。紺の上着の袖をそろえてセシリアが立っている。
「頼まれたのではありません。私が出ると言いました。2年生はまだ秘伝を教わっていないので人前で刻めます。一人にしか読めない線を人前で刻んでみたかったのです」
「そうでしたか」
「ラングナーさんの組は『継ぎはぎ』と呼ばれるでしょうね」
ハインツが胸を張って前に出た。
「呼びたい人は呼べばいい。むしろ、その名前をもらうぞ」
「ハインツ。待って」
「もう決めた。俺たちの組は継ぎはぎ組だ」
ハインツは出場の紙にでかでかと『継ぎはぎ組』と書いてしまった。止める暇もなかった。字は大きくて少し曲がっていた。セシリアはほんの少しだけ口の端を上げた。
「では本番で会いましょう」
彼女は先に歩いていった。
◇
4103年2月6日、闇の日。祭の6日前になった。
食堂の隅の机で俺とハインツとユルゲンはルールの紙を広げた。
紙には規則が短く並んでいた。
「1枚の板を3人で順に彫っていく。1人20分で次の人に板を渡す」
「受け渡しか」
「うん。次の人は前の人が彫った線を見て続きを彫る」
「前の人が何を作ろうとしてたかどうやって分かるんだ」
「線を見て考えるしかない。話しちゃいけないから」
ハインツが紙をのぞきこんだ。
「話すのもだめなのか」
「紙に『次はここを彫って』と書くのもだめ。見つかったら失格だって」
「じゃあ俺前の人が何を考えたかまったく分からないぞ」
ハインツが頭をかいた。俺は紙の下のほうにあるもう一行を指さした。
「ここ。『始める前の打ち合わせは自由』って書いてある」
「打ち合わせ? 話せないのに?」
「始める前なら話していいんだ。だから先に約束を決めておく。たとえば板の隅に小さな印を彫ってその意味を前もって決めておくんだ」
「なるほど。その印を見れば前の人の考えが分かるわけか」
「そう。まず印を考えてみよう」
俺は紙に印の形を描いていった。
丸が1つなら『ここまで済んだ』。三角なら『次は熱の部分』。横線が2本なら『この幅で刻んで』みたいに。印は全部で20ほどになった。
「全部覚えるのか」
「簡単な形にしたらすぐ覚えられるよ」
と言ったのにハインツは印を覚える最初の確認で丸を見て手を止めた。
「これ『ここまで済んだ』だよな。それとも『もう帰っていい』か」
「帰っていいは作ってないよ」
「そうか。丸い形を見るとついパンを思い出すんだ」
ユルゲンがこらえきれないように肩を揺らした。
紙を何度も読み返してからユルゲンは小さくうなずいた。
「意味が1つ1つ決まっているのはいいな」
「今まではどうでしたか」
「覚えるだけだった。『なぜ』は聞いてはいけない空気があった」
その日から毎日放課後に3人で板の前に座って練習した。最初に俺が根線を引き、ハインツが熱の部分に進み、最後にユルゲンが仕上げる。
何度目かの練習のあと夕の鐘が鳴った。ユルゲンがまだ手を止めない。
「ユルゲンさん。夕の鐘が鳴りました。今日はここまでにしましょう」
「あと少しだけ」
「その少しを続けてもあまり上達しません。明日の朝にやりましょう。そのほうが結果的に効率がいいです」
「……分かった」
ユルゲンはたがねを置いた。
「教授の手を支えているときも同じことを言われた。『遅くまでやるな。手が荒れる』と」
「じゃあ教授の言うとおりですね」
「そうだな」
ハインツが道具をまとめながら言った。
「テオは人の分まで時間を管理するんだな」
「俺の分だけ決めていても、誰かが夜までやっていたら結局みんなが疲れるだけだから」
それ以上は何も言わず3人で道具を片づけた。
◇
4103年2月12日、闇の日。実習棟の大広間は朝から人でいっぱいだった。入口の外には焼き菓子の屋台が並び上級生が熱い茶を配っている。壁際では1年生が背伸びをして中をのぞいていた。
広間には、出場する3組ぶんの長い机が置かれ、それぞれに地金の板と魔石が並んでいる。机の端には拳くらいの氷の塊が置かれている。先にこの氷を溶かし切った組が勝ちだ。そのそばには彫りまちがえたときのための小さな予備の板もあった。審査席には、オルブリヒ教授と、実務派の教授、そして白髪のゲルラッハ教授が座っている。
出場は俺たちとセシリアの組のほかにもう1組あった。実務派の3年生たちだ。
「始めます」
鐘が鳴った。最初は俺だ。板の前に座ると手のひらに汗がにじんだ。話せない。書けない。頼れるのはこの板に彫る線だけだ。深く息を吸って全体を頭の中で3つに分ける。根線とならし輪、熱の部分、つなぎと仕上げ。1つ目は俺、2つ目はハインツ、3つ目はユルゲン。
そのとき、広間の端で、がん、と大きな音がした。実務派の組の最初の人がたがねの頭を槌で力いっぱい叩いたのだ。地金の板に細いひびが走っている。
「ひびの入った板は使えません。そちらの組は失格です」
審査員の声が響いた。実務派の3年生たちは顔を見合わせて肩を落とした。残ったのは俺たちとセシリアの組だけだ。
気を取り直して線を引く。そうして板の隅に三角を1つ刻んだ。『次は熱の部分』の印だ。続いて線を2つ、『この幅で刻んで』。最後に丸を1つ、『ここまで済んだ』。ここで20分がたって俺はたがねを置いた。立ち上がるとき足が少ししびれていた。ここから先は見ているしかない。後ろに下がって椅子に座り、膝の上で手を組んでハインツの背中を見た。
ハインツが板の隅の三角と2つの線を見て小さくうなずく。『次は熱の部分』。
「熱の渦をこの幅で」
口の中でつぶやきながら、横線が2本ある所を見て、渦の幅を決める。慣れない手つきでも取り決めの印が頼りになった。
隣の机ではセシリアの組が動いていた。最初の2年生は板いっぱいに太い線を引いている。次の2年生はその板を見て首をかしげた。手が止まった。
「……どこから続ければいいんだ」
小さな声が聞こえた。前の人が何をしたのか板からは読み取れないのだ。
その頃、ハインツは熱の渦を彫り進め、ひと息つくと板を持ち上げて目の高さにかざした。板の端に目を寄せて横から見ている。
「あれ。ちょっと曲がってるぞ」
渦の下の地金がわずかに反っていた。刻むときの力で曲がったのだろう。このままでは氷を載せても底が全部は当たらない。熱が逃げて氷が溶けるのが遅くなる。ハインツは道具袋から小さな槌を取り出した。
「道具は持ち込んでいいんだったな」
審査席の実務派の教授がうなずいた。ハインツは板の裏から、とんとん、と軽く打った。鍛冶屋の三男の手だ。叩くたびに板がまっすぐになっていく。もう一度横から見ると曲がりは消えていた。最後に丸を1つ刻む。『ここまで済んだ』だ。
「これでいい。次、ユルゲン先輩」
ユルゲンが立ち上がった。板の隅には、丸が2つ並んでいる。『ここまで済んだ』が2つ。ユルゲンは丸を指の先で1つずつ数えてから、まだ何も彫られていない板の端へ目を移した。残りはつなぎと仕上げだけだと、読み取ったのだ。それから手が板の上を動いた。細い線で、俺の根線とハインツの渦をつなぐ。つなぎの線はほんの少しでもずれたら魔力が漏れる。
ユルゲンの手が途中で止まった。
板全体をひと続きの線でつなぎたいのだと分かった。あれが家で習った線の引き方なのだろう。指先がそちらへ動きかけてぎゅっと握りこまれる。息を3回するあいだユルゲンは動かなかった。額に汗が浮いている。それから彼は分けた形のままつなぎの線を引いた。
隣の机から、がたん、と音がした。セシリアが立ち上がっている。2番手の2年生が手を下ろしていた。板の真ん中はまだ空いたままだ。
「ごめん。ここまでしかできなかった」
「分かりました。続きは私が」
セシリアは板を見つめて一瞬動きを止めると、残りの時間を確認した。おそらくは急がないと間に合わないと判断したのだろう。それから彼女はたがねを取って自分の板の縁を削りはじめた。本体の板に四角い窓を切っているのだ。そこでセシリアの小さな声が聞こえた。
「一枚彫りは今日は捨てます。責任は私が取ります」
そうして、四角い窓が切れると机の端の予備の板を引き寄せた。熱の渦を小さな板に刻み窓にはめる。俺が前に見せた差し込みのやり方と同じ形だった。審査席のゲルラッハ教授がわずかに身を乗り出した。
一方、ユルゲンの最後の線が板の端までつながった。
「できました」
魔石を置く。板が淡く光りはじめる。ハインツが大きな氷の塊をそっと板の上に載せた。氷はぐらつかず底がぴたりと当たっている。白い湯気が立ちのぼった。ほとんど同じとき隣の机でも魔石がはまってセシリアの板にも光が走った。
2つの氷は同じように小さくなっていった。ただ少しずつ差が開く。こちらの氷は湯気が太く角が早く丸くなる。隣の氷は板との間に細いすき間があるのか溶け方がゆっくりだ。ハインツが板をのぞきこんだ。
「頼む。早く溶けてくれ」
最後に氷は薄い水の膜になってすべり落ちた。
「継ぎはぎ組、完了」
審査員の声が響く。少し遅れて隣の机からも声が上がった。
「アーデルハイト組、完了。2分の差」
大広間が静かになりそれから拍手が起きた。壁際の1年生が背伸びをしたまま手をたたいている。入口のほうから屋台の菓子の甘い匂いが流れてきた。ハインツが俺の肩をたたく。
「やった。やったぞ」
「ハインツの槌がなかったら危なかったよ。氷がぴったり当たったから速く溶けたんだ」
「鍛冶屋の息子だからな」
ユルゲンはまだ自分の手を見ていた。
「分けた形のままつなげられた」
「ユルゲンさんの腕がよかったからです」
「本当はひと続きに引きたかった。手が勝手に動こうとした。でも読める人が続きを引ける形のほうが今日は正しいと思った」
審査席からゲルラッハ教授が立ちまっすぐユルゲンの前まで歩いてきた。
「ユルゲン」
「はい」
「いい線だった。手が迷わなかった」
それだけ言って教授はセシリアの前に移った。
「アーデルハイト君。分けたな」
「はい。間に合わせるために分けました」
「……よく決めた」
セシリアは小さく頭を下げた。顔はいつもと変わらなかった。ただ袖をそろえる指が少し震えていた。そこへオルブリヒ教授が来て審査の紙を読みあげた。
「最後に刻む人の速さは、アーデルハイト君が全員のうちで最も速い。窓を切る時間を入れても、です」
セシリアは何も言わずにもう一度頭を下げた。祝いの人の輪が少しずつ解けたころオルブリヒ教授が俺たちの机に来た。
「板を見せてください」
教授は板の隅の印を指で触れずに1つずつ目で追った。
「この印は誰が決めましたか」
「3人で決めました。前もって決めてよい規則でしたので」
「読みやすい印です。記録しておきます」
それだけ言って教授は帳面に何かを書きつけた。ハインツが嬉しそうな声で言った。
「読みやすいってよ。俺たちの印、認められたのか?」
「静かに」
教授が去ったあとハインツが板の隅を指でなぞった。
「この印、全部覚えてたから動けたんだよな」
「うん」
「でも今日の俺たちしか読めないだろ。もったいなくないか」
「もったいない?」
「全部の人が同じ印を読めたら前の人の仕事が分かるじゃないか。辞書みたいなのがあればさ」
辞書、と俺は口の中でくり返した。取り決めの20個の印が頭の中に並んだ。丸と三角と横線。今日は3人だけのものだったが、もし誰でも読めるように書き残したら、どうなるだろう。
隣の机ではセシリアが自分の板を黙って見ていた。切った窓の縁に指をそっと当てている。俺は板の隅の丸に自分の指を置いた。『ここまで済んだ』。丸の溝はまだほんのり温かかった。




