第37話 読んで写さない
八柱暦4102年12月8日、土の日。古式講読は2年生からの授業で、認定を持つ俺だけが1年生で聴講を許されている。その終わりにゲルラッハ教授が教卓へ細長い木の箱を置いた。実習棟の機械室の階段で「触るべきではない」と言ったあの白髪の教授だ。
部屋にいるのは古式読解の認定を持つ4人だった。2年生が2人、3年生のユルゲン、それに俺。ほかに1人だけ認定を持たないセシリアが窓際の席に座っている。伝統派の家の娘として教授が特別に呼んだのだという。小さな石の部屋で窓の外では中庭の井戸の縁に霜が残っている。
「今日は一度だけ見せる」
教授は低い声で言った。
「我が家に7代伝わる術式だ。冬越しの輪という。魔石1つで冬の間じゅう学院の井戸と洗い場の水が凍らない」
箱の蓋が開く。中から出てきたのは手のひらを3つ並べたくらいの地金の板だった。丸い輪が一周細い線を何本も重ねて刻まれている。
「条件は3つだ。書くな。描くな。指でなぞるな。鐘ひとつぶん目で読め」
2年生の1人が小さく手を挙げた。
「どうして私たちに見せるのですか」
「伝統派は書き残さない。見せて、目と手で覚えさせる。覚えた者の中から跡継ぎを選ぶ。認定を持つ者には一度は見せる決まりだ。アーデルハイトは家で古式を読む。同じ席で見せる」
教授は板を卓の中央に据えた。箱から手を離すとき、右の手首を左手でそっと支えた。細かく震えているのが見えた。ユルゲンが目を伏せた。
「始めなさい」
鐘がひとつ鳴って部屋が静かになった。
俺は板に顔を近づけすぎないよう椅子の背に体を預けた。手は腹のあたりで組む。書かないと決めたのに指が先に動くからだ。
輪は外側から内側へ渦のように線が重なっている。根線は左下から入って輪の外周へ回り込む。外周の線は太さが一定ではなかった。入口は太く、半周したあたりでゆっくり細くなり、終わりでまた太くなる。
この幅の変わり方が肝だ。線の幅は魔力の量を決める。外が冷えるほど細い所を通る魔力が熱に変わる割合が増える。熱は輪の一番太い所から水のほうへ逃がされていく。そこまで読むと線がひとつながりの図になって頭の中に浮かんだ。
そのとき組んだ手の中で右手の指が線の形をなぞった。
「指」
教授が顔も上げずに言った。
「失礼しました」
俺は動いた右手の指を左手で握った。教授が手首を支えたときと似た形だったと気づいたのは、ユルゲンが目をそらしてからだった。
鐘がもう一度鳴って板は箱に戻された。教授は何も言わず出ていった。
廊下に出るとセシリアが窓際で待っていた。
「ラングナーさん。最後まで読めましたか」
「たぶん読めました。アーデルハイトさんは」
「私の家でも書は見せるだけで渡しません。目で覚えるものです」
読めた、ということだろうか。
彼女は窓の外の井戸を見ていた。縁石の霜が朝より薄くなっている。
「どこまで覚えたのか聞いてもいいですか」
「全部は言えません。聞かれたら答えてしまいそうで」
「では聞きません。聞いたら私が写したくなりますから」
セシリアは珍しく口の端を少しだけ上げた。
夕の鐘が鳴って寮に戻るとハインツが寝台から身を乗り出した。
「帰ってきてからずっと右手を握ってるぞ。祈ってたのか」
「書くな、描くな、なぞるなって言われたんだ」
「手を縛られた鍛冶屋みたいだな。ほら、パン食うか」
言われて初めて、右手の指を左手で握りしめたままだったと気づいた。そっと離すと、指が細かく動いて線の形をなぞりかけた。慌てて、パンをつかんで指をふさいだ。
「やっと両手が使えたな」
ハインツが笑った。
「部屋でまで気をつけなくてもいいんだけど、癖になって」
「ほんとに真面目だな。ほら、こぼしてるぞ」
食事が済んでも、俺は指が勝手に動かないよう膝の上で手を組んでいた。
◇
4102年12月15日、風の日。古式講読の部屋の卓に5枚の地金の板と小さな魔石が並んでいた。
「刻んで動かせ。鐘ひとつぶんだ」
教授は短く言って砂時計を返した。
ユルゲンの刻みは早かった。迷わず線を引いて半周のあたりで手を止めずに幅を細くしていく。2年間輪を目で追ってきた手だ。2年生の2人は途中で何度も手を止めた。セシリアは自分の板に1本の長い線を引いている。余計な継ぎ目が1つもない。
俺は板を3つに分けて考えた。根線、外周、水へ逃がす所。分けて刻めばあとで直せる。継ぎ目の損は出るが今回はそれでいい。鐘の半分を過ぎるころには板に輪が一周そろった。
途中でユルゲンの手が止まった。彼は顔を上げて俺の板を横目で見た。
「3つに分けて刻んでいるのか」
「はい。根線と外周と、水へ逃がす所を」
「そんな刻み方は教わっていない」
教授の指が卓を叩いた。
「見るな。自分の板を見なさい」
ユルゲンは慌てて目を戻した。
鐘が終わると教授は卓の端に氷を詰めた木の箱を置いた。その上で5枚の板を順に動かして蝋燭の目盛りで持ちを測る。
2年生の2枚は半周も回らずに止まった。ユルゲンの板は目盛り5本。セシリアの板は5本を過ぎて6本目の半ばまで炎が細く揺れ続けた。
「継ぎ目がない」
教授が短く言った。セシリアは表情を変えず小さく頭を下げた。2年の暗記より家の書を読んできた年月のほうが長いのだ。
俺の板で目盛りは4本まで進んだ。
「ラングナーさんの板は魔石を2割ほど多く食います」
セシリアが小さく言った。
「継ぎ目のぶんです。でも4本は持ちました」
「ええ。それでも4本持つのは認めます」
教授が俺の板をひっくり返して裏の線を見た。長いこと見ていた。
「ラングナー」
「はい」
「写したな」
部屋の空気が変わった。2年生が顔を見合わせる。
「写していません。教授の条件どおり、書かず、描かず、なぞらずに読みました」
「鐘ひとつぶんでこの幅の変え方を。7代守ってきた線を読んだだけで刻める者はいない」
「読んだだけです」
「誰かに聞いたか。ユルゲンから教わったか」
「聞いていません。部屋の外では今日まで話してもいません」
ユルゲンが慌てて首を振った。
「私は話していません。この一週間ラングナーとは顔も合わせていません」
教授は板を卓に置いた。しばらく黙っていた。それから棚の引き出しを開けて細長い地金の板を取り出した。俺たちの板よりも、指3本ぶん幅が狭い。
「この板で動かしなさい。ユルゲン、お前もだ」
ユルゲンの顔が固くなった。それでも彼は黙って板を受け取った。
ユルゲンはさっきと同じ線を刻んでいった。迷いのない手つきだ。ただ輪は細い板の端にはみ出した。彼は一瞬手を止めてはみ出した部分の線を短く切った。それで輪が閉じた。氷の箱で動かすと板の端から白く霜が走って輪は半周で止まった。
「……止まりました」
「線を切ったな。何のための線か知らずに」
「はい。教わった形はこの板では収まりません」
ユルゲンの声は叫んだ初演習の日より低かった。
俺は細い板を前にして頭の中の図を引き寄せた。幅の細い所は外へ逃げる熱を足す所で太い所は水へ熱を送る所だ。板が狭いと外へ逃げる熱が増える。だから太い所を板の端に寄せて輪の半径を小さくする。曲がりは角を作らず弧にする。
まず外周の太い所を板の端へ寄せて刻み直す。半径を小さくするぶん線を細かく重ねる。曲がりは角を作らず弧にする。指の幅ほどの余白に線を1本ずつ収めていった。
セシリアは窓際から何も言わずに見ていた。鐘の3分の1ほどで細い板に小さな輪が一周そろった。
氷の箱の上で輪は目盛り3本まで動いた。霜は端まで来なかった。
教授は蝋燭の火を見てそれから俺を見た。
「写してはいない」
2年生の1人が息を吐いた。教授は続けた。
「写したのならこの板では動かない。……だが、それで済む話ではない」
教授は板を卓に置いて俺に向き直った。
「7代この線の意味を知る者を絞ることで守ってきた。意味を知る者が少ないから秘伝は秘伝でいられた。それを君は鐘ひとつぶんで読み切った。写したよりも悪い。意味を知らない者に渡せばその者は意味を知らないまま線を改める。そして壊す。去年の炎環がそうだっただろう」
「あれは意味を知らないまま渡した結果だと思います。意味ごと渡していれば止められました」
「渡す相手を選ぶのが秘伝だ」
教授の声は低く少しも荒くならなかった。
「分かります。私にもそれが、軽いことでないのは分かります」
俺は一度言葉を切った。
「見た形は、忘れにくいです。覚えようと決めたのではなく、読めたものが消えません。だから、この図は誰にも渡しません。許可なく描かず、人にも話しません」
「それで足りるのか」
「足りないと思います」
教授の手が、と言いかけて、やめた。
教授の右の手首がまた細かく震えていた。
「……何だ」
「いえ。井戸の輪を彫り直せる人は、今、教授お一人ではないのかと」
部屋の中が静かになった。教授の顔は動かなかった。
「だとしたらどうなる」
「その手が止まった冬から学院の井戸が凍ります。意味を知る人が一人しかいないことと、守られることは、同じではないと思います」
ユルゲンがうつむいた。教授はしばらく動かなかった。
「ゲルラッハ教授」
セシリアが口を開いた。紺の上着の袖をそろえて背筋を伸ばしたまま言った。
「私も写してはいません。ラングナーさんと同じに読みました。疑うなら私も疑ってください」
「アーデルハイト君。君は伝統派の家の者だ」
「はい。だからこそ言います。私の家の書も同じです。線は写せますが直せるのは私一人です。……読める人が1人増えることは盗みではありません」
教授は彼女を見た。目が少し細くなった。しばらくして首を横に振った。
「私の家の決まりは私が決める。今日のことは学年末の査定の席で私が言う。良いことも、悪いことも」
「はい」
それだけで教授は箱の蓋を閉じた。
部屋を出ると廊下の窓際にセシリアが立っていた。
「言い返さなかったのですね。教授が、7代だと言ったとき」
「言い返せないと思いました。守ってきた人の言葉でしたから」
「それでも、井戸の話はしました」
「あれは言わないと、私が嘘をつくことになるので」
セシリアは少し考えてから窓の外の井戸に目をやった。
「私は、家の書の話をするつもりはありませんでした。口が先に動きました」
「よかったと思います」
「……そうですか」
彼女は短く答えて本を抱え直して歩いていった。
夕の鐘が鳴った。食堂の隅の席でパンを持っているとユルゲンが向かいに立った。紺の腕章が前より少しくたびれて見えた。
「座っていいか」
「どうぞ」
「2年線の形だけ覚えた。意味は1つも知らなかった。さっきの板でそれが分かった」
ユルゲンはパンに手をつけずに言った。
「教えてくれとはまだ言えない。教授が許さないだろう。だが、いつか頼むかもしれない」
「許可が出たら、私でよければ。出なければ、教授にお願いしてください。意味は、教授が一番よく知っています」
「そうか」
ユルゲンは立ち上がってそれ以上は何も言わず食堂を出ていった。
◇
4102年12月20日、土の日。朝中庭の井戸の縁の石は白く凍っていた。
それでも井戸の水面だけは動いていた。縁石の下に埋めた輪が熱を送っているのだ。白い湯気がうっすら水の上に立っている。
井戸の脇にゲルラッハ教授が一人でしゃがんでいた。縁石の一枚を外して中の輪の線にたがねを当てている。その右の手首をユルゲンが両手で支えていた。
教授の手は震えている。ユルゲンの手はそれを抑えて動かない。たがねが石をひっかく音が朝の中庭に細く響いた。
洗い場では1年生が列を作って顔を洗っていた。ハインツが水をすくってあくびまじりに言った。
「今朝も冷えるなあ。水はぬるいけど」
誰もこの水を温めている輪のことを知らない。知らないまま霜の朝にも当たり前に顔を洗っている。
俺は渡り廊下の柱の陰で両手を腹のあたりで組んで立っていた。近づくつもりはなかった。ただ、見ていた。
線が一本彫り直された。ユルゲンが息を吐いた。教授は何も言わなかった。縁石を元に戻したとき井戸の湯気が少しだけ濃くなった。




