第39話 台帳の最初の頁
八柱暦4103年3月10日、水の日。放課後の鐘が鳴ってから、俺はハインツとユルゲンを連れて第三演習室へ向かった。オルブリヒ教授が放課後に限って部屋を貸してくれたのだ。術式祭の日に印を記録したあと、教授は「使いたければ鍵を取りに来なさい」とだけ言ってくれた。
戸を開けると、石の壁に囲まれた小さな部屋の窓から、春の光が斜めに差し込んでいた。作業台が2つ並んでいて、壁際には鍵のかかる棚がある。ハインツが紙袋を作業台の上に置いて、中から分厚い帳面を取り出した。
「じゃーん。学院の売店で買ってきた。いちばん安いやつだけど紙は厚いぞ」
「ずいぶん分厚いな」
ユルゲンが帳面を手に取ってぱらぱらとめくった。
「全部埋めるつもりか」
「埋まるかどうかは知らない。でも薄い帳面だと足りなくなったときに悲しいだろ」
ハインツは胸を張って帳面の表紙を手のひらでぽんと叩いた。表紙には何も書いていない。ただの黒っぽい紙だ。
そのとき、戸が静かに開いた。紺の上着の袖をそろえたセシリアが、入口に立っている。
「失礼します。ここで印の取り決めを書き残すと聞いたのですが」
「あれ、アーデルハイトさん。誰から聞いたんだ」
「食堂であなたが大きな声で話していました」
ハインツが首の後ろをかいた。
「そうだっけ」
「ええ。昼に『印を記録された』と。私の隣の席でした」
セシリアは帳面に目を向けた。
「私も見せてもらえませんか。一人にしか読めない線を、誰にでも読めるように書き残すとは、どういうことなのか。その作り方を自分の目で見ておきたいのです」
「いいですよ。ただ、まだ何も書いていないんです」
「それならなおさら見ておきたいです」
彼女は迷わずに言って作業台のそばの椅子に腰を下ろした。ハインツが気まずそうにユルゲンと顔を見合わせた。
俺は道具袋から、術式祭の前に3人で決めた印の紙を取り出して、作業台の上に広げた。紙には丸や三角や横線が20個ほど並んでいる。
「まずはこれを帳面に書き移します。でも、その前に決めたいことがあります。最初の1行を誰が書くかです」
「俺が書くよ」
ハインツが手を挙げて羽ペンを取った。インクをたっぷりつけて、勢いよく帳面に丸を描く。すると丸は、紙の半分近くを占めてしまった。
「おい。大きすぎる」
「そんなことないだろ。ちゃんと丸いじゃないか」
「丸いのは分かる。でも、これで1枚が終わってしまう」
ユルゲンが静かにため息をついた。ハインツは丸を見つめてしばらく黙ってからペンを置いた。
「……字が大きいのは鍛冶屋の習慣なんだ。金槌の柄に名前を彫るときの癖で」
「その丸の紙は飾りにして、数えないでおこう。次の紙から本番だ」
俺が言うと、ハインツは「それでいいや」と言って、帳面を1枚めくった。
「じゃあ俺は書かないでおく。テオはどうだ」
「俺の字は小さすぎるよ。ほかの人が読めなくなる」
「アーデルハイトさんは」
ハインツが顔を向けると、セシリアは首を横に振った。
「私も書きません。最初の1行は、印を決めた3人が書くべきです。私はあの日、別の組でしたから」
「じゃあ残るのはユルゲン先輩か」
「私か」
ユルゲンは少し驚いた顔で自分の手を見た。それから帳面を開いて、めくった紙を、まっすぐ手元に引き寄せた。
「私の字は、2年間、師の線を写し続けた手でできている。人に見せられるものではないが」
「達筆ですよ」
セシリアがいつもの冷静な声で言った。
「私が見た中で、いちばん読みやすい字です。古式の写本を書いた人たちの字に近いと思います」
「そうか」
ユルゲンはペンを取って少しだけ手の力を抜いた。それから迷いのない動きで、帳面の最初の行に線を引いた。細くてまっすぐで、一画ごとに終わりがはっきりしている。
『取り決めの印』
書き終えると、ユルゲンは小さく息を吐いた。
「3月の末には私は学院を出る。最初の1行を書く手がこれでいいのか」
「だからこそ、いいと思います」
俺はそう答えた。ユルゲンは少しの間、自分の書いた文字を見つめていた。それから4人で帳面の書き方を決めることにして、ユルゲンが縦に何本か線を引いて欄をつくった。
「まず印の形。次に意味。その次が……」
「理由ですね」
セシリアが続けた。
「どの印にもなぜそうなのかを必ず書くべきです。丸が『ここまで済んだ』を意味するのはなぜか。三角が『次は熱の部分』なのはなぜか。理由がなければ形だけを覚えることになります」
「形だけ覚える、か」
ユルゲンがペンを持つ手を止めた。
「私が師から教わったのはまさにそれだった。形を覚える。意味は聞かない。『なぜ』を聞いてはいけない空気があった」
「ええ。私の家もそうでした」
「だから、理由の欄を作ろう。それは必ず」
ユルゲンははっきりと言って、欄の名前を書き込んだ。
「形、意味、理由。もう1つ、書いた人の欄も欲しい。誰が決めて誰が直したのかが分からないとあとで困る」
「書いた人の欄か。いいな」
ハインツが身を乗り出した。
「俺の名前も入れるのか」
「入れるよ。ハインツの字は大きいから欄からはみ出すかもしれないけど」
「はみ出さないように書く」
4つの欄がそろった。形、意味、理由、書いた人。俺はそれを見て、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
最初に書いたのは丸だった。形の欄にはユルゲンが丸を描き、意味の欄には『ここまで済んだ』と書く。理由の欄はハインツが考えながら口に出した。
「次の人がどこから続けるかが分かるように」
「いい理由だ。そのまま書こう」
ユルゲンは理由の欄にハインツの言葉をそのまま書き写した。書いた人の欄には、『テオドール、ハインツ、ユルゲン』と並べた。
三角と横線2本と縦線1本も同じ要領で書き進めた。縦線1本は『ここは触らないで』の印で、俺が術式祭の前日に付け足したものだ。次の人が前の人の仕上げを壊さないための印、とユルゲンが理由の欄に書いた。
ここまでで、本番の紙の半分が埋まった。そこへ戸がこつんと鳴って、オルブリヒ教授が入ってきた。灰色の髪をきっちりまとめて指にはインクの汚れがついている。
「様子を見に来ました。ご苦労さま」
「教授。ちょうどよかったです」
俺は帳面を見せた。教授は帳面を受け取って、ユルゲンの書いた最初の行と、欄の並びを、1つずつ目で追った。
「理由の欄を作ったのですね」
「はい。形と意味だけだと形だけを覚えることになりますので」
「その考え方は正しいと思います」
教授は帳面を作業台に戻して壁際の棚を指さした。
「この帳面をどこに置くつもりですか」
「できればこの棚に。鍵をかけておけばなくなりませんので」
「この棚に置くなら注意があります。棚の鍵は部屋の鍵と同じ所に置いてあります。この部屋を借りる人は誰でも棚を開けられます。帳面はこの部屋を使うすべての人が読めるものになります」
作業台の上が静かになった。ハインツが首をかしげた。
「それはいいことだよな。みんなに読んでもらえる」
「ええ。そのとおりです。ただ、書くほうの覚悟も要るということです」
教授はそれだけ言って部屋を出ていった。足音が廊下の向こうへ遠ざかり、しばらくして、セシリアが口を開いた。
「ラングナーさん。もう1つ書きたいことがあるのですが」
「どうぞ」
「印ではなく、線の決まりです。『曲がりは必ず弧にする』。術式比べのときにお話しした決まりです」
彼女は自分の手を作業台の上で組んだ。
「この形は、古式の写本にも載っています。あなたが見つけた、小さな記号のついた弧です。でも写本に載っているのは形だけでした。なぜ弧にするのか、その理由は載っていません」
「家で教わった、と言っていましたね」
「はい。口で教わりました。角では力がわずかに逃げるからです。書き残してはいけない、と」
ユルゲンの顔が固くなった。
「家の口伝か。それを、この棚に置くのか」
「そうです。この棚には誰でも手が届きます」
セシリアは静かに言った。迷っている声ではなかった。
「理由が書いていない線は直せません。だから私の家の書は私にしか直せなくなっています。私はそれをいやだと思っていました。今日、理由の欄を作ると決めたとき、思ったのです。ここで書かなければ私は何も変えられないと」
「でも、家の人が知ったら」
「叱られるかもしれません」
彼女は小さく笑った。
「それでも書きます。写本に形が載っていますから足すのは理由だけです。家の秘伝の線そのものではありません。それなら私にも書けると考えました」
ユルゲンがペンを差し出した。
「アーデルハイト。書いてくれ」
「ありがとうございます」
セシリアはペンを受け取った。インクをつけて帳面の新しい行に向かう。彼女の字は細くて整っていて一画ごとに力が均等だった。
形の欄には小さな弧を描いた。意味の欄には『曲がりは必ず弧にする』。理由の欄にはひと息ついてからゆっくりと書いた。
『角では、力がわずかに逃げるから』
最後の、書いた人の欄で、ペンが一瞬だけ止まった。それからセシリアは、迷いのない手つきで自分の名前を書いた。
『セシリア・フォン・アーデルハイト』
ユルゲンが欄に目を落として、小さく息をのんだ。
「家の名前まで書いたのか」
「書いた人の欄ですし、家の名前に恥じることはしていないつもりですから」
ペンを置くと、彼女は静かに息を吐いた。
「これでいいですか」
「いいと思います」
俺はそれしか言えなかった。ユルゲンはそれ以上何も言わずに、帳面の欄の上にそっと指を置いた。ハインツがいつもより小さな声で言った。
「アーデルハイトさん。すごいきれいな字だな」
「ありがとうございます。字は褒められたことがありません」
「そうか。じゃあ俺が初めてだな」
部屋の中に少しだけ笑い声が起きた。窓の外の空が夕方の色に変わりはじめていた。
本番の1枚目には、5つの項目が並んだ。丸、三角、横線2本、縦線1本、それに弧の決まり。印の紙にはまだ16個ほどが残っていたが、俺はそこで帳面を閉じることにした。
「今日はここまでにしましょう。残りは、また次の日に」
「そうだな」
ユルゲンが帳面を持ち上げて棚の中に収め、扉に鍵をかけた。鍵を回すとき、彼の手が少しだけ止まった。
「3月の末に、私はここを出る。この帳面がどうなるのか見届けられないのは残念だな」
「見に来てください。卒業したあとでも」
「いいのか」
「帳面はこの棚にありますから」
ユルゲンは少し笑った。それから小さな声で言った。
「来月、ラングナーの査定の席があるだろう。ゲルラッハ教授は、そこで今日のことを話すと言っていた。あの部屋で、私も聞いた」
「はい。私も聞きました」
「良いことか悪いことかは私にも分からない。ただ、覚悟はしておいたほうがいい」
「はい」
ハインツが棚の扉を指でこつんと叩いた。
「この帳面、名前はどうする。まだ何も書いてないぞ」
セシリアが静かに答えた。
「名前は保留にしましょう。そのうちいい名前が見つかります」
ハインツは残念そうにうなずいて棚の前から離れた。
戸を閉めて廊下に出ると、夕の鐘が丘の向こうから聞こえてきた。俺は部屋の鍵を握りしめたまま閉じた扉を、もう一度だけ振り返った。




